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2007年2月

2007年2月26日 (月)

民権と憲法-シリーズ日本近代現代史(2)

 西南戦争が終わった1877年(明治10年)から大日本帝国憲法が公布された1889年前後までの日本の歴史を、民衆という視点を加えて、新たに綴り直す。まさにこの時期に現代につながる日本の基礎が形作られた。それは、憲法や天皇制、軍隊、内閣といった制度だけでなく、国民自体が作られていった時期であった。そして国民の形成に大きな影響を及ぼし、意図的に国民を作り出していったのが、福沢諭吉であり森有礼であった。明治維新政府と自由民権運動という時代を牽引した二つの力に、民衆という第3の勢力を加えることによって、時代がいかに形作られていったかが実感のあるものとして伝わってくる。
 こうした視点はシリーズの第1巻にも共通するものだが、民衆の力があってこそ明治維新は大きな混乱もなく受け容れられ、民衆の力が国民の形成を成就させ、今に至る近代国家につながっていった。そして日本にナショナリズムを台頭させ、日本を帝国主義に導いていった。それはある意味でたどるべくしてたどった道であったかもしれない。別の道もあったかもしれないが、それは単に日本を軍国主義や太平洋戦争に導かなかっただけでなく、その後の高度経済成長も経済的繁栄ももたらさなかったかもしれない。そう考えると、歴史は恐ろしいと思う。我々ができるのは、こうした必然の歴史を振り返りつつ、最善の選択を重ねていくことしかない。それが日本をどう導こうとも。正しさに至る唯一の道などないのだから。

  • 演説会の聴衆に代表される民衆のほとんどは、民権理論や国家構想を充分に理解して支持していたわけではなく、民衆の願望と民権運動のめざす近代的な国民国家とのあいだには大きなズレがあった。(P27)
  • 福沢が「平等」を力説し「学問」を奨めたのは、民衆の「客分」意識を払拭し、「国民」としての自覚、国家のために命を棄てる覚悟をもたせるためだったのである。(P21)
  • 福沢の目標はあくまでも日本の国権拡張、つまり国家的自立と国益の拡大にあった。(P94)
  • 1880年代後半には、命令されなくとも集団のなかで自発的・主体的に規律正しい労働のできる者だけが「勤勉」に名に値する、という”文明国標準”が人びとを律しはじめていた。(P90)
  • 国家と個人が直接に結びつくのではなく、日常生活の基本単位である「家族」をその間に介在させていた。そして、家長によって家族の秩序が維持され、”二級市民”とされた女性や未成年者が統御されることを期待した。・・・今日でも家族の安定が国家・社会秩序の基礎だとする議論がくりかえし説かれるのはそのためである。明治以降の「家」制度は、封建的というよりは近代国家に共通する家長制の一つだった。(P155)
  • 唱歌や隊列運動、万歳などを通して国民的一体感の創出に努めるとともに学歴主義の基礎をつくった森有礼文部大臣こそ、福沢諭吉と並んで、近代国民国家の特質を明確に認識していた政治家であった。(P202)

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2007年2月20日 (火)

難民世代

 三浦展の本には2種類ある。大胆にして斬新な視点で都市社会を切り取るタイプの本と、データを駆使して世代論を展開するものと。本書は後者である。話題を呼んだ「下流社会」も実際に読んでみると、データ解説が延々と続きうんざりしたが、本書も同様。それでも「下流社会」の場合は、団塊ジュニア世代を思い切ってカテゴライズし、その命名が斬新で楽しめたが、本書ではそうしたこともなく、淡々とデータ解析が続く。それも我田引水っぽい解説が各所に散見され、本当かなあと思わせる。特にJリーグを下流団塊ジュニアのスポーツであるかのような記述には、わからないではないけど、ステレオタイプ過ぎるとも思う。これは自分がおじさん年齢にしてサッカー好きなせいでもあるが。
 本書のテーマは団塊ジュニア世代論。この世代の特徴は、人口が多いこと以上に、大学進学、就職といった人生の局面で、バブルの崩壊など世間の厳しく冷たい風に直面し、結果的に多くの人が派遣社員やフリーターとならざるを得なかったことに起因するのではないか、という指摘は納得させるものがある。現在の少子化も、彼らの多くが正規社員となれず、その結果、結婚もできなかった人が多いから、という説明がされる。確かに説得力はあるのだが、そうだとすると、柳沢大臣ではないが、バブルの崩壊という経済の失敗がなければ、日本の子育て世帯はもっと健全になれたということだろうか。そうであれば、出生率は今後回復するということになるはずだが、どうだろうか。

  • 団塊ジュニア以降の世代は、バブル崩壊後就職難のために正社員になりにくかった世代なのである。/結果、晩婚化、少子化が進み・・・(P14)
  • 団塊ジュニアの歴史を語ることは、オイルショック後の低成長と、バブル崩壊後の失われた10年を語ることになってしまう。・・・団塊ジュニアのこれまでの歴史とは、あらかじめ失っていた故郷を求めてさまよう歴史であり、求めていた故郷を失い続けた歴史だったと言えなくもない。/故郷とは単に自然の豊かな田舎というような意味だけではない。家族とか、結婚とか、会社とか、およそこれまでは「安定」のイメージで語られてきたものの表象である。(P19)

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2007年2月17日 (土)

ためらいの倫理学

 巻末に付けられた単行本時の付録や文庫版解説にも、内田氏のことを「思想の整体師」とか救世主といった賛辞が寄せられているが、僕が最近内田樹にはまっているのも同様の理由による。とにかく気負いがなく、癒される。本書中でも「「わからないことはわからないと言えばいいんだよ」と言ってくれる。それでいて、実はかなり難解な内容でもある。何と言っても、内田氏の思想のベースは、構造主義思想家のレヴィナスでありラカンである。今まで読んできた内田本の中では、もっとも難解と言っていい。
 本書で取り上げる主な論点は、戦争論とフェミニズムと審問又は愛、又は知性。いくつか収められている中でも「戦争論の構造」、「性的自由はありうるか?」、「『女が語ること』のトラウマ」、「越境・他者・言語」、そしてタイトルとなっている「ためらいの倫理学」などはかなり難解。それでも、内田氏自身が「ラカンの言いたいことはほとんどわからない」とか、「わからなくてもいいんだと」と言ってくれるので、気持ち穏やかにページを先に進めた。結局、どれだけわかったのか自信がないが、自然体で生きていけばいいんだと勇気をもらった。思想を語りつつ癒してもらえる本はそうはない。内田樹を読んで「正しい日本のおじさんの道」を歩もう!

  • 私たちは知性を計量するとき、・・・その人が自分の知っていることをどれだけ疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。(P25)
  • 記憶というのは、その出来事「そのもの」の強度によって記憶されるのではない。その出来事が「そのあとの」時間のなかでもつことになる「意味」の強度によって選択されるのである。(P50)
  • 近代社会は「欲望をコントロールして、規範に従うこと」と「家族をつくり、その中でロールプレイングに徹すること」を基本ルールにしてきた。・・・フェミニズムはその近代ルールを正面から否定した。個人の自己実現と欲望の充足を集団および他者のそれよりも優先させる生き方を「より人間的である」として肯定したからである。・・・これは要するに社会を解体し、文明を捨てて野蛮に還るということである。(P169)
  • どうやって語るのか。・・・それは「あなた」に届くように語る、ということだ。(P231)

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2007年2月11日 (日)

ガープの世界

 先日読んだ「オウエンのために祈りを」がよかったので、ジョン・アーヴィングの旧作を読みたくなった。「ガープの世界」はジョン・アーヴィングの代表作といってよいが、その内容はさっぱり覚えていなかった。実家の段ボールを探し、引っ張り出してきた。奥付を見ると、平成2年3月7刷とある。ちょうど娘が生まれる頃だ。その当時、この本を読んでどういう思いを持ったのだろうか。
 一言で言ってしまえば、「性の欲望と愛と死の物語である」。子どもだけを欲した母・ジェニー・フィールズによる、脳に障害を負った傷病兵との性交の結果誕生した人間・ガープの成長と死の物語。ガープは高校卒業後オーストリアに渡り、母共々執筆に励む。そこで書かれた自らの自伝である「性の容疑者」で注目を浴びた母は、女性運動家のカリスマとなっていく。一方、娼婦との交流などを経て、処女作「ペンション・グリルパルツァー」を書き上げたガープは、大きな注目を浴びることもなく、それでも幼なじみのヘレンと結婚し、作家として歩み始める。
 ガープの浮気やヘレンの同僚フレッチャー夫妻との友情と夫婦交換、息子ダンカンの友人ラルフの自堕落な母との交流、そしてヘレンの不倫が直接の原因となって、一家は大きな事故を起こし、次男ウォルトと長男ダンカンの片目を失う。女性運動家の拠り所となっていた母の邸宅で療養中に、性転換した元タイトエンドのスター選手・ロバータとの交流や強姦され舌を切られた少女、エレン・ジェイムズに共感し自らの舌を切り取ったエレン・ジェイムズ党員とのいさかいなどがあり、問題作「ベンセンヘイバーの世界」を発表する。これが賛否両論の大波を起こす中、母が暗殺され、エレン・ジェイムズとの出会いなどを経て、ガープ自身がエレン・ジェイムズ党員により暗殺される。
 様々な要素がぎっしりと詰め込まれ、しかもそれらのピースが最後にはピタッピタッと嵌め込まれ、全体が構成されるところは、さすがジョン・アーヴィングと思わせる。解説では、ガープの発表する作品群とジョン・アーヴィング自身の作品を並列し、その相似が指摘されていた。「ガープの世界」は「ベンセンヘイバーの世界」に模せられ、未完の次作は「ホテル・ニューハンプシャー」に擬せられる。と書かれると、次は「ホテル・ニューハンプシャー」を読まなくては。こうしてかつて読んだ小説を読み返していく、というのも、なかなか面白い。

  • ウィーンは死骸だ、とガープは思った。おそらくヨーロッパ全体が、蓋をとった棺桶に眠る着飾った死体なんだろう。(上・P244)
  • 「すべて欲望のなせるわざよ。お義母さんのいうとおりだわ。これは男の問題ですからね。」(上・P321)
  • 欲望がまた善良な男を卑しくする。(下・P327)
  • 彼女たち(エレン・ジェイムズ党員)は、彼(ガープ)の中に、基本的に男性的で、基本的に不寛容なものである一種の殺人者本能を嗅ぎ取っていたのである。彼は、ヘレンもいうように、不寛容なものに対してあまりにも不寛容であった。(下・P395)

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2007年2月 6日 (火)

ウェブ人間論

 「ウェブ進化論」を執筆した動機を聞かれて、「思考を構造化したかった」と梅田が答えている。本書は、「ウェブ進化論」のベストセラーで一躍時の人となった梅田望夫と若き芥川賞作家である平野啓一郎の対談集である。このため、テーマ分け等の編集はされているのだろうが、一つの話題が十分堀り下げられることなく次のテーマに移るなど、読んでいてもどかしい思いが募る。対談集の楽しみ方はいろいろあるのだろうが、この本は、シリコンバレーに在住し、IT産業界の動向を深く知る梅田・46歳と、若干31歳の新進作家・平野という異色の組合せによる考え方や感性の違いが面白い。
 ちなみに、平野とは同郷の生まれ。梅田とはほぼ同年代。もっとも同郷とは言っても、平野はわずか1歳で生まれ故郷を離れているから、ほとんど同じ環境経験はない。だからというわけではないが、両者の発言内容に対しては、梅田の方にシンパシーを感じる部分が多い。梅田は、人間を機能として理解する傾向があり、出来事や物事を情報として分節化する、目的的な思考が目立つ。楽観的で多様性を受け容れる。一方、平野は、矛盾を受け容れ、無目的的で刹那的な思考を肯定するが、一方で人間の多面性や分裂性を嫌う傾向がある。どちらかといえば悲観的。一言で言ってしまえば、梅田は理系的で平野は文系的。そんな両者の噛み合わない対談には少しいらいらする。全体としては、梅田が「ウェブ進化論」で書いたようなITの進化が、人間及び社会にどう影響し、どういう様相を示すことになるか、というテーマを巡り、それぞれの問題意識や未来への展望を語り合っている。
 うーん、わかったような、物足りないような。とりあえず、平野啓一郎を読んでみようかなと思ったことが一番の収穫だったような・・・。

  • (平野)僕にはどうしても、一個の人間の全体がそんなに社会的に「有益」であり得るとは思えない。・・・だけど、その役に立たない部分も含めて僕であるし、それを含めて人とコミュニケートし、承認されたいという願望はやっぱりあるんです。(P54)
  • (梅田)人間はそういうこれまで通りのリアルを生きながら、全く新しいネットをも生きる。そんなイメージを抱いています。(P94)
  • (グーグルやシリコンバレーで働く人たちは)共同体意識は強いですね。・・・その世界に属している・・・その価値をすごく大切にしている気がします(P152)
  • (梅田)頭の中の記憶と外部記憶のそれぞれに、何を持ち何を持たずともいいと思うか。そのことについてどういう感覚を若者たちが持つようになるのか、少なくとも僕らの感覚とは全然違っているだろう(P177)
  • (梅田)「個の変容」を考えるときも、個がサバイバルするための思考の枠組みを得たいから「社会変化の本質をマクロに俯瞰的に理解したい」と強く希求する。「社会の変容」への対応という視点から「個の変容」を捉えようとする傾向が強い。しかし平野さんは「人間一人ひとりのディテールをミクロに見つめること」によって「個の変容」を考え、その集積として「社会の変容」を考えようとする。(P201)

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