« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

2007年3月

2007年3月29日 (木)

ロリヰタ。

 親しい友人が、一昨年だかに、「嶽本野ばらに会えたことが今年の最大の収穫」という趣旨のメールを送ってきた。ちょうどその頃僕は、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を探していたこともあり、てっきり日本の古典の作品名だと思い込み、書籍を探していた。先日偶然、僕も嶽本野ばらに出会った。何故か乙女カリスマと書かれていた。サイトを見た。ロリータファッション(たぶん)に身を包んだ男性の紗のかかった画像が置かれていた。下妻物語の作者だと聞いた。もっとも、ヒットした映画だということは知っていても見たことはない。もちろん読んだこともない。書店で偶然この本を新刊コーナーで見つけた。最初、描かれている世界にかなり戸惑った。ほとんど作者と同一人物と思える僕が偶然知り合った若い女性と恋に落ち、マスコミ・スキャンダルとなり、自らの恋心を確認する。彼女はわずか9歳だった。
 冒頭で、ロリータとロリコンは関係ない、としつこく書かれているが、恋愛した相手はまさにロリータだった。それでも、恋に年齢は関係ない。恋だけでなく、自分は自分であり、社会の鑑、倫理、ルールに囚われることなく、自分自身に忠実に生きていくことを訴える。もし本当に嶽本野ばらが乙女のカリスマとして少女達に支持されているのだとすれば、そうした作者自身の生き方、そして「そうやって生きていいんだよ」と語りかけるその作品が共感を呼ぶんだろうと思う。僕の親しい友人も、もう50歳を越えたというのに、嶽本野ばらに共感するというのは、同様の思いなんだろうか。そういう意味では、嶽本野ばらは乙女のカリスマにとどまらず、今のストレスフルな社会にあって、一服の清涼剤と言えるかもしれない。
 文章自体も非常にしっかりしており、確かな小説家であると感じた。たまにはこうした作品も悪くない。

  • 貴方はもう、個人ではなく、商品なんです。僕が自分の現在の歯がゆさに就いて語ると、僕を売り出した担当編集者は、そう端的に告げました。(P19)
  • 恋愛感情を意識しない時と恋愛感情を意識した時の間には、明らかな線が引かれている筈です。しかしそれは日付変更線のようなもので、・・・「今から日付変更線を越えます」と教えて貰わないと解らないものなのです。・・・僕達は何時も、随分と変更線を越えてから、ようやく自分の腕時計と太陽の見える一の誤差に気付き、慌ててしまうのです。(P108)
  • 何かを伝える為に言葉はあるけど、でも言葉だけじゃ気持ちは少ししか伝えられなくて、だから好きになると、手を絡いだり、抱き締め合ったり、キスしたりしたくなるんだと、思う(P156)
  • そんなに人と違うことが悪いことなのですか。一体、何を知っていれば、憶えていれば、良識ある人間だと思って貰えるのですか。(P219)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月25日 (日)

東海道・関宿・土山宿

mixiに関宿ナガヲ薬局のトミジローさんの書込を見つけ、久し振りに関に行きたいと思った。よく晴れた春分の日、妻がどこかへ行こうかと言った。実はこのところ体調がすぐれなかったが、関なら行きたいと思った。10時頃家を出て、わずか1時間半。お昼前には関に着いた。今は合併して、亀山市関町。

 続きは、(遊)OZAKI組 まちなみ・あれこれからどうぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サッカー批評34

 特集は「『Jリーグがつまらない』なんて誰が言った?」。ビッグクラブとしての浦和レッズの軌跡、ガンバ大阪・西野監督のインタビュー。中小クラブにして最近好調な成績を残す川崎フロンターレ・関口監督、清水エスパルス・長谷川監督、柏レイソル・石崎監督へのインタビューとフリューゲルス消滅以降今に至るまでの横浜FCの紆余曲折の歴史など、現在のJリーグを巡るもっとも関心のある事柄が隈無く押さえられている。また「テレビメディアの功罪を問う」や「選手の思い、代理人の哲学」も、掘り下げはもう一つだが、視点は興味深い。しかし今号一番のトップ記事はオシム監督の特別インタビューだろう。極力無編集で収録したという記事は、代表チームづくりのコンセプトが垣間見えて興味深い。中村、高原を融合させた昨日のペルー戦は、オシムの目にはどのようにうつり、それは予定どおりなのだろうか。
 非常にバランスの取れた編集になっていると思ったら、今号から編集長が替わったそうな。前に替わったときは、誌面構成やデザインも大きく変化したが、今回は目に見える大きな変化がなかったので編集後記を見るまでわからなかった。日本代表やJリーグを中心に特集を組んでいく方針は変わらないということか。次号はアジアカップやオリンピックアジア予選がテーマだそうだ。この調子でもう少し海外のサッカーやチームの特集も増やしていってほしいものだ。

  • 悪い内容でも結果に結びつけるのが、選手や監督のアート、芸術です。(P019)
  • 全試合を100%は無理だから、時には「アート」を駆使して、内容が悪くても結果を出さなければならないだろうと予測している。ただ、「良いチーム」「良いサッカー」を否定しているわけではない。「長期的には内容と結果は一致する」から、あくまでも「良いチーム」を目指す。そのうえで常に結果を出すには、「アート」が必要だというわけだ。(P021)
  • チームだけで戦うのではない。クラブだけでもない。クラブが真剣に取り組むことにより、ファン、サポーター、そしてホームタウンをすべて巻き込み、その力をACLにぶつけて優勝することを狙っているのだ。(P032)
  • 彼らが蒔いた「横浜FC」という種は、横浜フリューゲルスの6年間を越える8年間、枯れかかった時期もあったものの生き続けた。(P067)
  • 人間が頑張れたり頑張れなかったりするのは、本当に本人だけの責任なのか。(P099)
  • 日本だって「世界」の一部であることを忘れちゃいかん。(P110)

 それにしても、巻末のフォトエッセイ「On the Stage」に写し出された丸太で組まれたゴールと砂の山とグラウンド、そしてニワトリの写真は美しい。

  • この無機質な空間に四角いゴールが一つ立つと、「0.0089%」の時間(90分÷1週間)の中に『何か』が起こる可能性が期待できる。(P138)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月16日 (金)

百年の孤独

 扉にブエンディア家家系図が描かれている。通常のツリー構造ではなく、やたらと斜めの線が多い。兄弟(双子)が同じ娼婦や占い師と性生活を営み子をなしたり、叔母と甥の近親相姦があったり。古い町から一行を率いて新しい土地を求めたホセ・アルカディオ・ブエンヂアとウルスラ・イングランの家系の、マコンドの町での6代にわたる一族の顛末を描く。魔術的な出来事が常識的な出来事と違和感なく当たり前のように記述され、奇矯な事件を起こし、瘧が落ちたような逼塞した生活が突如始まり、死と生が当たり前のように繰り返され、使い込まれていく。
 最初、魔術的な伝統と常識が蔓延る町マコンドが、新しい西洋の文化に触れ、化学変化を起こし変質していくという話かと思ったが、それだけでなく、繰り返す破滅的性格と行動、新しもの好きにして閉塞した性格、指導力とリーダーシップと狡猾な軍事行動と田舎丸出しの愚鈍。こうした相矛盾する出来事が複雑に絡み合い、繰り返され、少しづつ変化し、好転しそうで突然暗転して終結を向かえる。
 複雑でユーモラスで悲劇的で混乱して明るくて変質的で知的で異様で無様で、人生のあらゆる要素と矛盾と確執と思い込みと頑迷と開明と、それら全ての要素が織り込まれた美しくも悲しい孤独のクロニクル。これは、ガルシア・マルケスだけの世界、と言わざるをえない。面白い。

  • 「たとえ神を恐れなくても、金気のものは恐れなきゃいかん。(P41)
  • チェッカーをやらないかと誘うと、・・・基本的な原則について一致をみている二人のあいだで勝負をあらそう意味が納得できない(P92)
  • わが家に帰ってなに不自由なく暮らせるようになったため、伯父ホセ・アルカディオのかつての女狂いと怠け癖が彼にもとり憑いたかのようだった。・・・気ままな毎日を送った。玉突きをし、寂しさをその時々の女でまぎらわし、ウルスラがそこらの隙間に隠しておいたお金をさらっていった。しまいには、着替えのためにしか家に寄りつかなくなった。「男の子ってみんな同じね」とウルスラはこぼした。「初めは行儀が良くって、言うことをよく聞いて、まじめだけど、髭がはえる年ごろになると、たちまち悪いことを始めるんだから。」(P164)
  • 時間というものはぐるぐる回っているという、ふだんの印象をいっそう強めた。(P237)
  • 時は少しも流れず、ただ堂々めぐりしているだけ(P350)
  • ウルスラはこれを聞いて初めて、彼が自分よりもはるかに暗く、曾祖父と同じように人を寄せつけぬ、孤独の闇の世界を生きていることを知った。(P350)
  • 一族の血を絶やすまいとして自然の掟と戦うウルスラ、偉大な文明の利器という夢を追いつづけるホセ・アルカディオ・ブエンディア、ひたすら神に祈るフェルナンダ、兵戦の夢と魚の金細工のなかで呆けていくアウレリャノ・ブエンディア大佐、ばか騒ぎのさなかの孤独に苦しむアウレリャノ・セグンド。
    「文学は人をからかうために作られた最良のおもちゃ(P438)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月13日 (火)

一月物語

 「一月」とはひとつきのことか。月の光、満ち欠けが物語を彩り、胡蝶が話を導く。東京駅ですれ違った女、汽車で乗り合わせた老爺に導かれ、奈良県十津川の山中に引き込まれていく青年詩人、真拆。明治30年という時代設定そのままに、古色蒼然とした文体で綴られた話は、老僧に匿われた若い女性、夢と幻、逃れてきた山の麓の女将の昔話。蛇の子を宿った美女と呪われた目をもつ女。そして死の結末を知りつつ惹かれ合い、抗いつつ死を希う二人。それはまさに現代の神話にして説話。平野啓一郎はこの小説でまさにこうした世界を表現したかったのだろう。それは現代という時代が失ったロマンと物語への希求とも言える。初めての平野体験はなかなか面白かった、と言おう。次は何を読もうか。

  • 夜が満ち始めていた。山中では、闇は底に、底に、と溜っていく。それが何時しか踝を呑み、膝を呑み、気がつけば胸にまで迫っている。(P27)
  • 盲人の世界は、手許にしかない。世界は決して予告されない。触れる瞬間に世界は初めて姿を現す。その一刹那のみ、忽然と存在して消えるのである。(P58)
  • 言葉を与えられねば認められぬ感情がある。それと倶に、本来は違っていたかもしれぬが、言葉を与えられて、それに合うものへと変化してしまう感情がある。(P86)
  • 廊下に出ると、女将は小さく咳をした。朽葉色の竹筒で作られた添水のような、乾いた抜けの良い音であった。(P143)

| | コメント (1) | トラックバック (1)

« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »