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2007年4月

2007年4月22日 (日)

高瀬川

 巻末の解説で、映画監督にして小説家の青山真治氏が、ギタリストの技巧と個性に即して、この短編集に見られる平野啓一郎の技と味について書いている。確かに平野氏の文章力の卓抜さはこの短編集でも遺憾なく発揮されている。超絶技巧といってよいほどの技があることはよくわかった。その味はどこで垣間見ることができるか。
 「高瀬川」は表題の小説を含む4作品の短編集である。そのいずれもが、文筆表現における実験作品といえる。一つ目の「清水」は、「清水のしたたり」と「光が散り続ける太陽」と「人間の消滅」という現実の前で、死と記憶と存在を巡って彷徨う主観的小説。二つ目の「高瀬川」は、作者に模した作家と雑誌編集者との一夜を克明に描写した小説。その描写力は通俗なポルノ小説をはるかに凌駕して克明であり、汗や音、熱気までが伝わってくるよう。3つ目の「追憶」は、最後に綴られた25行ほどの散文詩と、そこに置かれた言葉をところどころ取り出すことで綴られる数十編の散文。散文を重ね透かすことで最後の散文詩が浮かび上がるという趣向。そして最後の「氷塊」は、「喫茶店で不倫相手を待つ女性」と「喫茶店の向かいの交差点で女性を見つめる少年」という二人を主人公とする二つの小説が、それぞれの置かれた境遇や思いの中で同時並行に進行し、微妙にシンクロしつつ、お互いの物語の中で完結していく、という実験的小説。
 それらのどれも面白いと言えるが、同時に作者の筆力の高さを実感する。しかして作者の味とは・・・。残念ながら、平野作品をまだ2冊しか読んでいない私には、まだ味まではわからない。ただ、単に技巧に優れているだけではなく、人間と物語に対する真摯な関心を持って、その技巧を活かすための試みを重ねているらしいことが微かに感じられるのみである。しかし魅力があることは間違いない。まずは「日蝕」や「葬送」などの代表作を読んでから、平野啓一郎という作家を改めて考えてみたいと思う。

  • その逃れ難いという不安は奇妙に冴えていた。今、ここにある停滞。その揺るぎない反復。その底で、永遠に同じ一つの円の回転を生きねばならないという予感の重苦しい眩暈。(高瀬川・P44)
  • そうして事実は常に、家族の中心で空洞だった。そして、その空洞の周囲で、彼らは恐らく幸福だった。(氷塊・P193)

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2007年4月19日 (木)

イビチャ・オシムの真実

 2002年。オシムがオーストリアのクラブチーム、シュトゥルム・グラーツの監督だった時代に刊行された自伝の日本語版。日本での発行にあたり、「第5章 ジェフ、日本代表監督時代」が追加されている。全体は、第1章がオシムに近い9人の人々によるオマージュ。第2章はオシムの選手時代、第3章と第4章が監督時代が語られる。「第6章 オシムのサッカー観」と「第7章 サラエボ散策」も原著の翻訳で、特に第7章は、戦禍が収まった後のサラエボを訪れ、戦争に踏みにじられた故郷について語っている。
 まず、装丁の良さに驚いた。いつも購入した本については、アンダーラインやヘリ折りなども平気でするのだけれど、この本についてはその豪華さ、上質なデザインに本を傷めることがしばしためらわれた。オシムの文章について言えば、けっして上手というわけではない。しかも普段の話と同様、婉曲的な表現が多いので、一見わかりにくい箇所も多い。しかし、それもサッカーを巡る言説の部分であって、最終章では直裁的な戦争批判が率直に語られている。多分、サッカー自体は多分に複雑で意図どおりにいかないゲームであることを理解しているからだろう。
 サッカー観について言えば、普段見聞きする内容、すなわちスピードやポリバレント、コレクティブといったことや、相手チームに常に敬意をもちつつけっして恐れないことなどが語られている。それはそれで興味深いが、やはり耳目を惹くのは、サラエボの悲劇について語る最終章だろう。そこには深い悲しみと憤りと、そしてオシム自身の人間性の深さが窺われる。これほどの偉大な人物に代表監督を務めてもらっている日本は本当に幸せであり、また日本サッカー変革の大きなチャンスと言える。このチャンスを最大限活かしていってほしいものだ。

  • オシムはこれまで「ゲーム」に溺れることなく、サッカーの本質たるもの、あるいはサッカーの魂を魔術のごとく紡ぎだそうとしている。そして彼のいつも新しい手法、あるいは予知予測できない実験は、日々新たに成功したり失敗したりの人生の1コマにも等しい。(P20)
  • シュトゥルムはフェイエノールトというチームに敬意を払っていたが、彼らを恐れてはいなかった。(P148)
  • 豊かな暮らしができる人は少数派で、それ以外の人々は多少の差はあれ、戦わないといけない。人生は日々、戦いであり、悪あがきの連続である。(P184)
  • 不思議なのは、包囲された人々があれだけ残酷な状況をそうは捉えていなかったことだ。・・・よりによってサラエボに居座って全ての狂気を甘受してきた人々が、事態はそんなにひどくなかったかのように、いつも希望があったかのように振る舞う。生きる喜び、生きる意志というものは奇跡的だ。(P193)
  • 西側諸国が自国の問題から目をそらすため、そのような演劇を必要としていることは私はよく理解している。しかしあれはいき過ぎだった。あまりにもいき過ぎだった。(P196)
  • 戦争前、サラエボは唯一無二のマルチカルチャーシティだった。・・・共生することがこの街に残された唯一のチャンスだった。・・・「ふたつの鐘の音はひとつの鐘のそれより美しい。そして3つの鐘が一緒に鳴るとき、それはまるでオーケストラのようだ。(P200)

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2007年4月 9日 (月)

春 爛漫 松阪

 日本建築学会東海支部都市計画委員会恒例の春の交流会。今年は桜満開の松阪を訪れた。JR関西線快速みえに乗ること65分。ようやく松阪に到着する。松阪駅から駅前通りを西進。コミュニティ道路「よいほモール」との角のカリヨンプラザの中に今日の集合場所、松阪市市民活動センターがある。その前に、昼食を取りにまちをしばし散策。駅前通り、そしてよいほモールとまずまず賑わっている印象。

 続きは、(遊)OZAKI組 まちづくり・あれこれからどうぞ。

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2007年4月 4日 (水)

下流志向

 内田氏のブログで、「ぜひ国民のみなさんに読んでいただきたい」と書かれていた。もっとも内田氏がわざわざ「国民のみなさん」と書くのは訳があり、つまりこれは経営者セミナーでの講演を基にした本であって、社長相手に展開された理論であるからこそ、社長でも何でもない「国民のみなさん」には、普段の自分自身の視座から離れて読むことができるのではないか、といったことが綿々と綴られていた。
 でもそうした誰々向けといったことは離れても、十分楽しめるし、説得される。学習忌避する子どもたち、労働忌避するニートたち。そしてリスクヘッジもせずにリスク時代に放り出された日本人。こうした状況をアメリカモデルの終焉、すべてを経済原則で理解しようとすることの誤り、自己決定・自己責任論のつけ、無時間モデルから有時間モデルへの転換の勧めなど、さまざまな言葉や概念で説明し、我々の凝り固まった頭をもみほぐしてくれる。実に面白い。そしてその一々に、もっとも、そのとおりと納得する。単に人間を人間らしい世界で理解し開放しようと言っているに過ぎないのに、どうしてこんなに新鮮で楽しく、明るいんだろう。
 日本の未来について、意外に「一斉に変わる」ことができるんじゃないだろうかと書かれているが、こうした明るい見通しも含めて、基本的に楽観的なのがまた読んでいて楽しい。下流志向は問題だけど、それは下流志向する人が問題なんじゃなくて、下流志向を選択することが合理的な選択だと思わせるような社会が問題であり、しかし社会の問題は社会の気分が変わることで「一斉に変わる」可能性がある。だとすれば、我々はそうした正しい社会に変わらなくっちゃ! 変えなくっちゃ!

  • 「学び」は等価交換の空間モデルによって表象することができません。それは時間的な現象です。そして、時間的でないような「学び」は存在しません。(P62)
  • 明治以来、近代化のプロセスの中で、日本人は「迷惑のかけ合い」という仕方でリスクをヘッジしてきました。(P104)
  • 日本では、・・・弱者が自分自身の社会的立場をより脆弱にするために積極的に活動している。・・・自らの意思で知識や技術を身につけることを拒否して、階層降下していく子どもが出現したのは、もしかすると世界史上初めてのことかもしれない。(P123)
  • 学ぶことの本質は知識や技術にあるのではなく、学び方のうちにある(P152)
  • 知性とは、詮ずるところ、自分自身を時間の流れの中に置いて、自分自身の変化を勘定に入れることです。(P153)
  • 経済合理性というのはその経済活動に付随するもろもろの人間的価値を排除してしまう。でも、視野から排除されたせいで致命的なダメージを受けたものって、たくさんあると思うんです。教育もそうだし、労働もそうだし、育児もそうだと思います。(P166)
  • 「ニートになったやつは自己責任だから、勝手に飢え死にしろ」というロジックを正論として認めれば、僕たちの社会はこれからも無数のニートを生み出し続けることになる。・・・「君たちは飢えることのリスクを自己決定して引き受けたけれど、私たちは君たちを飢えさせない」というロジックを「常識」に登録することだけがニートのもたらす社会的コストを最小化できる。(P207)

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