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2007年9月

2007年9月30日 (日)

路地・長屋 空堀商店街

 大阪へ行ったついでに、「路地からのまちづくり」で紹介されていた大阪市「谷町六丁目」駅南の空堀地区を訪れた。「路地からのまちづくり」によれば、地蔵と祠の多い木造密集市街地だが、近年、大阪市がHOPEゾーンに指定し、「空堀地区HOPEゾーン協議会」(愛称:からほり井戸端会)が設立され、街なみ環境整備事業による修景助成や公共施設整備に取り組んでいるという。

 続きは、(遊)OZAKI組 まちなみ・あれこれからどうぞ。

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2007年9月29日 (土)

白壁と蔵屋敷 五個荘

 延藤先生のところへ伺った際に、23日に東近江市五個荘でイベントを行うのでぜひ来てくださいとお誘いを受けた。あいにく当日は所用で行けず、翌日足を伸ばした。平成10年に伝建地区に指定されたそうだが知らなかった。カーナビの示すまま車を走らせると、わが家からわずか1時間半ほどで現地に着いた。

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2007年9月26日 (水)

岐阜のまちづくり/岐阜シティ・タワー43と玉宮通り

 2004年の春に訪問してから3年半。当時はまだ計画だけだった駅西の再開発地区に、計画どおり、地上43階の超高層ビルが立ち上がった。いよいよ来月8日に竣工式と記念シンポジウムが催され、グランドオープンを迎える。その前の忙しい中、都市住宅学会主催の見学会が開催されたので参加した。

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街場の中国論

 タイトルの「街場」とは、専門家ではない門外漢がマスメディア等で伝えられる中国関連のニュース等を元に、中国人の行動や国家の振る舞い等を推論しようという趣旨です。これは前著の「街場のアメリカ論」も同様。でも少しわかりにくいタイトルですね。「常識から読む中国論」とかいったタイトルだとまだわかりやすい。でも、内容は期待にそぐわぬ内田節が全開で面白い。常識的判断とはこういうことかと思い知らされる。と同時に我々が日頃のニュースからいかにバイアスのかかった、色眼鏡を通した解釈を受け入れ洗脳されていることかと思ってしまう。もちろん何が真実かはわからない。内田氏が間違っていることもあるだろうが、それでも、時事ニュースに虚心坦懐に向き合い、自分の素直な判断力を発動させることの重要性を改めて思う。なかなかその域に至ることができない。だからこそたまに内田氏の著作を読むことが楽しい。

  • 中央のハードパワーが落ちたら、いつ独立運動を起こすかわからない。そういう状況を実感できる日本の政治家がいるでしょうか。・・・打つ手を間違えたら「四国で内戦が起きる」とか「九州が独立する」とかいうSF的想像は、決して日本の大臣たちの脳裏には去来しない。それくらいに日本社会は構造的に安定している。それは世界に誇るべき日本の資産だと思いますけれど、それが東アジアにおいてはかなり例外的な事態であることは忘れない方がいい。(P26)
  • わが国を砲艦外交で開国させ、戦争で破り、憲法を押しつけ、今も全土に軍事基地を展開している百年来の「旧敵」の世界戦略に協力することがナショナリズムの王道であるというのは、どう考えてもおかしい。でも、日本のナショナリストは中国やロシアや韓国や北朝鮮に対しては反感と恐怖を抱くけれども、アメリカにはそのような感情を持つことを抑制している。それは論理の要請によるのではなく、アメリカの正当性を認めないと、「国體」の正統性が維持できないことを彼らが直感的に理解しているからだと僕は思います。(P51)
  • 中華思想でやって比較的成功したのはアメリカなんじゃないかと思うんですよ。・・・人種的、宗教的にどのような出自のものであろうと、「私こそが真のアメリカ人だ」と名乗ることが許される。・・・これは一種の「アメリカ中華」思想といえるのかもしれない。とすると、2010年代からの世界の覇権は、中国とアメリカという「二つの中華圏」の間で展開することになります。(P83)
  • 一億三千万の国と十三億の国を統治するというのでは統治の方法そのものを変えないといけないと僕は思っています。・・・この広大な国土と混質的な国民を統治するためには、たぶん毛沢東がしたように「シンプルで雄渾な物語」を提示するしかない。・・・だから、中国の場合、逆説的なことですが、統治上のトラブルが深刻であればあるほど中央政府の語ることばはシンプルでわかりやすいものになる。(P174)
  • 僕たちがもう少し配慮しなければいけないのは、「どっちつかず」がリスク・ヘッジのひとつのかたちだということです。「白黒をはっきりさせない」ことから「白黒をはっきりさせる」ことよりも多くの外交的ベネフィットが得られるなら、そのほうが外交政策として上等であるということです。(P188)
  • 統治の要諦は国土の維持、通貨と民生の安定に尽きるわけですから、それが守れるならどのような権謀術数を駆使してもいいと僕は思います。・・・そのためなら二元外交どころか五元外交でも百元外交でも構わない。(P190)

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2007年9月22日 (土)

『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する

 先日読んだ「カラマーゾフの兄弟」。長男ドミートリーの父親殺しの冤罪を巡るミステリーと、同時に展開される神の存在や社会主義、民衆論といった高次な論争が相まって、壮大にして感動的な作品として読んだが、いくつかすっきりしない印象が残った。それが、第4部第10編で突然現れる子どもたちであり、冒頭「作者の言葉」のアリョーシャを奇人として扱う書きぶりも、本編を読んだだけではさっぱり意味がわからない。「カラマーゾフの兄弟」には続編が構想されていた、というのは、その解説にも書かれていた有名な話だそうだが、最近、光文社古典新訳文庫を訳出して空前のベストセラーを記録した亀山氏による、続編の推理と大胆な空想が描かれている。
 私が挙げた項目以外にも、続編を睨んで散りばめられた記述はたくさんあって、それらを丁寧に拾い上げるとともに、ドストエフスキー本人や周辺の人々の証言、ロシア革命前夜という当時の状況などを考え合わせ紡ぎ出される「第2の小説」はけっこう説得力がある。もちろん筆者自身が、以前に描いたことがある別のストーリーを提示したり、即座に他のストーリー展開を書き出したりしているとおり、結局は書かれなかった小説なだけに正解はないわけだし、「空想」として楽しむのは誰にでも許されている。
 あとがきの最後に、「わたしはいま、なぜか根本からこの小説について調べなおしたいという止みがたい欲求にかられている。」(P277)と書いているが、確かに「第2の小説」を空想する、という作業は興味を駆り立てる楽しい作業だっただろう。単に空想するのではなく、関係資料等を十分調べ尽くす、という態度の上で書かれている点が本書の特に優れたところだ。
 ところで、本編になぞらえ、本書も全4部12編で構成され、これに「はじめに」と「おわりに」が付せられている点も作者の遊び心が感じられ面白い。

  • 『カラマーゾフの兄弟』全編に、とくに未来をになうはずの子どもたちにかんして、(未解決の)ディテールがそれこそおびただしく書きこまれている。それはほかでもない。そのうちの何人かの子どもたちが、「第二の小説」で、かならずや思い役割をになわされるはずだったことを暗示するものなのだ・・・。(P21)
  • 聖性は悪魔とのせめぎ合いのなかからしか出てこない。端的に言って、倒錯である。つまりアリョーシャは、倒錯によって発見した喜びと、その克服という努力のなかから、みずからの悪魔性の発見に立ちいたる。(P198)
  • 正義は民衆の意思によってどうにでもなるし、それでもよいという確信がドストエフスキーにはあった(P248)

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2007年9月18日 (火)

サッカー批評 36

 「サッカー誌が書かないJリーグ批評」というのが特集のタイトルだが、意気込みほど明確なJリーグ批評が書かれているわけではない。アジアカップ後のオシムへのインタビュー記事や鬼武チェアマンへのインタビュー、鹿島アントラーズの苦悩、「百年構想の現在地」と題する浦和レッズとFC東京の地域戦略取材くらいか。いや、実は鬼武チェアマンへのインタビューの対極に置かれた「セルジオ越後はなぜ批判を繰り返すのか」が唯一「Jリーグ批評」という特集タイトルに応えた記事と言える。ここでは、セルジオ越後が、オシムに噛みつき、協会に噛みつき、Jリーグを批判する。「終わってみれば、ほとんど完敗といえるインタビューであった。」(P021)と振り返るが、セルジオ越後氏の提起した課題に、他の記事を通しても全く応えていない点が情けない。とりあえず読者である我々は、セルジオ越後氏の問題提起に触れられただけでも可としよう。いや、もう一人、痛烈な批判を重ねる人間がいた。礒貝洋光だ。前回に続く引退Jリーガーへのインタビュー記事。彼が提案する日本代表監督国民投票論は破天荒だが熱い気持ちにあふれている。
 今号のもう一つの隠れたテーマは、世代論。「僕らはへなちょこフーリガン」がまさにこのことをテーマにしているが、一方で置かれた「ヤスダの復活」「クラマーとともに歩み、戦った日本代表の物語」などが心を打つ。
 もう一つ、心が熱くなったのが、「加藤久からのメッセージ」だ。かりゆし沖縄の後始末に立ち会った加藤久氏と少年たちのその後の物語だ。地方に目を向けたこと。これも「サッカー批評」誌の今号からの新たな視座かもしれない。今後のさらなる追求を期待したい。

  • 何のためにJリーグを作ったのか。勝つために作ったんでしょ?儲けるためじゃない。でも、最近は興行に走っているよ。(P020)
  • アントラーズの関係者にとってのジーコと我々が知る日本代表のジーコ前監督は、全く別人なのだ。(P058)
  • 僕は沖縄の子たちとやって何を学んだかというと、本当のコーチングというのは引き出してあげることであると気付きました。教えることは相手が教えられるべきものを持っていないということで、引き出してあげるのは相手がその引き出すべきものをすでに持っているということなんです。(P071)
  • 彼は今年35歳。・・・Jリーグ発足以降に日本を覆ったサッカーブームに違和感があったのだという。サッカーから「部活っぽさ」がなくなったっていうか。・・・「冬の時代」やそのもっと前を支えてた日本のサッカー文化が、あまりに忘れ去られてやしないかって。(P131)

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2007年9月14日 (金)

満州事変から日中戦争へ-シリーズ日本近現代史(5)

 時代はいよいよ昭和に入った。関東軍が仕掛けた柳条湖事件に始まる満州事変から、犬養毅が暗殺された5.15事件、国際連盟脱退、2.26事件を経て、盧溝橋事件に至る流れは知っていても、その背景、すなわち中国の不安定な政情やソ連の動向、欧米各国の世界恐慌をはさんだ経済情勢、また日本国内の政争や軍部の思惑などまではほとんど知らなかった。国際連盟にはアメリカ、ソ連という両大国が参加していなかったことなど考えもしなかった。
 国内の様々な外交官や政治家、軍部、将校らが各自の思惑や考え方の中でそれぞれの行動を起こし、それらが微妙な力関係を伴って、戻ることのできない状態へ日本を追い込んでいく。もちろん、それは全くやむを得なかった事態だというつもりはないが、それでも日本を導いていった運命の糸はあったのではないかと思わせる。蒋介石の行動、松岡洋右の決断、イギリスの決断、アメリカの方針・・・。それらの一つでも違った事実が選択されていれば、歴史は変わったいただろう。そしてその中には、日中戦争に突入しなくても済んだ選択があったはずだ。
 歴史の数奇さに驚くと同時に、現在を振り返り、今この選択がどういう未来をつくるきっかけになっているかと思うと空恐ろしく感じる。一つ一つの判断・選択は確かにその状況の中では選択肢としてありうべき合理的なものだった。そのことが多くの歴史資料とともにわかりやすく解説されている。特に国際連盟脱退に至る日本や各国の刻々変化する動向や思惑には、思っても見なかったドラマが描き出されており、大変勉強になった。

  • 今次事変は戦争に非ずして報償なり。・・・報償とは法律用語でいう復仇の同義語であり、国際不法行為の中止や救世を求めるための強力行為と定義される。(はじめにP3)
  • 関東軍の謀略だと知らされていなかった国民は、自衛権と民族自決が認められなかったことに憤慨したであろう。だが事変の当事者である関東軍や為政者にとって、自衛権と民族自決による説明は、アメリカの干渉を招かないための方便であるとの自覚が当初からあった。日本側当事者にとって、より衝撃的であったのは、・・・日本の満蒙特殊権益に対する評価にあったのではないだろうか。(P143)
  • 日本の行動は自衛であり不戦条約には違反しない、また満州国の成立は中国内部の分離運動の結果であるから9ヵ国条約に反しないと述べた。(P153)
  • 中南米の安全保障に任ずるアメリカは、同地域に連盟秩序を適用するのは無理だと判断したからこそモンロー主義による除外を求めたといえる。より遅れた地域であるはずの極東においては、なお例外が認められるべきだ、との考えに立っていた。(P180)

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2007年9月 8日 (土)

時間はどこで生まれるのか

 「カラマーゾフの兄弟」と並行して読んでいたけど、今日、残りの第6章、7章と付録ほかを読み終わった。書店に平積みされてた頃から気になっていたが、先日ブックオフで350円で売っていたので、思わず購入。久し振りにこうした物理本を読んで非常に面白かった。物理本と書いたけど、同時に哲学本でもある。物理学の視点から「時間」について考察しつつ、現代物理学を踏まえた「時間」哲学の誕生にラブコールを送っている。
 まずは現代物理学、すなわち相対論と量子論で「時間」がどう捉えられているかをわかりやすく説明していく。そのためにはまず、相対論と量子論における空間や位置、速度の捉え方が示される。相対論や量子論そのものの解説書ではないため、さわりを単純化し解説してくれる。それが非常にわかりやすい。素人向けのごく簡単な相対論、量子論の解説本と言える。
 そして「時間」の本質に近づいていく。本書のタイトルは、「時間とは何か」でも「時間の存在性」でもなく、「時間はどこで生まれるか」。初めは変なタイトルと思ったが、読み進めていくと、確かにこのタイトルが最も適切なことがわかる。「時間」は、エントロピー増大の法則が支配するマクロ世界の中で、生命が刹那刹那、秩序の崩壊に抵抗し、自らの秩序を保とうという「意思」を備えた瞬間に「誕生する」。それはA系列時間であり、それが積み重なり、B系列時間となるが、時間の本質はC系列である。
 これだけ簡単丁寧に説明されても、多分まだ本当の理解には至っていないのかもしれないが、とにかく読み進めるほどわくわくしてくる本である。

  • 色や温度は物理的実在ではない。身体が外的な環境と相互作用することによって生じる生物学的感覚である。(P47)
  • 観測しないかぎり、実存は宙ぶらりんの状態にあるのである。(P69)・・・量子論の世界では
  • 時間は人間の理性が生み出した後発的な概念であり、よりプリミティブには、「動き」こそが生き延びる条件だったのである。(P75)
  • ミクロの世界には色や温度は存在しないのである。それどころか、量子力学が主張していることは、位置や速度やエネルギーといった概念ですら、実存とはほど遠いものだということである。それゆえ、時間もまたミクロの世界の実存でないということは、むしろ道理に適ったことなのである。(P86)
  • われわれの宇宙(時空)がC系列であるとすれば、宇宙はただ存在するだけである。そこには、空間的広がりや時間的経過というものはない。・・・光子にとっては時間も空間も存在しないが、しかしそれでも光子は存在する。実存とは、時間や空間を超越した何かなのである。(P116)
  • 生命とは秩序であり、かつ、その秩序を持続させる「意思」をもった存在である。「意思」をもった生命は、自分の秩序を壊そうとする外部の圧力を、どうしようもない変更不可能な過去として受け止める。しかし、その「意思」は外圧に逆らって秩序を維持する自由をもっている。すなわち、この自由こそが未来そのものである。(P132)
  • われわれが常識的にもっている時間概念は、・・・刹那刹那の「意思」が創り出すものなのである。(P133)

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カラマーゾフの兄弟

 光文社古典新訳文庫の「カラマーゾフの兄弟」がベストセラーになったという。私も書店でこの本を買おうかと思い、でも新潮文庫版の方が安いしと思って、こちらを購入。たまたま先週末からぎっくり腰で3~4日間ほど寝込んでいたため、わずか1週間の私としては異例の早さで読了。正直言って面白かった。
 若い頃、トルストイには一時はまって何冊か読んだが、当時はドストエフスキーはあまりの長編に恐れをなして手が出なかった。社会人になってからは、司馬遼太郎など全8巻といった超大作ですら楽しんで読んだというのに、ドストエフスキーには手が出なかった。ようやく今になって、4年ほど前に「罪と罰」を読み、そして今回、初めて「カラマーゾフの兄弟」を読んだ。長かった、けど、面白かった。
 まず、まるで推理小説のようなドラマティックな展開がいかにもドストエフスキーの特長なのだろう。ドミートリーの父親殺し嫌疑を巡る公判場面を頂点に、物語は次第次第と緊張感を高め盛り上がっていく。第4部冒頭に挿入された少年たちとのエピソードが、小説の最後に再び取り上げられ、心に温もりの余韻を残しつつ静かに幕を閉じる。いかにも見事なドラマ性だ。
 一方で、作者自身が最も語りたかったと思われる神の問題、無神論や理想社会主義への思想、民衆の生活と人間論などは、まだ事件が起こりドラマが始まる前の1部2部で語られる。それらはいずれも登場人物の会話という形で、まさしく語られる。それらは今の時代でも全然古い課題ではない。それがドストエフスキーのもう一つの魅力であり、世界的名作とされる所以だろう。どのテーマも興味深い。
 しかしそれにしても、語る語る。どうしてドストエフスキーの登場人物たちは、こんなに語り続けるのだろうと呆れるほど語り続ける。急いでる場面でも、話し始めたらいつまでも話し相手を離さない。こちらがやきもきするほど。10ページ20ページは当たり前、50ページくらい一人の人間が話し続ける場面もあるのではないか。ロシア人はそういうもんだ、とロシアに詳しい友人は言っていたが。本当だろうか・・・すごい。

  • おのれに嘘をつき、おのれの嘘に耳を傾ける者は、ついには自分の内にも、周囲にも、いかなる真実も見分けがつかなくなって、ひいては自分をも他人をも軽蔑するようになるのです。(上P102)
  • 人間というものはたえず子供のように面倒を見てやらねばならぬ(上P541)
  • 人間の自由を支配すべきところなのに、お前はかえってそれを増やしてやり、人間の心の王国に自由の苦痛という重荷を永久に背負わせてしまったのだ。(上P642)
  • 個人の特質の真の保証は、孤立した各個人の努力にではなく、人間の全体的統一の内にあるのだということを、今やいたるところで人間の知性はせせら笑って、理解すまいとしています。しまし今に必ず、この恐ろしい孤立にも終わりがきて、人間が一人ひとりばらばらになっているのがいかに不自然であるかを、だれもがいっせいに理解するようになりますよ。(中P104)
  • 人間なんて、いったい何度こっけいになったり、こっけいに見えたりするか、わからないんですよ。それなのに、この節では才能をそなえたほとんどすべての人が、こっけいな存在になることをひどく恐れて、そのために不幸でいるんですよ。(下P118)
  • 子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。・・・少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。(下P653)

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