« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

2007年10月

2007年10月27日 (土)

四間道・円頓寺 散歩

 10年ほど前、愛知建築士会の活動の一環として、名古屋市内に残る古い建物や町並みを訪問したことがあった。・・・しかし、名古屋駅の近くの四間道・円頓寺は昔から古い町並みが残るということで気にはなっていたけれど、きちんと歩いたことがなかった。今回名古屋駅まで歩く機会に、地図を片手に、機種変更で機能アップした携帯電話の機能確認も兼ねて歩いてみた。

 続きは、(遊)OZAKI組 まちなみ・あれこれからどうぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月26日 (金)

神楽坂 再訪

 久し振りに神楽坂を歩いた。飯田橋で下車する仕事があったため、お昼前後の空き時間に大急ぎで歩いたもの。今改めて、前(1998年)に歩いたときの記録を読み返してみると、再訪する前によく読んでから歩けばよかったかなと思う。ほぼ10年、だいぶ変わった、というのが歩きながらの感想だったが、改めて読んでみると、変わっていない部分が多いことにも気づく。

 続きは、(遊)OZAKI組 まちなみ・あれこれからどうぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月21日 (日)

日本サッカー狂会

 1960年代から日本サッカーを応援し続けてきた「日本サッカー狂会」というグループがあることは、Jリーグの始まる前くらいから知っていた。その頃、Niftyのパソコン通信のフォーラムFSOCCERの常連であったGOTO(後藤健生)さんや田村修一さん(ともに狂会員にして現在はサッカー評論家)の書込みから知ったのだろうか?本書では、「日本サッカー狂会」の成り立ちから現在に至るまでの歴史を、関係者の座談会と機関誌FOOTBALLからの抜粋及び関係者のインタビューなどで振り返る。
 「日本サッカー狂会」の活動も、Jリーグ開幕頃から大きく変化する。競技場での応援も狂会からウルトラスに移っていった。そこで、後半はウルトラスのリーダー植田朝日を中心とした座談会が中心となる。いずれにせよ、これを読むと、1960年代から現在に至るまでの日本サッカーの歴史、サポーターから見た歴史が全て満載されている。貴重な史料といえる。
 ただし、内容は座談会が中心なので、メンバーの関心や座談会の話題の流れに応じて、深く話されるものもあれば意外にあっさりと通り過ぎていく話題もある。狂会員が見に行けなかったものはしょうがない。最近のワールドカップやJリーグの話題が少ないのもしかたない。それは別の本で読めばいいだろう。ただ、植田朝日が意外なほどサッカーのサポートをするということに対して、真面目でまともな認識を持っていることに驚かされた。
 口絵の歴史的な資料も興味深い。日本住宅公団職員の池原謙一郎と「愛知のサッカー和尚」鈴木良韶との出会い、鈴木の持参した横断幕に書かれた「日本サッカー狂会」という文字がそのまま団体の名称となった話、そして海外旅行が不自由だった時代に日本代表を追いかけ世界を巡る狂会員たち。日本代表がアジアでも勝てなかった時代から、サッカーは世界に通じていることを理解し、世界目線でサッカーを応援し続けた。それは当時のサッカー選手やサッカー関係者の意識をも越えていたと言える。日本蹴球協会は1977年にようやく日本サッカー協会と名称変更し、狂会も名称変更についての議論が交わされるが、そのことも「日本サッカー狂会」の先見性を表していると言えるかもしれない。狂会という名称だが、その内実は「サッカー好きなインテリ集団」だった。いや今もその精神は受け継がれ現在に至っている。巻末に入会募集の記事が掲載されている。

  • 万が一、あそこで間違って日本が出場してたら、しらけますよね。「一部のサッカーファンの物」って感覚の延長ですから。(1985年のメキシコ・ワールドカップに負けて。P113)
  • スタジアムの居場所なんて、それこそ「どこでも選べる」くらいに空いているのに、敢えて「観にくい」ゴール裏に陣取っているわけですからね。「それが本来なのだよ」というのは、自分でもわかっていたつもりですし、「立錐の余地もないくらいにスタジアムが観客で埋め尽くされる時代になり、『サポーター=ゴール裏』というようになればなぁ」と思ってはいましたよ。(ウルトラスを評して。P164)
  • サッカーファンにための大会じゃなくて、「日本国民が世界中から来た人を楽しませて帰す」、そういう高い意識を持ってやらなきゃいけないワールドカップだったんだよ。・・・ホスト国なのに、それをさしおいて「自分の国が金メダルを獲った!イェーイ!」なんて言っていたら、何というか、オナニーじゃん。(P251)
  • 狂会が頑張っていた時代と、ウルトラスが活躍するようになった時代の違いについて・・・俺自身が決定的に違うと思うのは、自分たちだけで応援しようと思うスタイルから、多くの人間を巻き込んで、みんなで大きいムーブメントにしてやろうと考えたことが一番の違いと考えている。(P272)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月11日 (木)

信じない人のための<宗教>談義

 「信じない」とは「信じられない」や「信じたくない」とは違い主体的な意思がある。しかし本書では、後者のように「信仰」と直に向き合うのではなく、「信仰の有無に関わらず」といった意味で使われていると考えていい。宗教とは現代社会にとって、また現代人にとって、どういうものなのか、どう捉えればいいのかを客観的な立場から考察する。後半は若干難しくなるが、キリスト教から始まって世界の各宗教を概観する前半は大変わかりやすく楽しい。比喩が絶妙。特に、日本の宗教状況の捉え方は、「地元の文化を語るのは難しい」と言いつつ、実に客観的でわかりやすい。また、ヒンドュー教や道教・儒教など私がよく知らない宗教については、初心者向けにわかりやすい。
 さて後半である。そもそも宗教とは何か。そこから導かれるのは、宗教とはこれですと定義できるようなものではなく、私たちの社会や精神文化の中で日常と分かちがたく食い入っている文化であり制度である、ということ。ゆえに逃れることもできず、逃れればよいわけでもなく、頼り切ることもできず、うまく付き合うことでとてつもないパワーを持つこともあり得る。とすれば、これからの時代、偏見なく、うまく宗教と付き合うことが必要だと言える。そんなことを思いました。

  • 「宗教」という言葉はやや漠然とした言葉です。厳密に考えると意味不明であり、世界中の民族がこの言葉をまったく同じ意味で用いているわけではありません。・・・この漠然と広がる意味領域を大雑把にひっくるめて述べるとすると、「宗教」とはなんらかの制度として存在している、とでも言っておくしかなさそうです。そうした制度の別の側面は、人びとの意識のなかに現れるさまざまな世界イメージです。(P8)
  • キリスト教徒であろうが、イスラム教徒であろうが、あるいは中国や日本の大多数を占める「多神教徒」であろうが、伝統的規範と習慣の海を泳いでいるという状況に違いはないはずです。(P96)
  • 近代という時代が「宗教」というジャンルを浮き立たせ、そして個々の宗教のアイデンティティーを鮮明にし、民族的敵愾心を育て上げ、文明の衝突を演出してきた(P191)
  • 神仏や霊、死後のビジョン、儀礼的象徴行為、集団性、権威の崇拝、世界内にある実存の究極の意味づけ、救済・・・と、「宗教」固有の持ち分というものがあるようにも思えるのですが、その実態は世俗的日常世界に融合しており、こうした要素の切り出しの論理そのものが、その生活実践上の意味合いそのものが、伝統ごとに、社会ごとに、時代ごとに異なっている以上、そこに最終的な裁定を下そうなどと試みるのは無駄なことなのではないか?(P228)
  • もろもろの伝統のなかから「宗教」というカテゴリーあるいはアイデンティティーをデジタルに切り出したのは、近代西洋のロジックだったのではないか?このロジックが、それを個人の内面的な精神世界であるというふうに規定したのではないか?・・・そしてついに、それは表社会に出現することを禁じられ、人びとは社会の運営を完全に資本主義的福祉国家・管理国家・国民国家の精緻な官僚的システムにゆだねるように躾られたのではないか?つまり伝統は「宗教」にされ、「精神世界」にされたあげくに「ヤクザ」なものとして非合法化されたのではないか?(P231)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年10月 8日 (月)

ならまちを歩く/ならまち再訪

 奈良女子大は近鉄奈良駅から北へ5分。通りの中に古い商家が散見される東向北商店街を抜けてすぐ。東側正門の右手に守衛室、正面に重要文化財の本館がやさしく来訪者を迎え入れてくれる。花形の文様と若草色のリズム感ある外観がやさしい。

 続きは、(遊)OZAKI組 まちなみ・あれこれからどうぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 7日 (日)

ローマ人の物語11 終わりの始まり

 五賢帝の時代が終わると、いよいよローマは滅亡へと時代の坂を下り始める。しかし塩野氏はローマ衰退の兆候は既に五賢帝のうちの4代目、アントニヌス・ピウスの時から始まったと言う。ハドリアヌスが皇帝就任中の大半を辺境を巡り防衛線の強化に務めたのに対して、アントニヌス・ピウスは全くローマから出ることなく内政に務め、何も問題が起こることのないままその生涯を終える。そしてマルクス・アウレリウスである。五賢帝最後の皇帝として評価の高いアウレリウスだが、その治世中はまさに問題が噴出する。それもこれも先代のピウスの時代に十分なメンテナンスをすることなく、かつ大過なく過ごしてしまったゆえではないか、と推測する。
 辺境からの蛮族の進出やパルティア王国の反乱にもマルクス・アウレリウスはねばり強く対応する。しかし、アウレリウスもピウス同様、皇帝に就任するまでローマから出ることなく、軍隊も知らずに育ってしまったゆえ、的確な対応ができていたかと言えば疑問符を付ける。しかも世襲した皇帝コモデゥスの悪政の数々。コモデゥスが12年の治世の末、暗殺されると、いよいよローマは内乱の時代を経て、衰退の坂を転げ始める。
 本書はアントニヌス・ピウスからマルクス・アウレリウス、コモデゥスを経て、セプティミウス・セヴェルスまで、時代にして紀元138年から212年までの約75年を描く。これを読みながら、安定し平和な時代にどたばたとした愚政を繰り広げる日本の政局を思った人も多いのではないか。先人の遺産は果たしていつまで保つのだろうか。コモデゥスの後の内乱を経て登場する日本のセプティミウス・セヴェルスは一体どんな政治を展開するのだろう。さて今の日本はどの段階?

  • 私には、アントニヌス・ピウスという皇帝は、目先のことの処理ならば見事にやってのける優秀な官僚ではあったろうが、晴天の日に翌日に降るかもしれない雨の準備をするという、政治家ではなかったと思えてならない。(上・P163)
  • 疫病の流行とそれにともなう社会生活の沈滞と、北方から迫る蛮族の脅威は、ローマ人の心を暗く重く変えつつあった。(上・P181)
  • ローマ人はmはじめから大帝国をつくろうと意図して征服を進めたのではなく、防衛強化を考えて軍事行動をつづけていくうちに、自然に大帝国をつくってしまった、と言っても、それは冗談ではない。(中・P114)
  • 「ミリタリー」は戦争のプロなので、始めた以上は最後まで行く戦いでないと、もともとからしてはじめないのだ。意外にも「シビリアン」のほうが、戦争のプロでないだけに、世論に押されて戦争をはじめてしまったり、世論の批判に抗しきれずに中途半端で終戦にしてしまう、というようなことをやりがちなのである。(中・P150)
  • もしかしたら人類の歴史は、悪意とも言える冷徹さで実行した場合の成功例と、善意あふれる動機ではじめられたことの失敗例で、おおかた埋まっていると言ってもよいのかもしれない。(下・P108)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »