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2008年1月

2008年1月31日 (木)

風の歌を聴け

 「村上春樹にご用心」では、村上春樹の初期の3部作、「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」からの引用が多かった。羊男や鼠、ジェイバーには覚えはあったが、どういうストーリーだったか、さっぱり思い出せないので、実家に帰った際、この本を引っ張り出してきた。読み返してみると、そう言えば昔読んだかな?
 内田樹は、基本的に村上春樹の小説は、平々凡々な日常を送る主人公が不条理な出来事に巻き込まれ、人生ってそんなもんだよねと日常に戻る話、と説明しているけど、この初期作品「風の歌を聴け」では、主人公の僕は特別わかりやすい不条理な事件に巻き込まれるわけではない。でも鼠や小指のない女が、僕に知らないところで何かに巻き込まれ、そして僕のところへ戻ってくる。僕は少しドギマギするけれど、ちょっと刺激的な夏も終わり、東京の大学に帰っていく。そんなまったり感とドキドキ感とクールさと温もりが村上春樹らしくてイイ。
 さて次は「1973年のピンボール」を読もう。

  • 僕の書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。(P7)

 何となく、「星の王子様」の書き出しを思い出す。次もいかにも村上春樹らしい表現、二つ。

  • パチン・・・OFF。(P31)
  • 店の中には煙草とウィスキーとフライド・ポテトと脇の下と下水の匂いが、バウムクーヘンのようにきちんと重なりあって淀んでいる。(P44)

 次は、村上春樹が小説を書き始めた動機か?  風に託したものとは何か?

  • 時が来ればみんな自分の持ち場に結局は戻っていく。僕だけは戻る場所がなかったんだ。・・・「これから何をする?」・・・「小説を書こうと思うんだ。(P113)
  • 文章を書くたびにね、僕はその夏の午後と木の生い繁った古墳を思い出すんだ。そしてこう思う。蝉や蛙や蜘蛛や、そして夏草や風のために何かが書けたらどんなに素敵だろうってね。(P115)
  • あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることができない。僕たちはそんな風にして生きている。(P147)

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2008年1月29日 (火)

メキシコの青い空

 NHKの名スポーツアナウンサーであった山本浩氏が振り返るサッカー実況20年の記録。タイトルは山本氏が担当したW杯メキシコ大会アジア地区最終予選、国立競技場で行われた日本対韓国戦の有名な最初の一言に由来する。「東京・千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいているような気がします」。木村和司の伝説的なフリーキックが生まれたこのゲームから、ドイツW杯決勝戦のフランス対イタリアまで、山本氏が担当したサッカー実況でのコメントを随所に挟みながら、この20年間の日本サッカーの歴史を振り返る。
 この日本対韓国戦に始まり、マラドーナの神の手ゴールと5人抜きで有名なW杯メキシコ大会のイングランド対アルゼンチン戦、93年のJリーグ開幕戦であるヴェルディ対マリノス、同じく93年W杯アメリカ大会アジア最終予選の最終戦日本対イラクで起きたドーハの悲劇。97年日本がW杯初出場を決めたW杯フランス大会アジア地区第3代表決定戦日本対イランのジョホールバルの歓喜。W杯フランス大会の日本初戦アルゼンチン戦、そして3連敗を喫したジャマイカ戦。さらにフリューゲルス最後のゲーム、99年天皇杯決勝でのエスパルスとのゲーム。W杯日韓大会日本初戦にして初めての勝ち点を上げたベルギー戦、その決勝ドイツ対ブラジル戦。反日行動の嵐の中で行われた04年アジアカップの決勝日本対中国戦。さらにW杯ドイツ大会の決勝フランス対イタリアまで、山本氏が担当したゲームを数え上げるだけで、日本サッカー史は十分語り尽くすことができる。
 本を読みながらその当時のゲームや感動を思い出す。後藤健生氏などが書くサッカー史とはひと味違ったサッカーの歴史を感じることができる。アナウンサーならではの実況技術の解説も興味深い。フランスW杯組合せ抽選会の日本Hグループの謎も初めて聞いた話で興味を引く。

  • 名前を伝えることでスポーツの持つリズムも伝えることができるのだ。プレーのレベルが高ければ、選手の名前を口にするだけでスポーツの醍醐味の一部分、優れたチームの持つリズムを味わえる。(P24)
  • 忘れてならないのが眼前で演じられているプレーのグレードを超えた実況をしてしまうこと。・・・無用な盛り上げの気持ちが、こうしたしゃべりすぎの屋台骨を支えている。試合は盛り上げるものではない。それなりの試合はひとりでの盛り上がるのだ。(P68)
  • ゴール前はただでさえ接触プレーを避けられない地域だ。・・・そこで見せる技術は並大抵のレベルではすまない。ぶつかられても、蹴られても引っ張られても自分の考えたプレーを正確にトレースできる。それが本来「技術がある」というものだろう。(P144)
  • コメントを数字で始める。そんなときにはちょっとした魔力がうまれる。無機的で短い単語。切れ上がりの良い発声。何よりもあたりに漂うふわふわしたものを引き締める力がある。・・・時間を伝える数字にはそこに流れるものを一瞬静止させる効果がある。流れる映像が、印象深い1枚の写真になる。(P152)
  • 組織委員会は日本をグループHにあらかじめ入れるつもりだったのではないか。・・・私はいまだに、日本初のW杯、対アルゼンチン戦は最初から仕組まれていたのだと思い込んでいる。(P184)
  • 私達は忘れないでしょう。横浜フリューゲルスという非常に強いチームがあったことを。東京・国立競技場、空は今でもまだ横浜フリューゲルスのブルーに染まっています。(P230)

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2008年1月23日 (水)

「法令遵守」が日本を滅ぼす

 1年ほど前に発行された本で、一時書店に平積みされていましたが、最近はあまり見かけなくなったカナ。友人から借りて読みました。著者が言いたいことを要約すれば、「今の日本では、法令と社会実態とが遊離しているので、社会的要請に応えた将来に向けて継続する組織体とするためには、法令遵守だけでは不十分であるし、時に組織を破滅に導く恐れさえある。コンプライアンスという言葉がかびすましい今の時代だからこそ、法令遵守だけにとらわれず、社会的要請をしっかり捉えた的確な組織運営を行っていく必要がある。」といった感じだろうか。
 日頃からコンプライアンス(法令遵守)という言葉に違和感を持っていただけに、非常に素直に受け入れることができた。談合問題、ライブドア等の経済事件、耐震偽装事件、パロマ事件などを題材に、高度経済成長期に談合制度が果たしてきた役割などを的確に評価しつつ、マスコミや行政の機能不全が法令遵守だけを問題にするいびつな現状を助長していると指摘する展開は説得力がある。「日本は法治国家か」「日本の法律は象徴に過ぎない」といった各章のタイトルも鋭く興味深い。
 では処方箋はというと、「環境変化を迅速に感知し適応できる組織になれ」という一般的な組織論になってしまうのはしょうがない。それぞれの組織や課題に応じて、異なった処方箋があり、それが正しいかどうかは「進化」の歴史が証明するのだろう。今の時代、それがわからないのがもどかしい。

  • 競争は常に万能で、あらゆる場合に善かというと、そうではありません。競争がその機能を発揮するのは、取引の当事者に情報が十分に与えられ、自己の責任で判断できる場合です。(P37)
  • 建築の安全性を確保することに関して建築基準法という「法令」がいかに実態と乖離していたかを認識し、建物の安全を確保するシステム全体を見直していかなければ、根本的な問題解決にはなりません。(P84)
  • 大切なことは、細かい条文がどうなっているということを考える前に、人間としての常識にしたがって行動することです。・・・本来人間がもっているはずのセンシティビティというものを逆に削いでしまっている、失わせてしまっているのが、今の法令遵守の世界です。(P103)
  • 民から切断された官の世界は、法令の「内的世界」で自己増殖を続けているように思います。官僚は、自らが国家公務員倫理法の遵守を徹底する代わりに、民間企業には法令の遵守を徹底するように求めます。その法令が経済実態と乖離してしまうことが、法令遵守の弊害を一層大きなものにしているのです。(P112)
  • 私は、コンプライアンスを「組織が社会的要請に適応すること」と定義しています(P114)

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2008年1月22日 (火)

椿の頃、陶都とこなめに遊ぶ

タウンキーピングの会 - 2008.2.2~3 -

椿・焼きもの・常滑をテーマに、生花・陶芸・アートの展覧会が同時開催

詳しくはこちらをどうぞ 椿の頃、陶都とこなめに遊ぶ

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2008年1月19日 (土)

東京奇譚集

 文庫版が12月1日に発行。内田樹の「村上春樹にご用心」を読んだから、次はこの本。全部で5編の短編集。最初の「偶然の旅人」は鼻梁をなでる癖のある二人の女が同じ病で入院手術する偶然の話。面白く心に染み入るけど、期待したほどもなくあっさり終わりを告げる。村上春樹ってこんなんだったっけ、と思う。
 2作目「ハナレイ・ベイ」。おしゃれでいい話。3作目「どこであれそれが見つかりそうな場所で」。でも結局見つけることはできずに話は終わる、中途半端感。「日々移動する腎臓のかたちをした石」。主人公の書く小説と現実の恋人との離合がシンクロする。そして最後の「品川猿」も、名前を忘れるという現在と寮生活時代の過去が猿を媒体にしてつながるという話。
 全てを読み終えてみると、5編には共通の通奏低音が流れており、そのことは1作目の最初に書かれていた。人生に何らかの影響をもたらしたり、または何の影響もなかった「不思議な出来事」。時や場所やときに小説と現実など全く別のところで進行している事柄が偶然のようにシンクロするという物語。その後、何もなかったかのように時はまた日常を継続している。これを内田先生のように、雪かき仕事と邪悪なものとの邂逅と捉えるのも分かるけど、必ずしも邪悪ではない「不思議な出来事」。でもオカルトでもない。人生ってそんなもの、という感覚。

  • 実のところ僕はオカルト的な事象には関心をほとんど持たない人間である。・・・まったく信じないというのではない。その手のことがあったってべつにかまわないとさえ思っている。ただ単に個人的な興味が持てないというだけだ。・・・ただそれらの出来事をとりあえずあるがまま受け入れて、あとはごく普通に生きているだけだ。(P16)
  • 偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。(P47)
  • 彼女にわかるのは、何はともあれ自分がこの島を受け入れなくてはならないということだけだった。・・・私はここにあるものをそのとおり受け入れなくてはならないのだ。公平であれ不公平であれ、資格みたいなものがあるにせよないにせよ、あるがままに。(P90)
  • この世界のあらゆるものは意思を持っているの・・・彼らは私たちのことをとてもよく知っているのよ。どこからどこまで。・・・私たちはそういうものとともにやっていくしかない。(P166)

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2008年1月18日 (金)

アメリカ西海岸諸都市・デザインガイドラインとデザインレビューボード

 昨年9月にアメリカ西海岸の諸都市、サンフランシスコ、シアトル、ポートランド等を調査旅行されてきた先生からその概要をお聞きする機会があった。まずはスライドに映る街並みや住宅の美しさに目を奪われたが、その美しさもさることながら、先生が調査されてきたデザインガイドラインとデザインレビューボードの話が興味深かった。
 基本的にはシアトルの話として聞いたが、ポートランドなどでも同様らしい。アメリカといえばゾーニング条例による詳細な土地利用・形態規制があるが、例えばシアトルでは市内を7地区に分けてデザインガイドラインが定められており、ゾーニング規制には適合しなくてもデザインガイドラインに即して適当と認められる建築物は建築が許可される仕組みとなっている。この適用を受けたい施設や一定の条件に該当する施設は地区毎に設置されたデザインレビューボード(委員会)の協議でデザインガイドラインとの適合を認めてもらう必要がある。市役所の会議室で夕方に開催された委員会には、コミュニティ代表、デザイン専門家、開発事業者代表、地域住民代表、地域経済界代表と建築家の6名の委員が参加し、事業者からのプレゼンテーション、質疑応答と審議が、地域住民等が参加する一般公開の中で行なわれた。こうした委員会は月2回開催され、年間200件ほどの審議を行う。1件につき概ね3~4回のレビューが行われるとのこと。30~50人ほどもいると思われる傍聴者からの発言はなかったとのことだが、地域住民の前で公開審議をすることは、地域への関心や帰属意識の高揚、住民参加を担保する点で大いに意味がある。
 その他にも、シアトル市のアーバンビレッジ戦略やポートランド都市圏のTODによるオレンコステーションの開発などの話も聞かせてもらったが、いずれもゾーニングで厳しく規制する一方で、デザインガイドラインによる柔軟な対応が図られており、その合理性・柔軟性に感心した。
 最後にこの違いは何故だろう、という話になり、日本の急速な都市化とそのタイミングの問題(成長期に十分な都市基盤整備を行うことができなかった)やアメリカが依然人口増加を続けていること、また日本の細分化された土地利用の問題(権利変換に莫大な費用)などの意見が出されたが、そもそも意見調整に対する意識の違いというのもあるかもしれない、と思った。すなわち、人種が多様なアメリカでは利害調整の難しさとルール(主張と譲歩)が共通意識として培われているのに対して、お上の国・日本では正しいことは一つという感覚があり、是か非かの議論になりやすい土壌があるのではないか。それが数値だけで規定する法規制や判断を要しない基準化を推し進めているような気がする。都市計画に柔軟な仕組みというのは本当に必要だと思う。もちろん開発側・保全側双方が公正な立場に立って。

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2008年1月16日 (水)

村上春樹にご用心

 村上春樹は好きで文庫本になったものは全て読んでいるが、読んだ端から忘れるので昔のものはタイトルを除いてはほとんど覚えていない。内田先生の村上春樹論を読むにあたっては、正月にでも実家に置いてある段ボールからいくつか村上春樹を取り出して来ようと思っていて忘れた。手許に村上春樹本がない中でこの本を読み出すのはけっこう不安だったが、読み始めてみると何のことはない。内田先生がブログを始めあちこちで書いてきた文章を「村上春樹」で検索・抽出してグルーピング、セレクトして必要な加筆を加えて出来上がったのが本書。
 すなわち村上春樹批評本ではなく、村上春樹を引用して内田先生が書いた文章を集めたもの。もちろん、「村上春樹は実はこんなことを言いたいんだよ。」といったやさしく本質を突いた批評もあるが、村上春樹を事例の一つとして引用しました、といった文章もあって、それはそれで面白い。これならそんなに構えて読み始める必要はなかった。でもやっぱり「羊をめぐる冒険」や「「風の歌を聞け」をもう一度読んでみようかとも思った。だって面白そうなんだもん。
 第1章は「翻訳家・村上春樹」。「翻訳とは憑依することである」といった翻訳論を収録。第2章は「村上春樹の世界性」。なぜ村上文学は世界性を獲得できたのか。翻訳しても意味が変わらないことなどを示しつつ、その世界性を語る。第3章は「うなぎと倍音」。ここでは村上文学の魅力の源泉はその倍音性と「うなぎ」性にあると説く。第4章は「村上春樹と批評家」。村上春樹はなぜ日本の批評家に評価されないのか、憎まれてさえいるのか、という問いを対する内田先生の考えを示す。加藤典洋の「村上春樹 イエローページ2」の解説でもある「『激しく欠けているもの』について」が出色。最終章は「雪かきくん、世界を救う」。最後は、肩に力が抜けた気楽なエッセイが並んで、読者をやさしく日常生活へ送ってくれる。でもけっこう村上春樹の本質を突いているところがすごい、というか面白い。
 ということで、とても楽しいいつもの内田本でした。よかった、よかった。

  • 誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないと、あとで誰かが困るようなことは、特別な対価や賞賛を期待せず、ひとりで黙ってやっておくこと。そういうささやかな「雪かき仕事」を黙々とつみかさねることでしか「邪悪なもの」の浸潤は食い止めることができない。(P66)
  • 文学性とはそれが読者にもたらす「私たちは選ばれた読者であり、このマジョリティを形成するものたちとは別種なのだ」というアイデンティフィケーションの「効果」のうちにあるのです。(P145)
  • 村上春樹は、「私が知り、経験できるものなら、他者もまた知り、経験することができる」ことを証明したせいで世界性を獲得したわけではない。「私が知らず、経験できないものは、他者もまた知り、経験することができない」ということを、ほとんどそれだけを語ったことによって世界性を獲得したのである。/私たちが「共に欠いているもの」とは何か?/それは・・・端的に言えば「死者たちの切迫」という欠性的なリアリティである。・・・/村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。(P183)
  • 「自分がものを知らず、知っていることについても不完全な推論しかできない人間であることを知っている」ことだけが「より正しい推論」に至るための唯一確実な道である(P195)
  • 心を鎮めて考えれば、誰でも分かることだが、私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、懲戒的な要素もない。それらは、何の必然性もなく私たちを訪れ、まるで冗談のように、何の目的もなく、ただ私たちを傷つけ、損なうためだけに私たちを傷つけ、損なうのである。/村上春樹は、人々が「邪悪なもの」によって無意味に傷つけられ、損なわれる経験を淡々と記述し、そこに「何の意味もない」ことを、繰り返し、執拗に書き続けてきた。(P210)
  • 家族を条件づけるのは、「共生」や「充足」ではなく、「欠落」と「不在」なのだ。(P232)

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2008年1月14日 (月)

日本語は天才である

 娘が学校で薦められて図書館で借りてきた。なかなか読まない娘に代わり読了。「高校生にも読めるように」書いたとあるとおり、楽しく読みやすい、かな。まあまあ。筆者の柳瀬さんは、根室出身の英文学者で、J・ジョイスなどの翻訳がある。
 第1章は、英語の言葉遊びをいかに日本語に訳すか、という話。onionに穴二つ。ところがたまねぎにも穴二つ。ほら、「ま」と「ね」の中に。素晴らしい。第2章は漢字と日本語の関係。漢字からひらがなが生まれ、国字が中国に渡り中国語に取り入れられる。第3章は、日本語には侮蔑や悪態の言葉が少ないという話。第4章は敬語。第5章はルビ。第6章は方言。第7章は「しち」と「なな」について。第8章はいろは48文字を1回ずつ使った筆者創作の言葉遊び、アナグラム。
 ひらがな、カタカナ、漢字、記号、ルビ、外国語、なんでも取り入れ消化する。1字に必ず音が付くので並べ替えも自由自在。そんな日本語を筆者は「天才」と讃えます。たしかに、なかなか、面白い。

  • 日本語は胃袋が強い。そういう横文字記号を受け入れても、胃痛や胃痙攣を起こしたりしない。むしろ、使い方次第でたいへん便利な筆記具を手に入れたわけです。(P82)

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2008年1月12日 (土)

ニュータウンの再生・活性化

 戦後高度成長期に開発されたニュータウンの再生・活性化が昨今の大きな課題の一つとして取り上げられることが多くなってきた。千里ニュータウンの「千里すまいを助けたい!」や多摩ニュータウンの「フュージョン長池」などのNPO活動が注目され、国土交通省は住宅市街地総合整備事業の採択要件にニュータウン再生を加え、兵庫県では明舞団地の再生に取り組んでいる。各地の自治体で同様の模索が始まっている。
 私が住む春日井市でも高蔵寺ニュータウンの再生・活性化に向けて検討を始めたようだが、まだ明確な方向が示されるまでに至っていない。住民の間でも、施設の老朽化や空き家・空き地の発生が目に付き始めた状況から、市やURの施策を期待する声が聞かれるようになってきた。しかし一方で、旧市街地と較べれば、公共公益施設の整備水準は高いし、住民の所得水準も高く、現段階で旧市街地を差し置いてニュータウンに注力する必要性が見出しにくく、また具体的に実施すべき施策も分かりづらい。
 そんな話を昨日開かれた安住の会の新年会でしていた。急速な高齢化・少子化や空き家の大量発生など、ニュータウン独自の課題があるのではないか、という意見も間違ってはいないが、既に高齢化・過疎化してしまった旧市街地と比較すれば、予防よりも治療の方が重要という意見を覆すのに十分な説得力を持っているわけではない。
 しかし色々と話している中で、ニュータウンが達成したものがある一方で、いまだ達成していないものがあることに気付いた。旧市街地にありニュータウンにないもの。それは人と人のつながり、それも頼り頼られることを当たり前とするような深い地平での心のつながり。同様に土地への愛着心、郷土愛、共生の一体感、歴史、そして慣習や因習といったもの。それらはサービスやモノがあふれるニュータウンにあってけっしてカネで取得できないもの。その価値を価格や数量では計ることはできないけれど、人を人たらしめ、社会と人間の生や心を底辺で支えているもの。ヒト存在の根。
 ニュータウンはまだ普通の街になりきれていない。ひょっとしたらニュータウンで生まれ育った子供たちが成人し生活を始めた地区では普通の街へのスタートを切っているのかもしれないが、多くの若者は新しい街や都心に飛び出し、ニュータウンには心の芯をもがれた入居者だけが取り残されている。もちろん、普通の街で生まれ育った記憶を持ち寄り、普通の街にする努力はニュータウンのあちこちで行われ積み重ねられているだろうが、始めからあった旧市街地とはその厚さが違う。
 ニュータウンを普通の街にするための支援。それこそがニュータウン再生・活性化の意味ではないか。そのために何をするか。どうするか。それを考える必要があるのだと思う。さらなるサービスやモノの集中投下は必要ではない。

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黄色い忠誠心

 正月に今年81歳になる義父からこの私家版論文集をもらった。プリントアウトして手製のB5版147ページの冊子。「忠誠」は従属や奴隷と同義語だとして、アメリカの星条旗への忠誠や企業の忠誠訓などを批判し、日本のアメリカへの隷属関係を批判する。こうした社会体制の変革を促す梃子となるのが情報公開であり、著作権法は民主化や進歩を遮る障害として非難する。こうした基本姿勢の下、現代の政治や宗教、国際情勢、皇室、経済界などを縦横無尽に壟断する。時折引用される吉田兼好や福沢諭吉、戦争前後の思い出話などが興味深い。
 でも、義父にこんな冊子を作らせた専らの動機は、定年間近に転職し数年前まで勤務していた企業への私怨らしい。義父は東大卒業後、生涯を技術研究開発一筋で生きてきた人であり、晩年には博士号まで取得しているが、その成果に見合った待遇を得なかったという思いがあるのだろう。金銭的ではなく精神的な空虚感。技術者が日本の現代社会でいかに精神的に冷遇されているか。人類の共通資産として受け継がれていくべき研究開発が私欲により廃棄される実態。近視眼的な成果や効率を重視する現代社会の軋み。いかに幸せに遠い社会であることか。

  • 異民族支配を恒常的なものにするためマヌの法典が纏められました。その後、従属者自らが、従属を昇華させて作った誓いが忠誠なのです。被支配者は自ら進んで命を捧げて支配者に従属するよう昇華しています。
  • 人の一生の間ではいくら頑張ってもどうにもならないような世襲的な大差を格差と呼びます。差は競争の結果生まれるもの、格差は競争が成立しない仕組みの差です。
  • 経営者は、従業員の個人情報まで、全てを所有しています、会社における忠誠、従属はこの違法の差から育ちます。会社の専制、忠誠、従属の強要は情報の占有、閉鎖、隠蔽、操作から作られると言うことです。

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2008年1月 7日 (月)

古道具 中野商店

 年末のブックオフで105円で売っていた。定価は1400円。2005年発行なのにわずか3年で105円。川上弘美にはしばらく前から関心があったので、いい機会と購入。正月休みはこれを読んで過ごした。
 正月に読むような景気のいい話でもない。中野商店という名の古道具屋を舞台にまったりと進む若い男女の恋愛話。主役が本当にヒトミとタケオという二人なのかどうかはよくわからない。本当は「中野商店」かも。やる気があるのかないのかわからない店主の中野と恋多い芸術家の姉・マサヨ。二人を巡る異性たち。サチヨさん、丸山さん・・・。
 川上弘美の作風はうかがい知れた。女性らしく繊細でやさしく上手。小川洋子のように設定から飛びぬけるのでなく、日常の中で展開する話が得意? 1作だけではなんとも言えないね。しばらくは書店の文庫本を立ち読みしてみよう。

  • ヒトミさんも、生きていくのとか、苦手すか。(P67)
  • 「もう会わないからね」・・・なぜ自分が咄嗟にあんなことを言ってしまったのだか、ぜんぜんわからなかった。蜂がまた入ってくる。さきほどのようにすぐには出てゆかず、店じゅうをぶんぶん飛びまわる。(P143)
  • 好きをつきつめるとからっぽな世界にいってしまうんだな。わたしはぼんやりと思った。(P179)

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居住福祉の考え方

 これは考察ではなくて、「住宅」2007年12月号からの引用。すなわち備忘録。元はさらにビデオや書籍からの引用。
 これをこのまま日本の公営住宅のあり方に適用するのは無理があるとは思うが、どこかに糸口が隠されていないか?

  • インド出身の経済学者アマルティア・センは、彼の「自由しての開発」理論を基礎に、次のように語っている。「ベーシックニーズ型の発想の誤りは、人間をエージェント(agents:行為主体)ではなくペーシェント(patients:ケアの対象)として扱ったことである。人間は変化へのエージェントでもある。君がスラムの人たちを前にして考えるべきことは、彼らのニーズは何か、ということではなく、もし彼らが本来の力を発揮する自由を与えられたならばどう行動するか、ということ、そして君はどのようにしてその自由を拡大できるか、ということである。」(P11)
  • 「ハウジングはプロセスであり、重要なのはどの様な家が建つか(What it is)ではなく、建てることで住民に何をもたらすか(What it dose)である。」

 2007年以前のログは、(遊)OZAKI組「STOCK YARD」

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2008年1月 3日 (木)

チーム・バチスタの栄光

 今年の年末年始は、この本を読んで年を越した。「このミステリーがすごい」大賞を受賞し、単行本でもベストセラー、この冬にはついに映画化もされるという傑作である。某アルファ・ブロガーが絶賛しているのを読み、書店で平積みされていたのをついつい購入してしまった。噂に違わぬ傑作、なんだと思う。ミステリーや推理小説は普段ほとんど読まないため、比較ができないが・・・。
 それでも読み始めは「なんか素人っぽい書き出しだなあ。」と思ったが、それがこの作者の持ち味なのか。全体的にユーモアがあふれ、読みやすい中に、医学界をめぐる矛盾や社会批判などが込められ、また専門用語が散りばめられるなど、なかなか複層的な出来映えになっている。ちなみに作者は現役の勤務医である。
 犯人やトリックの設定は、意外とも言えるし、それほどでもないとも言える。要するに日頃読んでいない私ではほとんど適正な評価はできないが、年越しを楽しむには十分なエンターテイメントだったる。

  • 大学病院の内部に眼を転じると、過去の医局政治のルールに従っててっぺんに登りつめた人たちが病院の舵を執っている。しかし、彼らが権力の階段を登ることに全力を傾注している間に、世の中のルールは大きく変わってしまった。ハシゴを外され時代に取り残されてしまった彼らは、世の中からのしっぺ返しにうろたえている。(上P51)
  • 大学病院には、こうしたウワサの濁流が滔々と流れている。漢字の「噂」とは違うし、平仮名の「うわさ」でもない。カタカナで「ウワサ」と表記するとしっくりくる。(上P234)
  • 建物はピカピカだが、内部の人間は死に絶えてロボットが巡回する未来都市。ひねくれ者の俺には、今の社会が邁進する果てに、そういう光景が目に浮かぶ。(下P10)
  • ささやかなきっかけ・・・さえあれば、ヒトはたやすくヒトを殺してしまう。・・・ヒトは何かを殺さなければ生きていけない生き物なんですから。(下P192)
  • 一人の殺人鬼がいたために他の医師まで同様に扱われることは不当です。本件は個人的な殺人事件です。(下P221)

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