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2008年3月14日 (金)

負ける建築

 負ける建築家・隈研吾が最近注目を集めている。それも一般誌で。遅ればせながらその魅力の一端を知りたいと、本書を手にしてみた。そして「はじめに」と第1章の「切断、批評、形式」で、その社会と建築を見抜く卓抜な視点に圧倒された。非常に面白い。最近読んだ中では圧倒的に面白い。
 この本は、1995年以降に様々な媒体で書いてきたものをまとめて作られている。1995年以降に起きた3つの出来事。阪神・淡路大震災、オウム事件、9.11事件。それらの事件が示したものは、建築の限界と脆さだった。建築は壊れるものであり、幻想である。その自明の事実から「負ける建築」という氏の主張が生まれる。
 「負ける建築」とは、今までの強く虚勢を張った建築、それへの欲望から自由になった建築。その実態は、多分、自然に根ざし、自然の中に解体消化されていく建築。
 氏の設計した建物を私はかつて一度だけ見たことがある。登米町伝統芸能伝承館。竹林の中にひそんだ建物は、既に「負ける建築」の方向性を示していたように感じる。
 そして最近の耐震偽装事件やサブプライムローン問題もまた、氏の言う強い建築、虚勢を張った建築の限界・臨界点を明示していると言える。時代は氏の予言のとおりの様相を示しつつある。建築の未来は、いや建築の真相は未来という時間軸でない位相にあるのかもしれない。たった一つの石ころという建築。

●建築は確かに嫌われて然るべき、さまざまなマイナスを有している。まず大きいこと。・・・次の要因は、物質の消費である。・・・さらに嫌われるのは、取り返しがつかないこと。・・・しかし、世界という膨大なヴォリュームと比して、建築の絶対的ヴォリュームが無視できるほどに小さい時、三つのマイナスは逆に、建築の美点そのものであった。大きさ、浪費、長寿を求めて、人は建築を作ってきたのである。(P002)
●建築はすでに溢れ、過剰であったが、それでも建築に抑制はかからなかった。・・・なぜならば・・・建設するという行為を必要としていたからである。・・・二つの強精剤がすぐにも思いうかぶ。ひとつは持ち家政策であり、もう一つはケインズが提唱した政府による財政出動であった。(P004)
●政治的には国歌対市民という二項対立、経済においてはサプライサイド対デマンドサイドという二項対立。これらはすべて形式対自由という対立構造の変奏である。・・・形式から自由へと弁証法的に移行せよという議論は、建築論においても支配的であった。(P076)
●「負ける」レトリックの裏側で、またしても建築という「結果」の強さが隠蔽される(P083)
●空間という概念も、同様に、建築の民主化における、重要な概念であった。・・・なぜなら、受け手という主体は、実態の部分にではなく、空間に棲んでいるからである。・・・そして空間への指向性の先には、表象への指向が控えていた。・・・実態から空間への転換があり、その延長上にすべては表象として出現するという表象主義があり、さらにその先に、厚みや陰影を徹底的に排除した表層的な建築表現が生まれたのである。(P102)
●世界の膨張をマネージするために建築が生み出され、視覚が命じるままに建築は高く、高くのびていった。同様に膨張によって不安定化した経済をマネージするためにケインズ経済学が登場し、政治においては世界の大きさに対する最も公平で合理的な方策としてデモクラシーが登場した。しかし・・・それらすべての方策が、・・・かつての有効性を喪失し、挙動不安定に陥っている。(P228)

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