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2008年4月

2008年4月29日 (火)

夏野菜の植付け

Hatake0805 GW中、いい天気が続く。休みの間の平日の28日、休みを取って4連休。娘は学校でどこに行くあてもないので畑仕事。JAに寄って、夏野菜の苗を仕入れてから畑へ向かう。買ってきたのは、ナス、ピーマン、キュウリにニガウリ、トマトとカボチャ。
 空いているのは2畝かなと思ったら3畝。それじゃあと、一通り植付けと雑草取りを終えた後、もう一度JAへ向かう。いろいろあって迷ったけど、サトイモとインゲン。インゲンはツルありとツルなしがあって迷ったけど、ツルありを購入。ネットで調べるとツルなしの方が美味しいと書かれている!?でもツルありの方が場所は取るけど長く楽しめるとも。うーん、どちらがよかったのかな?
 家に帰ったら、みんなはズッキーニがよかった、と言う。あ、そう。

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2008年4月26日 (土)

内田百閒

 内田百閒はいつか読みたいと思ってきた作家の一人だ。卓抜した随筆家ということは聞いていたが、書店で何度か「阿房列車」シリーズの一部を立ち読みしては、「難しそう。難しい割には意味なくつまらないかも」と購入までには至らなかった。
 今回ようやく手に取って、その面白さに脱帽。確かに面白く、そして意味もない。日常の些末な出来事や心に去来するつまらない事共を書き綴りながら全く飽きさせない。そこがすごい。
 なかでも「餓鬼道肴蔬目録」には面食らった。解説の赤瀬川原平も書いていることを繰り返すのも芸がないが、戦時中で食物が乏しい中、記憶の中のウマイ物、食べたいモノを書き記す、としてただただ食べ物の名前が延々と書き連ねられている。「とにかくシルエットとしては現代詩である」(P459)という解説文には思わず笑い出す。
 もう一つ気に入ったのは「無恒債者無恒心」。借金を重ねる自分を開き直って「お金の有り難味の、その本来の妙諦は借金したお金の中にのみ存するのである。」(P352)とのたまう。確かに百鬼園先生、ただものでない。
 根っからの随筆家かと思ったら、初期には夏目漱石の門下生にして短編小説を書いていた。この作品集にも前半の1/4程は短編小説が集められている。これがまた不思議な作品ばかりである。夢を綴ったに違いない。先日読んだ川上弘美の「椰子・椰子」と同様の奇想天外な話がいくつも集められているが、いずれも夢のように不思議な感慨を残してすっと消え去っていく。「山高帽子」や「サラサーテの盤」のような私小説もなかなか味があって、しかし切れのいいビールのように嫌な後味を残すことなくすっきりと消え去る、読み心地の良さ。
 こうした切れや読み心地感こそが内田百閒の神髄かと思う。面白い。

●私は早く飯が食い度くて堪らない。けれども、山東京伝は、食えとも何とも云ってくれない。食えとか何とか云うのが、厭なのかも知れない。そうだと、無闇に遠慮しているのは、却って悪いかも知れないから、食おうかと思った。けれども、そうでないのかも解らない、今丁度食えと云おうとして居るところかも知れない、すると私が無遠慮に箸をつけるのも、亦よくない。(P20)
●西の空の果てまで晴れ渡っているので、夕日が赤赤と辺りを照らしているのに、何となく物の影が曖昧で、道端の並樹も暗い様であった。(P229)
●厭うべきはお金である。お金があっては、道を修め、徳を養う事は出来ない。・・・自分が汗水たらして、儲からず、乃ち他人の汗水たらして儲けた金を借金する。その時始めてお金の有難味に味到する。(P352)

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2008年4月21日 (月)

団地が死んでいく

 著者名を大山顕氏と勘違いして思わず手に取った。大山顕氏とは住宅都市整理公団のサイトで有名な団地マニアだが、こちらの大山眞人氏は老人問題など取り上げているノンフィクション作家。自ら市営住宅に居住し、最近団地内で発生した孤独死事件から団地の問題に目覚めた、とのこと。
 「『孤独死』にいたるにあたっては、・・・住宅そのものにも大きな原因があるのではないかと推測した。・・・つまり『団地が孤独死を生んでいる』とはいえないだろうか。」(P15)という推測のもと、団地問題に立ち入っていくのだが、ハード的な要因も少しは指摘されるものの、結局最後は「孤独死予防の最善策は、『コミュニケーションの確立』しかない。」(P193)という結論に落ち着くわけで、当たり前といえば当たり前。もちろんその目的を達成するためには、事業者側の努力だけでは足りないが、事業者側の配慮も必要。この結論に落ち着くまでに、公営やURの建て替え団地や建て替えられなかった団地のレポート、日本の住宅施策の歴史の研究や同潤会アパート調査、各地の孤独死予防施策の研究などを行っており、著者の勉強におつきあいしながら総括的に勉強できるのは、多少は意味あるかも。それにしても最初の推測に基づく偏見におつきあいしていくのは結構不快でもある。
 ということで、推薦はしませんが、こんな本もありました、という紹介です。

●さらに2DKなら玄関扉脇に窓があるが、1DKは扉だけ。玄関からなかの様子をうかがうことは不可能だ。つまり構造的な問題が「死角」を生んでいるのだ。(P55)
●閉じこもりは孤独死につながる。村は民生委員を通じて接触を図るが、なかなか応じてもらえない。そこで考え出したのが、「子どもヘルパー」の存在だ。(P158)

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2008年4月20日 (日)

名古屋都市圏の住宅と住宅地のいまとこれから

 今年から都市住宅学会に入会した。もちろんその存在は知っていたが、設立時の経緯が国交省中心で声は掛かったもののしばらく様子見ということで数年が過ぎた。今回入会したのは、現会員のみなさんの強力な勧誘ということもあるけれど、その活動の活発さに惹かれた、ということが大きい。これまで建築学会東海支部住宅部会で県内各地の見学会を開催・参加してきたが、気が付いてみれば、その主要なメンバーが都市住宅学会に移動し活発な活動を展開していた。今回、中部支部の総会・研究発表会に参加し、改めてその活動の多様さ、活発さに驚いた。
 今回の研究発表会では、支部内に設けられた自主的研究組織である住宅市場研究会の3つの部会、郊外住宅地部会、賃貸住宅部会、住宅再生部会のそれぞれの研究報告が行われた。
 郊外住宅地部会では名城大の海道先生を部会長に、郊外住宅地の空地・空家調査に取り組んでいる。海道先生の報告の中では、アメリカ計画協会の「計画・アーバンデザインハンドブック」からの「土地利用変化のライフサイクルモデル」の紹介が興味深い。成熟期の土地利用コントロールが非常に重要、という当たり前の話ではあるけれど。続いて岐阜高専の二人の学生による岐阜市内郊外団地を対象にした調査研究発表が行われ、想像以上にしっかりした研究内容に感心した。大規模団地ほど空地・空家が少なく、小規模・孤立団地ほど深刻という指摘はなるほどと思う。
 賃貸住宅部会からは、まず始めに部会長の名城大・鈴木先生から住宅・土地統計調査と着工統計の分析による名古屋都市圏の賃貸住宅市場動向の分析、続いて東海学園大学の三宅先生から人口構造変化から見る民間賃貸住宅市場に対する知見報告があった。両者が共通して2000年以降の「需要なき供給」の反動を危惧していたことが注目に値する。海道先生による住宅情報誌の分析による詳細な賃貸住宅実態も興味深い。
 住宅再生部会からは、始めに椙山女学園大の村上先生による部会活動報告があり、多様なメンバーによる広範な分野を対象にした活発な活動状況にまず驚いた。青木茂氏のリファイン建築「リベラほうしょう」見学会など、ぜひ参加してみたかった。後半は同じ椙山女学園大の橋本先生による中古住宅の価値評価に関する研究発表。住宅の価値評価項目に対する事業者・居住者に対する調査等を元に、どういった項目(構造、日当り、バリアフリーなど)の評価が高いか、などを研究している。住宅性能表示の各項目の他に間取りや収納などのその他項目まで調査しているのは興味深いが、現段階ではまだ現状分析に過ぎず、今後これをどうまとめ、共通理解と将来展望のある中古住宅価値評価システムに組み立てることができるのか、乞うご期待。
 短い時間の中で駆け足でそれぞれの研究成果を聞くことができ、その点ではちょっとお得な特盛りパッケージ報告会。これまで学会大会に参加したこともないのでどう評価していいのかわからないが、研究者にとってこの学会が各自の研究に対する起爆・促進効果を与えているとすればよいことではないか。われわれ研究者以外の者にとってもこうして最新の研究動向を知り、研究者の方々と関わりを持てることは意義がある。特に中部支部は中心メンバーの意欲と人徳によるメンバーの多様さから、独創的かつ活発な活動が展開されているとのことで、これからのさらなる発展が期待される。そこに私がどう関わることができるのか、私自身、仕事も含めて新しい局面に入っていることを予感させる。さてどうなることか。

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2008年4月16日 (水)

地域の力

 副題に「食・農・まちづくり」とあるように、国内の食や農を中心とする各地域の自立的なまちづくりを紹介している。全部で8章。第1章は島根県雲南市の酪農を中心とする地域自給のまちづくり。第2章は相生市、四日市などの商店街の取り組み。第3章は徳島県上勝町の「いろどり」の活動。第4章は愛媛県今治市の学校給食を核とした食育と地産地消の取り組み。第5章では北海道における地域に根ざした畜産と有機農業推進行政。第6章では高知県檮原町等の林業における取り組み。第7章は富山県富山市のLRTと高岡市の三セク。そして第8章では東京都練馬区の体験農園の事例等を紹介している。
 高齢者がつまものの栽培採取を行い事業として成立させている「いろどり」の取り組みや富山市のLRTなどは最近有名なので、他の雑誌等でも読んで知っていたが、著者の専門分野である食と農の様々な取り組みもどれも興味深く面白い。特に第4章の学校給食の取り組みは、本来の食育のあり方を問うものであり、最近の食育基本計画等を眺めて「なんだこれ?」と感じていた私としては、「こういう意味の食育であればわかる!」と納得のいくものであった。
 この本は、地域活性化のための事例集ではなく、自給率が最低であり、今になって食の安全に色めき立っている日本にとって、食とは何か、農とは何かと問う啓発の書と言える。私も家庭菜園を始めて数年になるが、改めて勇気づけられた思いがした。これからもがんばろうっと! 肩を無理しない程度に、ね。

  • 「商店街はまちに根を張っている植物で、大型店やチェーン店は獲物を求めて生きる動物です。動物が来て、食い荒らし、植物を枯らして去っていけば、まちは荒廃します。でも、植物が自分の役割をきちんと果たし、林や森をつくっていけば、まちは残れるでしょう。(P43)
  • 「地産地消とは、地域の自然のなかで、いのちの循環をつくり出すもの」であり、農業は地域の風土のなかで育まれてきたものだから「地産地消の食は文化」なのである。(P74)
  • 本来の食育とは、このように食と農と環境と平和を視野に入れたものであるはずだ。(P91)
  • 多様な生きものが共存する牧場で、人間が食べられない国産のエサを食べて健康に育つ牛や豚。その美味しい肉を適量、食べる。それが日本人にとっての肉食のあり方ではないか。(P108)
  • いまこそ、本気で自動車走行量の削減をめざす政策を取り入れるべきではないだろうか。(P172)

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2008年4月11日 (金)

ニシノユキヒコの恋と冒険

 五十肩もだいぶよくなってきたが、まだまだ気を許すと再発しそうで恐い。ストレス性?なので心にやさしい読書をしようと、買い貯めた本の中から川上弘美をチョイス。
 ニシノユキヒコを巡る恋愛話が10話。それぞれ違う時代、違うシチュエーション、違う性格の女性によるニシノユキヒコとの恋愛を、女性の目から綴る連作という仕立て。「クールに見えるけれども、存外勤勉で努力家の、西野くん」(P132)は、「するりと女の気分の中にすべりこんでくる種類の男性」(P200)、「女自身も知らない女の望みをいつの間にか女の奥からすくいあげ、かなえてやる男」(P201)である。男性からすればうらやましいような気もするニシノユキヒコだが、実は自分のために愛を求め女性を求める情けないダメ男である。人間的にあまり魅力があるわけでもない。だからこの本はニシノユキヒコの物語ではない。実は男性は誰でもいい。女性の愛と恋の物語である。
 10の愛の形。女性たちは意外に冷静で計算ずくで自立している。そして恋に落ちる自分をコントロールし、確信的に身を委ね、冷徹に別れを告げる。恋と性と生の間の微妙なバランスを生きていく女性たち。女性の読者からは彼女らはどのように映るのだろうか。作家の藤野千夜は解説を次のように締めくくっている。「ニシノユキヒコとは、私たちがつかみそこねた愛の名前なのだ」(P279)

  • 久しぶりに、お腹に穴が開いて空気が漏れていってしまうような心もちになった。(P15)
  • てのひらに濃い色の油絵の具がついて、洗っても洗っても落とせなくなったときみたいな気分になったわよ(P16)
  • たとえばそれは永遠という言葉にまつわることごと、なのかもしれない。ひとのあたたかな息づかいの中にある、かすかな匂いをはなつもの、なのかもしれない。空や流れる水や地面がもたらしてくれるしっくりとしたかぐわしいもの、なのかもしれない。ユキヒコは、そういうものがこわくて、そういうものにつながっている女の子たちがこわくて、決して女の子たちを好きにならなかったのだ。(P79)
  • とめどないこの世界の中で、自分の居場所をみつけることが、できるのだろうか?(P270)

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2008年4月 9日 (水)

未亡人の一年

 五十肩から回復し、春の陽気に浮かれて家庭菜園を少しがんばったら、五十肩が再発! 新年度早々、異動もあって新しい職場、新しい同僚となじむ間もなく休みの日々。つらい。
 ストレスが原因と言われ、布団に横になりつつ読んでいたこの本がまたストレスの一因? 性描写の連続、なかなか進展しない展開にイライラ。それでも長引く痛みの中、ようやく読み終えたと思ったら、パソコンが故障。五十肩にパソコン故障。泣きっ面に蜂。
 上巻の裏表紙に「母の不倫の現場を目撃するという出来事が4歳の少女の心に残したものは・・・」といった趣旨の作品紹介が書かれていたが、そのことが彼女の人生を変えたといった類の話ではない。どちらかといえば不倫相手の14歳の少年、エディの方がショックは大きかった。第1部は多感な少年エディの物語で終始する。二人の兄の死亡事故とその代償のように生まれた少女。少年たちの死から立ち直れない母と良心の呵責も見せず浮気を繰り返す父。崩壊しつつあった家族の中に送り込まれた少年はそこで初めての性と恋を経験し、やがて母は家族を捨てて家出する。ジョン・アーヴィング独特のユーモアさえ感じさせる筆致で、物語は意外に明るい印象で読み進められる。
 性と暴力を、明るさとユーモアで、生と人間性の物語に変える。ジョン・アーヴィングの小説を一言で言ってしまえばこう言えるかもしれない。
 約30年後、エディと当時少女だったルースは作家となっている。第2部はルースを巡る愛の物語。父への愛、母への想い、そして恋愛できない自分への思い。父と同様、セックスをゲームのように生きる友人やレイプシーンなどを交え、性と愛を問い、アムステルダムの飾り窓地区を歩き、売春婦と交流する。そして懇意となった売春婦の殺人現場に立ち会う。
 さらに5年後の第3部。ヨーロッパから帰り、父の自殺を聞き、かねてよりの求婚者アランと結婚。しかし程なく夫が死に、未亡人となる。アムステルダムの頃から温めてきた構想をようやく結実させて新作を公表。それが縁で、殺人事件の担当警察官だったハリーと結婚。ようやくたどり着いた幸せな生活。母マリアンが出奔後40年以上経ってようやく旅だった地に帰ってくる、エディとともに。
 最後は大団円となるが、そこに至るまでの複雑な物語展開に翻弄される。主人公や登場人物が軒並み作家や編集者等で、小説の意味や物語性を問う記述が多く散見される。その点も興味深い。
 読み終わるとともにようやく五十肩も快方に向かってきた。それが何よりうれしい。この小説に治癒力があったのか、それとも回復を遅らせていたのか。心に堪えたことは間違いない。

●彼女を失ってはじめて、彼には言うべきことができた。マリアンなしの人生について考えることで、エディ・オヘアは書くという権威を手に入れた。(上・P226)

●よい物語を想像でつくりあげなければならない。そして細部を本当のことに見えるようにしなくてはならない。細部を本当に見せようとするには、本当の細部をいくらか使うのが有効だ。・・・重要なのは観察だ。(下・P87)

●小説家としてのダッシュ夫人は、実在の人物を書くことを軽蔑していた。それは想像力の欠如だと考えていた。(下・P147)

●作家が抱える問題とは、進行中の小説について考えるのをやめようとしても、想像力は働きつづけるということである。想像力はとめられない。(下・P211)

●小説家は世界の変革者ではない。彼らはただ、ふつうよりはましな物語を語る物語作家だった。そして、なかでもよい作家は信憑性のある人物を登場させる。(下・P288)

●ハリーの考えでは、キリスト教徒はいつもなにかをほしがっていた。いまリアドン夫人がほしがっているのは、自分に対する許しの言葉だ!(下・P408)

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