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2008年6月

2008年6月28日 (土)

ジャガイモ収穫、モロッコインゲンもおいしい

Hatake0807 ジャガイモの葉が枯れ出して、そろそろ収穫時。今日の午後から雨が降り出すというので、朝一番で畑に行ってジャガイモの収穫。今年もあまり大きく育たなくて残念だったけど、それでも一つの種芋が2つ3つに増えて、3ヶ月で3倍なら年利1200%?
 夏野菜もだいぶ実を付けるようになってきた。トマト、キュウリ、ピーマン、ナス。でも一番の喜びはツルありインゲン。一昨年あたりから、モロッコインゲンが甘くて柔らかくておいしいとわが家で人気。今年、ツルありインゲンを植えたと言ったら、「モロッコ豆ならよかったのに」と言われたのに、収穫して食べてみたら、「あれ、これ、モロッコ豆?」。無知とは恐ろしいもの、望外の喜び。だったらもっと大きくなってから収穫しなくちゃ、ということで、今日もモロッコインゲン、大漁です。

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2008年6月24日 (火)

偶然の祝福

 「失踪者たちの王国」を始め、不倫の結果生まれた少年とペットと犬とともに暮らすシングルマザーの小説家をめぐる7編の連作短編集である。子どもの頃のお手伝いさんとの物語や不倫相手の指揮者との出会い、処女作誕生の秘密など、時を前後する様々な物語がランダムに並んでいる。「偶然の祝福」というタイトルはどこからつけられたのだろう。7編それぞれが偶然の小さな出来事で彩られている? それとも、作者にとっての偶然から生まれた珠玉たちと言った意味か。
 「失踪者たちの王国」のタイトルにあるように、相変わらず小川作品では多くのモノが失われていく。モノ、ヒト、コト、コトバ・・・。それを自然に受け入れるのが小川作品の常だが、解説の川上弘美が言うように、「キリコさんの失敗」だけが、なくなったものがキリコさんの手によって蘇ってくる。いなくなってしまうのはキリコさん自身だ。思えば「博士の愛した数式」でも、失われる記憶をつなぎ止めるための装置としてのルートくんが、失われないものとしての存在を主張し、我々をほっとさせた。それゆえの大ヒットなのだろう。
 小川作品を読むとは、失われるものの対照に、本当に大事なもの、存在の根となるものを探す旅をすることかもしれない。

●みんな不意にきっぱりと行方をこらませた。・・・そして残された人々はそっと私のそばに近寄って、耳元で失踪の物語を語り、すべてを言い尽くしてしまうともう心残りはないというふうに、私の感想など聞かないまま遠ざかっていった。こうして私の耳には、子羊の毛皮や入歯や手帳のように、物語だけが残される。(P17)
●ほかの人々は残らず皆、どこか遠い場所へ旅立っていったのではないだろうか。私たちには内緒で、さよならも告げず、大事な荷物だけ持って。・・・不思議なくらい、この想像は私を辛くさせなかった。孤独にも陥らなかったし、絶望もしなかった。むしろ反対に安らかな気分にさえなれた。(P141)
●「キリコさん」の中には、まだ失われていない、そしてこれから失われないものの存在が、ある。失われず、これからも在り続け、辺りを暖めてくれるもの。そんなものたちが、作品のここかしこにひそんでいる。(P201・解説)

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2008年6月21日 (土)

イスラム金融入門

 「イスラム金融」と聞いて「グラミン銀行」のことだと思った。バングラディッシュで貧困層の主婦向けに始められた無担保小口融資制度が高い返済率に支えられ生活改善に大いに役に立っている。06年のノーベル平和賞を受賞したことで一躍有名になった。しかし、グラミン銀行は利子の取引を伴うので正確にはイスラム金融ではないと言う。イスラム金融とは、利子が禁じられたイスラム圏で、投機的行為の禁止や豚類・酒類・武器・ポルノなどの使用を禁じるなどのイスラム法「シャリーア」に適合した金融取引を指す。仕組みを見ると、投資信託を取り扱う信託銀行のようなものか。
 原油の高騰で潤うオイルマネー。9.11以降、イスラム回帰の傾向の中、昨今のサブプライムローン問題も相俟って、膨大なムスリムの金融資産が米国の金融機関等から引き上げられ、イスラム金融が世界的に拡大しているという。加えて、イスラム圏の諸国では今、オイルマネーを生かした多角的な経済施策が進められており、ポストBRICsとして注目を集めている。さらに、そのオイルマネーの投資の受け入れ先として、イスラム金融を整備する国々も多いという。
 本書はイスラム金融の説明にとどまらず、今後の経済発展が見込まれるイスラム圏やBRICs諸国の現況を網羅的に披露していくが、読みながら、こうした経済発展がもたらす地球環境への影響が心配になった。金儲けだけを考えていていいのだろうか?それとも田中宇氏が言うように、環境問題はイスラム圏諸国の発展を阻害するための先進国の陰謀なのだろうか。

●「イスラム金融」を振興していると、原油高で潤う中東諸国のオイルマネーが流入しやすくなるので、巨額のオイルマネーの受け皿となるために、あえて「イスラム金融」を発展させようという意図もあります。(P53)
●ドバイの人口は現在、140万人程度で、そのうち、UAEの人が占める割合は20%にすぎない。インドやパキスタン、イランなどからやってくる外国人労働者が経済活動を担っている。(P80)
●「MEDUSA」の4カ国(マレーシア、エジプト、ドバイ、サウジアラビア)は、リスクの大きいサブプライム担保証券などにはいっさい投資を行っていない。このため、米国のサブプライム問題の影響を受けづらいという点からも、「MEDUSA」は有望な投資先グループといえるだろう。(P97)
●サブプライムローン問題の深刻化に伴うリスク許容度の低下によって、先進国の投資マネーが新興国から引き揚げられるなか、今後は原油高で潤うオイルマネーがどこまで新興国に流入してくるかが、新興国の株式市場の好不調のカギを握る。(P165)
●アメリカ型のグローバル資本主義のもとでは、マネーが現実の経済活動を離れて暴走してしまうおそれがある。・・・その点、イスラム教の教えに従う「イスラム金融」では、マネーと現実の経済活動が密接に結びついているので、グローバリズム資本主義のようにマネーだけが一人歩きしていくようなことにはならない。(P216)

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2008年6月18日 (水)

ひとりでは生きられないのも芸のうち

 内田先生お得意のブログ・コンピレーション本。いずれもどこかで聞いたことのあるような話の繰り返しだが、それがこころよい。「そうだよな、そうだったよな」と読むたびに思い出し、自らを慰め、生きる糧としている。
 最近、内田先生のブログに、長々と批判的コメントを書き込む人が現れた。この人は内田先生の表明する思想や考え方が微温的・偽善的で我慢ならないらしく、執拗にコメントを書き込むとともに、コメント欄で内田教信者(!)とバトルを繰り返している。賢い内田教信者はとうにコメント欄を読んでいないだろうけれど、先日、少し暇だったのでコメントを読み込んでみた。うーん、疲れた。
 何が正しいのか、は結局分からないし、各人が納得した人生を歩むことしかできない。その上で、「ひとりで生きていこうなんて思わない方がいいよ」と助言をしてもらうのは、肩の荷が下りる気がする。結局、それは各人の心の問題で、しかし多数の人の考え方、行動が社会の方向を決める要素の一部になることはあるだろう。どうなってもしょうがないし、自分も同じ時を生きたという点で責任の一端を感じるけれど、同時にどんな時代であろうと、立ち会えたという喜びを感じることができればと思う。
 ひとりでは生きられないけど、ひとりで生まれて死んでいくのも事実。ならば人間関係も含め全てをトータルで受け入れて生きていくのがいいのではないか。本書の最後の2編、「あなたなしでは生きていけない」と「愛神愛隣」はそういう意味で心温まる励ましのエッセイである。だから内田教はやめられないのですが。

●「公的なもの」は盤石であるから、いくら批判しても構わないし、むしろ無慈悲な批判にさらされることで「公的なもの」はますます強固で効率的なものに改善されるであろうという楽観です。私は正直言って、この「楽観」の根拠がわからないのです。・・・もしかすると、この方々は「公的なもの」を支えてくれている専門家がどこかにいて、その人に宛てて改善要求をしているつもりでいるのかも知れません。申し上げておきますけれど、そんな人、どこにもいませんよ。(P11)
●社会的なふるまい方の根本原則はどんな場合も同じである。それは「世の中が全部『自分みたいな人間』ばかりになったときにでも愉快に生きていけるような生き方をする」ということである。(P50)
●敗者になっても命まで取られるわけではないという「お気楽」な社会でのみ「自己利益の追求を最優先する」という生き方は許される。それ以外のすべての場合においては、努力の成果は占有してはならず、つねに他者と分かち合わなければならないという「無人島ルール」が適用される。(P107)
●階層を上昇するためにいちばん有効な言葉は「ごめんね」と「知りません」である。だが、「そういう言葉を決して口にしてはいけません」とフランス人たちは子どものころから教えられている。それは下層にいるフランス人たちをそこに固定させるための階級的「陰謀」ではないかと私は思うのだが(P176)
●「強者」というのは「勝ち続けることができるもの」ではなくて「何度でも負けることができる余力を備えたもの」のことである。「弱者」というのは「一度も負けられない」という追い詰められた状況にある人間のことである。人間の強弱は最終的には「勝率」ではなく「負けしろ」で決まるのである。(P239)
●時間の中を生きるということは、未知性のうちに生きるということである。一瞬後の世界は予見不能であり、その中で自分がどのようにふるまい、どのような社会的機能を担うことになるのかを主体は権利上言うことができないという事実「から」出発することである。(P244)

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2008年6月16日 (月)

タマネギ収穫・キュウリネット掛け

Hatake0806  先週末に畑に行ったらタマネギの茎が倒れていた。慌てて収穫。春先に植えたレタスやキャベツが全然大きくならないが、ほおっておいても腐りそうなので収穫。キャベツがスカスカ。ブロッコリーは花が咲いてダメになっていた。同じ頃に種を蒔いたミズナは立派に育った。少し前から収穫をしていたが、そろそろ葉先が褐色になりはじめたので、こちらも大量収穫。
 気がつけばキュウリも地べたに這いずって実がなっている。遅ればせながらネットを張る。インゲンとナスも少し収穫。トマトも小さな実をつけ始めた。今年もジャガイモが小さいが、土寄せをしておいた。梅雨の合間に収穫だ。

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2008年6月15日 (日)

季刊サッカー批評 39

 特集は「日本サッカーの十戒 いまサッカー界が守るべき10の戒律」。その1「選手生命をJリーグが奪ってはいけない」。我那覇のドーピング事件だ。先日、CASの裁定により、Jリーグ側の間違いが明らかにされ、我那覇側が全面勝訴した。しかしその経緯や真実については、裁定後のマスコミを読んでもほとんどその実態は報道されていない。謝罪に値するどんなひどいことをしたのか。それが明らかにされなければ、謝罪で済む問題かどうかもわからない。潔く謝罪した、という勘違いさえあり得るではないか。その点でも、この記事の意義は大きい。
 その3「リーダーたる者、晩節を汚すべからず」。佐山一郎氏による「我らが非凡人会長、その高すぎる熱の功罪」は、川渕会長の特異な性格と行動力がいかに日本サッカーを率いてきたか、今も君臨し続けることの功罪も含めて描く。「後継者づくりの要諦は、まずゆずり葉よろしくその「私」がすっきり立ち去ることでしょう。」(P036)。同時に置かれている「各国サッカー協会の会長事情」も興味深い。どこの国も会長が全てではないが、日本の会長は全てになりたがっていないか?
 ユーロ2008、そしてW杯アジア3次予選、さらには北京五輪を目前に控えた時期に、戦力や戦術等と一切関係のない記事ばかりで構成してしまうのは、いかにも「サッカー批評」らしい。そしてだからこそ楽しい。

  • 私は本稿の冒頭で、この件は「ドーピング問題」ではないと断じた。ではいったいこれは何なのか?私はこの事件を、現在の日本サッカー界の腐敗部分が凝縮された「我那覇冤罪事件」だと認識している。(P019)
  • メディアに目くじら立てて腹を立てるのではなく、物事は斜めから見て本当のことが分かるということを、例えば、「この局はこういうバイアスがかかっている」とか、「ここはこういうスポンサーがついている」とかそういうことを楽しむ時代なんですよ。(P080)
  • 最近のJリーグ周辺の事件や不祥事の騒がれ方を見ていると、あまりにナイーブな過敏症・潔癖症じみてる気がしてならないんだが。ニック・ホーンビィ的な「政治的正しさとフットボール的正しさは別物」くらいの偽悪的リアリズムも必要なんじゃないか。(P113)

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2008年6月11日 (水)

あいちまちづくりシンポジウム「地域が担うまちづくり・まちおこし」

 毎年6月のまちづくり月間に合わせて、国交省中部地方整備局と愛知県、名古屋市等が共催してシンポジウムが開催されている。今年(6月10日)は、最近活発に活動している豊川稲荷門前のまちづくりについて聞けるというので、参加した。
 基調講演は「地域と大学が連携した創造-豊川稲荷門前のまちづくり」と題して、豊橋技術科学大学の松島准教授から。豊橋技術科学大・松島研究室では、地域内のまちづくり施設「いっぷく亭」の一角にサテライトラボを開設し、地域に入って研究活動を行っている。研究テーマは豊川稲荷表参道商店街の景観整備に関する研究で、地元のTMOである豊川開発ビル株式会社の事業支援を得て、社会実験として地域内の2店舗をモデルに景観整備(ファサード改修)を行い、効果測定等を経て、景観整備基準(案)の提案等を行っている。地域に溶け込んだ取り組みは賞賛に値するが、事業体制(案)の中に大学が位置づけられており、松島研究室としていつまでこうした活動に関わり続けられるのか、少し疑問に感じた。恒久的には不可能だが、当面5年程度といった時限付きであればもちろん十分可能にして、大学にとっても地域にとっても理想的な体制であり、今後が楽しみでもある。
 続いて行われたパネルディスカッションでは、松島先生をコーディネーターに、NPO法人小田原まちづくり応援団副理事長の平井太郎氏、株式会社豊川まちづくりそわか代表取締役の鈴木達也氏、昨年度まで中部地方整備局都市整備課長だった国土交通省総合政策局事業総括調整官室の田中調整官が並び、それぞれの活動等について報告が行われた。
 平井氏からは、昨年秋から始めた小田原まちあるき検定の意図、体制、内容と成果等が報告された。まちあるき検定は、まちあるきを行った後で、いわゆるご当地検定を行うもので、小田原マニアを今後のまちづくり活動に巻き込んでいこう、といった戦略も伺え、興味深い。平井氏自身は、大学院生(社会学専攻)時代に、小田原市が2000年に設立した小田原政策総合研究所に市民研究員という立場で参加し、その後大学で職を得て、学識者として関わり続けているという。こうした人が関わり続けているというのは、心強いし、活動もソフィスティケートされている。
 鈴木氏が代表を務める「株式会社豊川まちづくりそわか」は、豊川稲荷門前商店街で「いっぷく亭」というまちかど施設を開設し、喫茶・ギャラリー・物販等を手がける100%民間出資のまちづくり会社である。ここに至る経緯として5年間、月1回継続して実施している「いなり楽市」を中心に活動の紹介をいただいた。実行委員会の下に組織した4つの部会の長はいずれも20~30代の若手が務め、年上が支援する仕組みが元気の良さを生んでいるかなと思う。毎週1回、夜8時から3時近くまで、というのはなかなか続けられるものではない。ステージ上で繰り広げたチンドン屋のパフォーマンスは楽しかった。
 国交省の田中氏からは、「新たな公」といった話がメインだったが、現在の担当である観光まちづくりに関する話が興味深かった。「まちづくりから観光へ」という視点で、観光人口を日平均して定住人口に加えれば、まちづくりの大きな力となる、といった話。逆に「観光からまちづくりへ」という視点から、(1)日常の非日常化、(2)観光の多様化、(3)交流を求めるニーズ、といった動向を生かしたまちづくりと観光の連動といった話などが紹介された。
 コーディネートがイマイチということもあり、特定のテーマの掘り下げや全体での発展的な話題展開とはならなかった印象だが、各自の話はそれぞれ興味深いし、そうした情報が得られたことに意義があった。また機会を得て、それぞれの地域を歩いてみたいと思う。

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不可能性の時代

 時代が大きく変化しつつある、そうした感覚は最近誰しも抱いていると思う。気鋭の社会学者・大澤真幸氏はそれを、戦後から1970年頃までの「理想の時代」、1995年頃までの「虚構の時代」を経て、「不可能性の時代」に入っているからであると説明する。アメリカやマイホームが天皇に代わる理想を提示した「理想の時代」、東京ディズニーランドやオタク文化に代表される「虚構の時代」はある程度わかりやすい。これらについてそれぞれ1章ずつを割き分析した後に、「オタク現象」に潜む次の時代への変化、リスク社会をテーマに、「第三者の審級」(見えざる手、理性、予定説の神)の喪失・撤退が起こっていると分析し、現代は「不可能性の時代」に入っていると述べる。
 「不可能性」とは何か?ということについて、十分理解できたわけではない。しかし、第三者の審級の不在、撤退というのは実感できるし、同意する。同時に、<他者>との関係もまた。第6章の「政治的思想空間の現在」では、この「求めると同時に忌避する」という関係が「物語る権利」と「真理への執着」というテーゼに置き換えられ、多文化主義と原理主義の相克と同一といった推論に深化していく。どんどん深まる推論はいよいよ難解で追い付くのがやっと、という状況ではあるが、「超越的な他者-第三者の審級-の不在」や「求心化/遠心化」の心的活動の二重性といった説明は説得力があるし、それこそが我々の不安定な心性の源泉であると納得する。しかるにそこからの救いはあるのか?
 「結 拡がり行く民主主義」では、「小さい世界」の理論(人は6次の隔たりで世界中の人とつながる)を根拠に「活動的な民主主義」に期待と希望を求める。が、現状はまだほとんどの人がそれで救われるとは感じていないだろう。不可能性の時代。可能性は本当に「活動的な民主主義」で開かれるのだろうか。

  • リスク社会とは、「本質に関しては不確実だが、実存に関しては確実である」と言えるような第三者の審級を喪失することなのである。(P139)
  • 虚構の時代の後に、現実を秩序づける準拠点となっているのは、この認識と実践から逃れていく「不可能なもの」である。すなわち、現代を秩序づけている反現実は、直接には見えていない「不可能性」である。・・・われわれが今、その入り口にいる時代は、「不可能性の時代」と呼ぶのが適切だ。(P167)
  • 人は、<他者>を求めている。と同時に、<他者>と関係することができず、<他者>を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの<他者>こそ、<不可能性>の本態ではないだろうか。(P192)
  • 誰とも特定しえない、不定の<他者>に見られているという感覚がまずあり、その不気味さを解消し、馴致するために、その<他者>を「神」等と名づけ、意味づけることで安心感を得ているのではないだろうか。(P248)
  • 神的暴力という概念の政治的な含意は、何であろうか。それは、活動的で徹底した民主主義以外のなにものでもあるまい。・・・統治者と被治者の厳密な同一性によって定義できるような、活動的な民主主義こそ、神的暴力の理念の直接の具体化である。(P273)

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2008年6月 5日 (木)

西村幸夫 風景論ノート

 景観法施行の前後に西村先生がさまざまな雑誌等に書き連ねてきた論文等を集めてできた本である。副題の3つの言葉がそのまま全体3部構成の内容となっている。すなわち、景観によるまちづくりをテーマにした「第1部 都市風景の恢復と景観まちづくり」、町並み保全によるまちづくりを扱った「第2部 地域資産の顕在化と町並み保全型まちづくり」、都市再生の潮流や方向性をテーマにする「第3部 都市の再生とコモンズの復権」である。中でも今後のまちづくりのキーとなるのは「コモンズである」というのが西村先生の認識。それに異論はない。ただ、なかなか急には世の中がそうはならないのがジレンマ。でも少しずつ社会はその方向に動いている、ということをいくつかの事例等を示し重ねながら、勇気づけてくれる。
 第1部は正直なところ、景観法に沿った観念論が続き、少しウンザリ。第2部で少し目先が変わって興味がわき出し、第3部は一気に読み終えた。景観やまちづくりに対する確かな目は変わらない。加えて、世界各国の都市保全・再生施策や世界文化遺産に係る話題まで網羅する。さすが、読みごたえのある1冊。途中で挫折しそうになりつつもがんばって読み通した。

●日本人一般がコモンズの感覚を喪失してしまったわけではない。都市風景がコモンズの対象とはならなくなってしまったところに問題が所在しているのだ。・・・私的財産の権限が強かったから都市風景が混乱したのではない。都市風景を公共的なものだと感得できなくなったことによって、結果として私有財産の権利の膨張を抑える心理的メカニズムが機能しなくなったのである。(P006)
●滋賀県近江八幡市の名物市長であった川端五兵衛氏から先日おもしろい話を聞いた。-地元の人々が景観の問題を意識していく経過には五つの段階があるというのである。/最初はまったく無関心の段階。・・・第二段階、すなわち気づきの段階、景観の意識化の段階・・・「この景色はみんなのもの」という主張が生まれてくる段階。・・・「この景色はわたしのもの」と主張する段階・・・最後の第五段階は、・・・「この景色はわたしたちのもの」とする段階(P071)
●町並み保全運動の近年の傾向として、「第一に「特別な町並みからなにげない町並みへ」という保存対象の拡がり、第二に「なにげない町並みから暮らしの思いをすくい取る」という保存対象の深まり、第三に「町並み保存運動から町並み運動へ」という運動論自体の深まり」の3点があげられる。(P152)
●現在私たちが課題として直面している都市の再生-ルネサンスも、究極的には人間中心の文化運動であることによって都市の可能性を幅広く展望してくれるものになるだろう。都市の再生とは、そこに住む人々の再生、その豊かな生活スタイルの復興にほかならないからである。(P197)
●したがって今、望ましい都市空間を実現するという「空間達成型」の都市計画から、望ましい都市空間とは何かという合意に至ることを重視する「諒解達成型」の都市計画へのパラダイムシフトが望まれる。(P216)
●都市空間の成立と変容のメカニズムには三つの異なった原理が働いていると考えることができる。すなわち、居住・経済・統制の原理である。(P244)
●ローカルなルールを定めようとすると、それは一律的なものにならざるを得ない。・・・こうしたジレンマを克服して、統治原理まで一歩踏み込んだ新しい次元のまちづくりを実現させることは可能なのか。・・・その答えは、ルールの内容にあるのではなく、ルールのあり方に見出せるのではないだろうか。つまり、答えはルールを合意するに至るプロセスをマネジメントすること、すなわち合意形成の仕組み自体にあるといえる。(P253)

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