« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »

2008年7月

2008年7月27日 (日)

宇宙旅行はエレベーターで

 図書館でいかにもSFっぽい宇宙ステーションの装釘が目に留まった。「宇宙旅行はエレベーターで」なんて、スペース・ラブ・ロマンスみたいで面白そう・・・と思って手に取ったら、これがなんと真面目な「宇宙エレベーター」技術と構想に関する一般向け啓蒙書。著者の一人、ブラッドリー・C・エドワーズは米国ロス・アラモス国立研究所に在籍していた物理学博士号を持つ科学者。宇宙エレベーターは、ロケットの最大な欠点である莫大な費用とエネルギー消費を解決して、宇宙空間へ人類を導く実現可能な技術だと言う。
 静止軌道上から上下にバランスを取りつつケーブルを伸ばしていくことで、一端は地上に、もう一端は10万km先の中空に届き、地球とともに回転する。地球から見れば宇宙エレベーターがすっくと立ち上がり静止する。そのケーブルをクルーザーが上下し、宇宙へ人類を運ぶ。読んでみれば確かにできないことではない。技術的な唯一の問題が鋼鉄の180倍の強度を有するケーブル素材の開発だったが、それもカーボンナノチューブの開発で夢ではなくなった、と言う。
 こうした基本的原理や建造方法、地上側の出発地点アースポート建設地の選定検討、事故等の安全性検討などの技術的な解説の後は、建造・運用主体とその可能性、軍事防衛上の検討など、政治的・経済的な検討まで行っている。さらに、宇宙観光旅行や月の宇宙エレベーター、火星の宇宙エレベーター、さらにその先の惑星や宇宙への旅など、夢の世界に想像力をはばたかせる。
 冷静に考えると、(筆者も指摘しているが、)NASAがロケットを捨てて宇宙エレベーターへ全面的に方向転回することの難しさや、最近の米国の経済的な変調、政治的な変動、さらには資源の問題など、筆者たちが想定するような2025〜30年の実現というのは難しいと思うが、政治経済の世界変動の中で、思いがけない方向から実現しないとも限らない。本当に実現したらどんなにか楽しいことだろう。

●1975年、ロケットはまだ宇宙に到達していなかった。しかし12年後の1969年、人類は月面を歩いていたのである!・・・宇宙エレベーターの場合は、既存の技術を再利用することができる。宇宙エレベーターの建造は、人類初の月面着陸の場合と比較しても、決して難しいことではない。(P72)
●宇宙エレベーターの場合、・・・建造に必要な費用と技術は、国家、企業、個人の各レベルで、すでに十分に手の届く範囲内にある。問題は、そのなかのどの集団、あるいは個人が、政治的課題や資本コストの問題、技術的な課題を真っ先に克服することに成功するか、ということにある。(P189)
●宇宙エレベーターは、人類に取って、宇宙への扉を最大まで開いてくれるものだと言える。残された現実的な問題は、財政的支援であり、そこから得られる収益である。また、政治的利害関係であり、需要と供給の力関係なのである。それらすべてが宇宙エレベーターの実現を左右している。(P341)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年7月21日 (月)

治療塔

 大江健三郎初のSF的小説ということで当時話題になった。今回ようやく文庫本となり読むことができた。若い女性の視点から書き上げた小説という点でも、大江健三郎初ではないか。
 あからさまに近未来の時代を舞台にしたということではSF的と言えるかもしれないが、これまでの大江の世界も現実感から遊離していたことでは、ある意味SF的だったのではないか。そして、大江作品の中心的テーマである「新しい宗教」を担う「夢を見、語る人」の末裔や大江の障害を抱えた息子であるヒカリまでも登場する。そしてイェーツの詩が重要なモチーフとなり、ブレイクまでが登場する。大江文学の系譜に則った作品といえる。
 テーマは、「科学の時代の人間の罪と蘇り」といったところか。リッチャンと朔ちゃんの愛の展開は、今までの大江作品の中でも読みやすく、引き込まれるように読み終えてしまった。

●コノ地球ニ、人間トイウ意識ヲソナエタ生物ガ現れレタニハ、アヤマリダッタナ。ミシロコウシタぜらにうむヤ虎猫ニヨウナモノガ、幾千万年モ幾億年モ、晴レタイレバタダボンヤリ陽ノ光ニサラサレタリ、雨ナラバ乾イタ所ヲ探シテ眠リコンダリ、マタ眼ザメタリスル。・・・タダソウイウヨウニシテ永イ永イ時ガタツノガ、地球ニハイチバンヨイコトダッタカモシレナイ。(P14)
●《かれは刻一刻若がえってゆく》・・・《軽快な馬車に揺られ、旅しながら/かれ自身の夜明けへ向けて、/かれが苦痛あるいは喜びとともに学んだすべての/かれがなしとげたすべての/重荷の糸巻の糸をほぐしてゆく。》(P71)
●—頭の中では新しい経験をしても、そのまま死んでしまうのでは、なんにもならないでしょう?/—五億年たってみれば、私らの生はむしろ全体がそうなのじゃないか?それでも私らは意味があるとして生きて来たよ。(P94)
●かれらをあらためて受け入れているのは、やはりどんな構造も持たない、柔らかい農場だからねえ。(P189)
●「治療塔」で肉体改造を受けた人間は、地球の困難のなかで傷ついてもきた人びとのために、奉仕すべきだと思います。むしろそのためにこそ帰還したのだと、いまの僕は考えています。(P269)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月17日 (木)

ヨーロッパの都市はなぜ美しいのか

 筆者は、イタリア・パリで長く生活し、現在は大阪芸術大学の教授を務める「環境・建築芸術学」の先生である。「ヨーロッパの都市はなぜ美しいのか」の答えは、あとがきであっさりと書いている。「それは市民の美的なものへの関心が高いからである(P296)」。そのことの是非は置いておいても、口絵の4枚のカラー写真だけでは惜しいと思うほど、イタリアの各都市や広場、噴水、さらにはパリのパッサージュやアール・ヌーヴォー、アール・デコの都市装飾の数々を豊富な写真とともに紹介してくれる。
 これらの作品紹介に加え、環境デザイナー、エットレ・ソットサスや15世紀の寄木画家、フラ・ジョヴァンニ・ダ・ヴェローナの紹介など、筆者の専門領域からの芸術家の紹介も興味深い。建築物とその装飾・広場・噴水等が形づくる造形を筆者は環境芸術と呼ぶ。ヨーロッパ都市の環境芸術に対する愛着と愛情を強く感じる。読んでいて心暖かくなる1冊である。

●秩序の美、比例の美が基底にあって、それを打ち破って自由な形に崩している。・・・この無意識的というか、自然な感性のほとばしりをイタリア語でスポンタネイタという。・・・秩序があってスポンターネオ感覚が美をつくり出しているのであり、それがあって秩序が生き生きとしてくるのである。・・・この二つの絶妙なバランスが人間的なやわらかな地中海地域の造形をつくっている。(P33)
●都市住民自身が都市のデザイナーなのである。そして文化はそのような一般市民によって支えられているのである。都市の環境芸術は、市民全体の造形感覚の水準をよく反映しているといえる。(P44)
●ル・コルビュジエの「サヴォア邸」のゆったりとしたモダニズムの建築は富裕層のものであり、下町団地のアール・デコの装飾性は貧者のデザインなのかもしれないという思いになる。・・・アール・デコとは市民の様式であった。(P230)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月15日 (火)

街場の現代思想

 「街場の中国論」は面白かった。本書も「街場」シリーズの第一弾として一度読みたいと思っていたら、文庫本として発行された。解説で橋本麻里が書いているように「平積みにされた本書を目にするや直ちに手に取り」買ってしまったが、まずこの解説を見てから判断すればよかったかも。「30代、未婚、子なしであるワタクシ同様の、『負け犬属性』読者の大量ゲット」が橋本氏の使命だったようだから。
 「現代思想」というタイトルから、レヴィナスやラカンなどの内田先生の専門分野に関する思想をやさしく解説する本かと勘違い。考えてみれば、レヴィナスやラカンが「現代」思想であるわけはなく、この本には内田流処世術による人生の生き方・見方がいつものとおり縦横無尽に書き連ねられている。いや、面白い。
 まあでも前半の「文化資本主義」に関する章はいかがなものか。「文化資本の逆説」で説くとおり、文化資本に殺到することで逆に階層社会の出現を先送りすることにつながる、とたとえ力説されても。階層社会を防ぐ手だてはそんなつまらない方法しかないのかと。

●歴史が証明しているのは、あらゆる組織は—世界帝国から資本主義企業まで—多様性を維持しているときに栄え、「栄えている」という事実ゆえに均質的な個体を結集させ、結果的に組織としての多様性を失って滅びる、ということである。(P111)
●知性というのは「自分の愚かさ」に他人に指摘されるより先に気づく能力のことであって、自分の正しさをいついかなる場合でも言い立てる能力のことではない。(P126)
●人間だけがして、他の霊長類がしないことは一つしかない。それは「墓を作る」ことである。・・・人間が墓を作ったのは、「墓を作って、遠ざけないと、死者が戻ってくる」ということを「知っていた」からである。・・・人間の人類学的定義とは「死者の声が聞こえる動物」ということなのである。(P159)
●人間の身体はリアルタイムに動いているのではない。ちょうどリールが釣り糸を巻き込むように、「未来」が「現在」を巻き取るような仕方で動くのである。私たちは、輪郭の鮮明な「未来像」をいわば「青写真」に見立てて、その下絵のとおりに時間をトレースしてゆく。(P176)
●想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく、「自分が『奔放な空想』だと思っているものの貧しさと限界を気づかうこと」である。(P216)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 9日 (水)

ゆく都市 くる都市

 今、都市・建築に関するエッセイを書かせたら、誰が一番うまいだろうか。それほど多くの本を読んでいるわけではないが、橋爪紳也は関西の雄の一人と言えるだろう。この「ゆく都市 くる都市」は2006年度の1年間、毎日新聞に週に一度連載してきた文章をまとめたものということで、筆者ならではの都市・建築に関する視点や見方が、一般向けにやさしく綴られている。
 筆者が取り上げる都市の断片は、タワー、遊園地、路地と広場、ビジネスセンター、水辺空間、そして金沢や釜山・上海等の新しい都市づくりを紹介する創造都市の6編。現在の都市の様相を切り取るにあたり、筆者の独創性と炯眼が窺われる。
 タワーでは通天閣や名古屋テレビ塔の今昔を紹介し、タワーの持つ近代性と現代性を描写する。遊園地では浅草の花屋敷の盛衰を眺めつつ、日本人にとっての娯楽と遊園地の意味を問う。路地と広場では、ノスタルジーを語り、法善寺横町の再生を紹介する。ビジネスセンターに都市の文化の源泉を見、大阪の水辺空間の利用に関わるさまざまな活動を紹介しつつ、縁辺であった水辺空間の再生・復権を考える。そして最近元気な世界の都市群を、「創造と想像」というキーワードで謳う。
 都市の見方、都市に対する愛情が伝わるエッセイであり、筆者の博識・博覧強記ぶりを実感する。あっという間に読み終わってしまった。そして頭にあまり残っていない。ところで住宅はどうあるべきか。

●戦後にあってもわが国の遊園地は常に米国の成功例を意識してきた。わが国における遊園地の盛衰は、私たちがアメリカ文化といかに向きあい、受容し、また時に抗い、日本人の嗜好に合うように咀嚼したのかを反映する。だとすれば首都圏域や京阪神で、あいついで遊園地が閉園している今日の状況は、コニーアイランドに由来する米国流の遊園地のあり方を、少なくともこの国の人々は消費し尽くしたということなのだろう。(P40)
●創造力が想像力を高める。同時に新たな創造が次代の想像力の源泉となる。この循環が滞ることがない限り、都市という「文明の装置」は消耗され尽くされることはなく存在し続けることだろう。都市はいつの時代にも、新たな創造を思い描きつづける人々の想像力の所産である。(P171)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 8日 (火)

城下町・犬山・まち歩き

 国宝・犬山城のお膝元の城下町に高層のビジネスホテル建設騒動が持ち上がり、犬山市に景観条例ができたのが平成5年。平成6年からの2年間、この街の景観まちづくりに多少とも関わったことがあったが(ほとんど何もできなかったが)、地元(市・住民)の努力によるその後の変化には目を見張るものがある。週末、妻が「どこかへ行こうよ」というので、ガソリンの高騰もあり、尾張パークウェイの無料化もあったので、近場の犬山を久しぶりに訪れることにした。
Imgp5934 わが家から車で30分。尾張パークウェイを快適に飛ばすと、あっという間に木曽川河畔に出る。犬山城を眼前に眺めながら、名鉄犬山ホテル横の坂を上るとすぐに城前の広場に出る。前は体育館前の空地が駐車場になっていたが、今はきれいに整備され車を駐めることができず、有料のキャッスルパーキングへ回る。時間無制限で200円なら安いし、このいくらかでも景観整備費に回るのであれば、協力しなければと思う。
 それにしても暑い。お城前の本町通りを下っていくが、相変わらず地元の車がひっきりなしに通る。通りの東側にこぎれいな広場が整備されていた。「大手門いこいの広場」。板土塀に囲まれた一角に、芝が張られ、四阿と大手門が建てられている。誰もいない。この暑さだし。しばらく先の左手に民家を活用したまちの駅「しみんてい」がある。NPO法人犬山市民活動支援センターの会。HPを見るとさまざまな市民活動に年間100万円程度の助成を行うとともに、活動の場の提供などの支援を行っている団体らしい。最近の犬山の市民活動の盛り上がりを象徴する団体ということか。私はただの無料休憩所かと思って、トイレを借りて出て来た。
Imgp5881 しばらく行くと「FM84.5」の幟。通りの西側、民家の中で、愛知北エフエムの生放送をしていた。軒下に「犬山まちづくり株式会社 弐番屋」の看板がある。平成12年にできた犬山市中心市街地活性化基本計画「城下町新生計画」に基づき設立されたTMOで、市と商工会議所等が出資して作った第3セクターのまちづくり会社。「弐番屋」はこの会社が展開するSHOP事業の店舗で、愛知北エフエム放送(株)が入っている民家が1号館。昨秋には2号館が南側数軒先にオープンした。このまちづくり会社は駅西パーキングの経営の他、チャレンジショップや空店舗活用事業などを実施している。
 愛知北エフエムの南隣が井上邸。井上印刷の看板が掲げられている。登録有形文化財指定。この三叉路の周りには、他にも山田五平餅店やなつかしやなど、古い民家を活用した店舗が多く集まっている。若い女性を相手にする親父店主の姿が見られ、まあいいことかなと。
Imgp5898 この交差点を東に向かった。三井邸の立派な土蔵と美しい格子窓の外観もさることながら、景観に配慮した新しい建物もいくつか目に入る。また、材忠邸や寅屋などの古い建物も健在。道路がカギ状に曲がった余坂の木戸に面して、ぎゃらりぃ木屋がある。ちょうど藍染作品の展示をしていて妻がつかまった。扇風機にふかれてしばしの涼を楽しんでいると、麦茶を出していただいた。申し訳ありません。木戸跡の先に「余遊亭」という名前のまちづくり拠点施設がある。当日は子どもたちが中庭に集まって、何かの作品づくりをしていた。こうした見通しのよい明るい施設がまちかどにあるのは、まちの活気の表出という意味で効果がある。おしゃれだし。
 道を戻って、寺内町の石畳を南に下っていく。道に面して間口は狭いながらおしゃれな家が見られる。景観まちづくりが進められる中で、市民の意識がこうした形で表れていることを嬉しく思う。南北の道を抜け、寺内町通りを西に戻る。お寺の土塀が目立つ。鍛冶屋町を南に下り、駅前通りを西に向かう。本町通りの入り口東角に目立つ大きなお屋敷が真野邸。本町交差点の南に並ぶ3階建てのビルは昭和40年代初頭に下本町防災建築街区造成事業で建設されたもの。
Imgp5915 本町通りをお城に向かって北上すると右手に、中本町まちづくり拠点施設「どんでん館」。城下に最近整備されたいくつかの施設と同様、街なみ環境整備事業で整備されたもので、山車蔵に似せた近代的なファサードの中に、3台の山車が展示され、音と照明の演出により、早朝から夕焼け、月が昇る夜までの祭りの日の1日を感じさせてくれる。こぢんまりとした展示ながら良質。和室でお茶のサービスもあり、なかなかよかった。
Imgp5925 この界隈も古い民家を生かした店舗が多い。その中に、むくり屋根がめだつ上品な商家がある。登録有形文化財旧磯部家住宅。土産物にばかり目を向けていると通り抜けてしまいそうな外観だが、入館無料で非常に充実した保存がされている。入り口の土間・板の間から番台、清浄とした仏間・座敷。紅殻に塗られた渡り廊下・中庭を経て、裏座敷、土蔵、奥土蔵、物置。旧呉服商・柏屋として幕末慶応年間に建築され、土蔵の類は明治初期の建築。その後、製茶・販売業に転じ、倉庫として利用されていたものを、市が譲り受け、平成16年から17年にかけて復元改修を行い、公開された。
Imgp5933 寺内町通りまで戻る。北東に遠藤邸。南東の民家もよく整備されている。通りを西に抜けて帰りは大本町通りを北上する。比較的広い幅員にインターロッキング舗装の通りは、商家中心の本町通りとはだいぶ様相が異なる。昔は武家町だったと聞くが、今はポツポツと長屋も残る住宅街となっている。遮蔽物がなく直射日光を浴びてすっかり暑さに参ってしまった。犬山北小学校の修景された板塀をぐるっと回って、ようよう駐車場にたどり着く。
 久しぶりに訪れた犬山の城下町は、思っていた以上に整備され、訪問者もそこそこ賑わい、いい感じ。15年近く前に書いた「犬山北のまちづくり」のHPを久しぶりに読み返したら、「50年100年続くまちづくりをしよう」と書かれていた。今度はいつ訪れようか。その時にはまたどう変化しているだろうか。
 マイフォトもごらんください。

(参考)
犬山市の中心市街地 【中心市街地すまい研究会】
犬山北のまちづくり 【まちづくり・あれこれ】

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年7月 6日 (日)

”環境問題のウソ”のウソ

 読み終わりました。武田教授が自分の主張を伝えるために、かなり無理な説明を重ねていることはよくわかった。それでも軍配は武田教授側に上げたいと思う。なぜなら、武田教授は環境問題に対して伝えたいことがあり、山本氏には独自の視点や主張が見られないから。唯一、環境負荷による外部費用を正確に見込めない中で、「心の中の外部費用」に従う、という説明は独創的かもしれない。しかし環境問題に対する姿勢という点では、両者ともあまり大差ないのではないか。その中でも、武田教授が伝えたい、と考えていることは拝聴に値する。
 すなわち、(1)ペットボトル・リサイクルを進めることがペットボトルの製造をますます増やし、石油の使用量を増やすことになった。免罪符としてのリサイクルに対する懐疑。(2)京都議定書は政治的な思惑が大きい。それを根拠に二酸化炭素削減施策を講じることの嫌悪。本当に二酸化炭素削減を進めるのならば、国民に対するレジ袋削減や省エネ運動よりもやるべきことがあるのではないか。(3)環境施策が合理的でない。その影に政府と経済界の癒着がないか。マスコミも政府や広告主の意向に沿った偏向的な報道や情報誘導をしている危惧がある。などだ。
 これを読みつつ、団塊の世代の前後という両者の年代差や、理系科学者と文系小説家の違いを感じた。SF小説やファンタジーなら何を書いても許されるが、科学者が一般向けに書くものには一片の間違いがあってもならない、という姿勢には疑問を感じる。武田教授にとってリサイクルや環境問題は、正確な意味での専門分野ではないと思われる。しかし自分の専門に近いところで繰り広げられている論争や政策に対して、日ごろから感じていることを書いてみた。確かに筆が滑った、または知ったかぶりをしてしまった、という部分は多いかもしれないが、その最初の直感「何か変じゃないか」は無視すべきではないと思う。「ト学会」とやらもこんな突っ込みをする暇があったら、もっと突っ込むべき対象があるのではないか。

●話しているうちに、武田教授の性格が分かってきた。この人はおそらく、自分を誠実な善人と思っている。「普通の人が読むことを想定して」本を書いているという説明を、何度も聞かされた。自分の主張を一般読者に分かりやすく伝えるのが使命だと。そのために、データを書き換えたり、一部の説明を省略してもいいと思っているらしい。(P175)
●武田教授の本の内容がすべてウソだとは言わない。正しいこともたくさん書いてある。勉強になる部分や、「もっともだ」と思う部分もいっぱいある。しかし、明らかなウソや間違いが多すぎる。だから僕は武田教授の本を信用しない。(P256)
●環境問題を憂えている人はみんな、合理的な判断から行動しているわけではない。「心の中の外部費用」を補填し、地球を救っているという安らぎを得るために、ごみを分別し、電気を節約している。(P333)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 4日 (金)

環境問題はなぜウソがまかり通るのか2

 2008年は京都議定書の目標期間の初年度にあたるということで、政府やマスコミが環境問題を取り上げることが多くなってきた。そしていよいよサミットが近づくにつれて、その頻度も高くなってきている。しかし日本(とカナダ)ばかりが目標を達成せず、アメリカはさっさと逃げ出し、中国やインドは知らんぷり、という状況の中で、最近はロシアの排出権を金で買って達成しようなどという話まで出てきて、どうしてそこまで達成にこだわるのか、達成できないとどのような不都合が起こるのかわからない、といった感じを持っていた。
 加えて、IPCCの第4次報告あたりから地球温暖化の二酸化炭素説というのは必ずしも確定的ではない、先進諸国が後進国の経済発展を押さえ込むための謀略だ、といった話まで聞くに及んで、いよいよ環境問題に対する関心が高まってきた。
 「疑似科学入門」も終わりに近づいた頃、ふらっと立ち寄った書店で、本書と前著「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」にその批判本「”環境問題のウソ”のウソ」が並べられていた。あまり時間がなかったこともあり、本書とその批判本を衝動買い。続けて読もうと思った次第。
 前著については、「たかじんのそこまで言って委員会」で取り上げられたこともありベストセラーになったそうだが、地球温暖化と京都議定書を中心に取り上げた本書は、当面の私の関心にもジャストフィットし、とても面白く読み進めた。そして納得。多少筆の滑っている部分もあるのかもしれないが、基本的な方向や態度は正しいものと思われる。
 これに対して続いて読もうと思う批判本はどう展開するのか。興味深いような恐ろしいような。今のところの気持ちは、本書側の圧勝、という印象なんですが、どうでしょう。

●ヨーロッパ勢の作戦は、自分たちがアメリカより強い立場にあって会議を主導できること、アメリカは抵抗せず調印し批准しないこと、中国やインドは削減の義務を負わないこと、そしてターゲットとなった日本だけが義務を負うことになること、それはやがて日本の経済発展を阻止して、自らの国の産業に利すること−それらはすべて計算済みだったと思われる。(P34)
●産業革命以来の長い歴史を振り返れば、実は「省エネルギー」は常に「経済の拡大」「物質生産の量的拡大」につながってきた。(P91)
●ゴミ焼却から発生するダイオキシン→リサイクル推進→地球温暖化への影響という3つの「虚構の環境問題」がセットになって、お互いを強め合い、環境保護に関して間違った方向に世論がつくり出され、リサイクルが推進されていった。(P166)
●リサイクルは大量消費を促進し、売上高を増やしたいと思っている人たちには最適な社会システムなのである。(P214)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年7月 3日 (木)

疑似科学入門

 刊行され書店に並べられた時に買おうかなと思ったけど、しばらく見送ったら店頭でトンと見なくなった。予約してようやく入手したらもう第3版。売れてるんだ。
 疑似科学といえば、前にカール・セーガンの「人はなぜエセ科学に騙されるのか」を読んだことがあるけれど、本書は疑似科学を、占いや超能力等の第1種疑似科学、科学を乱用・悪用してビジネスと結びついた第2種疑似科学、そして地球温暖化などの複雑系ゆえに科学的に解明し尽くされていない問題を扱う第3種疑似科学と、3種類に分類している点が新しい。特に第3種疑似科学という分類は本書独自の分類だということで書評などでも評価されていた。
 この第3種疑似科学への対処法として「予防措置原則」の適用を訴えている。それもわかるが全てがそれで割り切れるわけではない。筆者自身「とはいえ、予防措置原則の誤った適用には気をつけねばならない。(P188)」と書いており、その限界も理解しているだろうが、予防措置原則で対処できない、又はどの程度で対応することが適当かさまざまな意見や考え方がある、といったところで論争になっているのだと思う。
 地球温暖化論争然り。耐震偽装事件に対する過度のピアチェック制度然り。
 結局、筆者が言うように、自分の頭で考える習慣を持つことが一番の対策なんだろうと思う。

●何より私が恐れるのは、非合理を安易に許容することで人間の考える力を失わせているのではないか、ということである。・・・考えることは他人に「お任せ」し、自分はそれを信じ拍手を送るだけの態度が蔓延していると感じられるのだ。(はじめにP2)
●インターネットという、社会に顔を見せる窓口が増えたのだから人間を解放する手段として歓迎すべきものであるのは確かである。しかし、現実においては、むしろ自己中心主義が強くなっているように感じている。他人を意識する分だけ社会性が高まったというわけではなく、自分はこうなのだと居直り、自己を正当化することが常態になっているからだ。(P104)
●地球が複雑系であるために原因や結果が明確に予測できないとき不可知論を持ち込むのではなく、人間や環境にとっていずれの論拠がプラスになるかマイナスになるかを予想し、危険が予想される場合にはそれが顕在化しないよう予防的な手を打つべきなのである。それが複雑系の未来予測不定性に対する新しい還俗で、「予防措置原則」と呼んでいる。(P147)
●「安心・安全」な社会という標語がよく使われているが、「安心」は納得して心が安定する状態であり、「安全」は環境に対する物理的な措置の問題である。(P163)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年7月 1日 (火)

集合住宅と日本人

 「あとがき」によれば、当初、出版社より「日本人論」というテーマを与えられ、筆者の専門に引き寄せ、集合住宅における「共同性」を主題に書き下ろしたという。それゆえか、司馬遼太郎や山本七平、丸山真男らを引用し、「日本教」に言及する部分や、政治学者として「参加」と「熟議」「包摂」といった専門用語を披露する部分など、やや難解な記述もないではないが、基本的にコーポラティブ住宅やゲーテッド・コミュニティなど住宅・建築分野の専門家には分かりやすい(専門外の人にとっては却って分かりにくいかもしれないが)事例をベースに論が展開されるので、総体的は理解しやすいし、納得もできる。そもそもこの本を知ったのは、日経アーキテクチャーに取り上げられていたからで、その点からしても建築の専門家がまずは読むべき本かもしれない。
 とは言っても、建築専門家にやさしい本ではない。特にコミュニティを大事にする建築工学者を罵倒することが目的のように、辛辣なコメントがこれでもかこれでもかと綴られている。コーポラティブ住宅はコミュニティを育てることができれば全てうまくいく、と考えるコミュニティ信奉者を批判するのみでなく、五十嵐太郎の「過防備都市」を批判するのは、犯罪不安が共同性発動の契機となりうると主張するがための、批判のための批判のように感じる。
 都市社会においてコミュニティ以上に重要なのがガバナンスであり、コーポラティブ住宅においてこそ、両者の差異が垣間見える。両者を冷静に分けて、居住者により構成される小さな社会を構築し、制度設計することが必要である。共同物の管理という局面において、全員参加のガバナンスを誘導することが、日本における新たな「共同性」の創造につながる、という主張は十分理解できる。実にそのとおりだと思う。コーポラティブ住宅を作ろうという「安住の会」の一員として、内部で主張してきた事柄でもある。
 しかし、なかなか理解されないことも事実。延藤先生はそれゆえ、敢えて延藤教の教祖「聖人」になられていると思っている。心に訴えかける言説も重要なのである。
 実は、分譲マンションの管理組合だけでなく、戸建て住宅地にも管理組合は存在する。そもそもわが家がそうであるし、町内会費を徴収している地縁組織は多い。会費を負担する住民にも新たな「共同性」の目はあるというべきだろう。結局、管理組合に新たな「共同性」につながる可能性がある、というだけで、具体的な方策が示されていないのではないか。管理組合にも悪しきコミュニティが蔓延している。そこから如何に脱却するか。日本が、日本人自体が変わらなければいけないのではないか。竹川氏のような人が出てくる、ということ自体が、日本人が変わりつつある証拠かもしれないが。

●利己主義とは、集団が存立してこそ、個人の自由や権利が守られるという単純な事実に目を覆ってしまい、ひたすら自らの利益を追求することであり、それが「共同性」を解体させていく。・・・すなわち、「制限」を前提とした「共同性」を構築しない限り、「道徳」など生まれるべくもない。(P29)
●”ガバナンス”を体現する・・・「建設組合=管理組合」の組織とは別に、会員相互の親睦、つまりは”コミュニティ”を目的とした「自治会」を組織したことも特徴である。つまり、私が示してきた”ガバナンス”という政治的共同性と、”コミュニティ”という相互交流を別ものとした考え方に通じている。(ノナ由木坂を事例にP104)
●政治的な「共同性」を備え、機能する住宅群こそを「都市」という(P160)
●「コミュニティ=全員合意」というぬるま湯に溺れ、それが「正しい」と思うことからは、新たな発想や知恵、そして他者を排除する罪悪感や「責任」は生じえない。その「正しさ」に絶えず抗うことが、他者を包摂していく回路となるのに違いあるまい。(P222)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »