アキハバラ発<00年代>への問い
今年6月に秋葉原で起きた無差別殺傷事件。中学校まで優等生で高校で挫折した非正規雇用者。犯行の数日前からネットの掲示板に書き続けられた自己否定の言葉と犯行の実況中継。そしてオタクの聖地、日曜歩行者天国の秋葉原に車で突っ込みかつダガーナイフで刺殺してまわるという行動の特異性。この衝撃的事件は、政治経済的視点から、ネット社会とオタク文化の視点から、また格差社会の視点からと、事件発生当時、さまざまな視点で報道が繰り返された。が、いまや、結局一人の弱い人間の犯行という印象を残して、人々の記憶から消えようとしている。
この一見わかりやすい事件をめぐって、幾数人もの社会学者、評論家、ジャーナリスト、作家らが集まり、それぞれ独自の立場からこの事件を論評し、同時に現代社会に抱える病巣をえぐり出す。
集まった識者は総勢22名。全体は3部構成で、第1部ではもっぱら犯人を取り巻く社会環境の問題を、第2部では希代の社会学者が現代社会と人間疎外について、そして第3部では作家や演出家、マンガ評論家など現代社会に最も関わり同時代的に生きている感性からと、複眼的・多様な解釈や批評でこの事件が物語るもの、この事件を生み出したもの、そして我々がこの事件から汲み取るべきものをさまざまに示してくれる。
編者である大澤氏は「世界の中心で神を呼ぶ」という評論で、現代社会に生きる若者の精神性を読み解く。「なぜKは『2ちゃんねる』ではなく『Mega-View』に書き込んだのか?」という情報環境研究の濱野智史氏の最近のネット環境の解説とその上に立った分析も興味深い。
世界恐慌というとんでもない事態に巻き込まれつつある現代。我々はどう生きていけばいいのか。しかしこの評論集を読んで、モンスター化を加速してきたこれまでに比べ、縮小しつつある現在は意外に生きやすいかもしれないと何となく感じた。どうしようもなく孤独で不安で不安定だけど、小さく愛すべき人生を取り戻す。そんな時代のトバ口にいるような気がした。
●動機なき殺人がアリバイを持ってしまい、そこに社会の格差構造が重なった。仮に敵が独裁者であるならば、・・・非正規雇用者たちの不満や鬱憤は、レジスタンストして居場所を、あるいはテロリストとして名前を与えられたかもしれない。しかし可視化される敵はどこにもいない。(P20)
●いまや犯罪は、不完全な社会システムが必然的にはらんでしまうリスクとして一定の確率で生じ続け、一定のやり方で処理される。彼らはたまたまシステムに「選ばれた」にすぎず、そこにはいかなる必然性もない。だとすれば、犯罪すらも彼らを匿名性から救い出すことはできないのだ。(P41)
●表面的な偶然が達成された結果、資本主義が抱える本質的な偶然性、ギャンブル性も明確になった。その状況に人々が耐えられなくなっているのではないか。(P69)
●事件の外側で展開されてきた語りが、加害者本人によって忠実に模倣されて反復された。それを通じて、どちらの語りも解釈ゲームでしかないことを否応なしに見せつけられた。・・・Kの語りを通じて、私たちは、衝撃的な犯罪事件を語ってきた自分たちの浅さと気持ち悪さも見せられたのである。(P86)
●なぜ秋葉原なのか? 秋葉原こそは、Kにとっては、世界の中心、世界の臍だからであろう。世界の中心で絶対的な悪を犯せば、世界の中心で究極の破壊を遂行すれば、神としても無視することはできまい。(P150)
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