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2008年10月

2008年10月31日 (金)

アキハバラ発<00年代>への問い

 今年6月に秋葉原で起きた無差別殺傷事件。中学校まで優等生で高校で挫折した非正規雇用者。犯行の数日前からネットの掲示板に書き続けられた自己否定の言葉と犯行の実況中継。そしてオタクの聖地、日曜歩行者天国の秋葉原に車で突っ込みかつダガーナイフで刺殺してまわるという行動の特異性。この衝撃的事件は、政治経済的視点から、ネット社会とオタク文化の視点から、また格差社会の視点からと、事件発生当時、さまざまな視点で報道が繰り返された。が、いまや、結局一人の弱い人間の犯行という印象を残して、人々の記憶から消えようとしている。
 この一見わかりやすい事件をめぐって、幾数人もの社会学者、評論家、ジャーナリスト、作家らが集まり、それぞれ独自の立場からこの事件を論評し、同時に現代社会に抱える病巣をえぐり出す。
 集まった識者は総勢22名。全体は3部構成で、第1部ではもっぱら犯人を取り巻く社会環境の問題を、第2部では希代の社会学者が現代社会と人間疎外について、そして第3部では作家や演出家、マンガ評論家など現代社会に最も関わり同時代的に生きている感性からと、複眼的・多様な解釈や批評でこの事件が物語るもの、この事件を生み出したもの、そして我々がこの事件から汲み取るべきものをさまざまに示してくれる。
 編者である大澤氏は「世界の中心で神を呼ぶ」という評論で、現代社会に生きる若者の精神性を読み解く。「なぜKは『2ちゃんねる』ではなく『Mega-View』に書き込んだのか?」という情報環境研究の濱野智史氏の最近のネット環境の解説とその上に立った分析も興味深い。
 世界恐慌というとんでもない事態に巻き込まれつつある現代。我々はどう生きていけばいいのか。しかしこの評論集を読んで、モンスター化を加速してきたこれまでに比べ、縮小しつつある現在は意外に生きやすいかもしれないと何となく感じた。どうしようもなく孤独で不安で不安定だけど、小さく愛すべき人生を取り戻す。そんな時代のトバ口にいるような気がした。

●動機なき殺人がアリバイを持ってしまい、そこに社会の格差構造が重なった。仮に敵が独裁者であるならば、・・・非正規雇用者たちの不満や鬱憤は、レジスタンストして居場所を、あるいはテロリストとして名前を与えられたかもしれない。しかし可視化される敵はどこにもいない。(P20)
●いまや犯罪は、不完全な社会システムが必然的にはらんでしまうリスクとして一定の確率で生じ続け、一定のやり方で処理される。彼らはたまたまシステムに「選ばれた」にすぎず、そこにはいかなる必然性もない。だとすれば、犯罪すらも彼らを匿名性から救い出すことはできないのだ。(P41)
●表面的な偶然が達成された結果、資本主義が抱える本質的な偶然性、ギャンブル性も明確になった。その状況に人々が耐えられなくなっているのではないか。(P69)
●事件の外側で展開されてきた語りが、加害者本人によって忠実に模倣されて反復された。それを通じて、どちらの語りも解釈ゲームでしかないことを否応なしに見せつけられた。・・・Kの語りを通じて、私たちは、衝撃的な犯罪事件を語ってきた自分たちの浅さと気持ち悪さも見せられたのである。(P86)
●なぜ秋葉原なのか? 秋葉原こそは、Kにとっては、世界の中心、世界の臍だからであろう。世界の中心で絶対的な悪を犯せば、世界の中心で究極の破壊を遂行すれば、神としても無視することはできまい。(P150)

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2008年10月25日 (土)

家づくりの知恵

 吉田桂二(正確には「吉」は下の棒が長い)と言えば民家建築や民家再生の第一人者。その先達が語る家づくりに関するエッセイ。特に現代的課題である「環境」をテーマに、造り方だけでなく住み方、暮らし方、生き方までを縦横無尽に書き連ねる。エッセイと言うより放言に近いかも。
 書かれている内容は特別目新しいわけではないが、吉田桂二らしい。200年住宅について思いを巡らす項は、耐久性などの物的性能を通り越し、200年愛し続けられる住宅でなければならぬ、そのための意匠や形態、間取りまで考えていくあたりは面白い。国交省の役人風情では考えてもいなかったことだろうが(もちろん私も)、真剣に考えればそうならざるを得ない。年を重ねてきただけのことはある。

●長寿命の家にする要諦は「愛すべき家にする」のが大前提でなければならぬ。(P24)
●人間の造ったものは、人間自身、完成したと思っているんだろうが阿呆な奴め、これから俺が時間をかけて入念に完成してやるのだ。よく見ておけ。(P41)
●過去の上に将来を築くのでなければ進歩は望めないという鉄則を忘却した故の失敗とみられる。創造すると息巻いてみせたところで、真の創造が行えるのは天才のみという、厳しい言葉が思い起こされる。(P101)
●桂離宮は既に350年程の歳月を経ている。これこそが200年住宅のサンプルなのではあるまいか。(P120)

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2008年10月23日 (木)

建築家は住宅で何を考えているのか

 塔の家や住吉の長屋、ニラハウスなど現代に至る住宅の名作41点を、01家族像とプランニング、02ライフスタイル、03集住/かたち、04街/風景、05工業化と商品化、06リノベーションの可能性、07エコロジカルな住宅、08素材/構法、09ちいさな家、10住みつづける家、の10のカテゴリーに分けて、写真、図面と小文で紹介する。知らなかった住宅も多く、なかなか興味深い。
 中でも目を引いたのは、「10個の箱に解体された住宅 森山邸/西沢立衛」と「工業生産化とオープン部品化 Be/412g22/秋山東一」かな。前者は、3戸ほどの住宅が、10個の箱に解体され、廊下もなく向かい合いグルーピングされただけで、かつある程度のプライバシーも保ちつつ、開きかつ閉じているというもの。その大胆にして洗練されたデザインとプランニングは、住宅の本質や空間の意味と言う点でも革命的だ。
 また後者は、OMソーラーが一時取り組んでいたフォルクスハウスをオープン化し発展させたもので、その思想の一貫性と継続性に、まだ続けられていたのかと感動を覚えた。もちろん十分センスのあるデザインとなっている。
 各章と作品に添えられた小文の中で、共感と興味を引いたのは、「01家族像とプランニング」と「10住みつづける家」。家族像は前書『「51C」家族を容れるハコの戦後と現在』の影響。住みつづける家は、今読んでいる本につながるテーマでもある。デザインや生産システムも興味深いが、やはり住宅の本質や継続性を考えると、私の場合、この二つのテーマに最も関心がある。

●「東雲キャナルコート」は、集合住宅を構成する単位を、世帯というよりは、そのさらに小さな単位である個人にまで還元しようとしたプランである。家族でさえ個人の集合体であるとする主張は、きわめて現代的な都市生活者の姿と二重映しになって見えてくる。(P71)
●人口が密集した都心に住むことは、都市の活動と何らかの回路で結びつくことを目的としている。したがって本来ならば、社会に開かれた住宅が求められるはずである。都心の便利さだけを利用して、都市空間に対しては閉鎖的でいいと考える人には、都心に住む資格はないように思える。(P18)
●アルミの梁や柱は、大人一人でもてるくらい軽いため、素人でも取り扱い可能である。また、加工精度が高く図面通りの寸法ででき上がるため、現場での調整が少なくて済む。ホームセンターなどで注文したアルミの柱、梁、床などの部品をもち帰り、週末に住まいをリフォームする。そんな近未来の風景も楽しそうだ。(P217)
●現代の社会においてもっとも貴重な資源は「時間」かもしれない。いつまでも終わらない、ということはもっとも豊かな時間の使い方だ。(P271)
●そこで長い時間を過ごしてきた当事者=住まい手は、ひとつのものにたくさんの時間をだぶらせて見ることができる。新しく削られたフローリングを見るときにも、以前の黒ずんだ表情を思い出すことができる。既存のものに手を加えることは、記憶を損なうことではなく、記憶の厚みを増すことなのだ。(P279)
●街の中に自分の場所を見つけ出す「喜び」。そういった個人の記憶の積み重ねは街に豊かさをもたらすだろう。建物の集合としての街ではなく、小さいけれども開かれたパブリックスペースのネットワークとして街を考え、デザインしていくという可能性がある。(P295)

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2008年10月19日 (日)

ブログ論壇の誕生

 私も末端のブロガーの一人だと思うけど、佐々木氏の今回の著書では、ブログ世界で繰り広げられる言説がリアル社会を変えていく可能性と限界を、既成メディアや社会システムを牛耳る団塊世代とロストジェネレーション世代の対立という視点を持ち込みつつ、考察していく。
 小泉内閣の郵政民営化選挙の際に果たしたインターネット世界の影響に逆に嫌気が指したという中高年も多かっただろうが、その時をピークにブログ論壇の力が弱まったという指摘に対して、それは単に対立的なテーマがなかっただけで、新たな論壇テーマが現れれば、再びその実力が発揮されるだろう、と著者は言う。
 ネット論壇を担っているのがロストジェネレーション世代という設定が正しいのかどうかも多少疑問だが、安倍内閣・福田内閣の退陣、金融危機の勃発といった昨今の社会的状況に対して、ネット世界でどれだけの議論が巻き起こっているかかと考えても心許ない。
 「ネット論壇が公共圏へ昇華するために」というのが最後のパラグラフの項目名だが、そこまでになるためにはまだ少し時間がかかるだろう。書かれているように、新たなアーキテクチャが必要かもしれない。
 しかし書かれていることはどれもまさに「リアル」で、興味深いことこの上ない。公共圏まではいかなくても、マスコミに載らない多様な視点や立場からの意見や考え、思いを知ることができる今までにないメディアであることは間違いない。巻末につけられた佐々木氏がフィード購読しているというブログのいくつかを私も一度チェックしてみよう。

●ウィキペディアの編集行為が可視化されていれば、・・・省庁の職員や大企業の社員、さまざまな関係者・・・がいったい何を考え、どのように外界と関係しようとしているのかを認知することができるようになる。そうしたことが丸ごとひっくるめて見えてくるようになることによって、初めて人々は自分の目の前に起きていることが正義と正義の衝突なのか、それとも情報操作なのか、あるいはノイズのようなたわごとなのかを判断することができるようになる。(P55)
●ブログは、・・・書かれている内容だけを軸として、コメントやトラックバックによって議論を波及させていく。つまりは属人主義からの解放であり、「誰が書いたか」ではなく「何が書かれているか」を重視するパラダイムへの移行である。インターネット空間に生まれたこの新たなパラダイムは、マイクロ化されたデモクラシー、断片化されたポリティックスの可能性を切り開くかもしれない。・・・つまりは党派性によってではなく、課題ごとに議論が行われるような政治の枠組みである。(P69)
●人は、どこかで無条件に承認されることを本能的に求めている。・・・いまは農村も終身雇用制もなくなってしまって、承認される安息の場所としては、家族や恋人ぐらいしか残っていない。だったら家族や恋人のいない人は、どうやって自分が承認される安心感を抱くことができるのか?(P153)
●インターネット論壇がこうしたマイノリティ意識を乗り越え、「われわれの世論こそがリアルの世論である」という認識に達する日がやってくれば—そして衆愚化を防ぐ何らかのアーキテクチャを実現することができれば—いずれこのネット論壇の世界は、公共圏へと昇華していくことになるだろう。(P240)

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不正と裏金

 愛知県、岩手県を始め、多くの都道府県で、不正経理と裏金作りが行われていた、という報道には正直びっくりした。しかし、よくよく報道を読み聞きしてみると、国庫補助金についての会計検査で、補助の本体事業に伴い支給される事務費において、本体事業と直接関わりのない使途、例えば研修会への出張旅費などに使われていた、ということらしい。裏金については、年度末に発注して納品が4月以降にずれ込んだものなどのことらしい。年度内に作成された品目と納入された物品が異なるという事例もあるようで、業者への預け金のプールという表現がされていた。なるほど裏金とはそういうもののことですか。
 しかし、不正や裏金という言葉を聞いて想像するのは、私的な使い込みや飲み食いというイメージで、毎夜、国民の税金で宴会を繰り広げている姿が目に浮かぶ。
 そもそも今回「不正」と指摘された経理も、国の立場から見た不正であって、「国の補助金の対象経費としては認められません。都道府県独自の財布から出してください。」ということなので、国民からすれば、国税から出すか、県税から出すか、どちらにしろ負担の総額は変わらない。裏金についても、「飲食などには使われていない。」という言葉が真実ならば、補助金の年度会計や全額執行を原則とする仕組みの構造的な欠陥がもたらしている側面がある。
 この事件による国民の不利益はなんだったのかと冷静に考えてみると、正直よくわからなくなる。もちろん、行われた経理の実態は良くないが、その実態と使われた言葉の乖離のほうにより違和感を持った。不正や裏金というよりも「不適切な使途や経理」という表現のほうが適当なのではないか。マスコミが共同して使ったのか、会計検査院が最初に使ったのかわからないが、実は他の真の不正やウラを隠すために今この報道がされたのでは、なんていうことも考えてしまった。

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2008年10月18日 (土)

コマツナ、間引き菜収穫

Hatake0810
 ダイコン、ハクサイ、コマツナとみるみる育っていく。毎週のように間引きを重ねて、ようやくダイコン、ハクサイは適当な間隔になった。コマツナは間引きをしながらもぐんぐん成長し、ほとんど収穫。間引き菜でも十分な量があって、わが家の家計は大助かり。
 ニンジンも間引きを終え、大きくなるのを待つばかり。ちなみに一昨年の種のミズナはほとんど芽を出さず。
 ナスは大きくなり花も咲くもののさっぱり実を付けないようになったので、ほとんど枯れてしまったニガウリとともに撤去。ピーマンはもう少し様子を見よう。
 ネギもだいぶ成長してきたので少し収穫。サトイモは葉が少し枯れ始めた。そろそろ収穫しなくては。そう、来週かな。

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2008年10月17日 (金)

公営住宅と貧困系ニート

 先日、子供の権利条約等の活動をしているNPOの方から、公営住宅における子供の実態について話を聞く機会があった。非常に衝撃的な話で、公営住宅のあり方を考えるにあたり、無視できない内容だったので、ここに概要を紹介しようと思う。
 まず驚いたのは子供たちの実態。下の子供の面倒を見るために、学校へ通えない小学生。いつの間にか母親が帰ってこなくなりコンビニのバイトで生活を続ける高校生。夜の仕事をする母親と深夜まで団地で遊び惚ける子供たち。それでも義務教育のうちは学校も気にしているが、中学校を卒業すると誰の目も届かず、就職もできずに昼間からたむろするニートたち。報告者は、彼らのことを「貧困系ニート」と呼び、「引きこもり系ニートに対する施策は始められつつあるが、貧困系ニートには一切手が差し伸べられていない」と訴えた。
 この団地は昭和40年代に建設された1000戸以上の大規模団地で、実にその1/4が母子家庭。他に1割程度の外国人世帯もおり、現代の社会の歪み、格差が集約されたような状況だ。団地の自治会は残りの高齢者によって担われ、かつては盛んだった行事も今は夏の盆踊り大会程度しか行われていない。県営住宅、市営住宅の世帯がほとんどを占める小学校区は学級崩壊も著しいようだ。代々母子家庭で住み続けている家庭もあるなど、困窮が困窮を生む負の連鎖が続いている。
 学校の先生、児童委員、保健所、区役所など、それぞれの担当者へのヒアリングも行っているが、みんなが状況に対して危惧するものの、本来業務の多忙もあり、十分な手を差し伸べることができないジレンマ。近所のコンビニでは団地の子供たちをバイトに雇い、「朝からふき溜まる子供たちになるべく声をかけるようにしている」と言うが、地域の力にも限りがある。
 「彼らが暴走族などになるのですか」という質問に対して、「彼らにはバイクを買うようなお金もない」とか、「暴力団が目を付けるのか」に対して「最近の暴力団はワガママなので、それほど面倒見がよくはない」など、やや滑稽なやりとりもあったが、結局誰からも見捨てられた彼らは、同じ境遇の他団地の子供たちとつるんで、万引きや恐喝を繰り返すしか生きる方法を知らない。「団地の中で就労支援」とか「信頼できる大人が対応する子供の居場所づくり」といったとりあえずの提案はされ、実際既にこのNPOでは、一昨年から子供の居場所の運営実験を始め、現在は月1回の移動児童館や無料で勉強を教える「無料塾」を開設しているが、始めの一歩に過ぎない。
 低所得者ばかりを集める公営住宅の制度的欠陥や福祉施策と連携した住宅供給の必要性の指摘というあたりが、住宅問題の専門家としては第三者的にはまっとうな対応かもしれないが、現実の制度の前では空しい。公営住宅の応募倍率が10倍を超える中で、生活困窮者はこの数倍もいると思われるが、公営住宅団地に集中させたからこうした問題が起きているのか、集中しているから問題が「見える」のか、その実態も解明されているわけではない。もちろん全ての公営住宅で起きているわけではなく、一部の特別な団地の問題だという指摘も多分正しいのだと思う。
 いずれにせよ、今回の話は、もちろん無力感も感じるのだが、頭の片隅から離れない非常に衝撃的な報告だった。

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2008年10月15日 (水)

「51C」家族を容れるハコの戦後と現在

 「おひとりさまの老後」がベストセラーとなった上野千鶴子氏は有名なフェミニストにして社会学者だが、彼女を初めて目にしたのは、2001年に開催された建築学会主催のシンポジウム「公共住宅の行方を探る:岐阜北方集合住宅の試み」でのことだった。その時の知性のほとばしる発言には強烈なイメージが残っている。当時すでに山本理顕の設計した熊本県営保田窪住宅の住まい方調査を行い、建築家の空間で生活を規定しようとする習性を痛烈に批判していたが、本書は、その上野氏に、51Cの生みの親である鈴木成文氏と東雲キャナルコートを完成させた後の山本理顕氏を加えた3氏をパネラーに、布野修司、五十嵐太郎をそれぞれ司会に迎えて開催されたシンポジウム『「51C」は呪縛か。-集合住宅の戦後~現代をさぐる』を誌面化したものである。
 上野氏の直截な指摘に、高齢なはずの鈴木氏が柔軟かつ頑固に持論を説明し、山本氏がうまく受け止めつつ、より大きなテーマに展開していく様子はなかなか見物だ。当日はさらに面白かっただろうと想像する。
 上野氏の近代的家族像は既に終焉しているのに、住宅はそれに追い付いていないばかりか古いモデルに閉じこめようとしているという指摘は、かつては刺激的な言説と感じたが、最近は上野氏もケアと女性の生き方に関心が移ったらしいように、今となっては論点を浮かび上がらせるための、タメにする発言であったと感じる。
 賃貸、分譲マンション、戸建てと住まいを替えるたびに思うのは、人はどんな住まいであっても住みこなしていく存在であるということ。その中で、理想的な住まいをつくろうとする建築家の試みは当然至極の作業であるし、それが建築帝国主義だという指摘も正しいのだろう。そして、我々の考え方や生活が意外にも外部環境に規定されるというのも事実。51Cの計画手法や理念を借用したnLDKが想像以上に日本人の生き方に影響を与えたというのは理解できるとして、そこに設計者の功罪を求めるのは無理があるのではないか。環境と遺伝子の関係を誰も正確に規定できないように、環境に依存する人間にとって最適な環境なんて誰も答えることはできない。
 しかし、シンポジウムを経て、51Cの影響の本質を見抜く山本氏の眼力の鋭さには脱帽。このシンポジウムが生活と住宅の形を考える契機になったという点で意義があったとは思うが、上野氏を交えてはそれ以上にはならないとも思った。

●近代家族は今や終焉を迎えたのだそうである。それが現実の状況、人々の本音だといっても、本音に従ってさえいればいいわけではなかろう。・・・あるべき姿、目標像を立て、それに向かって住み手を引っ張り、誘導していかなくてはならない。それが51Cをつくった理念であり、建築計画というものである。(P37)
●一つの住宅に一つの家族が入るというその単位のつくられ方がもはや破綻していると思います。・・・ただ、その変わってしまった環境に応じることができるような、新たな生活単位のようなものを、もし想定することができるなら、その一つの単位はどうつくられるべきなのかという課題は、今や非常に重要だと思っています。・・・それをどう規定するかによって、街のつくられ方も変わるだろうし、地域全体がどうなるかも変わってしまうと思います。(P139)
●影響の本質的な部分は二つである。・・・①鉄の扉・・・「鉄の扉」はそのプライバシーの象徴だったのである。そのように私たちは受け止めたのである。鉄の扉で相互に隔離されるような生活の仕方を今では私たちは誰も疑わない。・・・②そしてもう一つ。この閉じた形式の住宅に家族という単位が過不足なく収まるということ。・・・真に革命的だったのは、住宅を内側のプランの問題として扱えるという発見だった。つまり、閉じた単位の内側の問題が住宅の問題であるという、そういう構図をつくったことである。(P157)

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2008年10月10日 (金)

建築史的モンダイ

 PR誌「たいせい」やWEBちくまに連載された建築的エッセイ26編を加筆収録し、書き下ろし2編を加えたもの。相変わらず軽妙な藤森節が炸裂。面白いことこの上ない。加えて、素人向けに、建築的見地からさまざまなことをわかりやすく説明しており、私の知らなかったことも満載。「ブルーノ・タウトはガラスを意欲的に使った世界最初の建築家だった」とか「アントニン・レーモンドが世界でもいち早く、打放しコンクリートに取り組んだ」とか。へぇ、そうだったんだぁ。
 世界のアンドーは、打放しコンクリートを壁構造で使ったから世界的評価を経た、という見方も藤森先生ならではの眼識だろう。ただただ信じてもいけないようにも思うけどもね。それにしても面白い。

  • 人類は、自然界の状態を読み解く能力の一つとして、美を感じる資格を入手した、とするなら、そうした対自然能力を、いつ建築という人工物にふり向けるようになったんだろう。(P012)
  • 時代に応じて新しいスタイルはもちろん成立する。・・・それまでのものが変化して新しいものが成立するところまではヨーロッパ建築と同じだが、その先で異なる。ヨーロッパ建築ならさらにまた変わるのに、日本では・・・次に新しく生まれたスタイルと併行して古いものも生き続ける。・・・スタイルが、ヨーロッパのように時代に従属しない。では何に従うかというと、用途に従う。(P044)
  • 火事というものへの基本的な心情が今の人とはちがったし、火事を巡る経済もちがった。火事があるかぎり資本は蓄積されないはずだから、”火事と資本主義”というテーマがあるんじゃないかと私はひそかに考えている。(P089)
  • 現代の建築界を内側から見ていると、”ハイ・テク”なんて言い方が流通していて、いかにも先端技術と取り組んでいるみたいだが、ハイ・テクったって鉄とガラスにせいぜいアルミを加えるくらいで、電子技術やバイオ技術から見ると百年遅れと言わざるをえない。(P180)
  • 二〇世紀の建築家は、ガラスを前に、一つの問を問われた。ガラスとは、そこに何もないと考えるのか、それとも、水晶のような透明な薄い石があると考えるのか。・・・タウトとミースの答は、ガラスは石の一つ。グロピウスの答は、ガラスは何もないと同じと思った。(P182)
  • WTCは史上初めて衆人にみとられながら死んだ超高層なのである。(P214)

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2008年10月 2日 (木)

ナイチンゲールの沈黙

 処女作「チーム・バチスタの栄光」はベストセラーになっただけでなく、映画化され、また今月にはテレビシリーズもスタートする。私自身が先々週から捻挫に始まる足のトラブルに見舞われ、外出もままならない中、書店で短時間に物色してこの本を入手。退屈な時間を埋めた。
 ミステリーや推理小説は10代の頃を除いてほとんど読んだことはないし、読みたいとも思ったこともないが、前著はなか楽しんで読んだ。その記憶で読み始めた本書は、最初、そのいかにエンターテイメント調の文体にこんなだったっけと少し後悔をした。それでも読み進めれば、非常に楽しめる展開と情感に訴える内容が、さすが海堂尊と思わせる。
 解説によれば、次作以降もこの東城大学病院を舞台に、複雑に絡み合った展開がされるという。その意味では第2作は「つなぎ」的な作品かもしれない。もちろんこの作品だけでも十分楽しめる。それがさらに輻輳していくというのはなんと楽しみではないか。今回のように少し落ち込んだ時など、心も癒してくれるやさしさが海堂作品にはあると言える。次作が楽しみだ。

  • 子供と医療を軽視する社会に、未来なんてないわ。(上P91)
  • わたしはね、負けてはダメと言っているんじゃない。負けてもいいの。人間なんて必ずどこかで負けるんだから。だけど怪我をしないような負け方を覚えないと、ね。(上P182)
  • 霞ヶ関の住人はみんな数字のカルトマニアだ。(下P72)

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