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2009年6月

2009年6月18日 (木)

環境の時代と住まいの可能性

 木造住宅を中心に活躍する建築家・三澤文子氏の講演会があったので参加した。三澤氏は奈良女の物理学科を卒業後、専門学校で建築を学びんだという異色の建築家。その後、藤本昌也氏が主宰する現代建築研究所で民家型構法を学び、夫の三澤康彦氏とともにMs建築設計事務所を設立し活躍するとともに、2001年から岐阜県が設立した岐阜県立森林アカデミーの教授として、木造建築のイロハから若者たちに教えてきた。この3月に同アカデミーの専任教授から退き、客員教授として週1回程度学生たちを指導するとともに、MOK-msdを立ち上げ、木構造に関する技術的な調査や改修設計等を行っている。
 こうした自身の経歴から始まり、民家型構法の彼女なりの定義や徳島・岐阜の林業家等と連携して開発した杉材の伐採・乾燥・製材・出荷プロセスの紹介まで、内容は多岐に渡った。
 中でも、特に力を入れて話していたのが「ウッドマイルズ」。木材のm3当たりの製造時CO2は鉄筋・鉄骨に比べて格段に小さい54kg・CO2/m3。しかし、輸送時CO2は地域材であれば20 kg・CO2/m3だが、輸入材であればその値は数百倍・数千倍に上る。両者を足し合わせたCO2排出量をウッドマイルズと定義し、地域材の活用を促そうというもの。
 その他、田中文男棟梁の話、製材ラーメン、Jプレートと呼ぶ建築金物のこと。さらに、自宅を含め、木を使った床、棚、風呂、台所の実例など、豊富なスライドで紹介。見るからに聞くからに気持ちのいい時間を過ごさせていただいた。
 最後に会場からの質問に対して、「大工の人材の不足についてはあまり心配していない。大工になりたいという若者も多いし、腕はあるのに仕事がないのが実情ではないでしょうか。」と答えていたのが印象的だった。
 同様の活動をしている建築家は三澤氏以外にも大勢おり、愛知県内でも現代計画研究所の民家型構法の流れをくむ足助の「ほるくす」やそこから分かれた大江忍さん、また愛知の木で家を造る会など、それぞれがさまざまな活動を展開している。これらをうまく統合することも考えないではないが、これらの多様な活動が切磋琢磨しつつ木造住宅の良さをアピールすることで、本当の意味での木造文化が改めて日本に定着していくのだろうと思う。三澤先生が冒頭に話された、日本人の8割は木造志向、戸建て住宅の8割は木造というデータを思い起こし、(200年住宅のように)変に誘導するのではなく、真摯に木造の良さを伝える努力を重ねることが必要なのだと思う。
 ところで、この講演会に参加した最大の目的は、私のかつての部下が三澤先生の事務所に就職しており、「彼女をよろしく」と伝えること。講演会後、岐阜県内の担当現場に行っていた彼女が講演会終了に合わせて迎えに来ており、久しぶりの再会を果たすことができた。たくましくなって、と言いたいがあまり変わってないような・・・。それでも5年で独立が先生の方針だそうで、あと3年。それまでにはさらに腕を磨き、この地域で、Ms設計ならぬNs設計として、又はMOK-msdならぬMOK-nndとして、独立開業する日が来ることを楽しみにしている。その時はわが家の改修でもお願いしようかな。住宅ローンが完済できないうちはまだ無理か。

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2009年6月12日 (金)

住宅政策のどこが問題か

 住宅問題に関する新書はそう多くない。とりあえず早川和男による「居住福祉」(岩波新書)くらいしか思い浮かばないが、これはかなり偏った視点から書かれていたように記憶する。本書の著者の平山洋介も早川門下の一人ではあるが、15年ほども前に出版された「コミュニティ・ベースト・ハウジング」を読んで以来、その動向には注目をしていた。2006年に発行された「東京の果て」では、本書で書かれた「住宅システムの市場化」や「住宅のメインストリーム」の不安定化、ベビーブーマーとバスターの差異などの問題が既に書き表されているが、東京/地方問題など著者の旺盛な好奇心に紛れて、多様な問題点の一つという印象だった。この問題に焦点を当てて書かれた本書では、公営住宅制度を始めとする住宅政策に対して強烈な批判が繰り返されている。
 著者の主張の基本的な認識は次のフレーズに集約される。

●日本の福祉国家にとって、住宅所有を促進するシステムは社会統合を図るための仕組みである。・・・経済が成長し、中間層の持家が増え、そしてメインストリームが拡大する、という方向性を社会に埋め込むことが福祉国家の関心事であった。(P42)

 しかし、新自由主義と保守主義があいまった日本独自の持家中心の住宅政策では、「梯子」からこぼれ落ちる、または足をかけることすら許されない人びとが増えてきている。特に、従来の世帯単位での調査・分析では見えてこない世帯内単身者や扶養配偶者が、保守主義的な住宅システムゆえに世帯内に閉じこめられている。若しくは離婚や親の老齢化があれば途端に住宅困窮に落ち込んでしまう。住宅問題を個人レベルで捉えるべきだという主張は拝聴に値する。
 しかし、「『梯子』への最初の足がかりを作れ」という主張と、「梯子」システム自体への批判はどう両立させるのか、という疑問は残る。貸家支援を充実し、戦前のように持家と貸家が両存する仕組みへ変わることを理想としているようだが、本当にそうだろうか。貸家という存在は、貸し手と借り手という2者があって成り立つ。かつ両者は等分の権利と利益を有するべき、というのは理想論に過ぎないのではないか。逆に、居住権と所有権の一体保護(全世帯持家化支援?)という視点も成り立つはず。読後に過去の読書歴を振り返っていて、「土地・持家コンプレックス」(山田良治/日本経済評論社)を再発見した。もう一度読み直すことが必要かもしれない。
 「おわりに」で、特定の「主義」への依拠をたしなめる記述があるが、著者自身も別の意味で特定の「主義」から執筆・主張しているように感じられる。「複数の方法の組み合わせ」という主張は正しいと思うが、そのベストミックスにいかに到達するかはかなり難しい。
 新書版で住宅問題に警告を発する本が発行されるのは、一般人に住宅政策が抱える矛盾や問題を周知する点で意義は大きい。その意味では、本書のように少し過激なくらいの書きぶりの方が注意喚起に資するのかもしれない。しかし書きぶりはあまりに難解。「あとがき」に「センセーショナルな言葉づかいばかりが目立つ本が好まれ、どんどん消費される。本書は、新書としては読みやすいとは言えないし、地味なんだろうな、と思う。」(P296)とあるが、それにしても「難解」。もう少し何とかならないものだろうか。

●政府が住宅システムの市場化に踏み切った背景には、住まいと住宅ローンを市場経済に委ねても、社会統合の安定は崩れないという読みがある。住宅問題を計測するうえで政府は重視した指標は、住宅建築の量と質であった。・・・これらの指標からすれば、住宅問題はすでに緩和し、住宅システムの市場化は社会不安を起こさないと考えられている。(P88)

●世帯主を重視する世帯単位の分析では若年層の住宅条件の分析は困難である。・・・世帯主の多くは男性であることから、世帯主に注目した世帯レベルの分析では女性の状態は把握できない。・・・世帯レベルの分析は、子ども、若い人たち、女性、高齢者など、世帯主以外の世帯員の状況を覆い隠す効果さえもつ。(P166)

●政府が助けるのは、住まいの「梯子」に加わった世帯形成者である。ひとたび「梯子」を登り始めた人たちはシステムの援助を得る。「梯子」に加わるための最初の「足がかり」を準備し、世帯内単身者と単身者の住宅確保を促進するシステムは存在しない。(P187)

●日本の福祉国家が住宅システムの運営において重視するのは、個人としての人間の社会権の尊重ではなく、その集団としての社会の統合である。人びとが住まいの「梯子」を登り、社会の「流れ」に合流するというパターンが社会安定を支えると想定されてきた。住宅困窮が社会統合を脅かすまでに増大するのであれば、住宅保障の政策は拡大する。しかし、「梯子」を登っていない人たちが存在しても、それが「流れ」を破壊するほどのマグニチュードをもたない限り、彼らを保護する必要は小さいと判断される。(P243)

●何らかの特定の「主義」を純化し、それに過度に依拠する方針は危険である。新自由主義の政策再編は、純粋な市場経済を拡大しようとし、暮らしの基盤を深く傷つけた。純化した保守主義は社会標準の生き方しか支持せず。そこからはずれる人たちを冷遇する。特化した「主義」によってシステムを運営できるほど社会は単純ではないし、単調でもない。特定の「主義」を強調するのではなく、複数の方法の組み合わせによって住宅システムの適切なあり方を検討することが必要である。(P289)

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2009年6月 6日 (土)

まちづくりのツボ教えます

 5日開催されたまちづくりシンポジウムに参加した。講師は近畿大の久隆浩教授。「まちづくりのツボ教えます」とは何ともベタな演題。若干のいかがわしさを感じつつ、あまり期待せずに参加。最近の疲れもあり、冒頭はうつらうつらしていたが、途中から面白さに目が覚めた。
 久先生は土木出身で、都市計画専攻とはいえ、ここまでどっぷり現場に浸かっているのはめずらしい。その極端なまでの現場主義が土木らしいと言えばらしいが。
 「人任せの人が増えている」とか「これは資本主義と法治主義という近代という時代の特徴」といった冒頭の話は当たり前で、しばらく意識が飛んでいたが、「『合意形成や意思決定を前提としない情報交換の場』をいくつかの地区で100回以上も続けている」という辺りから目が覚めてきた。その会合では、「今日は何の話をしましょうか?」から始まり、「じゃ、近況報告でもお願いします。」で順に話し始め、興味が募る話題や相談事などがあればその話題で盛り上がる。「面白くない」という人には「じゃ、あなたが面白い話をしてください。」と言い、「人が増えない」という人には「じゃ、あなたが誰かを誘ってきてください。」と言い、みんなで盛り上げ、誰もお客さんにしない。
 これはあくまで情報交換や意見交換の「場」であって、活動を行う「組織」ではない。交流の場から活動のための組織が必要だと思う人が集まれば、その有志が組織を作り活動を始める。活動のためには組織も必要だが、しっかりした組織は参加者の固定や活動の硬直化も生む。交流の場はあくまで気軽で出入り自由なゆるやかなつながりの場にとどまり、だからこそいつまでも続く強さを持っている。
 「考えてみてください。夕食の献立を家族会議で決定する家庭はないでしょ。多くの物事はこうして特別な合意形成・意思決定の手続きを経ずとも決まっていくものなのです。」と、地域を家族の仕組みでやっていこうと提案する。なるほど。でも、地域の大きさにもよるだろうが、自由参加で最初から20人も集まる集団というのは少ないのではないか。せいぜい5・6人。そして次第に日程が合わず下火になる、というのが通常の経緯。やはり先生の盛り上げが必須なのでは。そんなことも聞きたかったが、衆目の中では遠慮してしまいました。
 後半はやや硬い制度論。近代が制度による秩序維持の時代であったのに対して、ポストモダンの現代はコミュニケーションで新たな社会秩序を生み出すことが必要になっている。わからないではないが、ようするに昔に帰って新たな秩序を模索する、ということ? 制度に慣れた人間をもう一度こうした場に引き込むことが大変。そのための「交流の場」という主張。
 最後は行政職員向けに実践的提案。説明をするのではなく、相手の意見を聞くことが大事。反対意見が出たら、「じゃ、やめます。」と言ったらどうですか。「それじゃ困る。進めてくれ。」という声も出てくるはず。そうすれば、反対派と推進派の住民同士の話し合いになる。それが「住民同士が主体的に対話をしてもらう機会づくり」
 「事業が頓挫してもクビにはならないから」と言われても、なかなかそうした対応はできないもの。それというのも事業の方針があって初めて組織ができ、担当者が配置されるから。何をするか決まらないところに住民の意見を聞くための担当者を置く。行政組織を、そうした住民対応・地区対応のあり方に変えていくところから始める必要がある。
 先生の言われることはよくわかる。しかしそのためには、自治体だけではなく、市民も企業も国も、すべてがポストモダンの時代に合わせた行動を起こしていく必要がある。できるところから、できることをやる。「それで世の中は変わっていきますよ」と言えるメンタリティを万人が持つのは難しいが、時代がそうした風潮に動き出しているという気はする。
 何が効くのかは本当のところはわからないが、「そのツボ、気持ちいい」のは確か。信じるものは救われるカモ・ネ。

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