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2009年7月

2009年7月25日 (土)

美濃市 うだつのあがる町並み

5455 今やすっかり定着した夏休み最初の3連休。どこも行かずに過ぎ去ろうとした連休の最終日、3年前に訪れた美濃市がいいからと妻を誘って、「うだつのあがる町並み 美濃市」をめざした。美濃ICまで小1時間。昼食はさらに15分ほど山間に入った洞戸観光ヤナで楽しんだが、その様子は別のブログに書いたので、こちらでは美濃市の町並みを紹介する。
 1時半過ぎに美濃の町並み保存地区に入り、美濃和紙あかりアート館裏の駐車場に車を止める。あかりアート館は3年前も入ったが、アート展の作品を中心にさらに展示が充実した印象。しばし涼をとって旧今井家住宅美濃史料館へ向かう。目の字の通りは昔のとおり、古い町並が見事に保存されている。
5433 旧今井家の手前、「山根 和紙の店」で引っかかる。建物自体は新しいと思うけれど、美濃和紙を扱い、可愛らしいディスプレイで女性で賑わっていた。旧今井家住宅・美濃史料館は奥にいくつも蔵が続き、和紙問屋の盛時の様子を窺わせる。店の間の天井にある明かり取りが美しい。
 3年前と同様、町並みを東のはずれまで歩き、南側の通りを歩いて戻る。当時改装中だった小坂家(重文でない方)もきれいに整備されている。隣に並ぶ「紙遊」に入る。紙の倉庫として使われていたという木造の建物で小屋組も露に利用している。奥にカフェもあるが、ひとしきり見て次に進む。
5443 「百春蔵元 小坂酒造場」はむくり屋根の重文に指定された立派な造りだ。奥の蔵をギャラリーに開放しており、深井戸なども見ることができる。お酒は飲めなくて申し訳ないけど、建物は十分楽しませてもらった。
 さすがに疲れて喫茶店を探す。八百屋を改修したという「Abeille.S」は網状の大きな看板が掲げられ、室内にはレトロな照明看板とモダンなテーブル・ソファが並ぶカフェ・ケーキ屋さん。ケーキセットを楽しむとともに、お土産にパンを買って帰ったが、どれもおいしく楽しめた。
5445 3年前に閉店したスーパーだった店舗は、おしゃれなブティックに生まれ変わっていた。伝統的な造りではないけれど、きれいにリフォームされ、町並みのじゃまはしていない。
 町並みギャラリー山田家住宅は、江戸時代に建てられた町医者の家を改装したギャラリーで、当主は現在も東京で小児科を開業しているとのこと。玄関をくぐると小さな坪庭があり、奥にはミセノマ・ザシキノマが一続きになった広いスペースに和紙工芸が飾られていた。
 目の字の間の路地を通ってポケットパーク向かいの観光案内所に寄る。ここにも美濃和紙が売られており、きれいな格子柄の和紙を1枚300円で購入した。向かいの武藤家は蕎麦屋になり、その並びの妻入りの民家はあかりの専門店になっていた。このあたりのお店はどこも趣味がよく元気がある。
5465 目の字をぐるっと約2時間半。駐車場に戻って帰路につく。帰りに旧名鉄美濃駅に寄ってみた。赤・赤・緑と可愛い車両が3両並び、懐かしい鉄道グッズが売られている。駅舎も山型屋根のシンメトリーな造りで可愛かった。
 美濃の町並みは3年前に比べ、少しずつ整備され変化しているが、そんなに大きくは変わっていない。変に観光化もされず、昔どおりの気持ちのいい雰囲気がそのまま。まだ寄っていないカフェやお店もたくさんあるし、家から小1時間で着くこともわかったし、またいつでも気楽に訪れよう。そんな気になった美濃市再訪でした。

【参考】
うだつのあがる町並み 美濃市:まちづくり あれこれ
●マイフォト「美濃市 うだつのあがる町並み」もごらんください。

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2009年7月19日 (日)

足助のその後 定住者が着実に増えている

 久しぶりに足助を訪れた。高嶺下(こうろげ)地区にお住まいのAさんに仕事の依頼をするのが目的だったが、ついでに「にこにこさくせん」他の住宅地を回ってきた。
5373 足助に行くのは何年ぶりだろう。3年ぶりかな? 前に行ったときは私がいたとき(5年前)の状況から大きくは変わっていないという印象だったが、5年も経つといろいろと変化が目につく。
 藤岡町から矢作川に架かる赤い加茂橋を渡り、月原(わちばら)から足助に入った。橋のたもとの土地は、かつて「にこにこさくせん」で紹介して買い手のつかなかったところだが、今回訪問したら立派なログ風の住宅が建っていた。
 さらに進むと道路右側の川沿いに新しい住宅が2軒並ぶのは、渡合(どあい)地区でここは5年前には既に住宅が建設されていたが、その次の右手奥の住宅地、石取り場の跡地を開発した「イーハトーブの里」には、「残り2宅地」の看板が掲げられていた。前に訪問したときにはプレハブ住宅も多かったが、新しい住宅は伝統的な意匠を採用した住宅が目立つ。たぶん開発初期には地元出身の若い世帯が多かったが、最近の入居者は山里の暮らしを求めてくる外来者が多いのではないか。いずれにせよ私がいたときには、地元で開発を推進していた方ともども将来的な見通しに不安を抱いていただけに本当によかった。
5375  御蔵(みくら)小学校を過ぎすぐの「御蔵の里」は私の任期中に土地を購入いただきすぐに住宅が建設されたが、もうすっかり緑に蔽われ土地になじんでいる。その先の小町(こちょう)地区は、道路付きの宅地にはすぐにログ風の山荘が建設され、薪や芝生がきれいな景観を作っていたが、奥の宅地がなかなか売れなかった。今回訪問したら立派な山荘ロッジ風の住宅が建っていた。急勾配の狭い道を見ては、汗を流して草刈りしたことを思い出し、よかったなあと思うと同時にほっとした。
5389  御蔵から大蔵を経て開通した足助バイパスの東、富岡から国道153号に出る。新盛の公民館・扶桑館では多くの車が止まっていた。名古屋ナンバーも多かったから何かのイベントでもやっていたのだろう。明川(あすかわ)の交差点から右に入り五反田地区に入っていく。ここは農作業に熱心だった熟年の定住希望者に購入いただいたということは聞いていたが、2軒並んで建っているのを見るのはうれしい。子どもの洗濯物が干されていたのは子ども世帯と一緒に住んでいるのかな。地域の人も喜んでいるだろう。
 この後、一路、道を下って萩野小学校から県道33号に至り、百年草の前を通って西に向かう。香嵐渓では多くの人が川に浸かり涼を取っていた。かつての役場は耐震改修を施し、足助支所として変わらぬ姿を見せている。足助保育園から橋を過ぎて白鷺温泉に向かう道は長らく工事中だったがもう開通していた。だが、そこから下山に向かう県道77号は昔のまま、狭く山間をくねくねと続く。野林の手前で道を間違えて沢ノ堂、冷田に向かってしまったのはご愛敬。
5393  戻ってようやくたどり着いた野林地区高嶺下は、町営住宅前の広場が整備され、地区内の道路も舗装されていた。そういえば舗装するかどうかで議論があったっけ。6区画だがまだ5軒しか建ってない。途中で脱却したMさんが夢去りがたく、地元のKさんの口利きで購入した町営住宅横の山の中には立派なログハウスが建っていた。
 Aさんには大歓迎で迎えていただいた。ベランダで涼風を感じつつ食べた五平餅とケーキは美味しかった。打合せ後、国谷(くにや)地区も訪ねると、集会所の奥に1軒家が建っている。ああ、売れたのか。よかったなあ。手前の空き地にも住宅が建てられ、少しずつ定住者が増えている。
5379  足助と言っても広いし、半日で回りきれるわけもないが、私が関わった地区のいくつかを回っただけでも、定住が少しずつ進んでいるようだ。一方で亡くなる方もいるだろうから、人口増というわけにはいかないだろうが、山の暮らし、農のある暮らしが少しずつ支持され、山里で暮らそうと考える人が増えていくのはいいことではないか。こうした動きが足助地域全体にどういう効果をもたらしているのか。そろそろその検証を行ってもいい頃かもしれない。今も足助のまちづくりに多少とも関わっているKさんや支所のSさんに持ちかけてみようか。
 やはりたまに訪問すると懐かしい。今回同行したYさんに「第二の故郷があっていいですね。」と言われたが、ホントそうかもしれない。この調子で少しずつ足助が元気になっていくとうれしいな。

【参考】
足助のすまいづくり:すまいづくり あれこれ
足助のまちづくり2:まちづくり あれこれ
足助 罵詈雑言

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2009年7月15日 (水)

住宅施策の鬼っ子 公営住宅の行く末

 最近つくづく感じるのは、公営住宅は戦後住宅施策が生んだ最大の鬼っ子だということである。戦後住宅施策の三本柱と言えば、住宅公団、住宅金融公庫と公営住宅である。そしてそれらを計画論的に支えたのが住宅建設計画であったというのが、一般に言われる戦後住宅政策の構図である。
 しかし平成に入り、住宅公団、住宅金融公庫が解体され、平成18年度には住宅建設計画法も廃止された。代わりに制定されたのが住生活基本法であり、国交省住宅局は生活省庁としての一歩を踏み出した。住宅不足という戦後最大の住宅問題が解決された以上は、方向転換とその方向に大きな誤りはないように見える。しかし如何せんツールがない。そこで模索しているのが、厚労省との連携であり、環境問題など他の行政課題へのアプローチである。省際局となり果てている。
 省際課題は他省庁がある程度取り組んでいる分野でもあり、住宅施策としてどう取り組むのか、非常に難しい。最近の厚労省と連携した高齢者対策は、経費削減をしたい厚労省の思惑に乗せられ、地方自治体を生贄に、実より名を取った愚策に見えてならない。まあ、こうした愚にもつかない施策を重ねた末に、厚労省の再編にうまく乗っかって、国民生活省の一郭に居を移すことができれば最大のヒットだろうが、うまく行くだろうか。
 こうして住宅施策が行き詰まっている中、むくむくと育ち、社会にとっての最大の鬼っ子になりつつあるのが公営住宅である。
 先日、指定管理者として公営住宅の管理を受託している組織の方に、最近の公営住宅の状況について伺う機会があった。公営住宅における外国人問題や自治会運営の崩壊、母子家庭等の増加による子どもの貧困問題の発生など、これまでも機会がある毎にこうした現況はこのブログでも報告してきたが、先日の話の中でもっとも興味を惹いたのは、低所得世帯が集積し、家賃未納者が増加しているという報告である。
 家賃未納については、今後、督促事務や悪質者に対する法的措置等により年度内では帳尻を合わせる方向で努力をするのだろうが、その原因である低所得者の増加はますます深刻になっている。
 そもそも低所得者向け住宅であるから低所得者が多いのは当たり前だが、最近の(そして今後も長く続くと思われる)経済不況の中で、所得が上昇し、公営住宅から移転していく世帯は非常に少なくなっている。それに加え、新規入居者の低所得化が拍車をかける。
 先日の話によれば、現入居者の所得分布は、所得区分1(所得月額104,000円以下:所得分位で下から10%以下)の世帯が6割。所得月額がこの半分(52,000円)以下の世帯が約4割。これに対して新規入居者の収入分布は10%以下の世帯が8割だそうである。所得月額とは、年間総所得から各種所得控除をし、月額に換算したもので、所得区分1では二人家族で年収2,584,000円未満。その半分の所得月額を年収換算すると、二人世帯で年収1,672,000円となる。(4人家族だと所得区分1で年収3,664,000未満、その半分では年収2,940,000円未満。)
 公営住宅の募集が高倍率な要因として、高額所得者がいつまでも居座っていることを指摘する論調も多いが、高額所得者として指導対象とされる所得月額397,000円以上の世帯(二人世帯で年収7,048,889円以上)は全体の2%未満に過ぎず、これらの世帯が全て退去したとしても倍率が大幅に改善されるわけではない。
 ある研究者が「公営住宅はスラムの再生産をしている。新たな部落問題を作っている」と指摘されていたが、まさにその方向へひたすら進んでいるというのが公営住宅の現状だ。この問題を住宅施策として解決するとすれば、収入基準を撤廃し高額所得者も入居できるようにするか、公営住宅を払い下げて撤廃するかのいずれかしかないのではないか。
 もしくは、いずれの方策も取れないのであれば、現実的な対応として、福祉施策と強力なタッグを組んで、低所得者集住地区として生活支援を行うしかない。もちろん、都市住宅施策としても、福祉施策としても正しく方向ではないし、福祉サイドにこうした認識はほとんどないのが現状だろう。そして、いよいよスラム化が進んでいく。公営住宅が住宅施策の最大の鬼っ子と考える理由である。

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2009年7月 2日 (木)

災害社会

 筆者は東大卒業後、富山大学でスロー地震などを研究し、2002年より京都大学防災研究所で教授を務めている地震学の専門家である。2008年の四川大地震や岩手・宮城内陸地震などのホットな地震災害を題材に、海溝型地震、内陸型地震のメカニズムと軟弱堆積層による長周期地震動など最新の地震学の知見を紹介するとともに、災害は自然現象としての危険因子に人間社会の脆弱性が合わさって発生するという観点から、都市開発や社会・経済政策に対して警鐘を鳴らす。
 前半の地震メカニズムの概説は専門的な内容がやさしく説明されており、わかりやすい。しかし筆者が言いたいことは政治・経済政策における不作為であり、危険性を技術的に克服する以前に、危険性が明らかなところに建物を建築したり、都市開発をしないことが必要だろうと訴える。特に、長周期地震動に対する超高層ビルへの対策として6つの具体的な提案がされている。
 第8章以降は、地震学から離れ、格差社会批判や地球温暖化対策、「農」の不安、自由貿易批判などに及んでいく。タネ本は「格差社会」(橋本俊詔・岩波新書)や「金融権力」(本山美彦・岩波新書)、「『農』をどう捉えるか」(原洋之介・書籍工房早山)などで、一面的な感がしないでもない。最後に附章として「学問と社会-京都大学らしさとは?」と題する論考が附けられているが、これを読むと、筆者の退職間際の集大成として執筆された本なのかなという気もする。
 一言で言えば「地震学者による社会への警鐘」と言えばよいだろうか。筆者の社会政策に対する主張が必ずしも正しいわけではないと思うが、少なからず社会政策に関わる人には一読して欲しい書籍ではある。

●危険因子が社会の脆弱性に出会ったときに災害は生じる。地震が発生しても、社会が脆弱でなければ、災害は発生しない。・・・危険因子と脆弱性を合わせたものを「リスク」と呼ぶ。(P21)
●そもそも、「プレート・テクトニクスの枠組によって駿河湾が抱える地震リスクが明確になった」以降に、三号機から五号機が増設され続けてきたことに根本的な疑念を感じる。原子力発電所のようなものは巨大地震の断層の真上のように危険な場所を避けることは、耐震強度以前の問題なのではないだろうか。(P78)
●地震による人的被害を減らすための急所は、その頃(戦後から高度成長期の1980年頃まで)に急速に拡大したに大都市郊外の密集市街地と住宅地である。・・・もし「地震=断層滑り説」の証明の方が先だったら、もし活断層学の発展が先だったら、事情はずいぶん違っていただろう。(P91)
●日本の政治と経済のリーダーたちは、なぜ、地震学的「危険因子」と「増幅要因」を無視した、超高層ビルの乱立というリスクに満ちた政策をとるのだろうか? 子供の世代や孫の世代に地震リスクを先送りしているだけではないだろうか。(P131)
●私が四川大地震から再認識したことは、非常時においては、平常時に行われている以上のことは期待できないということである。平常時の医療が崩壊の危機に瀕しているところで、非常時の災害医療がうまく機能するはずがない。平常時の「食」が危機に瀕しているところで、非常時の「食」の供給がうまくいくはずがない。(P187)

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