« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »

2009年9月

2009年9月25日 (金)

エコビレッジ志段味 もうすぐ完成

6167 荒川修作の奇抜なデザインで注目を集めたシティファミリー志段味を囲んだ広い敷地が昨年度から仮囲いで囲まれ、建築工事が行われてきたが、いよいよ最近仮囲いを外し、その全貌が見えるようになった。エコビレッジ志段味である。総戸数約200戸を予定するが、とりあえず今回完成するのは第1期分の74戸。特定公共賃貸住宅で中堅所得者世帯向けの定住促進住宅だ。
 名古屋市がめざす「循環型環境都市」のモデル的な位置付けの下、環境に配慮したさまざまな技術や取り組みが仕組まれている。太陽光発電やエコジョーズ給湯器、雨水貯留槽、共同生ゴミ処理機の設置、壁面緑化、ビオトープ、共同菜園の配置などの設備・仕様に加え、三面採光や風光ボイド、中庭を中心とした囲み配置など、住宅計画的にも意欲的な試みを行っている。加えて、住棟のカラーリングを椙山女学園大学の村上研究室に依頼して、見るからに楽しく目を惹く住宅となっている。
6187 敷地面積12,582m2に対して、建築面積2,387m2、延床面積6,139m2と非常にゆったりとした配置となっており、住棟は4階建てのRC造。74戸のうち70戸は66~68m2の2LDK、78m2・3LDKは4戸という構成。家賃はそれぞれ66,000円と74,000円だが、就学前の幼児がいる子育て世帯は2割引になるという。既に募集は終了しており、3LDKについては8倍を超える倍率、2LDKについても全体では1.3倍程度で、空住戸の再募集に対しては2.6倍の倍率がついたそうだ。
 もう一つの売りは子育て支援室が併設された集会所で、こちらは木造平屋建ての240m2。授乳室や相談室も設置されている。
6181 家賃については、募集前に不動産鑑定を取ったところ、これよりも低い結果だったと言う。確かに鉄道駅には遠く、最寄り交通機関はゆとりーとラインで、栄や千種へは大曽根で乗り換えなければならないという立地上の不利はあるものの、住宅の質や環境を考えれば「安い」という評価がされたのではないか。駐車場料金は1台4,000円を予定しており、1戸に付き1台までという制約が敬遠要因として働いたと聞く。
6201 しかし実に意欲的な設計・デザインである。中庭を囲んで南北に配された住棟は敷地内側で渡り廊下で連結され、そこに設置されたエレベーターで全戸アプローチが可能になっている。各住棟は2戸又は1戸ずつのクラスターとなって三面採光・通風を可能としている。囲まれた中庭も程よい広さで全体として非常に明るい住宅群となっている。北側住棟の1階部分は南入りとしコミュニティにも配慮した。
 共同菜園や生ゴミ処理機、子育て支援室の利用については、原則として入居者の自主管理に委ねることとしているが、実際にどう使われるか興味がある。敷地最北・道路沿いのビオトープもどうなることか。
 名古屋市はこの春に市長が替わり、新市長からは2期以降の実施について明確な指示は出ていないと聞く。確かにかなり贅沢な感じがしないでもないが、こうした住宅が普通に造られるようになれば、われわれの住生活もゆたかさが実感できるようになるのだろう。公共住宅の役割の一つとしての先導性に意欲的にチャレンジしており、技術者としてはうらやましさを覚える。事業収支や公平性など難しい問題もあるのだろうが、できればこのまま2期までやり遂げた上で、将来の評価に委ねることができればと思う。公共住宅の役割という観点からも興味深い。

【参考】マイフォト「エコビレッジ志段味」もごらんください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月17日 (木)

内子・大洲 - 伊予を巡る

6055 内子町は江戸末期から明治時代にかけて、木蝋の生産で賑わった山あいの町である。人口は2万人弱。果樹や椎茸など農業生産が主体で高齢化も進行している。昭和57年に重要伝統的建造物群保存地区に指定され、平成11年度から17年度にかけて街なみ環境整備事業により住宅等の修景整備や通路、ポケットパーク等の整備を行った。この結果、今では年間50万人もの人々が訪れる観光地となり、私が訪れた日も多くの観光客が町並を歩いていた。
 最北の町並駐車場でバスを降り、無電柱化・カラー舗装された通りを南に下っていく。まず右手に八日市・護国町並保存センターがある。白壁に格子、2階の丸い縁取りの虫籠窓、腰のなまこ壁が美しい。階段を上がった2階に街なみ環境整備事業の経緯や修景整備された住宅の従前・従後と建築主のコメントなどが展示されている。今では美しい内子の町並だが、多くの建物が修景されて現在の景観がつくられていることに驚いた。
6037 いくつかの民家は店先に地場産品等を並べ店舗になっている。2階を見上げると白壁に黒い縁取りの格子まで塗り込めた虫籠窓。その間に鬼が笑っているような鏝絵が飾られている。
 街なみ環境整備事業で整備した木橋を渡ると、右手にポケットパークがあり休憩所が整備されている。そのすぐ南の路地の先、瓦の乗った土塀の裏には内子中学校のグラウンドが広がっている。木造校舎も傾斜屋根で景観に配慮されている。
 重要文化財の上芳我邸は修理工事中で、裏手に大きく廻った先に木蝋資料館の入口がある。展示棟は新しい建物だが、蔵風の造りで展示も見やすい。ちなみにクイズ全問正解で絵葉書をもらった。黒漆喰の上に「勢」に似た字が躍る白壁格子の民家の隣が中芳我邸だが、有料なため入らなかった。
5963_2 しばらく行くと、鶴の文様の色鏝絵が妻面を飾る本芳我家が現れる。こちらも重要文化財。破風下のこの飾りを懸魚と言う。通りに面した平側の2階壁下には、鶴や亀が波や風に遊ぶ鏝絵が並べられ、2階のなまこ壁の平瓦は六角形のものが用いられている。また隣に並ぶ砂ずり壁の妻入りの蔵も見事。朝日をバックにした鶴鏝絵の懸魚が艶めかしい。
 その隣にあるのが大村家。同じく重要文化財でこの通りで一番古い建物ということだが、まだ整備前で言われなければ見落としてしまいかねない。町役場からは「上芳我邸の修理工事が終わった後、来年度から修景整備に入る予定です。」という話を聞いた。街なみ環境整備事業による修景整備は、補助率2/3で補助限度額が500万円。重要伝統的建造物群保存地区の文化庁補助の場合は、補助率80%で限度額も無制限になるという。重伝建補助は文化庁予算が少なくそれほど多くは採択されないと聞いたが、それでも毎年2~3棟は整備をしてきているとのこと。また、地区内で建物の整備等を行うためには町の許可が必要で、許可証を掲示して工事をされている住宅も見られた。
6023 さらに足を進める。各住宅を見ると、ベージュ色の壁のもの、防火壁が飛び出たもの、側壁の下部が滑らかにカーブを描くもの、虫籠窓の間に文様の入ったもの、窓下に床几が広げられ商品が並べられている家などそれぞれ工夫を凝らした意匠が取り入れられ、その多様さに驚く。寺社に至る路地は石畳舗装がされていた。これも街なみ環境整備事業によるもの。通りは緩やかにカーブを描き、一部クランクする箇所もあって、整備されたアイストップの建物が目に快い。
 少し下ると東側に旭館(映画館)の看板があった。路地を入ると確かにそれらしい建物が朽ち果てて残っていた。大森和ろうそく店は定休日で残念ながら見ることはできなかった。角の小川医院は景観に配慮して建てられた新建築。伊予銀行内子支店も頭部の飾りが雰囲気を出している。
 八日市・護国通りの南端の交差点を東に行くと、文化交流ヴィラ「高橋邸」。これはアサヒビール株式会社元会長・故高橋吉隆氏の遺族から寄贈された民家で、広い敷地に幾棟もの木造家屋が並び、往時の繁栄を偲ばせる。
6061 戻って交差点から西が六日市本通り。この通り沿いにも古い景観の建物がいくつも並んでいる。蕎麦の下芳我家の懸魚は真っ白い鶴の鏝絵。赤い目が通りを見下ろす。「商いと暮らし博物館」は内子町歴史民俗資料館で、薬商「佐野薬局」の商家を公開展示しているもの。薬棚が並ぶ正面のミセノマには2体の人形が往時の雰囲気さながらに並べられ雰囲気を醸しているが、館内にはそこかしこに人形が並べられ、それらが突然話し出すので少しびっくりする。主屋2階から町内の蔵の家並みを眺めて一時のんびりする。
 内子児童館は旧化育小学校として明治12年に建築され、現在まで利用され続けている洋風木造建築物。隣の内子町立図書館は昭和11年建築の旧内子警察署で、小振りだが上方へ伸びる窓頭頂部のアールが時代を感じさせる。
6083 通りを少しはずれた奥にあるのが、木造劇場の内子座。大正5年の建築で、昭和60年に修理が終わって再オープンした。現在も年間80日近くは劇場として利用されているそうで、歌舞伎の次回公演案内のポスターも掲示されていた。館内は2階席もある枡席で、舞台には回り舞台やせりあがり、花道などもあり、本格的な歌舞伎上演もできるようになっている。奈落も見学できるが、これらの設備は今回の改修整備で付け加えられたものらしい。

6103 さてこのあと食事をしてからJR内子線を大洲へ向かう。
 大洲は伊予の小京都と呼ばれ、肱川に面して落ち着いた町並が魅力。鵜飼いでも有名。あいにく大洲に着くと同時にすごい雨が降り出し、タクシーを使って「まちの駅 あさもや」に向かう。観光案内所でパンフレットを仕入れ、すぐ隣のおはなはん通りから歩き出す。昭和41年にNHK朝の連続テレビ小説で樫山文枝が演じて驚異的な視聴率を記録した「おはなはん」の舞台、ロケ地として今もきれいに整備保存されている。通りの片側を流れる水路には花が飾られ、白壁の家並みともども清楚な雰囲気を醸している。そのうちの1軒は休憩所として公開展示されている。
 突き当たりの通りは観光マップには「明治の家並」と記載されているが、狭い路地に小振りで瀟洒な家並みが続く静かな通りである。石張舗装の道を往復して、臥龍山荘への坂道を上っていく。
 臥龍山荘は明治の貿易商・河内寅次郎が桂離宮などを参考に、贅の限りを尽くして建築した数寄屋造りの山荘で、臥龍院、知止庵、不老庵の3つの建物が建っている。3間からなる臥龍院は主屋で、柱の1本、1枚の欄間や障子、金具や天井に至るまで、細やかで見事な装飾と工夫が施されている。また知止庵は茶室、不老庵は崖上の舞台造りで、穹窿状にカーブを描いた竹網代張りの天井は見事。また生きた槇の木を使った「捨て柱」が今も軒下に残っているのも面白い。
6149 雨がひどく早々に臥龍山荘を退散。無味乾燥な堤防内の肱川沿いを強い雨に打たれながら「おおず赤煉瓦館」まで歩く。明治34年に建築された元大洲商業銀行で、別棟の金庫棟などがある。裏手に昭和30年代を再現したと思われるポコペン横丁や思ひ出倉庫などがあるが、雨の中、閑散として閉じられていた。
 川に張り出し建築された大洲城は、平成16年に再建された新しいものだが、川に映って印象的な景観を見せている。帰りの車中で話した運転手さんによれば、大洲の町もこの古い町並から駅前周辺へ、さらに最近は国道沿いへと町の中心が移り、まちの様相が大きく変化しているという。駅に着いたら一転きれいに晴れ上がった。もう一度しっかり時間を取って出直せということだろうか。今度は宇和島にも足を伸ばしたい。いつになることか。

【参考】
マイフォト「内子・大洲 - 伊予を巡る」もごらんください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月11日 (金)

松山の建物を巡る-道後温泉本館・坂の上の雲ミュージアム・萬翠荘ほか

 愛媛県には大学時代に友人と尾道から因島や大三島などの島をフェリーで渡り、新居浜から松山を経て宇和島まで旅行したことがある。しまなみ海道が開通するはるか以前のことで、宇和島の小さな町並と城跡、また外泊の石垣の景観だけを妙に覚えているが、道後温泉や内子についてはほとんど記憶にない。行ったはずだが、温泉に入ったのだったか、町並を歩いたのだったか。その後、内子は重要伝統的建造物群保存地区に指定され、街なみ環境整備事業地区としても名前を聞くことが多くあった。今一度訪れたい町として、常に私の心の中にリストアップされてきたうちの一つだ。
5863 さて、早朝の飛行機に乗り、松山空港には9時前に到着した。ちょうど道後温泉行きのバスが止まっており、それに飛び乗って、まずは最初に道後温泉に行くことになった。
 JR松山駅から市内を巡ってバスは市電道後温泉駅に着いた。景観に配慮した木造の懐かしい建物である。その向かい側には道後放生園(足湯)があり、屋根に白鷺の飾りが付く時計塔の下で、数人の市民が足をつけて語り合っていた。右側に緑の丘を感じつつ広い道を歩くと、眼前に道後温泉本館が見えてくる。神の湯(400円)と霊の湯(1200円)のどちらにしようかと迷いつつ、まずは本館の周りをぐるっと巡る。裏手に皇族用の入口があり、銅葺きの屋根が複雑に幾重にも重ねられ建物全体を蔽っている。道路向かいの斜路の上から全体を眺めた後、又新殿も見学できる霊の湯に決定する。霊の湯自体は小さなお風呂で朝からの疲れを取り、明日までの旅程を思い起こす。いつまでも汗がわき出る身体を十分涼めて、又新殿の案内をしてもらう。数年前、皇太子ご夫妻が来られたというので、入浴したのかと問うたら、見学しただけという。なんだ、僕らと一緒じゃないか。湯玉や白鷺の意匠が美しい。
5873 道後温泉本館を出て道後商店街を通り、市電駅に戻る。松山での最大の目当ては、数年前にオープンした「坂の上の雲ミュージアム」に行くことである。設計は安藤忠雄。大街道の電停を降りて松山地裁の手前の道を入ると、RC造打放しと大きなガラス面が組み合わされ、斜めに鋭い造形を描く建物が右手に見えてくる。道路が狭くて全貌を見るにはやや苦しい。突き当たりの門番所らしき石造りの建物に目がいく。明治陸軍用の軍服を着たおじさんが「坂の上の雲ミュージアムは右手へ、萬翠荘は左手へ」と案内をする。心を落ち着かせるため、まずは萬翠荘へ向かう。萬翠荘は伊予藩主の子孫・久松定謨が別邸として建築した洋館で、大正11年建築。ネオルネサンス様式とされるが、アールヌーヴォーの意匠が優雅な印象を与え、窓上のステンドグラスが美しい。階段上の大きなステンドグラスや扉上に描かれた壁画などが漆喰壁や金色のシャンデリアとなじんでなごんだ雰囲気を与えている。
 萬翠荘の奥上には正岡子規・夏目漱石が句会を楽しんだという愚陀佛庵がある。こちらは市内にあり戦災で焼失した建物を復元したもので、質素だが2階の丸窓や障子の多い造りが開放的で明るい雰囲気を醸している。
5903 さていよいよ「坂の上の雲ミュージアム」である。導入の細い坂道を上りエントランスへ導かれると、左右に分かれた小さなホールの間を通って正面に入口ブースがある。通った奥は情報ライブラリーである。展示は手前の斜路を上がっていく。基本構成は三角形に配置された斜路と途中途中に設けられた展示室・展示コーナーである。ほとんどの説明は「坂の上の雲」の記述から取られ、司馬遼太郎ファンには十分な満足を与えつつ、明治という時代、松山の歴史、正岡子規や秋山好古らの人生を紹介する。気持ちのいい展示である。建物もよくマッチして一気に見終わってしまう。そして疲れを感じさせない。いつまでもいたい気分にさせる。安藤らしい良い建物である。
5921 ミュージアムを出たら11時少し過ぎの微妙な時間。松山城ロープウェイ乗り場の近く「秋山兄弟生誕地」へ向かってみる。それらしい建物や庭が復元されているが、有料なので入館はパス。それよりも松山城の東側東雲口にある松山東雲学園の立派な門が目を惹いた。
 松山城へは翌日の早朝、県庁口から城山を登った。ちなみに、愛媛県庁は昭和4年建築の重厚なもの。設計は萬翠荘と同じ木子七郎である。市電からもよく目立ち、目を惹く。
 さて松山城へ至る道は急坂で鳥の声を聞きながらじっくりと登っていく。朝の涼しい空気の中でもじっくり汗ばんでくる。本丸正面から眺める天守閣は妻面の白と左右に広がる屋根のラインが伸びやかで気持ちがいい。慶長年間築城で天守閣自体は安政元年建築の3代目。城内の門や櫓も古くからのものが多く残っている。帰りは大手口を下る。二之丸史跡公園は復元整備中で、登山道の途中、塀の外から全貌を眺める。ま、立派なお屋敷という感じ。さて、このあと内子へ向かった。続きは後日報告します。

【参考】
マイフォト「松山の建物を巡る」もごらんください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 8日 (火)

信州 蔵のまち 須坂を巡る +松代

5710 数年前、小布施に行った帰りに、蔵造りの町並みを通り過ぎ、ここはどこかと思ったことがある。須坂と知って、一度じっくり訪れたいと思っていた。今回、志賀高原へ行った帰りに、今度は小布施を素通りして須坂を訪れた。
 前に通ったときは街道筋に並んでいたという印象だったが、実際に訪れてみると町なかに広く広がっていた。下調べをしてこなかったので、どこに行ったらいいのか皆目見当が付かず、町なかをウロウロと走り回る。
 最初に「須坂クラシック美術館」の看板が目に止まり、車を止めて入館する。明治初期に須坂藩御用達の呉服商・牧新七により建てられた屋敷で、その後、産業の盛衰とともに三代の資産家に譲り受けられ、現在に至っている。正面長屋門の右に2階建ての土蔵、門の左手に2階建ての上店、奥に同じく2階建ての主屋と3棟が並んでいる。特に主屋は立派で、奥座敷の凝りに凝った意匠は目を見張る。
5734 向かいの民家や斜め向かいの「蔵のまち観光交流センター」など、この界隈には立派な民家が軒を連ねている。しばらく歩くと右手に広場が開け、奥に3階建ての豪壮な蔵がそびえている。「須坂市ふれあい館 まゆぐら」で、近くの製糸工場にあった倉庫を移築して開館をした展示施設だ。
 須坂市は須坂藩の陣屋町として発展してきたが、明治以降、製糸の町として大いに栄え、その遺産が現在の蔵の町並として残っている。須坂市では昭和60年代頃から「歴史的町並み景観事業」に取り組み、平成7年度からは街なみ環境整備事業にも着手して、景観の整備・保全に努めている。その成果として、この界隈にもきれいに整備された民家が多く目に付く。その極めつけとも言うべき住宅群がしばらく歩いた先の交差点右手に立ち並んでいる。蔵造り風の新しい住宅群である。
5740 交差点の先にある蔵造り風の建物が傘鉾会館である。内部には2階吹き抜けで毎年7月の祇園祭に町内を巡行する傘鉾屋台が展示されている。この後、いったん車に戻って、中町・新町・常盤町界隈に移動した。
 本町通りと新町通りが交わる中町交差点の周辺は車通りも多く、商店が数多く立地するが、いずれも見事な白壁漆喰塗の商家で、蔵造りのものや3階望楼がそびえるものなど魅力的な建物が多い。本町通りから1本北を走る常盤町内には、大正6年に建てられた洋風建築の「旧上高井郡役所」があり、現在は市民センターとして利用されていた。新町通りを少し遡り、江戸時代から続く老舗「塩屋醸造」にも寄って味噌を買ってきた。
5748 再度、車に乗り込み、本町通りを南に移動する。観音通りと名前が変わった先にも、古い建物が散見される。左手に大きな富士通の工場があり、構内には迎賓館があるそうだが、外部からは全く窺うことができない。残念。
 続いて「豪商の館 田中本家博物館」に到着した。江戸中期から手広く商売を始めて須坂藩の御用達を勤め、その財力は須坂藩をも上回ると言われた豪商・田中家の屋敷である。展示は主に周囲を囲む蔵屋敷で行われ、これらを回って最後に立派な回遊式庭園を眺める。昭和年間まで当主が住んでいたという主屋はたいへん立派でただただ堪能するばかり。最後に抹茶をいただいて屋敷を後にした。

5814 須坂の帰りにもう一つ、かねがね訪問したいと思っていた松代に足を伸ばした。着いたのは夕方の5時前で、展示施設は閉館した後だった。観光案内所でおすすめの飲食店を教えてもらい、そこが開店する6時まで、車で外観だけでもと見て回った。松代と言えば真田藩。真田邸は整備工事中で土塀を見るだけだが、その南の立派な民家。文武学校と旧白井家の表門。旧横田家住宅を門塀越しに。矢沢家表門も相当な迫力。しかしこれらの施設は真田邸のある公園周辺に散立し、町並としての連続的な景観は形成していない。あとは入館料を払って史跡めぐりということなので、私の趣味としてはこれで十分かな、という感じ。夕食を食べた「食いしん坊 かじや」がとにかく美味で、松代一番の収穫だった。
 駆け足で廻った信州の二つの町は、それぞれ特徴もあり、興味深かった。

【参考】マイフォト 「信州 蔵のまち 須坂を巡る」もごらんください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 5日 (土)

愛・地球博の環境配慮を伝える施設群

5507 2005年に愛知県で開催された愛・地球博。「自然の叡智」をテーマに、環境に配慮した技術や活動が展示され、多くの入場者を集めた。企業パビリオンや各国パビリオンが並び盛況を極めた長久手会場とともに、ゴンドラに乗って渡った瀬戸会場では、県・政府パビリオンが環境学習をテーマにした展示と自然観察会などが実施された。小さな会場だったし、自然観察プログラムの参加者も事前予約等で人数を制限していたので、行かなかったという人も少なくない。
 その後、長久手会場は愛・地球博記念公園(愛称:モリコロパーク)として一部オープンし、現在は本格オープンに向けて市民交流広場の整備の真っ只中だ。一方、瀬戸会場は、愛知県館が「あいち海上の森センター」として再オープンし、自然学習プログラムなどのイベントや研究活動を実施している。今回、瀬戸会場内の自然歩道沿いに林立する施設群を施設計画時に担当されたK氏の案内で見学した。
5539 愛・地球博は当初、瀬戸会場を含むエリア(通称「海上(かいしょ)の森」)で新住宅市街地整備を行い、万博会場として一時利用する計画であった。ところが、自然保護を理由に万博開催に反対する人々の強力な運動の結果、新住宅市街地整備は中止され、メイン会場を当時の愛知青少年公園に移し開催されることとなった。
 こうした経緯もあり、その後の瀬戸会場の整備にあたっても、自然保護には細心の注意が図られた。
 まず、「あいち海上の森センター」に入るにあたり小さな橋を渡る。その左右、今は生い茂る雑草に隠れて見えない擁壁が設置されているが、通常の重力式擁壁に石積み状の装飾がされている。本物の石積みにはできなかったが、コンクリート面が無骨に現れるのを嫌い、左官工事で擬石にしたものだ。また「あいち海上の森センター」の建物自体が、後背の山を抑えるべく擁壁と一体で建設されているが、建物がない部分にはコンクリート擁壁と並んで、金網に石詰めをした蛇篭を並べ、平地部に植栽をして、自然になじんだ擁壁構造が見て取れる。
5527 敷地上段の脇に、普段はカギ掛けされた遊歩道が延びており、そこから山へ登っていく。歩道は石積みである。熊野古道の石畳を参考にしたと言う。路面に敷かれた石もあれば、蹴上げ部や法面に積んだケースもある。石材は基本的に長久手会場となった愛知青少年公園で使われていた花崗岩を再利用している。法面には版築で土を固めた上に石を積み、急坂では雨水で道が崩れないよう山側に積んで水勾配も山側に、緩勾配では崖側に石を積むなど試行錯誤を重ねて、物見の丘まで歩道を整備した。
 歩いて最初に出会う施設は古窯上屋である。会場調査中に発見された平安期の登窯を蔽い、保存と見学を行う施設で、木造平家の小さな建物ながら、平安期の建築様式に拘り、本瓦・行基葺き、舟肘木、石場立てに八角柱、登窯展示部分は清水寺様の懸け造りで、石積み擁壁の中は版築で付き固められ、束石の間は長七たたきで足元を堅固に固めている。下から見上げると石積み擁壁の上に建物が立ち上がり、雨水は擁壁下の調整池へ一旦導かれ、土砂を沈砂した後、河川へ放流する。ちなみに管路には土管が使用されている。
5541 調整池を設けたのは、放流する河川に絶滅危惧種であるホトケドジョウが発見され、その生態系を守るためである。現在も河川には水量計が設置され、定期的に水質調査が行われ、厳格な管理が行われている。また石積みや伝統木造構法など徹底的に拘ったのも、安易にコンクリートを使用してアルカリ汚染を防ぐという理由からであった。
 木々もまばらな里山の斜面を登ると、次に現れるのは「繭玉広場」である。同じく木造平家の小さな小屋だが、広場に面して迫り出した白い漆喰壁が特徴的。繭玉をイメージしているが、骨組みは竹を曲線状に組み上げ、土を幾重にも塗り上げた土壁に漆喰で化粧をしている。建物は蔵造りをイメージしたそうで、下見板張りに柿渋仕上げのシックな造りになっている。木材はできるだけ会場内にあったコナラを利用するよう努めたそうだが、今もほとんど狂いもなくきれいに仕上がっている。また外には版築の断面が飾られている。
 石畳はさらに上に続いている。石を運び込むには建設用のモノレールを仮設したそうだが、安易に自動車も使えずかなり苦労したようだ。材木を運び出すための仮設の木レールとコロが残されている。
5549 汗も噴き出す頃、ようやく物見の丘に到着する。間伐材の小片ブロックを格子状に組み合わせ積み上げた物見塔は高さ20m近くにもなり、展望台からは名古屋方面まで一望できる。設計は北河原温で、構造設計者の名前も聞いたが忘れた。四隅に鉄材が仕込まれ、足元の鉄土台と緊結されている。シロアリ防止に木製床は地上から持ち上がり、その下には蟻道に利用できないサイズの砂が撒かれているそうである。
 K氏からは「苦労した作品を一度見てくださいよ。」と言われ続け、今回ようやく見せていただいた。確かに「本物の」環境配慮がされた施設群である。K氏が担当を離れた後に施工された部分で一部不満もあるようだが(ステンレスの手すりなど)、その熱心な取り組みには頭が下がる。担当中にメモしたノートも見せていただいたが、ああでもないこうでもないと悩み抜いたメモやスケッチが散見される貴重な記録である。こうした努力がほとんど日の当たることなく忘れられていくというのは本当に惜しい。そう思いつつここにこうして取り上げることにした。少しでも汗と思いが伝わることを願いつつ・・・。

【参考】
マイフォト「愛・地球博を伝える施設群」もごらんください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »