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2011年4月

2011年4月23日 (土)

桑名市赤須賀のまちづくりと水郷景観

 桜まっさかりの桑名市へ行ってきた。建築学会東海支部都市計画委員会恒例の春の交流会。桑名市へは2002年9月に中心市街地を歩いたことがあるけれど、それ以来の実に9年ぶりの訪問。当時は中心市街地活性化計画を中心に話を伺い、見学は駅前の再開発や寺町通り、六華苑などを廻った。見学の最後の方で、「典型的な漁村集落である赤須賀地区も面白いですよ」という話を聞き、是非とも行きたいと思った記憶がある。それから8年半、ようやく念願がかなった。
Kuwana03 当日は赤須賀地区に平成22年5月に完成オープンした公共施設「はまぐりプラザ」に集合。まずはここで市役所の方から、桑名市景観計画の概要と赤須賀のまちづくりの取組みについて伺った。
 ちなみに「はまぐりプラザ」は、地区の公民館である城東公民館と業業交流センターを合わせた施設で、展示室や会議室等から成り、赤須賀漁協も建物の一画を占めている。また、厨房施設を利用してレストランを開業し好評を博している。設計は内藤廣建築設計事務所。鉄骨造4階建てだが、杉板の外装、切妻屋根が3棟並ぶ外観は周囲に溶け込んでやわらかい。堤防側に開いてデッキがめぐり、大きな階段が道路際まで裾を広げている。
 さて、赤須賀地区である。その歴史は慶安4年(1651年)新田開発がされた頃にさかのぼる。その後、河川改修に伴う開発・移住があり、さらに戦災を受け、すべての建物が消失した後、従前の狭い路地のまま建物が再築され、現在の町並みをつくっている。江戸時代から漁師が集団で住み、大正年間には総戸数670戸、人口3,000人余を数えた。昭和24年に赤須賀漁協が設立されたときには600人を超える漁業者が加盟し、年間3,000トンの水揚げを誇ったが、河口堰の運用で漁獲高が激減。その後、育苗・稚貝放流等の取り組みにより、100数十トンまで回復してきた。
Kuwana01 町並みは「猫とび横丁」という俗称がよく物語っている。路地幅員2m程度のびっくりするほど狭い路地が何本か奥に伸びている。路地を挟んでモノの貸し借りもできそうなほど。平成15年に、地震時に大規模な火災の可能性があり重点的に改善すべき密集市街地である「重点密集市街地」に指定された。
 平成16年度に設置された河川改修に伴う赤須賀水門改修のための地元組織「赤須賀ネットワーク懇談会」をベースに、翌年度には、三重県が密集市街地整備基本方針の検討モデル地区の一つに取り上げて、自治会や漁協、消防団等の関係者が集まった地元懇談会が設置された。これが18年度の「赤須賀まちづくりの会」設立につながる。
 毎月1回メンバーが集まり、老朽住宅対策や避難路等の問題、及び住民啓発等について検討、まちづくりニュースの発行などを行っている。桑名市では、まちづくりの会から老朽化した空家への不安の声が多くあったことから、まちづくり交付金を活用し、平成21年度から「空家老朽住宅等除却補助事業」に取り組んでいる。22年度までに6棟が除却された。
Kuwana11 建替えたくても敷地が狭く建蔽率も目一杯なことからほとんど建替えが困難な状況にある。密集解消のためには2項道路の拡幅を行う必要があるが、現在はそこまでは進んではいない。「赤須賀まちづくりの会」は平成21年に「NPO法人 赤須賀まちづくり推進協会」に改組。さらに活発な活動を目指している。
 というような話を伺った後、現地見学。まずは最も古い街区である一・二番組地区へ。話にあった路地や空家除却後の空き地を見て回った。子供たちが意外に多い。案内の市職員があいさつした若い男性は漁師で生計を立てていると言う。
 川沿いの港にはたくさんの漁船が並んでいる。ただし川漁が中心のため、小さい船が多い。高潮に備えた高い堤防から明治の河川改修で移住した五・六番組地区を見る。こちらは東西方向に整然と路地が入り、密集してはいるが、一・二番組ほどの迷路感はない。はまぐりプラザの裏手は船止まりとなっており、揖斐川河口との間に立派な水門が整備されている。
 空家が除却され、空き地がぞくぞくと出現する。整備計画では道路拡幅の予定になっている。地区内でも建替えが可能な敷地には、現代風の建物に建て替わっている。このまま計画通りに道路拡幅がされると、今のような生活感のある町並みとそれに拠ってたつコミュニティが残っていくのかと心配でもある。
Kuwana15 しばらく堤防を歩き、その後集落の北辺を通って神明社、さらに九華公園の南端を歩く。九華公園は桑名城址だが、お堀端の桜は満開で多くの市民で賑わっていた。そのまま西辺を巡り、公園北端へ。前回見学したときには工事中だった水門管理事務所は、当時の蟠龍櫓として再現された。
 その西には七里の渡し跡。大きな鳥居がそびえている。ここから熱田の宮の渡しに至るのが正式な東海道ルート。七里の渡しから西へ旧東海道沿いに雨水浸透式の道路整備がされている。住吉入江を北に渡ると河川整備に伴い移設された住吉神社。このあたりは国の七里の渡し周辺整備事業で整備され、前回見学時と大きく変わっていた。
Kuwana22 六華苑は夕方でもう閉園されていたので、住吉入江を廻って寺町通りに向かう。入り江の角に架かる橋は船の通行のために上下移動する。角の内側には石積みの蔵がある。石取祭りの山車が入っている。また、歩道沿いにはかつて用水が流れていたことを示すシンボル施設が整備されている。
 寺町商店街を抜け、桑名市民会館へ。こちらは耐震補強とともにリニューアルしたとのこと。とてもリニューアルとは思えない外観ですばらしい。しかし、はまぐりプラザまで30分近く歩き、さらに久しぶりのまち歩きはさすがに堪えた。最後は足を引きずりつつ懇親会場へ。前回見学時も感じたが、桑名のまちづくりは本当にすごい。そのパワーの源泉はどこにあるのか、特別な財政状況にあるのかと聞いたが、通常の交付団体だという。とすれば、その源は人にあるのか。アピタなどの大型商業施設がオープンしてなお商店街が残り、駅前再開発も完成するのは、市民の愛着と支えがあってこそに違いない。

関連サイト
「中心市街地すまい研究会:桑名市の中心市街地について」
●参考
マイフォト「桑名赤須賀のまちづくりと水郷景観」

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2011年4月16日 (土)

人口減少時代の災害救援と復興計画

 仮設住宅の建設が難航している。適当な用地がない、資材が入らない、労働者が確保できないなど、その原因は次第に変化してきている。厚労省の仮設住宅建設に係る補助額は戸当たり250万円程度だが、聞くところによると、今回は寒冷地仕様のための断熱材やエアコンの設置などで1戸当たり400~600万円近くもかかっているらしい。
 仮設住宅の入居期間は原則2年ということだが、これだけの経費をかけて建設したものをすぐに解体してしまうというのももったいない話だ。
 2年で壊してしまう仮設住宅の建設に500万円もかけるのであれば、そのお金をそのまま民間借家の家主に渡すことにすれば空き家を抱える家主も喜ぶ。2年として月20万円。これで入退去の手続きも行政がやってくれるのであれば、家主にとっては万々歳だ。
 現在の災害救助法は、被災地の近くに当面住むことのできる住宅を確保し、雇用の回復など生活再建を図りつつ、基本的には従前に居住していた地域に戻って生活することを前提としている。そうした考え方の下では、被災地域の周辺には借り上げられる住宅は少なく、仮設住宅の建設が必須の選択肢とならざるをえない。
 しかし、今回の災害は全てがこれまでの災害と違う。被災地が従前のように復興することは考えにくい。これは被災の状況というのもあるが、もうひとつの大きな要因が人口減少だ。産業基盤から根こそぎ被災し、ゼロから復興する必要がある中で、住民の年齢は高齢化し人口減少局面にある。それも被災地だけではなく、日本全体が人口減少を始めているのだ。
 これまでは被災していない周辺地域では人口増を続けており、空き家も少なかった。しかし今は日本全国、公営住宅を除いては、多くの空き家が発生している状況なのだ。そう、空き家がもっとも少ない公営住宅で無理やり空き家を確保して被災者の受け入れをしているのだ。まるで笑い話である。
 ここ数年の都市計画の話題は、人口減少時代における都市縮小であり、コンパクトシティであった。戦後から一貫、野放図に拡大し続けてきた日本の土地利用の縁辺部で突如、土地の縮小が発生したのである。これを機に、都市の縮小とコンパクト化を実現すべきではないか。
 現在、既に若い世帯では、妻の実家などを頼りに、雇用のある遠方へ疎開している世帯も多い。今は避難所に身を寄せている世帯であっても、雇用のある都市で空き家もあるならば、若い世帯は早晩、避難所を脱して被災していない、または被災の少なかった都市部への移住を始めるだろう。被災地復興のための建設労働で若い世帯をつなぎとめることもあるだろうが、建設工事が終わればそれまで。どういう産業を興していくかを第一に考えなければ、復興計画はあり得ない。今回求められている復興計画とはすなわち、人口減少時代の日本の産業地図を描く仕事なのだ。
 被災地だけの小さい視野で復興を考えては、復興が成った途端に過疎化が訪れる。誰も住まない街になる恐れすらある。被災者の住む場所を考えるのならば、やはり将来の復興を念頭に置いて考えるべきだ。建設できるところに仮設住宅を建てる。それで本当に後悔しないだろうか。
 幸い、仮設住宅の建設がなかなか進まない。どこにどういう住宅を建てるべきか。今一度よく考えてみる必要があるのではないだろうか。

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2011年4月11日 (月)

津波災害

 今回の津波災害が発生する直前の昨年12月に発行されている。その時に読んでおけば、今回の津波に対しても正しい理解をもって臨めただろうと思う。筆者の河田惠昭氏は、阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター長を務め、防災と危機管理、そして海岸・水環境に関する土木施設等の専門家である。
 あとがきに、本書では「津波災害に関する自然科学、社会科学、実践科学の研究成果をバランスよく」伝えることをめざした旨、書かれている。そのとおり、津波とはどういうものか、発生のメカニズムから始まって、どういう被害があるのか、またあったのか、予測はどこまでできているのか、どういう対策が必要なのか、課題は何かなど、津波災害に関するあらゆることがわかりやすく書かれている。
 今回の津波の動画や被害の状況を見ると、そこに書いてあることが一つひとつ具体的に理解できる。津波のメカニズムについて、高波、高潮と並べて津波が図で表現されており、わかりやすい。これらはまったく異なる自然現象であり、海水の動き方もまったく異なることがわかる。
 対策についても、ハード防災だけに頼るのは非現実的で不可能であり、的確な情報提供や避難訓練などのソフトな防災活動が重要なことが何度も繰り返されている。石油コンビナート対策や養殖いかだへの対応、防災教育、語り継ぎなど、その視野は広く、提言は広範囲に及ぶ。。
 今回の災害が本書が広く人々に読まれる前だったことは本当に不幸であった。だが、実際に津波災害の怖さと実態を知った今だからこそ心に響く提言も多い。もちろんすぐにはできないことも多いが、真摯に受け止め、少しでも対策の具体化に努めることができればと思う。

●沿岸の浅い海域に近付いて高さが3から4メートルに高くなっても、見渡す限りの海面がスーッと上がるのである。このように、わが国にやってくる津波の大半は、海岸にやってくるまでその存在を目で確かめることは不可能であると言っても過言ではない。(P15)
●「高い波」という表現より、「速い流れ」と考えた方が正しい。沖から津波がやってくるということは、「見渡す限りの海面が盛り上がり、速い流れで岸に向かってくる」という表現の方が妥当である。(P16)
●第何波の津波が大きくなるかは、いろいろな要素に左右されるので、一般的なことは言えないのである。前述した和歌山県・田辺市では、コンピュータシミュレーションの結果から、第11波が最大の高さとなることがわかっている。(P25)
●津浪による浸水深が2メートルを超えるような場合、仮に2階に避難しても木造住宅では家ごと流される危険がある・・・。もし、2メートル以上の浸水深が予想される地域に木造住宅が立地している場合には、2階に避難することは危険である。(P56)
●南海地震が発生すると地盤沈下するヒンジラインが高知市を東西に走っており、M8クラスの地震が起こると瞬間的に約2メートル地盤沈下すると予想されている。・・・うら戸湾に進入する津波高さは約4メートルと想定されている。しかし、海岸護岸も2メートル近く沈下しているから、6メートルの津波が高知市に来襲したのとほぼ同じことになってしまう。(P89)
●防災施設によるハード防災は限界があることが、案外知られていない。たとえば、高知県須崎湾の湾口防波堤は、1946年の昭和南海地震(M8.0)を想定したものであって、次にやってくると想定されているM8.4の南海地震津波を対象としたものではない。・・・もし、被害の一部発生を容認する「減災」の代わりに、被害をシャットアウトする「防災」を実現しようとすれば、津浪防波堤は大規模になり、当然、予定工事費も工期もさらに増大し、結果的に実現不可能になったと考えられる。(P112)
●東京湾臨海コンビナートには、貯蔵量が500キロリットル以上で、耐震診断を未受診、あるいは耐震補強未施工のタンクが約1800基ある。石油タンクの耐震化が遅々として進んでいないのが現状である。したがって、このタンク群から発火して市街地延焼火災につながる危険性が大きいことを指摘しておきたい。(P148)

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2011年4月 7日 (木)

日本人と不動産

 不動産の所有・利用等に関する経済や規制、歴史などを総括的に説明する入門書。「なぜ土地に執着するのか」という副題や、各章のタイトル「日本の街は、なぜ汚いのか」「土地所有のルーツを探る」は、誇大広告気味。だが、入門書としては非常に丁寧でわかりやすい。それだけでなく、例えば律令体制から説き起こす歴史は、通常の歴史書では語られない事柄まで「土地」という視点で描かれており、勉強になる部分も少なくない。
 「第3章『不動産格差』-持ち家政策の功罪-」では、持ち家と借家の損得計算を行っているが、結論は「持ち家がインフレに強い」ものの、物価や不動産価格、金利、賃料や税制等に影響され、条件によって大きく変動するとしており、当たり前だがわかりやすい。
 第4章の最後で「日本人と不動産」の将来について4点課題を挙げている。一つは住宅政策における住宅困窮化対策とストック重視、二つ目に都市のコンパクト化、3つ目が農地政策の抜本的転換、最後に市民ベースの街づくり。唐突で本書だけでは十分説明できていないが、いずれも不動産との関係できちんと議論すべき事項である。

●「農地改革」は形式的には土地の売買でしたが、土地の買収価格が低く設定された上、地主への支払いは30年にわたる長期分割払いでした。戦後の激烈なインフレーションもあり、結果的に土地はタダ同然で買い上げられ、革命的な「土地の配り直し」が行われたのです。(P135)
●「どこででもものがつくれ、どこででもものが売れるような時代」において、高度な情報通信技術に支えられた経営や金融・財務の機能がもたらす付加価値は大きくなっています。/このような機能には集積がプラスに作用する「ネットワーク外部性」が強く働くので、政治、経済、金融、行政と様々な中枢機能の集積する東京に立地するオフィスの生産性は、ますます高まり、高額の賃料が維持されています。(P197)

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2011年4月 1日 (金)

スラムの惑星

 建築雑誌2011年1月号は「スラムの未来」を特集。この中でこの「スラムの惑星」を紹介していた。訳者の一人、篠原雅武氏も加わった座談会も掲載されている。これで興味を持って本書を読み出した。
 翻訳書だからか、かなり読みにくい。多くの文献からスラム関係の言説を紹介。スラムの量、実態、拡大の状況、背景などが世界各国の実例とともに描き出されている。
 第2章「スラムの拡大」では、スラム拡大の形として、従来言われた不法占拠であるスクワッターに加え、さらに性悪な海賊版都市化が拡大している実態が示される。スラム居住者を相手にさらに金を搾る取る手法だ。
 そしてそれを国家が後押ししている。国際的な援助は多くの場合、スラム居住者には渡らず、官僚等が横領してしまう。スラム居住者の生活の実態を見ない公営住宅は、インフォーマル労働者は居住できず、軍人と公務員ばかりが入居している。
 最近言われるスラム居住者の自立的な活動に期待し支援するという世界銀行やIMFの行動は、グローバル資本主義の中にスラム居住者を追い込みさらに搾り取っただけで、全くスラム改善にはつながっていない。いや、さらに外延化したり内部化していると言う
 特に批判されているのが、IMFの指令した構造調整プログラムである。多額のローン貸付とともに民営化と小さい政府づくりを進める構造調整プログラムにより、第三世界の国々はさらに搾り取られ、格差が広がっている。「再奴隷化」という厳しい言葉が使われている。そして最大のしわ寄せはスラム居住者の中でも女性や子供にのしかかってくる。それはまるで産業革命期のイギリスのようだ。たぶん、それをはるかに上回る悲惨な状況があるに違いない。
 全編こんな調子でスラムと貧困の拡大を描いていく。読みながら東日本大震災の避難所の状況を思い浮かべた。本書では日本の状況は一切出てこない。さすがに筆者が考えるようなスラムは日本には存在しないということだろうが、今回の震災で日本もどうなるかわからない。TPP参加問題など、日本も非情なグローバル資本主義の餌食になろうとしているように見える。
 もっとも、本書はかなり偏った世界観で描かれているのではないかという危惧が捨てきれない。貧困状況は相対的な問題でもあり、その実態はなかなか見えてこないのが実情だ。だが、現にスラムに居住する者がいるかぎり、それを根絶する努力は続けられねばならない。本書はその意味での警鐘を鳴らす問題作である。

●第三世界都市部の外縁の発展はおもに二つの形態を取っている。スクワッター集落と・・・海賊版都市化である。(P57)

●公共住宅は多くのインフォーマル労働者には不人気だが、それは、自宅で仕事をするための空間を与えてくれないからである。その結果、ほとんどの賃借人は軍人か公務員である。・・・貧民は新しい高層ビルよりも昔のスラムに住もうとするのである。(P100)

●ナイジェリア人の著述家であるフィデーリス・バログンは、・・・IMFの指令した構造調整プログラムが1980年代の半ばに到来したことを、巨大な自然災害の、等価物としてラゴスの古い魂を永遠に破壊し都市のナイジェリア人を「再奴隷化する」ものとして説明している。(P230)

●第三世界のいたるところで、個々人は、1980年代の経済的衝撃のせいで、世帯という共同資源のまわりに終結することを余儀なくされた。とりわけ女性の生き残るための技術と必死の創意のまわりに、である。男性のフォーマル雇用の機会が減少するにつれて、母、姉、そして妻たちが主として、都市の構造調整の重荷の半分以上を負担することを強いられた。(P238)

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