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2011年12月

2011年12月30日 (金)

都市計画の世界史

 娘に「都市計画の本がない?」と聞かれて、学生時代、日笠端先生の「都市計画」を教科書として使ったことを思い出した。が、今となってはどこにあるのかわからない。結局、この本を図書館で借りてきてレポートを提出したらしい。返却が年明けになっていたので、それまで私も読んでみた。
 本書の存在は知っていたが、まるで教科書のようで読む気がしなかった。あとがきによれば、著者の慶應義塾大学での講義録をまとめたものということで、実際、教科書である。それがわずか1000円で購入できるのだ。改めて都市計画の歴史について勉強させてもらった。
 本書では古代から中世の都市を、「第1章 城壁の都市」「第2章 都市施設と都市住居」で取り上げ、第3章以降は、「格子割の都市」「バロックの都市」「社会改良主義の都市」「近代都市計画制度の都市」「メトロポリスとメガロポリス」に分けて記述している。概ね時代の流れに即してはいるが、当然、都市が時代に応じてガラリと変わるわけもなく、また日本の土地区画整理事業においていまだに格子割街路が主流を占めているように、これらは重なり合いつつ、現代の都市を形作っている。
 中でも「バロックの都市」が興味深い。オースマンの都市改造に代表される放射状道路を印象的に用いた都市計画に対して「バロックの都市」という呼称があることすら私は知らなかったが、確かに現代都市計画を経て、今もなお光り輝き愛される都市の形である。
 私が覚えているのはもちろん、「ハワードの田園都市」以降、A.ペリーの近隣計画論、ラドバーン計画やクルドサックなどである。ポート・サンライトやボーンヴィルなどの理想社会主義の工場都市は10数年前に中部大学の佐藤先生に教えられて初めて知ったし、イギリスのバイロー・ハウジングも三宅先生に教えてもらうまで知らなかった。そう考えると、学生時代の都市計画などほとんど勉強していなかったし、覚えてもいないことがよくわかる。
 また、ドイツのBプランやアメリカのゾーニング制の背景とそれらを教条的に当てはめた結果の日本の現状、市街地の改善と歴史的地区の保全、巨大都市圏の成長管理とエキュメノポリス論など、主だった都市計画の歴史と課題は余すことなく網羅されており、まさに都市計画の教科書にふさわしい内容になっている。都市計画に少しでも携わる専門家であれば、一家に一冊、備えておきたい本である(と言いつつ、今回、図書館で借りて済ませてしまったが…)。

●都市と都市計画の関わりは、経済社会の枠組みの変化とともに変質してきた。それぞれの時代の都市の経験や都市計画の知恵を次の世代が引き継いで発展させ、そこでも人々の生活経験が積み重ねられ、後世がそれを評価して体系づけてきたのが都市計画の歴史である。都市の設計と計画は安易な実験が許されないという点において、先行する経験が尊重され、継承される性質を持っている。(P16)

●格子割道路である広い大路の一部だけでなく、小路も住民などによって占拠され、宅地や耕地になり、これが「巷所」と呼ばれた。平安京の南端の東寺周辺に見られる巷所の多くは耕地化したもので、市民生活にとって広すぎる道路用地が農地に転換された。(P134)

●バロックの都市計画の社会性には問題があるとしても、ヨーロッパではバロック都市において、はじめて意識的な都市計画が行われ、バロック都市の様式は、近代都市計画のプロトタイプの一つともみなされている。しかも、生きた歴史文化の象徴となって人々から好まれ、輝いている世界の都市の一角にバロックの都市がある。その都市づくりの作法に現代都市計画が学ぶべきものがあるのではないか。(P161)

●規制の結果がさらに無秩序な街並みの形成につながる場合も起こりうる。わが国の都市のように、その大半の市街地がアメリカの都市のような幾何学的形状の都市基盤を持たない場合には、ゾーニングによる敷地単位の規制は必ずしも合理的に作用しない場合が発生するのである。(P293)

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2011年12月27日 (火)

公営・URにおける外国人居住問題

 都市住宅学会中部支部公共住宅部会で、法政大学兼任講師・NPO法人かながわ外国人すまいサポートセンター理事の稲葉佳子さんから公営・URにおける外国人居住問題について話を伺った。先生は新宿区新大久保をフィールドに外国人居住問題について研究を重ねてきたが、最近は公営・URにおける問題についても全国的な事例研究などをされている。
 話は、「外国人居住問題は民間賃貸住宅における『人種差別』からはじまった」というスライドから始まった。1990年当時、大久保地区の不動産業者の9割が「外国人お断り」だったそうで、現在の状況を考えると20年前とは言え、全く違う状況だったのだ。入居制限の理由は、「言葉・習慣の違いから起きる入居後のトラブルを懸念して」というもので、外国人に対する漠然とした不安が理由だった。しかし今や大久保地区では、外国人を受け入れないと賃貸住宅経営ができない状況になっている。
 外国人居住に係る問題を、入居前の「入居差別」の問題と、入居後の「トラブル」に分けて考えると、前者はもっぱら民間賃貸住宅で起きている問題で、公営・URは原則として外国人に対して日本人と同等の入居資格を認めているため、公営・URでは起こりえない問題である。一方、後者については、民間賃貸住宅においては入居時に問題を起こしそうな外国人は入居拒否を行うことから、民間で問題になることは少なく、公営・URで顕著な問題として発生している。
 民間賃貸住宅の外国人入居者の選択についてはもう少していねいに分析しており、入居時資金が準備されていることはもちろん、日常会話程度の日本語力や日本の生活マナーを理解している外国人、さらに日本人の保証人を求めるケースが多く、結果的に民間賃貸住宅のトラブルが少ない傾向になっていると言う。
 公営・URの外国人の入居状況は1995年と比較して2010年には公営住宅全体で3.4倍、URでは実に10倍に増えているそうで、特に愛知県では入居戸数、入居率(管理戸数に対する)ともに高く、愛知県営住宅では8戸に1戸が外国人世帯となっている。
 具体的な外国人居住に伴う問題として公営住宅管理者(地方自治体)が挙げるのは、生活面ではゴミ出し・不法投棄、屋内外での生活騒音、無断同居・転貸しなど、管理上では、日本語でコミュニケーションできない、回覧・通知文書が伝わらない、自治会活動への未参加、自治会費・共益費の未回収(公営住宅では共益費は自治会で徴収・支払っていることがほとんど)などが挙げられている。
 こうした状況に対して住宅管理者の側では、外国語版募集案内の作成や日本独特の生活マナーや決まりごとなどを伝える「住まいのしおり」の作成、団地内での多言語標記看板等の設置、募集時・トラブル発生時の通訳派遣などが行われている。
 入居時についてはこれらで対応するとして、日々の生活の中で発生する問題に対しては、多くの団地で自治会を中心とする取組みが行われている。稲葉先生からは公営・UR併せて10団地について、類型化してその取組みを紹介いただいた。
 事例1は、日本人自治会と外国人自治会の2つの自治会執行部を立ち上げた山梨県営住宅の事例。月1回は合同定例会を開き、お互いの調整を図っているそうだ。2つ目の事例は、生活ガイダンス事業に取り組む三重県の市営住宅の事例。ここでは住宅管理者である鈴鹿市がNPOに委託し自治会活動を支援。外国人向けの生活ガイダンスや交流会を行っている。
 事例3は静岡県の県営・UR賃貸が並存する団地で、広域自治会が団地自治会を支援している事例。ここではカリスマ性のある地域自治会長が単位自治会を束ねるとともに、市に働きかけ、団地入口付近に多文化交流センターを整備。通学路途上にあるこの施設は、日本人・外国人分け隔てない子育てセンターとして機能していると言う。
 また同様に広域自治体が団地自治体を支援する三重県のUR団地では、国際共生サロンが設置され、URからは共生推進員、市からは推進コーディネーターが派遣され、生活支援等を行っているそうだ。さらに事例5として、行政と住宅管理者が多文化共生連絡会議を設置して自治会支援を行っている千葉県のUR団地の事例が紹介された。
 これらの活発に外国人支援活動が行われている団地に共通する特徴として、いずれも日本人入居者の年齢層が若いという点が挙げられる。また公営住宅とUR賃貸の違いとして、公営住宅では共用部分の管理のための共同作業や共益費の徴収が不可欠であるのに対して、UR賃貸ではこれらは外部委託されており、自治会業務となっていない。これがUR団地で自治会活動が低調になりがちな理由ではないかと指摘されていた。
 公営・UR賃貸における外国人居住問題の構図として4点を挙げられた。一つは、団地自治会と外国人居住者の関係。外国人には自治会活動の必要性がそもそも理解されていないことが多く、まずは自治会活動について理解し参加してもらうことが必要だ。
 2点目は派遣労働など日本語を必要としない特殊な環境で生活をしてきた日系南米人が多いということ。3点目には大規模団地に集住するがゆえに、同国人コミュニティの中で生活が完結してしまい、日本人社会との接点が希薄になりがちという点。さらに4点目として、日本人側は高齢化が進行、一方で外国人世帯は多くが子育てファミリーの共働き家庭でかつ変則勤務のことが多いこと。これは実は外国人問題ではなく、本来は世代間ギャップ問題であることを示している。
 外国人集住団地が生まれる経緯として、郊外の老朽団地で空家率が上昇し、そこに外国人世帯が入居。「保証人不要で家賃が安い団地」ということが口コミで広まり、外国人の応募が急増。その結果、外国人世帯率が上昇すると、外国人が多い団地ということで日本人応募者が減少。母語でコミュニケーションができる同国人コミュニティが形成され、エスニック・ビジネスが成立し、さらに暮らしやすい生活環境が成立していく、という経緯を辿る。まさにそのとおりだ。
 最後にリーマンショック以降の現状として、外国人世帯の二層化・貧困化が進んでいること、高齢者・母子家庭などの福祉世帯が増加し、共生の核となるべき自治会に崩壊の兆しが見えることの2点を挙げ、外国籍住民への支援とともに自治会・居住者への支援が必要であるとまとめられた。
 報告・問題提起の後は、恒例の質疑応答・意見交換。最初に、イギリスのホームレス問題は、移民は移民コミュニティや強い生活意欲等もあってそれほど問題にならず、イギリス人の方が顕著な課題となっているがどうかという質問に対して、確かにそういう面はあり、外国人の側も住みやすい団地を選択している実態があると答えられた。
 愛知県の外国人居住団地と言えば、豊田市の保見団地が有名だが、当日はこの保見団地を対象に修士課程の研究をしている院生の方が参加されており、保見団地の状況を話していただいた。もっぱらNPOによる外国人支援活動についての報告だが、NPOも千差万別で多くは団地内住民が立ち上げて活動しているが、業務委託先に左右される傾向がある。また、外国人自らが率先して活動している事例が多く、日本人が関わっている活動は少ないとのこと。地域コミュニティベースの交流を中心とした日本人学校は人気がなく、就職支援を目的とした実践的な日本人学校が盛況となっている実態があるとのことであり、外国人が生活に必死になっている状況が窺われる。一方で交流パーティも生活支援につながる面があり、それなりに活発だといった内容の報告があった。
 豊橋市の岩田住宅の外国人支援の自治会活動を取材された方の報告もあった。この団地の場合は日本人の自治会長に外人コンプレックスがなく、困っている人は助けてあげようという軽い気持ちで活動を継続しているとのこと。
 稲葉先生からは、日本人自身がカベを作っているという言葉は、外国人支援活動をしている関係者の方からよく聞かれるという話をされた。また、住宅管理の担当者からは、外国人の方が言うこともはっきりしていてわかりやすく付き合いやすいという声をよく聞くとのこと。派遣業者が入居から生活全般全てについて面倒を見ていて、外国人自身は日本語を話す機会もないというケースもある。こういう状況について、外国人はどう思っているのでしょうという質問に対して、「彼らはハッピーに暮らしていると思いますよ」と答えられた。もちろん貧困等の問題は別次元の課題だろうが、同国人コミュニティの中で暮らしていければ、確かにハッピーかもしれない。
 最後に私から、新大久保は今では外国人街としてのアイデンティティを獲得し、大きな問題もないように見えるが、公営・UR団地と比較してどう考えますかと質問したところ、新大久保は日本人の側が外国人なしでは暮らしていけないWinWinの関係になっているが、公営・UR団地ではそうした関係にはまだ至っていないと言われた。また、極論として、外国人専用団地としたらどうでしょうと質問したが、小規模団地ならいざ知らず、公営・URなどの大規模団地では治外法権団地となり、別の問題を発生させると答えられた。なるほど、やはり地道な解決しかないのかもしれない。
 全体を通し、大変活発で楽しい議論ができた。本当の問題は日本人の側にあるというのは、公営住宅の福祉住宅化という現実も含めて興味深い視点であり、もちろん課題は深刻だが、明るくハッピーに考えていければいいなと思った。

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2011年12月26日 (月)

水都・大垣と桑名・六華苑

 妻と二人の日帰り旅行で、大垣と桑名の六華苑に行ってきました。大垣・水門川の景観と、そして大垣城に寄りました。
 大垣水門川、船町港跡前の広場では、「奥の細道むすびの地記念館」の整備中でした。平成24年春開館予定だそうです。市街はクルマで回りましたが、旧美濃路にある和菓子店「つちや」の外観はなかなかのものでした。また、大垣城は昭和34年に復元されていますが、今年春に再度復元改修を行ったそうです。
 大垣をぐるりと回った後は、小一時間かけて南下。春に桑名に行った時にはもう閉館していた六華苑に行きました。2度目ですが、伸びやかさが気持ちいいですね。帰りには「なばなの里」のイルミネーションを楽しみました。
 以下、撮影した写真を掲載しておきます。

●工事中の新「奥の細道むすびの地記念館」
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●水門川と船町港跡
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●水門川沿いの商家
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●水門川・四季の広場
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●御菓子・つちや
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●大垣城
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●大垣城東門
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●六華苑
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●なばなの里のイルミネーション「日本の四季」
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2011年12月24日 (土)

植民地建築紀行

 著者の西澤氏とは一度プライベートでお会いしたことがある。当時は植民地建築の研究を主にしていることも知らなかったが、それを知った以降もなかなか著者の本を手に取る気がしなかった。それはもちろん日本が植民地支配をしていた時代、支配のための建築物について、通常の建物と同じ感覚で見ることができないと感じたからだ。
 もう一つ、朝鮮総督府庁舎の保存・解体騒動の記憶もあった。韓国の人々の気持ちもわかる中、残したいという建築の専門家としての思いをどう始末していいかわからなかった。ところがこの本を読むと、そんな感情などつまらないものだということがわかり、すっきりした。いい建築は使用目的や歴史に関わらずいい建築物なのだ。そのことがよくわかる。
 朝鮮総督府庁舎も戦後、大統領府として利用され、五輪後は博物館として利用されてきたものを、朝鮮王朝の王宮であった景福宮復元のために解体するということで、解体論争になったのだそうだ。しかも建設当時には日本においても、王宮の露骨な破壊に対して批判的な意見が少なくなかった。今、朝鮮総督府庁舎の一部は独立記念館の庭に歴史の記憶を示す野外芸術作品として展示されているという。
 朝鮮、台湾、中国東北地方で日本人が作った植民地建築はどれもその時代を生きた建築家にとって丹精を込めた作品だった。そのために西洋に学びに行く建築家がおり、海外から伝わってくる情報に最大限のアンテナを張っている。彼らは植民地という新開地で自らの才能と努力の成果を建築物という形で花開かせたのだった。
 だから現地人にも「いい建物ですよ」と言ってもらえる。建築物は、見て、感じて、評価すればいい。その目的や経緯はあくまで付属的情報に過ぎない。そうでなければ独裁者の建築した建物は全て壊されねばならない。ピラミッドも王宮も宗教建築も。そう考えれば、植民地建築はその性格ゆえにこそ、保存され、歴史を伝えていく価値があると言える。
 本書は月刊誌に連載された紀行文を編集したものである。残念ながら紹介される建築物に全て写真が掲載されているわけではない。文章だけでは実際の姿がよくわからないものも少なくない。それを実際に見るためには現地に行かねばならない。それもいいが、著者の植民地建築に対する考え方をもう少しきちんと読んでみたい。そこでさっそく著者の「日本の植民地建築」を図書館で予約した。楽しみにしたい。

●御真影が大会議室の演壇後方に保管されたのは、台湾総督の官職と役割に依拠している。・・・この大会議室は、台湾総督府の施政に関わる重要な会議が開かれた場であり、そこでは、台湾総督が天皇の代理者として会議を主宰し、決定を下す。天皇の写真である御真影は、日本に居る天皇の代わりであり、そのため、この大会議室に面した場所に保管された。(P31)

●「この駅は、立派でしょう。いい建物ですよ」と笑顔で語ってくれた。このことで、私は、植民地建築が、植民地支配から脱した時期であっても、その地で存在感を持っていることを思い知らされた。(P67)

●この近江町住宅・・・の竣工の1年後、1909年12月に工事概要を載せた『建築雑誌』は「満洲に於ける一名物または成績のよい事業の一つ」と評価した。それは、当時の日本国内では見ることのできなかった低層集合住宅が、日本国内から見れば「未開の地」であった中国東北地方の茫漠とした広野の中に忽然と出現したことへの驚嘆でもあった。(P197)

●中華バロックの成立と似た現象は、明治維新の日本にも見られた。日本各地に建てられた擬洋風建築がそれである。ただ一つだけ異なる点は、建てられた時期であり、それに起因する意匠の差である。・・・そのため、手本になった西洋建築にも時代の差があり、一方で装飾過多な中華バロックが成立し、一方で簡素な擬洋風建築が成立した。(P251)

●植民地建築と向かい合うことは、日本人にとって日本の支配と向かい合うことである。・・・植民地建築を使い続けることは、支配を受けた人々にとって、支配を受けたという事実を後世に伝えながら、その歴史を乗りこえる糧である。植民地建築の過去と現在を歴史教育の題材として使うことができるなら、歴史認識をめぐる東アジア諸国の軋轢は解消されるであろう。そこに植民地建築の新たな存在意義が生まれ、未来が開けるはずである。(P269)

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2011年12月20日 (火)

ジェイコブズ対モーゼス

 「アメリカ大都市の死と生」でこれまでの都市計画を批判し、住民主体による既存の環境を生かした都市再生を説いたジェイン・ジェイコブズ。本書の誕生のきっかけとなったのは、ニューヨークの都市行政官として君臨したロバート・モーゼスとの下町の都市改造をめぐる闘いだった。
 ジェイコブズが都市問題をめぐる市民活動家としてアメリカでこれほどまでに有名だということも知らなかった。私としてはジェイコブズのもう一つの名著「市場の倫理 統治の倫理」が生まれるきっかけも描かれるものと期待していたが、それはジェイコブズ晩年の著作の一つとしてさらっと流されている。本書はあくまでもモーゼスとの都市計画をめぐる闘いの記録である。
 ジェイコブズとモーゼスは本書によれば都合3回、大きな都市改造計画において対立している。最初はジェイコブズが普段利用しているウエストンスクエアパークに貫通道路を通す計画。続いて、彼女自身が住む街、グリニッジ・ビレッジの都市再生計画。いずれもジェイコブズの勝利に終わり、これらの経験を通して「アメリカ大都市の死と生」を著述する。
 そしてジェイコブズ自身、その後は著述家としての人生を送りたいと考えていた頃、最後の対立、ローワーマンハッタン・エクスプレスウェイの問題が発生する。彼女の住む地域から離れた地区での問題で最初は気乗りしなかったが、モーゼスの強引なやり方、撤去される地区の広さなどから活動に参加。既にカリスマとなっていた彼女の参加と逮捕劇はモーゼスの市民を無視した強引なやり方への批判となって、ベトナム戦争時の反権力の風潮と一体となり、ついに市民側の勝利に終わる。いまやその地区はソーホー地区としてニューヨークでも人気の地区となっている。
 序章から第5章に至るまで、基本的にジェイコブズ側に立ってモーゼスの強引な手法を批判的に描きだしているが、終章では微妙にトーンが変わっている。今、アメリカでは、モーゼスを批判した摘発本「パワーブローカー」で貶められた悪役モーゼスのイメージを見直そうという動きが出ており、展覧会も開催されたという。
 訳者の渡邉泰彦氏もモーゼスの再評価に賛同の意を書いているが、私は必ずしも賛同しない。結局、モーゼスの推進した都市整備は時代の要請であったが、だからと言って住民を無視した方法が許されるわけではない。ジェイコブズの市民活動が結果としてNIMBYを生んだという批判もあるようだが、NIMBYをいかに乗り越えるかをテーマに市民主体の都市計画手法が様々に研究され試みられている現状を余りに知らない感想に思われる。
 もちろんジェイコブズとて万能ではない。低所得者向け住宅の供給については今も様々に模索や研究が進められている課題だが、与えればいいという思想は手っ取り早いが結果的に成功しないことは明らかだ。我々はさらに研究し模索しなければならない。
 ジェイコブズとモーゼスのどちらが正しいかではなく、二人を乗り越えた先に我々は進まなくてはいけない。だが取り敢えず、二人の闘争の歴史を知っておくことは都市計画の将来を考える上でけっしてじゃまにはならない。何よりノンフィクションとして面白いのだ。

●都市計画家は自分たちが最善と考えることを単純に実行に移してしまい、そこの住民がなにを求め、彼らにとってなにが最善かとは考えてくれないのだ。・・・都市計画家とは地域社会に大きな変化を押しつけておいて、その結果をきちんと評価しようともしない傲慢なうぬぼれ屋にすぎないということだった。(P50)

●「ワシントンスクエアパークは多様性のなかにおける団結の象徴である。アーチ門から一ブロックもしないところには高級マンションもあれば、お湯なしの安アパートもあり、19世紀の大邸宅もあれば、大学さらには零細企業の集積もある。公園は変化に富んだ趣向や素性を持つビレッジの住民を一つに結びつける絆なのだ。最もよい点は複雑なニューヨークの素晴らしさを享受できることにあるし、最も悪い点は、自分が他人とどれだけ違うのかを、あらためて思い起こさせることにある」。(P137)

●ある晩のこと、偶然酒場から出てきた人が、板ガラスの窓を突き破って落ちた少年の腕に止血帯を巻き、それを見て玄関口のポーチに座っていた女性が十セント玉を借りてきて病院に緊急電話連絡をした。ここには通りを見守る人の目があるのだ。・・・機能的で、かつ多様性に富んだ都市近隣地域の最善例を、彼女は自宅二階の窓の外に目の当たりにしていた。(P154)

●モーゼスの見解は、たとえ欠陥だらけだったにせよ、「健全な政府が道路、公園、橋梁といった社会インフラを整えてくれ、それが我々をひとつの国にまとめ上げるのだと確信していた当時のアメリカを象徴していたのだ。一方のジェイコブズ夫人は、我々をコミュニティに結びつける、より繊細な絆を守るために闘ったのである。都市が生きつづけ、繁栄するために、この双方の見方が必要だ」。(P289)

●荒廃地域に対する処方箋として彼女が施した「脱スラム化」や、ウエストビレッジでの改善運動は、・・・多くの場合、彼女の表現では「できすぎ」状態で、高級住宅化現象が起こってしまったのだ。・・・都心近隣地域は途方もなく人気が出て、富裕層、それも主として白人層しか住むことができない状態になってしまった。・・・カフェやアートギャラリーが金物屋やコインランドリーを駆逐したのだ。(P290)

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