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2012年3月

2012年3月27日 (火)

北海道の移住・定住政策

 豊橋技術科学大学の谷先生から 、北海道の各市町村で実施されている移住・定住政策についてお話を伺った。以下、簡単にメモを残すが、資料配布はなかったので間違いはご容赦いただきたい。
 北海道では、道主導の下、道内の市町村が参加して、平成17年度に北海道移住促進協議会が設立された。当協議会では、北海道への移住・定住を希望する人々に向けて参加市町村の活動を紹介するとともに、毎年、東京・大阪・名古屋で北海道暮らしフェアを開催している。現在参加している市町村は道内179市町村のうち98。年5万円の会費等で運営されている。
 谷先生によれば、移住・定住は手段で、目的は地域の再生・振興・活性化。このため、(1)相談窓口の開設、(2)空家バンク、(3)宅地分譲、(4)お試し居住、(5)生活支援、(6)住宅建設費補助等の施策が行われている。一気に定住ではなく、段階的移住を可とすることで、短期滞在でも地域振興につながればという意識が見られる。
 調査のため、昨秋に道内のいくつかの市町村を訪問し、ヒアリング等を行ってきた。先日は、厚真町、黒松内町、八雲町、厚沢部町の4町の状況を報告いただき、意見交換をした。
 厚真町は、人口5000人弱の苫小牧東部に位置する町で、人口は減少傾向にあるが、新千歳空港からの距離も近く、北海道の中では温暖な気候で首都圏のリタイア層の移住が多いようだ。行われている施策は、400~500区画に及ぶ宅地分譲、町営住宅、ちょっと暮らし体験、空家バンクとリフォーム補助など。
 黒松内町は、人口3000人強。札幌と函館のちょうど中間に位置し、ここもお試し移住体験、分譲宅地、空家バンク、町営住宅、住宅建設・購入費補助などを実施している。お試し移住体験施設は4タイプ。新築の2棟は地元建設業者が建設している。この町の施策の特徴は、地元建設業者と連携し、建設費補助が上限200万円と手厚いことだ。
 八雲町は、北海道の尾のくびれの部分、太平洋と日本海の2つの海に面する人口2万人弱の町で、今回調査した中では商業施設や交通網など最も都市的環境を有している。移住政策としては、民間建設業者等と連携し、移住推進協議会を設置。無償の宅地分譲等を行うとともに、移住体験ツアーを実施し、効果を挙げている。
 厚沢部町は函館の西に位置する人口2000人の小さな町で、交通の便も悪く、観光資源にも乏しいことから人口減少が続く過疎の町である。「過疎」を逆手にとって、「素敵な過疎づくり株式会社」というまちづくり会社を設立、ちょっと暮らし住宅を4棟建設、住宅建設費補助なども行っている。
 総論として、北海道移住促進協議会による移住フェアなども開催されているが、移住を考えている人にはホームページが最も効果が高いこと、民間と連携した取組みが効果を上げていること、補助金頼みという実態が見られることなどを挙げていた。また、体験居住は北海道全般で行われているが、元気な高齢者等が長期避暑や観光旅行の拠点として利用されている実態があることなどから、体験居住の位置付けの再検討が必要などの課題を挙げられ、地域の実情に合わせた取組みが必要と総括していた。
 足助町へ出向し定住施策を担当していた当時のことを思い浮かべながら聞いていた。やはり若い世帯の移住には職場の確保が最大のネックという点は、北海道と言えども変わらない。手に職のある熟年層の移住が経済的効果を上げている事例もあるようだが、レアなケースと言える。空家バンクは登録物件が少ないのはどこも同じこと。住宅建設費補助は意外に小額。移住・定住希望者で新たに住宅建設ができる人は少ないし、多くはある程度資産を持った高齢者になってしまう。
 足助町でも、短期体験居住の要望は多く、合併後の豊田市になってから、旧足助町内でも古い空家を3軒、定住体験住宅として実施している。HPを見た感じではそれほど利用されていない印象だが、北海道では確かに観光目的で利用されるケースも多いだろう。
 北海道の場合、地域住宅モデル普及促進事業を活用し、9割の国庫補助を得て、建設をした施設がいくつかあった(この事業は全国的にも多くの都道府県で利用された)。地元建設業の振興策という面も強く、また短期であっても町内に滞在すれば、少なからず経済効果もあるのだろう。谷先生は、裕福な高齢者と地元建設業者を優遇する政策ではないかと批判していたが、過疎地への所得再配分という側面があることは否定できない。短絡的な地方振興策ということ。
 もちろん日本全体の人口が減少していく中で、過疎地の市町村がいかに生き残っていくか。直接的な振興策と同時に、地域の特性を踏まえた中長期の対策が必要なことは言うまでもない。
 「移住・定住」というが、何を持って定住というのか定義があるわけではない。5年以上、または10年以上を約束して補助金を支給している市町村が多いようだが、裕福な高齢者に元気なうちだけ移住してもらい、病気等になったら戻ってもらう、地域の魅力を生かした元気移住の仕組みもある程度意味があるかもしれない。
 これは住み手側にも、居住地に対する意識を問い直すものだ。年代や状況に応じ住み替えていくことを前提とすれば、移住施策というのは地域にとっても住民にとっても意味のある政策になる。いや、建設・不動産業界にこそ最も意味があるのか。それもあるだろうが、どんな人生をどこで過ごすかということをもっと考えていいかもしれない。

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2012年3月12日 (月)

碧南大浜てらまち散歩

 仕事で碧南へ行った帰り、同行のYさんが「少し町を歩いてから帰ります」と言う。デジカメを片手に歩く気満々。思わず「一緒に行く」と答えてしまった。
Nec_0013 碧南駅前は非常に閑散としている。名鉄三河線の終着駅のため仕方ないが、財政的には非常に裕福な市の中心駅とは思えない。午後からの仕事で駅前で昼食を取ろうと予定より少し早く駅に着いたが、食堂は駅前に「大正館食堂」があるきり。他にはコンビニも何もない。ここまで何もない駅前も少ない。
 仕事を終えて、3時に駅前に戻り、取り敢えず旧国道の大浜街道まで歩く。交差点角にある林泉寺は1457年創建の曹洞宗の寺。広々とした庭に立派な本堂では毎週早朝座禅が開かれているそうだ。街道沿いに南に進むと、左手に倉庫状の「大浜まちかどサロン」がある。ここで町歩きマップ「大浜てらまち散歩地図」を入手。以下、これを片手に町を歩いた。ちなみにこの「まちかどサロン」は、パチンコ店跡地だそうだ。
Nec_0014 その南側に全景真っ黒な外観の施設がある。藤井達吉現代美術館だ。藤井達吉は明治末期から昭和にかけて活躍した工芸作家だ。かつてこの建物は商工会議所として使用されており、当時、地元建築士会の方々と「大浜地区の歩いて暮らせる街づくり」について意見交換をしたことがある。その後、その建物が増改築され、このような立派な美術館として再生したと思うと感慨深いものがある。
 美術館の向かい側に立派な堂楼が聳えているのが西方寺だ。真宗大谷派の寺で本堂の妻面白壁のまるでギリシャ建築の柱のような鏝飾りが面白い。寺の北側、九重味淋(株)との間の路地を入っていく。路地はカラー舗装でしっかり整備されている。左手に清澤満之記念館。清澤満之は大谷大学初代学長の宗教哲学者。記念館は新しい建物だが、清澤満之が使用していた書院も見学できる。
Nec_0018 路地を突き抜け右回りに回ると、九重味淋の黒壁の倉庫群が一望できる。特にいくつもの窓が明いた大蔵がいい。1706年建設1787年移築改造したものだが、全く古さを感じさせない。登録文化財。
 いったん大浜街道に戻り、今度は西方寺南側の路地を入っていく。突き当たった辺りの町は、1mに満たないような路地が何本も走り、そこに木造住宅が密集している。これらの路地もそれぞれ整備されている点が興味深い。碧南市の「歩いて暮らせる街づくり」はここまでやったのか。だが、建築基準法的な対応は検討はされたけど、結局そのまま放棄されたはず。この環境を残すべきかどうか、けっこう悩ましい。
Nec_0031 この辺りは大浜漁港にすぐ近く、川に面した通りには蔵も残っている。また大浜漁港もけっこう多くの漁船とプレジャーボートが停泊し、思った以上に賑わっていた。港につながる堀川にかかる新水門の橋を渡り、川の南側へ。こちらの路地もなかなか雰囲気がある。特に下見板のコールタール塗りの黒壁がいい。
 細い路地をふらふらと歩きながら大浜東照宮まで歩く。北隣に東照山称名寺。徳川家康の幼名竹千代命名の寺。碧南大浜の寺はどこもたいへん立派だ。海で暮らす人々は信仰心が厚くなるのだろうか。もちろん醸造業や廻船問屋で賑わったという歴史もある。大浜街道を北に戻ると本伝寺、清浄院も立派だ。
Nec_0036 堀川まで戻ると、交差点の角に旧大浜警察署。ここもかつては老朽化が進み、その活用が検討されていたが、きれいに手が入って外観整備された。大正13年建築のRC造。ただし耐震性の問題もあり、館内は見学できない。裏手の広場としてきれいに整備され、子供の遊び場となっていた。
 裏側の路地を歩く。椿の赤い花びらがこぼれ落ちて雰囲気のある路地。天神会商店街の看板が架かる街灯。店舗がない。堀川沿いに禰宜田陶器店。昭和の香りが残るお店だ。後は橋を渡って碧南駅へ向かう。細い道路が走るが、農地も散在し、一般的な地方都市の古い街の雰囲気。大きなスーパーマーケットがある裏側辺りを廃線となった名鉄三河線の旧線路用地が残る。砂利混じりの細い土地がただ続く。振り返れば碧南駅。終着駅となった駅構内には赤い列車が何両も止まっていた。

●参考
マイフォト「碧南大浜てらまち散歩」・・・その他の画像はこちらにあります。

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2012年3月11日 (日)

高齢者から「つながる」

 先日、高齢者住まい計画関連の会議で、興味深い話を聞いた。委員の一人、K先生が最近経験したこととして、「ある一人住まいの男性から近所の人々に『私はこういう者でけっして悪い人間はないので、万一のときはよろしく』といった内容のチラシが配られた」という話だ。
 住宅関係の会議なので、高齢者が多く居住する公的住宅に地域の見守り活動を導入する計画を説明した際に、O先生から「地域の見守り活動の主体は誰を期待しているのですか」という質問。自治会などの地域組織や福祉系NPO等と返事をしたところ、「今は地域やコミュニティにつながっていない高齢者が増えている。自治会等の活動を待っていても、なかなか多くは救えないなあ」とつぶやかれた。
 ところが、K先生の話は、一人住まいの高齢者が地域の見守り活動が届くのを待つのではなく、高齢者の側から積極的に地域へアプローチしていったという話だ。
 現実はO先生が言うように、地域等からのアプローチを待って、でもついに届かないまま、孤独死などに至ることも多いのだろうが、これからは、待っていても来てくれないなら、高齢者の側から「つながり」を求めていくということが次第に増えていくのかもしれない。もちろんまずは行政にアプローチするのが通常なのだろうが、この男性の場合は、行政よりも地域へアプローチしたという点が興味深い。
 先日読んだ「中国化する日本」では、これからは日本も「中国化」せざるを得ないと言う。この場合の「中国化」とは、宋朝中国をモデルに「理想道徳を掲げて人種を問わず人民を統治し、自由と機会の平等が謳歌される社会」を言う。現在のグローバリズムや新自由主義に近いが、当然、社会保障は限りなく低い。そうした状況下で、宋代の中国民衆は、一族はリスクを分散するため離れ離れに暮らし、何かあれば同族同士で助け合い、一族に科挙合格者を出せば一族郎党が群がる、そんな宗族と呼ばれる父系血縁ネットワークが形成された。
 日本も少し前までは家族や会社が社会保障を担っていたが、それらが解体されるに従い、行政に社会保障を頼むようになっている。だが今後、行政力が小さくなり、十分期待に応えられなくなると、民衆は個人で社会保障を求めなければならなくなる。
 K先生が経験した高齢者の行動は、こうした動きの一つの表れと見えないこともない。まずは家族につながりを求め、いなかったり遠くて頼りにならないようなら地域にコミュニティを求める。さらに趣味の仲間。いまはIT時代だからFacebookも個人によるつながりを求める社会保障の動きの一つと見ることもできる。
 これまでのように、高齢者は救われる存在としてただじっと行政等が手を差し伸べてくれるのを待つのではなく、高齢者の側から「つながり」を求めていく。社会の形が変わろうとしている。こうした状況に行政はどう応えていくのか。同席されたI先生が「最近は市民後見人という仕組みが注目を集めている」とおっしゃっていた。それも一つの対応のような気がする。制度で支えるのではなく、ネットワークで支え合う時代になりつつあるのだと思う。

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2012年3月 5日 (月)

世界が賞賛した日本の町の秘密

 タイトルを見て、「世界が賞賛する日本の町」のいくつかが紹介されているのだとばかり思っていた。それは、京都か、奈良か、それとも金沢・・・? ところが本書で賞賛されているのは、日本のどこにでもある「ママチャリタウン」だ。そう、本書はママチャリを礼賛し、ママチャリが日常的に使われる町を「ママチャリタウン」と呼んで賞賛するのである。
 ママチャリタウンは、環境にやさしく、人にやさしく、賑わいを創出し、隈なく張り巡らされた正確で安価な公共交通網によって、全国どこにでもつながっている。
 確かにそういう見方を取れないこともないが、一方で不便さや危険性なども存在する。過疎が一定以上進んだ地方部では「ママチャリタウン」は既に幻想に過ぎないし、公共交通網も各地で寸断され始めている。
 だがそれでもなお、高速道路1000円施策が推進されたりする現状の前には、ママチャリが日常的に利用できる狭くて安全な道路、濃厚なコミュニティ、アイコンタクトによるコミュニケーション、活性化された便利で快適なミックスタウンを強調することは意味のないことではない。
 私自身も最寄り駅まで一時自動車やバイクを利用していた時期もあったが、ここ10数年は自転車通勤にしている。私のブログに対しても、自転車のベルを鳴らしたり、通行マナーについて指摘するコメントが付くことがあるが、杓子定規に規則に縛られるのではなく、柔軟なコミュニケーションとして評価する筆者の視線は日本人以上に日本人的だと言える。我々はやはり欧化洗脳から依然として逃れられていないのかもしれない。

●電信柱は景観的には魅力が乏しいですが、自転車や歩行者にとっては、乱暴な運転をする車に対する、ときどき現れる避難所のような役割を果たしています。(P32)

●アムステルダムの人々は彼らの都市が自動車ではなく、自転車の都市であることに誇りを抱いているように思えます。利便性が高く、低炭素で健康、そして安価な乗り物というだけでなく、自転車はアムステルダムという都市の美徳の構成要素なのです。駐輪されているママチャリも見方を変えれば、日本の美しさと知恵の証としてみることができるのではないでしょうか。(P119)

●都市内の街路を自動車のために転用するという事例は、日本の都市を含めて世界中で見られる現象です。都市内の幹線道路は、高価な信号機や標識、立体交差、ガードレールなどさまざまな設備を設置することで、道路における最も広い空間が自動車に提供され、それ以外のものは端に追いやられることになります。・・・そして、我々はこれが正しい状態であると認めるよう洗脳されてしまっているのです。8P131)

●日本では自転車、そして歩行者はお互いの道路での位置づけを、・・・交通の流れに応じて、より柔軟に判断しているように感じました。/二つの自転車が近づくときには、ほとんど無意識に近い微妙なものではありますが、コミュニケーションが交わされているように感じます。乗り手は一方がちょっとタイヤを動かすことで無言のサインを出して、どちらに行くかを相手に伝えると、もう片方が違う方向にタイヤを動かすことでそのサインを了解したことを伝えます。そして、二つの自転車は行き交うのです。/これと類似した、無言ではあるけれどその場の文脈によってどのように行き交うかを相手に伝えるサインは、自転車が走行可能な歩道を利用する自転車と歩行者とでも見て取れます。(P136)

●狭い道路は自動車交通を抑制するのにも効果があります。それは「自転車の買い物カゴ」のサイズのなかで生活が足りることを可能にします。・・・日本は交通静穏化にかけては、そもそも住宅地内の街路の多くが狭いために、アメリカのはるか先を行っているといえるでしょう。/また、狭い道路は都市におけるヒート・アイランド現象を緩和します。・・・もちろん、都市において、ある程度の広幅員の道路があることは、物流面や緊急時において重要です。広い道路と狭い道路のほどよいバランスをめざすことが必要ではないかと思われます。(P173)

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