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2012年5月31日 (木)

被災地を歩きながら考えたこと

 建築評論家の東北大学教授・五十嵐太郎の震災後初めて出版されたエッセイ集である。建築界では有名になった耐震改修後にも関わらず損傷した研究棟には筆者の研究室も入っていたそうである。震災当日は横浜のトークイベントに参加中で身体的な被害はなかったが、研究室が被災したという点では被災者でもある。
 交通事情がある程度回復した以後、大学からの招集があり、それを契機に被災地各地を回って歩く。北は八戸から南は舞浜まで。本書はこうした活動の中で見たもの、感じたこと、考えたことなどを様々なメディアに求められるまま書き残してきたエッセイをまとめたものである。
 全体を大きく、1.破壊、2.文化、3.記憶、4.構築、5.情報、6.萌芽の6章に分けている。初出一覧を見ると、だいたい発表した順番に並んでいる。すなわち初期にはまさに目に見える破壊そのものに驚き、破壊そのものを考える。ついで建物の中に収蔵されていた書物や収蔵品、歴史などの目に見えない文化が被災したことを思う。そしてこの震災の記憶をいかに継承していくかを考える。
 女川町で横倒しになったRC造のビル4棟は震災の記憶として保存されることになりそうだ。この章では内田樹の「原発は神殿である」という言説を取り上げ、筆者の卒業設計を思い出し、この説を補強する。
 4章「構築」では、五十嵐研究室で取り組んだ仮設住宅地における集会所づくりを紹介し、復興を考える。5章「情報」はアートや建築展、建築系メディアの状況など、そして最後に被災地の今後を考える。
 まだ最終的な方向性が見えている訳ではいない。まさに考え中。一方で震災の記憶は次第に風化し、新しい景観が出現している。この震災で建築家が受けた衝撃は小さくない。先に読んだ伊東豊雄の活動も取り上げられているが、「みんなの家」プロジェクトは2012年のヴェネチア・ビエンナーレの日本館コミッショナーに決まった。それは伊東豊雄が世界的建築家の評価を捨て去って、プリミティブな木造建築からスタートしようとするものだ。建築そのものがいまあらためて問いなおされている。


●東京に来ると、多くの人がみずから巻き込まれた被災者として放射線量の話題ばかりに集中しているが、仙台あるいは東北の被災地を訪れると、それどころではない。むろん、原発事故は世界史的に考えると重要だが、こればかりが強調されると、日本において戦後最悪の死者・行方不明者を出した自然被害が相対的に小さく報道される。(P44)

●固定した箱がなくても教育は可能か。いや、原点に立ち返り、人さえいれば、そして空間を読みかえれば、どこでもゼミはできる。・・・食堂、住宅、オフィスを教室にリノベーションすること。・・・使用者の立場から機能を付与することができる。そうした具体的な実践も、非常時においてどう考えるかという一種の建築教育になっていたと思う。(P92)

●横浜の山下公園が関東大震災の瓦礫を埋め立ててつくられたことはもはや空間の体験からは感じられない。・・・どんな復興計画をたてるにせよ、震災と津波の記憶がどのように残るかは重要なテーマである。一度きりではない。これまでもそうだったように、将来も同じ災害が必ず反復して起きるからだ。(P108)

●原始の小屋に戻ることはただの退行ではない。建築の更新を促すことでもある。被災したのは、物理的な建築だけではない。建築のコンセプトそのものが傷ついた。だからこそ、いったん建築家の近代的なエゴを捨て、いまここから建築は可能か、があらためて問いなおされるのである。(P218)

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