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2012年9月

2012年9月25日 (火)

首都圏の防災学習施設と小江戸川越・蔵造りの町並み

 先々週の3連休、日曜日から月曜日にかけて、東京・埼玉へ1泊2日で旅行してきた。娘が4日かけて卒論のための施設調査に行くというので、じゃまにならないようについていったもの。
Dsc02362 娘の調査先は東京と埼玉県の防災学習施設。ということで、まずは有明の防災体験学習施設「そなエリア東京」へ向かう。事務室へ調査に向かう娘を尻目に、妻と私は体験学習ツアーに参加。ニンテンドーDSを首にかけてクイズを解きながら、被災後を再現したジオラマの中を巡る。けっこう面白い。ちなみに「そなエリア東京」を含む「東京臨海広域防災公園」は、大規模災害発生時に「災害現地対策本部」等が置かれ、広域支援部隊等のベースキャンプや支援基地となる防災拠点施設で、施設の周辺には広大な広場が広がっており、当日は訓練も行われていた。
 初日はここだけで終わる。池袋に宿を取り、翌日、娘は9時から池袋防災館へ。こちらは東京消防庁が開設する防災学習施設で、地震体験や煙体験、消火器体験などのコーナーがある他、都内の町内会等向けに図上訓練コーナーもあるのが特徴。
 東京都の消防組織は、市町村毎に消防を置く他の道府県と異なり、島嶼部と多摩地方の一部を除き、東京消防庁が都内全域の消防活動を行っている。防災体験施設は池袋の他に、本所と立川にあり、娘は翌日以降、これらの施設も訪問・調査をしていた。
Dsc02372 ヒアリングが終わった娘を拾って、次は目黒区の地震の学習館へ向かう。こちらは区立の防災体験学習施設で、やはり地震体験や煙体験、消火器体験などができるが、来訪者グループ毎に案内者が付いてレクチャーしてくれる。たまたま小学生を二人連れた家族連れと同じグループとなったが、来訪者は目黒区民がほとんどで、目黒区内の地図で避難場所の確認をするなど、地域に密着した施設だ。
 ただ、残念ながらこの施設は、区長の方針により、来年3月で閉館することが決まっている。案内をしてくれた元消防庁OBの方も残念がっていた。娘はこの後、北区の地震の科学館も訪問しているが、話を聞くと、区が事業主体の施設では、町内会への出前講座と連携した施設活用や耐震化補助など市町村施策との連携の面で意義のある活動・利用がされていたとのこと。東京都独自の問題かもしれないが、消防、防災、救助、建物や施設の耐震化・防災化など総合的な施策の実施に向けて、縦割りの解消(又は円滑な連携の確保)は大きな課題の一つだ。
 続いて、埼玉県防災学習センターに向かう。鴻巣市にあるが、初めて聞く地名。カーナビの示すままに走っていった。ちょうど連休中は防災イベントを開催しており、エレベーターの閉じ込め・救出シミュレーションを体験した。初めてで面白い。
 館内は地震体験など。さすがに3度目ともなるともう飽きた。できれば普段はどんな様子か見たかったが、この日はビンゴゲームや防災グッズ配布など職員がイベントで忙しく、娘ともども(要点は取材していたが)早々に退散。時間が余ったときにと思っていた川越へ向かう。
Dsc02381 川越へは20年近く前に一度訪れたことがある。当時、私は足助町や犬山市の景観行政に関わる仕事を担当しており、パソコン通信NiftyのFcityのオフ会で知り合った当時コンサルタント職員の山口邦雄さん(現・秋田県立大準教授)から「川越の町づくり規範」をいただき、その足で川越まで行った記憶がある。どうして川越まで足を伸ばすことになったのか、どうやって行ったのか、その後どこへ向かったのかはトンと覚えていないが、蔵造りの町並みの重厚さ、そしてなぜか菓子屋横町も歩いた覚えがある。
 今回はクルマなので一番街の中心、鍛治町広場北の駐車場に駐めて町を歩いた。まず、駐車場の正面にあった田中家住宅、現在はカフェ・エルバートという喫茶店になっている。大正4年建築の洋風な外観だが、構造は木造蔵造り。2階で芋プリンとコーヒーをいただいたが、がっしりした木組みや棟札、裏の蔵に続く重厚な土扉が見られ、心和む一時を味わう。
 交差点角には山崎家住宅(亀屋本店)。店蔵と袖蔵が並ぶ重厚な外観はさすが風情がある。明治27年建築。家業の和菓子屋は天明3年創業だ。向かいには松崎屋住宅。明治34年建築。巨大な鬼瓦に豪華な箱棟が豪壮。南西角にはまめ屋。屋号のとおりの豆専門店。
Dsc02385 通りを東に進むと仲町観光案内所。旧呉服店の笠間家住宅を修復利用している。その向かいに堂々と建つ洋風建築が川越商工会議所。昭和3年建築の元武州銀行川越支店。前田健二郎設計。RC造地上2階地下1階。国の有形文化財に指定されている。ドリス様式の列柱が並ぶ外観はまさにギリシャ神殿のよう。玄関上のメダリオンが面白い。
 そのまま東に歩くと通りの北側に豪壮な商家が見える。明治27年建築の原田家住宅だ。大きな鬼瓦に高い棟、2階の重厚な観音扉が質素な1階を圧して今にも押しつぶしそうだ。手前の路地を北に上がっていくと、川越には珍しいハーフティンバー様式の建物が見える。大正2年建築の中成堂歯科医院だ。ピンク色の下見板張りがかわいいが、2002年に改修して塗り替えたものらしい。
Dsc02390 突き当たりまで上がると時の鐘のある鐘つき通り。南東角から2軒目に小さく建っているのが福田家住宅。元々銀行として建てられたもので、妻入り寄せ棟造り。2階に一つだけ開けられた窓が質素だがかわいい。
 時の鐘は寛永年間に川越城主・酒井忠勝によって建てられたというが、現在のものは川越大火後の明治27年建築。実は以前来たときの記憶があまりない。今回もほおっと見上げて通り過ぎてしまった。当初建築通りの質実で飾りのない外観がそうさせてしまうのかも。しかし鐘の音という点で川越のシンボルなのは確か。もっとも今回もその音を聞きそびれてしまった。
 一番街に戻ると黒壁に重厚な屋根が乗る蔵造りの商家が軒を並べている。交差点の北東角に建っているのは滝嶋家住宅。ややくたびれた感のある質素な外観。こうした落ち着いた商家があってこそ派手な商家が目立つのかも。
Dsc02395 大勢の観光客で賑わう通りを北に上がると、東に大沢家住宅がある。寛政4(1792)年建築で川越大火を免れた川越最古の建築物。2階の窓格子と鼠色の漆喰壁が端正で美しい。また細い路地を挟んで右隣の金笛醤油の建物も小振りながらよく手入れされている。
 大沢家住宅の向かいに建つのが川越まつり会館。ただしこれは2003年に新築されたものらしい。地味に主張していないところが好ましい。大沢家住宅の北側には長島家住宅。右側が洋館風ファサードの2棟が連なった建て方となっている。
 川越まつり会館北の蘭山記念美術館の中を抜けてまつり会館駐車場から北の高津通りに出て、菓子屋横町に向かう。夕方5時近くになり、既に閉店の準備をしている店も多い。長い麩菓子や割れせんなど駄菓子がたくさん並べられている。石畳の路地を通り抜け、寺院横の路地を通って一番街へ戻った。
 一番街の西側にも見事な商家が続く。理容店と書店が入っている建物は平岩・水飼両家住宅。明治26年建築。両家の境はどうなっているんだろう。目立たないけど、この住宅の鬼瓦もかなり立派だ。さらに南隣には「フカゼン」の看板が目立つ小谷野家住宅。川越には珍しく2階の窓に瀟洒な桟模様が見える。鬼瓦もつつましいが、この建物の特徴は防火用の袖壁。名古屋なら「うだつ」と言うところだけど、川越ではそう呼ばないのだろうか。
Dsc02405 さらに南には、小谷野家住宅と対照的に大きな鬼瓦が見事な宮岡家住宅。「まちかん」という屋号の刃物店で明治30年建築。2階の黒壁は薄れて地の白漆喰が見えているが、これがまた町並みの中ではアクセントになっている。さらにその南、路地の角に建つのが原家住宅。大きな鬼瓦に加え、角に伸びる棟瓦が迫力のある景観を作っている。
 振り返るとそびえているのが、埼玉りそな銀行川越支店。大正7年に国立八十五銀行本店として建てられた鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て。しかし塔屋が高く掲げられ、実際以上に大きく見える。薄緑の銅板葺きに濃淡を付けた柱模様が美しい。その足下に佇むのが小林家住宅。大きな鬼瓦もさることながら、特徴的なのがその脇から微妙な曲線を描いて伸びる髭のような金物装飾。右側の鬼瓦の根本からすっくと雑草が伸びていたのも面白い。すわ藤森流の芝棟かと思ったが、そういうわけではない。
Dsc02406 小林家住宅の向かいは荻野銅鉄店。上品な造りの商家だ。そしてその左隣に建てられた3階建てRC造の洋館が旧山吉デパート。埼玉りそな銀行川越支店(旧国立八十五銀行本店)と同じ保岡勝也の設計で昭和11年に建築された。2階のイオニア式の飾り柱が面白い。
 次第に陽が傾く中、歩くこと1時間半。大急ぎで回った川越の町だったが、思った以上に濃密で面白い。じっくり回れば1日でも足りないだけの規模と内容が詰まっている。
 その後、娘を池袋のホテルまで送り、夜をかけて名古屋まで帰ってきた。疲れた。でも楽しかった。子供の卒論調査にこれほどつきまとう親もいないだろう。親バカ、または子離れができない、と言われるかもしれないが、娘のお陰で知見が広がるのは楽しい。これからも連れて行っておくれと書いておこう。

●参考
フォトアルバム「小江戸・川越・蔵造りの町並み」

カワゴエール「蔵造りの町並み」

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2012年9月 7日 (金)

第四の消費

 三浦展の消費社会論の集大成と言える。消費社会を大正初期から始まる第一の消費社会、戦後の第二の消費社会、オイルショック後の第三の消費社会、そして人口減少などが始まって以降の第四の消費社会と4つに区分し、特に現在から今後さらに進行する第四の消費社会とは何かを論じる。
 全体を概観する第1章「消費社会の四段階」に続いて、第2章「第二の消費社会から第三の消費社会への変化」の章が長い。各段階はけっして明確に区分されるわけではなく、積み重なり、予兆を伴いながら変化していくので、第2章で戦後から現在までの消費社会の変化や人々の意識を振り返ることは、これからの消費社会、いや社会そのものの将来を見る上で重要である。
 「消費の高度化・個人化」「大衆の分裂と格差社会の予兆」「ニーズからウォンツへ」「高度消費社会の飽和と消耗」など、この数十年間言われ続けてきた事柄を概説しつつ、現在の「シェア志向」「エコ志向」「日本志向」「地方志向」がなぜ生まれてきたのかを説明する。
 第四の消費社会の表れとして紹介されるシェアハウスやリノベーションなどは都市計画や建築の専門家なら既知のことではあるが、これらの潮流が「人生の意味を求める消費」であると言われるとオオッと感嘆の思いがする。
 第4章「消費社会のゆくえ」では、これからの企業戦略についての提案も書かれているが、その書き出しに書かれている『現代の消費者は「楽しいこと」ではなく「うれしいこと」を求めている』(P249)という言葉は、なぜ第四の消費社会がモノではなく「ヒトとのつながり」を求めるのかを端的に表現していて興味深い。確かに、「楽しい」以上に「うれしい」ことの方が豊かで心に沁みる。
 第3章、第4章の章末に添えられた、コミュニティデザイナー・山崎亮氏や日常編集家・アサダワタル氏、佐賀でまちなか再生活動を行う建築家・西村浩氏、さらに元セゾングループの総帥にして詩人の辻井喬こと堤清二氏との対談やインタビューも興味深い。

●第四の消費社会は、日本志向である以上に地方志向であり、それは必然的に脱集中志向、分散志向である。グローバリゼーションによる全世界画一的な商品が広がる一方で、にもかかわらず、むしろそうであるがゆえに、地方ごとの独自のものが評価される時代になっているのである。(P192)

●第三の消費社会までは物の消費が中心だったが、第四の消費社会が発展していくにつれて、消費は、単なる物の消費から本格的な人間的サービスの消費へと変わっていくことはまちがいない。しかしそれは、単に金銭を払うことで一方的にサービスを受け取るのではない。消費を通じて、もっとお互いの人間的な関係を求める人々が増えていくであろうと予想されるのだ。つまり、サービスという商品を消耗するという意味のサービス消費が発展するのではなく、サービスが提供側にとっても受け手側にとってもコンサマトリー(自己充足的)な行為であることが求められていくだろう。(P204)

●それぞれの活動は点でも、多くの点がつながることにより、点は線になり、面になって、まち全体に広がっていくのである。それは、役所、官が主導するパブリックではない。市民ひとりひとりがプライベートを少しずつでもみんなに開くことによって生まれるパブリックである。これこそが「新しい公共」であろう。(P242)

●消費すること自体が、時間や人生の消耗ではなく、時間と人生の充実であることを人々は求めるであろう。考えてみれば、人間にとって最大の消費対象は人生そのものであり、究極の消費とは人生の成就であろう。この人生を浪費して無駄に終わらせるか、消耗して疲れ果てるか、あるいは充実した時間を過ごして、満足して死ぬか、これこそが人間にとって最大の問題である。第四の消費社会は、人々にそうした問題を意識させていると言えるであろう。(P246)

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