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2012年10月

2012年10月31日 (水)

コミュニティデザインの時代

 いま民間の都市計画系コンサルタントは行政からの発注が減って、経営的に厳しい状況に追い込まれていると聞く。いくつか倒産した会社もあるし、人員整理を行っている会社も多い。そうした状況の中で、山崎亮氏が実践するコミュニティデザインの仕事が注目を集めている。彼はどういうやり方で、どういう考えを持ってその仕事に携わっているのか。直接そのことを書いた本ではないが、講演会等で聞かれる質問等に答えるつもりで短い文章を書き溜めていったら、こうしたエッセイ集になった。全体は4章構成。「なぜいま、コミュニティが注目されるのか」「つながりのデザインって何?」「仕事を通じて知り合った人のエピソード」そして「コミュニティデザインの進め方」。これらを読むと、山崎氏が現代社会をどのように捉え、コミュニティデザインをどう捉えているのか。日頃、どういう考えや態度で仕事に関わっているのかがわかってくる。当初の私の関心にも応えてくれる。
 書かれていることは至極まともであり、同様なやり方で住民と接し、コミュニティデザインに携わっている都市計画系コンサルタントはたくさんある。一方で、山崎氏の生まれ持った性格やその後の鍛錬等によって、際立って優れたコミュニティデザイン能力を発揮していることもよく理解できる。
 1点、なるほどと思ったのは、ワークショップに入る前に十分なヒアリングを実施している点である。「コミュニティデザインの4段階」(P180)として、第1段階は「ヒアリング」、第2段階は「ワークショップ」、第3段階は「チームビルディング」、第4段階は「活動支援」を挙げている。
 このうちの第1段階「ヒアリング」を徹底して行い、地域のキーパーソンと友達になって、個人的にワークショップに誘える関係にまでなる。そうした人脈づくりが重要だというのは確かにそのとおりだと思うが、そこまでやっていられない地域がほとんどではないか。
 そのために山崎氏は寝る間もないほど忙しい毎日を送る。坊主頭に髭面なのも、単に床屋に行っている暇がないからだと言う。うーん、それって時給に換算するとどれだけの過酷労働になるんだ?
 そもそもコミュニティデザインという仕事が開拓期でまだ全国を合算しても十分な業務量があるわけではない。その中で、山崎氏が業務として認知させる役割を果たしている。でき得れば、各地域や行政でコミュニティデザインの必要性と専門性が認知され、これまでほとんど無給でこれらの仕事を行ってきた都市計画系コンサルタントに正当な業務としてのフィーと業務量が生まれる日が来ることを願う。一方で、行政職員がコミュニティデザイナーになればいいという方向もあるだろうな。でも本書中で山崎氏が指摘しているように、よっぽど熱い行政職員にしかできないというのも事実。いまはまだ、コミュニティデザインという仕事、そしてコミュニティデザイナーという職能が十分認知される以前の「暁の時期」だと言える。

●定住人口が減るから交流人口を増やして何とかしようとするのもいいが、むしろ「活動人口」を増やすという手もあるのではないか。・・・活動人口が増えれば人のつながりが増えることになり、孤立化していた市民がひとまとまりのコミュニティを形成することになる。まちの元気度合いを測る数値は定住人口と交流人口だけではなく、活動人口もあるのではないかと考えている。(P9)

●現代を生きる人たちにとって、つながりがなさすぎるのは生きにくいが、つながりがありすぎるのも生きにくいのである。どれくらいの強度であれば快適なつながりなのか。僕たちはいま、コミュニティデザインという手法を使って「いいあんばいのつながり」がどれくらいの強度なのかを探っているところだ。自由と安心のバランスを調整しながらコミュニティデザインに取り組んでいるといえよう。(P11)

●こうした空き地のマネジメントに地域のコミュニティがどう関わるのかを考えるのが僕たちの役割である。・・・室内を快適にすればするほど、まちの活動は室内化されるし、地縁型コミュニティの活動だけを期待していれば活動主体が減少していってしまうことになる。まちの屋外空間とテーマ型コミュニティとをどのように組み合わせるのかが、人口減少時代のまちにとって大切な視点となるだろう。(P22)

●ものをつくってもいいし、つくらなくてもいい。施主から相談された課題を解決するために、必要であれば空間を設計するし、そうでなければコミュニティを設計する。あるいはその両者を組み合わせることによって、与えられた課題をうまく解決することができる。「ものをつくらない」という方法を手に入れることによって、建築家の解決策は一気に幅が広がるのではないだろうか。(P73)

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2012年10月27日 (土)

住宅政策の未来?

 これまでもこのブログに書いてきたことのように思うが、いつ書いたか検索するのも面倒だし、最近思ったことということで改めて書き留めておきたい。
 しばらく前に、愛知県内のシルバーハウジングでLSA(生活援助員)を務める方たちや市町の福祉部局、LSA派遣元の社会福祉協議会などの担当者等が集まって意見交換をする機会があった。愛知県内を大きく3地域に分けて、住宅側からは建設・管理の担当者が参加した。日頃から直接、高齢者に会って生活援助等を行っている方や、高齢者福祉に責任を負う部局の方々の真剣で実直な意見は大いに参考になったし、心揺さぶられるものがあった。
 聞きながら同時に感じたのは、われわれ建築の専門家が高齢者福祉の実態を知り、その問題解決に取り組むには、知識・経験・能力などで遠く及ばないし、それらを彼らと同等まで習熟するのは困難だなという実感だ。やはり餅屋は餅屋で、任せるべきところ、対応すべきところ、すり合わせるべきところを見極めて対応していかざるを得ない。
 では住宅政策側で対応すべきことは何かと言うと、どのような仕組みで高齢者向け住宅を供給(・誘導)するのか、高齢者向け住宅の建築的仕様をどうするか、入居資格や家賃をどう設定するかなどが考えられる。
 入居者の高齢化に伴う地域活動の低下(コミュニティ問題)、孤独死の発生など管理開始後の入居者の変化に起因する課題に対して、住宅管理者がどこまで対応できるか、誰が対応すべきかというのは、住宅施策にとっては縦割りの狭間の課題であり、けっこう悩ましい(もちろん民間住宅であれば、それらを含めて住宅の商品価値とコストの問題として対応できる)。
 先日の意見交換会では、高齢者の生活に関する課題については、福祉部局や福祉の専門家におまかせするのが適当ではないか、住宅管理側としては、福祉対応と連携して住宅改修等や入居者の入退去等の部分で支援するというスタンスが現場も円滑に回るし高齢者にとっても望ましいという感触を持った。
 また先日は、郊外住宅団地の空き地や空き家問題について調査・研究している方の話を聞いた。空き地は、2台目の駐車場用地や家庭菜園の場として地域資源になりうるが、空き家は犯罪や火災の温床となり、景観上の問題や崩壊等による危険性など、地域に波及する問題となりうる。だが、まだ多くの住民や町内会長は問題として認識していない現状がある。住宅政策として取り組むべきではないかという話だ。
 ウン? 住宅政策? なぜ「住宅」? 用途によって問題点が変わるわけではないのだから、やはり建築政策として取り組むべきではないのか。また、地域の衰退や人口減少期における土地利用計画が問題なら、都市計画やまちづくりとして取り組むべき課題ではないのか。前者であれば、危険建築物の撤去指導、後者であれば空き家の活用促進や都市縮退の施策を検討すべきだ。地域的な問題ではなく全国的な問題として捉えるならば、今後、空き家がますます増加することは明らかなのだから、建築物の撤去を積極的に誘引する政策(税制など)を検討し講じていくことが必要だ。
 いや、住宅政策とは何かという話だ。
 さらには、先日読んだ平山洋介氏の「都市の条件」でも、住宅弱者対策が住宅政策の重要な柱であることは自明の事柄として論じられている。かつては住宅不足の解消を目的とした公営住宅も昨今は福祉住宅化しているし、かつて「石から人へ」と政策転換した欧米のように家賃補助制度に取り組むべきだという指摘はずいぶん昔からある。
 一方で、生活保護制度の中の住宅扶助や失職対策としての住宅手当が厚生労働省所管の政策として講じられている(財務省が減額を主張しているようだが)。これらを住宅政策として位置付け、公営住宅供給等と一体のものとして、より広範かつ体系的に取り組めというのが平山氏の主張であり、かつてから多くの論者が主張してきているところである。
 住宅政策とはいったい何だろう?
 戦後の住宅不足が解消し、住宅の広さなども一定程度は確保されるようになって、日本の住宅政策は迷走してしまった。住宅の量はまだしも質は欧米に比べればまだまだ低い、適正な規模と家賃の住宅の量はまだ不足しているなどの主張がされてきたし、高齢者・障碍者対応、環境への配慮、省エネ・ゼロエネ住宅、防犯性の確保、リフォーム詐欺等の消費者対策、住宅履歴の保存など、いったいどこまでが住宅政策かと思うほど、その範囲や対象は広くなっている。
 これが学問であれば、居住学、都市住宅学、建築学(または社会学)として認められるかどうかはそれぞれの学会で決めればいい。だが、政策の場合は、予算と人をどう配分するかという問題になる。それは一方で行政の組織論であり、例えば住宅局は厚生労働省の中に移すという方策は当然これまでも考えられてきただろうし、道路局は経産省へ、河川局は防災関連施策と一体にして内閣府(または防災省創設)ということも考えられないわけではない。
 建築を学んできた者としては、住宅政策はできれば住宅の物性に関わる領域であってほしい。それ以外の課題は、総合的政策として社会学や福祉の専門家などと連携して取り組むのはやぶさかではないが、住宅政策だけで背負い込むのは正直厳しい。
 現在の状況は、種々多様な住宅に関わる課題に対応するにはあまりにヒト不足・カネ不足。現在は耐震改修にヒトとカネを投入している状況だが、これがひと段落すればヒト余りが起きるぞという声もあるが、その時にはいかにストックの質を高め、不要なストックを撤去するかが課題になるのではないか。何か「廃墟建築家」のような気分になってきた。いや、廃棄建築課だろうか。

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2012年10月19日 (金)

都市の条件

 平山洋介氏は「コミュニティ・ベースト・ハウジング」以来、注目を続けている住宅研究者の一人である。神戸大出身で「居住福祉」を著した早川和男研究室の流れを組む研究者だが、体制批判というスタンスだけでなく、幅広い視野の中で、日本の住宅問題と住宅政策の課題を見据え、提言をしてきている。2009年に出された光文社新書の「住宅政策のどこが問題か」で注目を集めたが、本書はその続きとも言えるし、まとめとも言える。ただし、関心が日本の住宅政策に向かうと、どうしても閉塞感に突き当たらざるをえず、「コミュニティ・ベースト・ハウジング」や「不完全都市」のような未来への展望は見られなくなる。批判や怒り、憤りの感情がベースを流れることになる。それはある意味仕方ないことだが、時代の大きな転換期に当たり、この国はどうしようもない袋小路に入り込んでしまっているように思える。
 本書は、第1章「住まいのライフコース」で、新自由主義と保守主義に根ざす日本の住宅政策が持家中心の単線型政策から抜けられず、多様化し拡散するライフコースを辿る多くの人びとをフォローしサポートすることができなくなっていると主張する。
 第2章「東京バブルスケープ」では、こうした状況が首都圏においてホットスポットとコールドエリアという形で地理的に現れていることを示す。住宅の市場化、証券化が引き起こしたこうした状況は、生活とは無関係に住宅供給が行われていることを示している。
 第3章から第5章までは、「若者」「女性」「高齢者」という日本の住宅政策においては脇役、間接的な属性として置かれてきたカテゴリーにおいて矛盾が現れてきていることを明らかにする。中でも第5章「高齢者の住宅資産保有」は、資産保有型福祉国家の限界と不安定さを指摘しており興味深い。
 そして第6章「住宅保障の論点」である。まとめに当たる本章では、不安定居住の拡大、住宅と労働政策、流動化と固定化する低所得者層、対物補助と対人補助、中央政府の役割と地方政府の限界など、個別の課題に当たりつつ、現状の住宅政策を批判し、労働政策と切り離して住宅政策を展開することの必要性を述べる。最後の「おわりに」が総論であるが、まさに正論である。
 だが、現状では日本の住宅政策の潮流が大きく転換する兆しはない。本書でも何度か社会住宅と家賃補助中心の欧米先進諸国の住宅政策を紹介するのだが、当然、一気にそこまで辿り着けるわけではない。平山氏が記述するように現在に至るまでのストックが違い過ぎる。しかし一方で、私の個人的感想としては、平山氏が批判するほどには現在日本の住宅ストックの状況がひどいという気はしないのだ。確かに耐震性やバリアフリー性能には劣るかもしれない。しかしある程度の欠陥も住みこなし乗り越えることができれば、日本にも既にある程度の質と量を有する住宅ストックが存在すると言えるのではないか。
 平山氏は民間賃貸住宅が狭小で高家賃と批判する。だが、戸建て住宅に多くの空き家が発生し始めた中では、家賃は自然に下がるだろうし、住みこなすことでこれらの余剰ストックを活用できないだろうか。平山氏の正論には頷きつつも次第に息苦しくなってくる中で、日本の現状を生かした住宅政策の再生を展望したいという欲求がもたげてきた。平山氏にもう一度、直接意見を聞いてみたいという気持ちが強くなった。

●成熟した都市に必要なのは、ライフコースの変容をふまえ、複数のモデルをもつことである。そして、より豊富なパターンのモデルのもとで、より多様な人生の軌道を想定し、より多彩な選択を支持することは、自由の幅をより広げ、都市の条件の持続に貢献する。(P008)

●重要なのは、グローバル経済が都市空間に与える影響の程度と内容は、それを受け止めるローカルな政策・制度の組み立て方にかかっている、という点である。都市計画、建築規制、住宅システム、金融市場などの政策・制度は、空間を経済領域に差しだし、あるいは逆に、経済変動から都市を保護する技術として機能する。資本主義経済がグローバルに拡大しているとはいえ、それとの関係をどのように構築するのかは、ローカルな政策・制度に関する選択の問題である。(P061)

●持家セクターが支配的な社会では、福祉国家は、賃貸セクターを改善しようとせず、アウトライトの住宅所有者を「暗黙のモデル」とし、その住居費負担の軽さを前提として社会保障制度をつくる。・・・福祉国家の社会領域での役割は、人びとのセキュリティを市場経済の変動から切り離し、隔離する点にある。しかし、「資産保有型福祉国家」は、私的領域の住宅所有にもとづくがゆえに、住宅市場の変動にダイレクトにさらされる。・・・住宅資産の役割を重視する福祉国家は、市場経済との関係を深めることによって成り立ち、そして住宅市場の変動の影響から逃れられない、という矛盾をもつ。この点に「資産保有型福祉国家」の不安定さがある。(P180)

●医療・教育・社会保障などの分野に比べ、住宅の分野では、市場メカニズムによる供給・消費が多いことから、住宅保障に関する政府責任は、「ふらつく」傾向をもつ。これを反映し、市場経済の拡張をめざすイデオロギーは、住宅領域にとくに強く影響し、政府の住宅政策を大幅に後退させた。(P214)

●家族の持家に住めるのは、不安定就労者の一部にすぎない。経済停滞が続けば、家族レベルではなく、社会レベルでの再分配の必要が拡大せざるをえない。新自由主義の住宅システムは、住宅のための公的援助を削減することによって、住宅保障の必要性を増やし、それ自身の限界を明らかにする、というプロセスのなかにある。(P240)

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2012年10月 4日 (木)

都市と消費とディズニーの夢

 先に読んだ「商店街はなぜ滅びるのか」をAmazonで検索すると、「よく一緒に購入されている本」に本書が紹介されていた(今は違う本になっている)。それで興味を持って読んでみたが、正直がっかり。「商店街はなぜ滅びるのか」は日本の商店街の歴史を、労働政策、消費者政策、産業政策という視点から克明に分析し、今後の商店街のあり方についてコミュニティの視点からその展望を描く好著だった。
 一方、本書は、商店街に代わる存在と言えるショッピングモールが社会学や都市計画の立場から一方的に批判されていると述べた上で、「とはいえ、いまだに都市の変化において、大きな役割を果たしているのは消費です」(P59)と言い、都市の公共空間に競争原理が導入され、地価に見合った空間利用がされて何が悪いと開き直る。
 いや、私も都市の公共空間が楽しくカラフルな空間になってきていることを否定しないし、好感さえ持つ。だがそれを競争原理の勝利とひとえに礼賛する気にはなれない。競争原理ではなく、ニーズに応えたのではないか。そして今後さらに格差が拡大し、中間層が貧弱になっていくとすると、アッパーミドルを狙ったショッピングモールはどれだけ生き残っていけるのか。競争原理はショッピングモール間にも働く。しかも筆者が指摘するように、今やショッピングモールは国際競争にさらされている。日本のショッピングモールが筆者の礼賛するテーマ型観光型路線でどれだけ勝ち残ることができるのか。それが多いに心配である。ショッピングモーライゼーション万歳と無邪気にはしゃぐ気にはなれない。
 本書は、「第1章 競争原理と都市」でこうしたショッピングモーライゼーションについて説明、礼賛し、「第2章 ショッピングモールの思想」では、ウォルト・ディズニーのショッピングモールに描いた夢を書き起こす。一方で筆者は、ショッピングモールの生みの親として都市計画家のビクター・グルーエンを紹介する。すると、なぜここまで延々とディズニーの夢について語ってきたかよくわからなくなる。どうやら現代のテーマパークとショッピングモールの合体について説明したかったらしい。
 「第3章 ショッピングモールの歴史」では、専門店が集積したロードサイド型ショッピングモールが登場した1920年代から現代に至る、特徴的なショッピングモールを取り上げ説明をしていく。時に「ゾンビ」や「ターミネーター2」など映画に登場するショッピングモールを紹介しながら、アメリカ人のショッピングモールに対するイメージを語り、わかりやすく興味深い。
 さらに「第4章 都心・観光・ショッピングモーライゼーション」は、実はタイトルと違い、日本のショッピングモール史が綴られている。玉川高島屋ショッピングセンター、ららぽーと船橋、代官山、お台場・・・。そして先に書いたように、これからのショッピングモールは国際的な観光客のための施設として国際競争にさらされるだろうと言う。ドバイ、クアラルンプール、上海、シンガポール・・・。日本のショッピングモールはこれらに太刀打ちできるのだろうか。
 ショッピングモールが楽しい、愛好者だ、というのが本書執筆の動機なのだと言う。それは別にかまわない。しかしカネを落とさない来訪者をショッピングモールはいつまで歓迎してくれるのか。競争原理とは結局そういうことだ。商店街とショッピングモールの最大の違いは、ショッピングモールはディベロッパーが運営する収益装置という点だ。それに対して商店街は単に多様な商店が集積した地域に過ぎない。しかし多様であるということは、商店街の盛衰に関わらず、個々の店舗にとっては生き残り活性化する可能性があるということでもある。可能性は商店街の方に開けているのではないか。
 ショッピングモールが楽しいことは同意する。しかし楽しければいいというわけじゃない。それが一時の夢であり泡である可能性は次第に大きくなっているような気がする。消費原理の上に乗っかっているだけの空間はやはり手放しで礼賛はできないと感じてしまう。

●公共性の高いスペースの収益化を行う場合に、選択肢として選ばれるのが、ショッピングモールとして施設をつくり直すという手法です。こういった一連の現象を筆者は”ショッピングモーライゼーション”と名付けています。・・・都市の公共機能が地価に最適化した形でショッピングモールとしてつくり替えられ、都市全体が競争原理によって収益性の高いショッピングモールのようになっていくという変化、現象がショッピングモーライゼーションです。(P46)

●ショッピングモールを、かつてのダウンタウンに代わるものとして考察したグルーエンは、まずは商業施設の周囲に駐車場をつくり、自動車が入ってこないようにしたうえで、その中心部分に公園や人々が気軽に休めるベンチを設置しました。そして、遊歩道沿いに専門店を並べました。こうしてショッピングモールは誕生したのです。・・・ショッピングモールとは、郊外につくられた新しいダウンタウンでした。(P98)

●1970年代以降のショッピングモールとは、金銭消費型から滞在・滞留型へと進化します。つまりは、消費をするために集まった人びとにお金を使わせることが、本来のモールの消費の在り方でしたが、70~80年代のモールは、足を運んだ人に消費の機会を突きつけるというものに変化したのです。(P153)

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