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2012年12月

2012年12月22日 (土)

大阪の保証金方式による借家建設

 12月14日に開催された公共住宅部会(都市住宅学会中部支部)は面白かった。テーマは「日本の住宅事情史 Topic-1 (大阪の保証金方式による賃貸供給)」。講師は豊橋技術科学大学名誉教授の三宅醇先生。
 先生は最近、「日本の住宅事情史」をまとめる構想を持って、過去の資料等を振り返り、メモを積み重ねていると言う。「住宅と社会の150年の変化」と副題のついたメモには、「1.日本という国、その人口と住宅」から始まり「14.英・日・亜の都市・住宅と社会」まで、江戸末期から現在に至る住宅事情史の断片が目次となって並べられている。もっともこの目次と構成は日々変わるとのこと。当日は、長い研究生活の中で集められた膨大な資料・書籍の中から、戦中戦後の10数年間の古い資料を見つけ出し、大阪の借家における保証金制度について考察を重ねた結果を報告いただいた。
 そもそもこの課題への関心は先生が卒論をまとめていた1962年に遡る。大阪及び近郊地域での木造アパートの実態調査をしていて、高額な保証金が課せられていることに気付いた。岐阜県中津川出身の先生にとっては全く初耳の家賃習慣だったが、その内容について経営者に聞こうとしたら、韓国人のその男性にひどい剣幕で怒鳴られたという。当時から大阪は韓国・朝鮮人比率が他の地域に比べ圧倒的に高かった。この経験がこの日の研究報告のベースになっている。つまり、韓国の借家制度「伝貰(チョンセ)」が大阪の保証金制度のルーツではないかという仮説だ。
 ちなみに「伝貰(チョンセ)」とは、現在も続く韓国の借家制度で、入居時に建設費の7割近い一時金を支払い、月々の家賃は払わず、退去時にはこの一時金が戻ってくる仕組みだ。家主は一時金を運用して利益を上げる。入居者は一時金をどうやって調達するのか、住宅価格が下落傾向になった場合に供給がどうなってしまうのかなど色々疑問もあるのだが、現在でも韓国では一般的な借家制度である。
 まず、戦前の家賃実態を調べてみる。1938(昭和13)・39(昭和14)年の2か年に亘り「本邦大都市に於ける土地家屋家賃状況調」が厚生省社会局で実施されている。以下に紹介する資料はすべて当日持参いただき、回覧された。ただし既にかなり風化しており、一部は破損し始めている。
 この調査によれば、東京・大阪・名古屋の三大都市のうち、東京と大阪は家賃がほぼ同額、敷金・権利金は大阪で権利金がやや高い傾向にあるが、一時金の総額はほぼ同じ。名古屋だけが家賃は約半額、一時金も抜群に低いという実態がみられる。つまり戦前の時点では、東京と大阪で家賃システムに基本的な差異はないと判断される。
 しかしその後の同種の調査では、家賃については「光熱費・賄料等を除いた家賃間代とし、権利金敷金等を含まない」として調査されている。先生はこれを「東大や建設省が、戦前の調査を元に、一時金に地域差はないと断定し、戦後の調査を始めてしまったのではないか」と疑問を呈する。
 先生が紹介するのは1953(昭和28)年の住宅統計調査だ。これによると、特に戦後建築の借家で大阪の家賃が東京に比べて相当に低いという結果が出ている。一方、1954(昭和29)年大阪府発行の「大阪府の昭和26~28年度着工民間借家及び建売住宅実態調査」によれば、着工された民間借家の8割はアパート形式で、入居時の一時金がアパートで家賃の10ヶ月分、戸建て住宅等ではそれ以上の一時金を取っているとされている。ちなみにこの一時金の内訳はアパートの場合、全額返還される敷金が2割、一部返済される協力金が8割で、協力金の返済率は8割という結果になっている。
 すなわち、入居時に敷金・協力金(保証金)合わせて10ヶ月分の一時金を納め、退去時には約8ヶ月分が戻ってくる計算だ。ちなみに戸建て住宅等では一時金のうち全額返ってこない権利金が3~4割を占めるが、これは家賃統制令で家賃が抑えられている状況下での「袖の下」のようなものではないかと推測されていた。
 先生も参加された京大西山研究室による「民間アパートの研究」(1963(昭和38)年)でも、保証金はアパート(1室型)で家賃の10倍、文化住宅(2室型)なら20倍が一般的とされており、この時点で「保証金」という言葉が定着していたと言う。さらに先生が代表となり1977(昭和52)年に借家経営者を対象に実施した「民間アパートの実情と分析」でも、東京は敷金・礼金合わせて3ヶ月だが家賃はかなり高く、大阪は一時金が11~12ヶ月分だが家賃はやや低く、名古屋は一時金が4~5ヶ月で家賃は低いが大阪よりは高めという結果になっている。
 ちなみに現在でも大阪ではこうした状況が一般的なのかと関西出身の参加者に聞いたところ、当然のように頷かれた。知らなかった。もっともネットで検索すると、今ではさすがに保証金10ヶ月という物件は少ないようだが、東京に比べれば倍近いということはあるようだ。また、東京では契約期間満了時に更新料を求められることが多いが、大阪ではこうした習慣はない。
 では、大阪の保証金制度がなぜ生まれたかという問いの答えだが、先生はまず東京と大阪の街の成り立ちから考察を進める。江戸は武士の町で一戸建てが住宅タイプのモデルとしてあった。また、町の郊外は自然林の生い茂る武蔵野林で、容易に一戸建てを建設することができた。一方、大阪は町人の町で長屋建てが中心であり、郊外は水田地帯だったため町の拡張も難しかった。
 東京では1923年の関東大震災を受けて、郊外に一戸建ての借家が一斉に建設された。その後、戦中・戦後の家賃統制令や借家への重課税等から一戸建て借家の持家化が進行し、さらに1960年代からの若年人口の急増期に、持家の周辺にアパートを建設することとなり、木賃アパートベルト地帯が形成された。
 これに対して大阪では、長屋の周辺に適当な土地はなく、新たな借家は郊外の田畑を潰して建設された。そこに韓国・朝鮮人等の資本家が進出し、伝貰(チョンセ)の経験をアレンジして、家賃10ヶ月分程度の一時金を徴収しつつ、家賃を低額に抑えて入居者にも支持を得て、大阪の保証金方式が一般化したのではないか。
 なるほど、大阪の地形や町人の町といった伝統、韓国・朝鮮人の流入、さらに家賃統制令の影響などを考えると十分納得できる結論である。また今春、大阪市立住まいのミュージアムに行った際に、大阪の町家には「裸貸し」の習慣があるという話を聞いた。これは家具だけではなく畳や建具まで借主が所有し、転居する際にはこれらの家財を抱えて移動するものだが、こうした伝統も保証金制度が受け入れられる下地となっていたかもしれない。
 当初テーマを聞いたときは特定のエリアの特別な話題かと思ったが、東京との比較で考えてみると意外に面白い。現在の賃貸住宅は、土地所有者の節税対策等の土地活用意欲とそれを喚起し商売につなげようとするハウスメーカーやディベロッパー、そしてフランチャイズ化して全国展開されるミニミニ等の賃貸仲介業者等により供給が進められている。こうした現在のシステムは大阪の借家制度にどう影響しているのか。どうして商業施設では権利金方式の方が全国的にもより一般的な賃貸借制度となっていったのか、など家賃制度に対する疑問と興味は尽きない。
 また、韓国の伝貰(チョンセ)だけでなく、イギリスでは週単位で家賃を支払うことが一般的であったりと、借家制度は各国の伝統や習慣に根差し、相当に異なっている現実がある。日本国内においてすら、というのが今回の最大の驚きだったが、こうした住習慣の上で住宅制度を考えていく必要がある。過去から学ぶことはまだまだ多いということを実感した。

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2012年12月18日 (火)

団地の空間政治学

 「団地の時代」や「滝山コミューン1974」で一貫して団地の政治状況について研究してきた筆者による団地の空間政治学。本書では、大阪の香里団地、東京多摩の多摩平団地とひばりヶ丘団地、千葉の常盤平団地と高根団地を取り上げ、各団地での自治会や居住者組織の成立と活動、発展と終焉の過程を多くの文献等で詳細に調査し、なぞっていく。
 京大の知識人が多く居住し、文化活動を展開した香里団地。60年安保闘争などの政治状況に深く関わっていく多摩平団地。西武運賃値上げ反対運動や保育園設立運動で盛り上がり、共産党や社会党に占拠されるひばりヶ丘団地自治会。交通問題への要求が政治活動へつながらなかった常盤平団地。政党性を帯びた女性が活躍した高根団地。団地の置かれた立地や入居時期などによって自治会活動は大きく異なるが、いずれもコンクリートの壁に閉じ込められた「私生活主義」と交通問題や保育問題等で住民がつながっていく「地域自治」が団地ならではの空間性ゆえに展開していく。
 そのことを筆者は、「『空間』が『政治』を作り出した」と言う。確かにそういう面もあるだろう。だが今やメディアやIT環境が日本人の生活に入り込み、「空間」を超えて「生活環境」自体が「政治」を生み出していると言えるのではないか。今や日本中が団地になってしまった。その「私生活主義」を破る「地域自治」はどうすれば生まれてくるのか。そこに「空間」が関係するのかどうか。それはまだ私にはわからない。コミュニティデザインがその萌芽なのだろうか。

●ひばりヶ丘団地をはじめとする初期の団地が建てられる時期は、皇太子が結婚する時期であるとともに、多くの住民が政治に目覚めた60年安保闘争の時期とも重なっていた。コンクリートの壁に象徴される「私生活主義」と団地自治会に象徴される「地域自治」とが、同時並行的に現われたのである。(P57)

●公団の団地に住んでいたのは、労働者階級よりはむしろ新中間階級であった。新興の団地は、もともと地元とは関係のない新住民によって構成されているため、自民党の地盤になっていなかった。共産党はこの点に注目し、団地で積極的に『アカハタ』の購読者を増やすなど、指示を広げていった。(P95)

●自民党にとって、団地が増えることは革新政権の誕生を意味していたのである。・・・「賃貸の団地造りは革新票を育てるようなもの。保守的な人間をつくるには持ち家政策を推進する以外にない」というのが持論だったという。・・・しかし70年代の政局は・・・共産党支持者の多かった高島平団地ですら、社会主義とは相いれない個人主義が台頭しつつあった。(P233)

●「政治」が「空間」を作り出したのが旧ソ連や東欧の集合住宅だったとすれば、逆に「空間」が「政治」を作り出したのが日本の団地だったのだ。・・・本書で縷々明らかにしてきたような各団地での自治会や居住組織の多様な活動は、「私生活主義」におさまらない「地域自治」の意識を目覚めさせるとともに、プライベートな空間の集合体である団地と社会主義の親和性をあぶり出した。・・・団地再生の取り組みと「地域社会圏」の接点を見いだすべく、建築学と政治学はより一層の連携を深めていかなければならないと思う。(P266)

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2012年12月11日 (火)

江戸・東京・名古屋 歴史に学ぶ安全安心なまちづくり

 「歴史に学ぶ安全安心なまちづくり」と題するセミナーに参加してきた。タイトルが安直だが、講師陣は三者三様。トップバッター、名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之先生からは「関東大震災から見える江戸・東京の街の変化」。2番バッター、名古屋大学建築学科の西澤泰彦先生からは「災害の教訓と名古屋のまちづくり」。そしてトリを務めたのが名古屋大学建築学科の若手のエース、廣井悠先生。それぞれ、地震災害と街づくりというテーマで、専門分野から話をしていただいた。ちなみに全て名古屋大学の先生なのは、名古屋大学建築学教室が毎年開催している「まちとすまいの集い」という市民向けセミナーだから。
 武村先生からはまず、関東大震災(1923年)の全潰率の分布地図をベースにその特徴を話された。それが実に興味深い。江戸城築城前の古地図で川や湖沼になっていた地域で明らかに揺れが大きかったことがわかるのだ。後楽園付近はかつて大池という沼地だった。日比谷付近は日比谷入り江が入り込む海だった。そして隅田川以東の低湿地。また関東大震災の被害状況は、安政地震(1985年)の被害状況とほぼ重なる。つまり地形が大きく影響しているということ。そして関東地震と同規模と想定される元禄地震(1703年)では関東大震災に比べてはるかに死者数が少なかった。その理由は隅田川以東にまだ人が住んでいなかったから。
 これらを評して、「関東大震災は科学技術の進歩がもたらした災害」と言う。趣旨は灌漑・治水の土木技術が発達し、それ以前には住めなかった地区でも人が居住できるようになったから。なるほど、そういう言い方もあるか。
 その後は佐野利器の功績、後藤新平の功績など。関東大震災後の帝都復興事業で実現し、着手された道路や公園、橋梁、建物等が現在の東京にも多く残るとか。詳細は武村先生著「関東大震災を歩く」をご覧くださいとのことでした。自著PR。
 続く西澤先生は植民地建築で多くの著作があるが、最近は濃尾地震と都市の成り立ちに関心を持って研究をしているとか。うーん、福和先生の毒牙にかかったか(冗談)。それはさておき、清須越えから話は始まった。伊勢長島から清須へ、さらに那古野へ。それは洪水危険度と利水恩恵とのバランスを考慮した結果だと言う。名古屋城は熱田台地と呼ばれる堅固な地盤の上に建設されたが、排水は西の堀川、東の精進川へ流されている。現在も熱田台地の東西は6m以上も標高が下がっているので歩くとよくわかる。
 続いて広小路建設の話。現在の広小路は万治3(1660)年の大火を契機に拡幅されたが、日常的には広すぎるため、屋台や見世物小屋が並び、繁華街が作られた。無駄を生かして「非常を克服する日常の確立」と評価された。
 その後、濃尾地震の話。煉瓦造は1棟全潰しただけなのに、風評と思い込みのミスリードでその後建設された県庁と市役所が木造になったという。山崎川の改修は区画整理事業と一体で進められ、河道改修後の旧河川跡が今も宅地となって残っている。同様の地形は各地に残っているようで、東日本大震災でも茨城の液状化地が元は沼だったなんて話も聞いたが、古い地形を見ることは重要だ。
 廣井先生の講演タイトルは「まちとすまいとにんげん」。これだけでは何のことかわからないが、都市防災・経営工学の観点から安全安心なまちづくりを考えた。
 前半は江戸時代から現在に至る都市防災計画の歴史を振り返り、都市基盤の整備、都市防火区画の形成から近年は地区レベルの対策へと進んできているという概論を述べる。だは地区レベルの対策は自助・共助に期待するものが多い。住民がやる気にならないと何も始まらないと指摘する。
 その後、東日本大震災の概要、特に津波火災についての被害状況や特徴を説明。続いて帰宅困難者の問題を指摘。帰宅困難者対策が企業・事業所と連携して進められている点を評価した。そして自助の限界の話に移る。
 参加者に簡単な心理テストを行って、いかに人間がリスクを小さく見積もり、また価値観に左右されるかを体験させる。その上で自助に過大な期待をしないこと、人間の行動傾向を踏まえてそれをコントロールしていくことの必要性を述べられた。最後に火災の話をはせたが、これは時間切れでやや尻切れトンボ。
 自助は大事。公助には限界がある。その上で、自助・共助に頼り切らない公助の役割を言外に訴えていたかと思う。何をすればいいのか、難しい話ではあるが。
 質疑応答の時間では、自治会活動やバケツリレーに代表される共助に関する質問があった。廣井先生から、住民が地域へ主体的に関わるまちづくりのテーマとして、かつては景観や環境が注目をされたが、最近は防災に対する関心が高くなっているという回答があり、まさにそのとおりと思った。防災は重要。だが景観や環境も重要。価値観の揺れはあるものの根本はまちづくりに住民が主体的に関わるということかと思う。そのことを改めて思ったセミナーだった。もちろん武村先生や西澤先生の話もとっても面白かったけどね。

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2012年12月 4日 (火)

住宅サイドから考える道路の再生・維持・更新。問題は道路をいかに廃止するか。だが同時に宝の山でもある。

 笹子トンネルの事故には驚いた。最初、トンネルの崩落事故と報道され、数十年前の北海道での豊浜トンネル崩落事故を思い起こしたが、今回は天井パネルの落下による事故で、崩落という言葉は正しくない。
 その原因についても多くの専門家から様々な声が挙がっているようだが、老朽化によるボルトの切断というのはあまり考えられない。たぶんケミカルアンカーの抜け落ち、それもケミカルアンカーそのものが抜け落ちるというよりも、接着剤で一体化した周辺のコンクリートもろとも落ちたと考えるのが相当と思われる。その原因は、会計検査時にコンクリート厚さの不足が指摘されていたようであるから、コンクリートの劣化、または中性化が考えられる。もちろん現場も見ずに想像しているだけだから、実際のところはわからないが、犯人探しよりも今後の技術更新に役立つ原因追及が求められる。
 犯人探しといえばネクスコ中日本へさっそく家宅捜査が入ったようだが、それで何かわかるのだろうか。かえって原因究明や現場復旧のじゃまをしていないかと気になる。そういえば福島原発事故の際は、東京電力は家宅捜査を受けたのだろうか。あまりの違いにどうして?と疑問を持たざるを得ない。
 次々と道路を新設していった結果、インフラのメンテナンスがおろそかになっている、今後はインフラの維持管理に予算を回すべきだ、という意見が専門家から多く出されている。正論である。インフラの再生と言えば、住宅はまさにその先達として十数年前から建替えや改修が主流になっている。住宅関係者の立場から道路の再生について考えてみたい。
 住宅数は世帯数と連動する。人口は既に減少を始めており、世帯数もあと数年で減少局面に入るだろう。よって人が居住する住宅数も当然減少していくことになる。既に空き家が大幅に増加しているのはそのことを表している。
 空き家を魅力的に改修し(リノベーション)、新たな入居者を迎え入れる事業に取り組む業者も増えているが、一方で老朽化した空き家は解体撤去しなくてはならない。撤去後にまた新築・建替えできるのは利便性の高い土地に限られる。多くの土地は他用途への転換を考えざるを得ない。店舗や福祉施設などの建築物用地に転換できれば都市インフラの活用という観点からも望ましいが、当面は駐車場用地、そして将来的には農地などに転用となる土地も少なくないだろう。いや、積極的にそうした土地利用転換を考えることが、コンパクトシティ施策であり、縮小都市を考えるということである。
 さて道路である。道路の再生はいかにすべきか。当然、維持管理(メンテナンス)に力を入れるのは当然だが、人口・世帯が縮小し、経済規模も縮小する時代にあって、過大な道路インフラが存在する時代が到来する可能性も高い。もちろんいったん作られた道路は利用者がゼロになることはないが、バイパスの開通により通行量が極端に少なくなった道路は少なくない。これらの道路まで適正にメンテナンスしていくことは、これからの時代、おそらく困難だろう。たぶん、メンテナンス頻度を等級分けし、通行量の少ない道路のメンテナンスは手を抜かざるを得なくなるのではないか。
 そしてその先は廃道である。山間地の自動車も通れない道路の廃道というのは事例もあるだろうが、都市部の道路をいかに廃道していくか。今はまったく考えられないという人も多いだろうが、たぶんこれからはこれが最先端の道路計画・交通計画のテーマになる。
 たとえば既存道路の幅員を減少させ、接道する宅地所有者に売却することは考えられないか。減歩ならぬ増歩である。こうして事業費を稼ぎ、それをバイパス道路のメンテナンス費に充当する。そんな経営モデルを考えてみたらいい。いつだったか広大な道路拡幅用地を眺めて、ここに住宅を建てたら何戸建つのだろうと考えたことがあった。今はバイパスが作られ、通行量が減少した旧道を見て、沿道の狭小な住宅地の面積が広がればと考える。豊かな住宅地に再生できるかもしれない。
 いずれにせよ、今回の笹子トンネルの事故は、これからの道路行政に決定的な転換を迫る、そうした意味のある事故であり、またその教訓を汲まなくてはならない。

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