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2013年2月

2013年2月20日 (水)

外国人居住者の居場所-ある団地での誕生と終焉

 建築雑誌2012年5月号に掲載され、2012年日本建築学会優秀卒業論文賞を受賞したことから、指導教官の小松先生にお願いし、現在は名古屋大学大学院修士1年の筧さんに研究報告をしてもらった。発表論文だけでなく、その前段としての外国人登録者の状況や研究対象とした住宅団地を巡る状況、外国人居住への様々な対策の現状等の説明から始まり、論文執筆後の地元住民やNPOとの交流・意見交換等の状況まで、様々な話を聞かせていただき、その後の意見交換も興味深いものだった。
 対象団地はUR賃貸住宅(約1600戸)と県営住宅(約1350戸)をUR宅地分譲地(約600戸)が取り囲んだ形をした約3550戸余りの住宅団地である。居住人口7971人のうち外国人が3781人と約半数に近い。こうした状況に、地元自治会では交流イベントの実施や回覧板等の多言語化、防犯パトロールの実施などに取組み、市では国際課を設置して関係者による多文化共生推進会議を設置するなどの対策を進めてきた。また外国人居住をサポートするNPOも5団体ほど設立され、日本語教室やブラジル人学校の運営、放課後学習支援、未就学児対策などに取り組んでいる。
 本研究はこうした状況の中、団地の一角に生まれた「トラックヤード」と呼ばれる外国人居住者の居場所の設置から撤去までの経過を追い、その要因等を考察している。
 事の始まりは1995年頃、団地内の路上に外国人向けの移動販売車が出現するようになったことによる。外国人が多く住む県営住宅団地とスーパーマーケット等のある商業・業務地区との動線付近に停車された販売車には多くの客が集まり、中にはまるでドライブスルーのように販売車の外側に横付けて購入するクルマまで現れ、交通渋滞が問題となった。
 ちょうどその時期に団地内の不法駐車問題に対応するため、団地内の4自治会が合同で駐車場委員会を設置。団地内の市有地を借地し、駐車場を整備することとなり、その一環として2000年頃、駐車場の一角に移動販売車専用の駐車ゾーン「トラックヤード」が出現した。販売車からは駐車場料金を徴収していたが、そのうちにテントが設置され、プレハブ店舗が設置され、2005年にはついに軽量鉄骨造の店舗が建設された。この間、駐車場委員会は、契約上は駐車場内での営業は不可となっていたにも関わらず、口頭で商売を許可。さらにプレハブ店舗の設置に対しても、移動できることを条件に許可をしている。
 トラックヤードの場所は、当初、移動販売車が停車していた場所からやや移動し、県営住宅からの動線からは外れることとなった。これにより、県営住宅に入居する日本人の来店が減り、外国人の利用が増える。特にこの団地では滞在歴や出身都市等により複数のエスニック・グループができていたが、日本語能力が乏しい外国人にとっては、同郷等で構成されるエスニック・グループの存在は貴重な情報交換の場であり、グループの活動は主としてこのトラックヤードで展開されるようになる。
 軽量鉄骨造店舗が建設され、室内にはビリヤード台やトランプ室(賭博?)などもできると、団地外から訪問する外国人が増加し、外国人グループ同士の喧嘩なども発生するようになる。また外部からは見通せないことから周辺住民にとっては不安でもあり、撤去を求める声が次第に強くなっていった。
 自治会では2006年になってようやく駐車場委員会のメンバーを一新。市も駐車場委員会に対して契約違反であることを通告。建築相談課も違法建築の撤去を指示した。一方、設置側は撤去を拒否して抵抗。結局、裁判の末に2011年になって撤去が決定。現在は通常の駐車場として再整備され、利用されている。
 卒業論文ではこれらの経緯や顛末、その後の状況などを丁寧に取材。上に書いたようなことを明らかにしたうえで、外国人にとっての居場所をどう考えるか、またその空間的課題について考察をしている。
 その際に筧さんが特に注目しているのが、セグリゲーション(棲み分け)だ。居場所が外国人だけの場所として周縁部に設置され、立地的にも、施設形状としても日本人の関与が難しい状況にしてしまったことがセグリゲーションを引き起こした要因と考察している。一方で、外国人と日本人が自治会事務所でうまく融和し交流している団地もあり、こうした差が出る要因として、居場所のあり方が影響したという分析である。
 もちろんそれだけではない。意見交換では、外国人数が十分多くて日本人とは交流がなくてもコミュニティが成り立つ状況にあったことが要因の一つだという意見があり、そもそも特別な居場所は必要かという意見もあった。今年度になってから筧さんが参加したNPOとの意見交換会やシンポジウム等でも同様の意見があり、「日本人にも居場所が必要だ」「共生は無理。共存なら可能」「外国人の自治会加入率が低すぎる」といった声があったそうだ。
 ちなみにこの団地内でも、県営住宅に入居する外国人の自治会加入率はほぼ100%だそうで、これは自治会活動が二つの要素から成り立っていることを示している。一つは「共用施設の管理」で、外灯やエレベーター等の維持管理は日本人・外国人の別なく共同で実施しなくてはならない。もう一つは「交流・助け合い」で、こちらは必ずしも自治会でなくても別の組織や仕組みで代替することができる。公営住宅の自治会は必ず一つ目の活動が伴うため、外国人も加入せざるを得ないが、URが共益費まで徴収し管理するUR賃貸住宅では自治会に加入する直接的なメリットが感じられない。しかし考えてみると自治会加入率が低いのは都心の若年単身者も同様である。そして彼らは後者の「交流・助け合い」要素を会社やネット等で代替・補完し生活している。
 また居場所の必要性についても、「交流・助け合い」の形によって様々な場所が利用されている。高齢者のコミュニティ活動、若者のコミュニティ活動とも、それぞれの居場所で活動が行われている。それは集会所のこともあるし、学校や公園、広場、喫茶店など様々だ。
 小松先生から「居場所が必要。ということではなく、居場所となっている場所は大事にしたい。」という発言があった。このケースでは元の移動販売車のあった場所が、外国人コミュニティにとってはもちろん、日本人との交流の点でも最適な居場所となっていた。そうした場所性を大事にしていくことは重要である。また、日本人同士であっても、高齢者と若者など異なるコミュニティ相互の交流も重要であり、それが自然と促されるような場所:スポットを居場所として大事にしていくことも居場所の場所性として重要である。
 ところで、この報告会の後で、豊橋技術科学大名誉教授の三宅先生から先生が一住民として参加し作成した豊橋市栄校区自治会・まちづくりを考える会の「栄のしおり」をいただいた。住民向けに作成された自治会活動等に関する冊子だが、それを読むと自治会がいかに多様な活動をしているかがよくわかる。
 自治会連合会―校区自治会-町内会とヒエラルキー化した自治会組織の中に、社会教育委員、民生・児童委員、更生保護女性会、社会体育委員、子ども会、老人クラブ、消防団、防犯協会、女性防火クラブ、清掃指導員、青少年育成校区指導員、保護司、スポーツ推進委員、交通安全推進委員、小・中PTA、健全育成会、防災会、市民館運営委員会があり、さらに町内会独自組織として祭礼委員会、盆踊り委員会、敬老委員会、自主防災会、公民館運営委員会、神社氏子総代がある。民生委員や子ども会、PTA位はわかるが、それにしても数多くのコミュニティ組織があることよ。
 これを見ると、自治会役員が自治会加入しないことを非難する気持ちも理解できる。中には行政が行うべき業務もかなりありそうだし、逆に言えば、だからこそ日本は少ない公務員で成り立っているとも言える。こうした日本独自の社会構造や文化と外国人居住の現状をいかにすり合わせていくかは、今後、外国人の高齢化等が進んでいくとさらに問題になっていくのではないか。いや、外国人だけではなく、若中年の日本人にとっても知らない世界かもしれない。建築学的な「居場所のあり方」なんてレベルを超えて、社会的な大問題になっていく可能性があるのではないか。日本は大丈夫だろうか。

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2013年2月18日 (月)

岐阜県白川町で木造仮設モデル住宅を見学

Dsc02774 東日本大震災では被災後すぐに、事前に準備をしていた木造仮設住宅を隣町に建設した岩手県住田町の取組みが脚光を浴びた。これに触発された白川町では、林業の町としてこれまで取り組んできた「東濃ひのきと白川の家」を仮設木造住宅に適用。さっそく白川町版の木造仮設住宅を開発し、町内にモデル住宅を建設している。この事業を地域の組織として推進している「東濃ひのきと白川の家 木づなプロジェクト研究会」の主催により、「木造仮設住宅 宿泊体験施設 上棟見学会」が開催されたので参加した。
 岐阜県は、岐阜県産直住宅協会と(一社)全国木造建設事業協会との間で三者協定を締結し、被災時には岐阜県産直住宅協会が木造住宅建設業者の斡旋等を行うこととしている。町内の建築・工務店等で構成される「東濃ひのきと白川の家建築協同組合」が産直住宅協会の会員となっており、この組合に白川町森林組合、東濃ヒノキ白川市場協同組合、東濃ひのき製品流通協同組合、白川商工会、そして白川町が加わって「東濃ひのきと白川の家 木づなプロジェクト研究会」を結成している。
Dsc02787 当日は名古屋を朝に出て午前10時頃に白川町の「道の駅 清流白川クォーレの里」に到着した。駐車場の隅では既に建て方作業が着々と進行中。白川町産のスギとヒノキによる壁パネルと屋根パネルを標準化。壁パネルはプレカットした柱の溝に差し入れる形で壁を作り、最後に隅柱を上から落とし込んで柱・壁面が完成。その上に梁を落とし込み、束を立て、母屋を流して屋根パネルを敷き込んでいく。断熱材も木質系のものを使用している。作業中のモデル住宅はロフト付で13坪のタイプ。搬入は4トン車3台で、組立は4~5人の作業員で半日から1日弱。常時在庫を確保しているわけではなく、被災後1ヶ月で生産体制を整え、その後は月産100戸建設可能ということだそうだ。ただし外壁は角波鉄板、屋根は銅板葺き。もちろん設備機器や材料も通常の仕入ルートから入手する必要がある。
 上棟中のモデル住宅の隣には9坪タイプのモデル住宅が既に建設されている。4.5畳の和室とLDHに水回りという構成。杉板の内装が心地良い。また、研究会の方たちが特に強調していたのが、仮設住宅撤去後の再利用が可能なこと。また、焼却時のバイオマス利用など木造仮設住宅は環境にやさしい。
Dsc02803 建て方作業が続く現場を後に、駐車場の反対側に建設されている地場産材を利用した宿泊体験施設を見学。こちらには趣の違う木造のコテージが3棟建設されている。どれも快適に夜を過ごせそうだ。
 この日はこの冬一番の冷え込みで、道の駅に設置されたケーブルテレビの天気概況には、正午時点の気温がマイナス0.9度。最高気温はマイナス0.6度。明日の最低気温はマイナス8度と表示されている。午後は小雪がちらつく中を、白川町森林組合が平成20年度から事業を進める「提案型集約化施業モデル団地」の見学をした。これは約150ha、概ね20~45年の林地に作業路を開設し、間伐材を伐採・集積・搬出するもので、75名の所有者の理解を得ながら、国の補助も利用しつつ事業を進めている。作業路の整備や間伐材の伐採状況など、初めて見学したが大変興味深いものだった。非常に大がかりな作業で、間伐材の売却益だけでは到底こうした作業経費を賄えるはずもないが、少しでも所有者に還元できるようがんばっているとのことだった。
 続いて、東濃ヒノキ白川市場を見学。隔週の水曜日に市場が開かれるが、あいにく開催日の週末だったため、市場に置かれている木材は少なかった。市場は入札方式で行われるが、落札された丸太1本1本に符号が書かれた紙が貼られている。分数表示の分母部が落札者名、分子部が落札単価だそうだ。木によって単価が大きく異なるのが興味深い。
Dsc02812 続いて、東濃ひのき製品流通組合の製材施設、バイオマス発電施設を見学。バイオマス発電は近隣の林業や流木等から発生した廃木材を受け入れ発電。発電量は600Kwでこのうち400Kwは製材工場で利用。200Kwは売電をしている。また焼却時に出る蒸気熱は木材乾燥に利用。さらに焼却灰はセメント原料にリサイクルするなど地球温暖化防止につながる活動は大臣表彰も受けている。ただし経営的には赤字だそうで、売電への期待を述べられていた。
 最後に地元白川町、岐阜県、研究会の方々からのセミナーと交流会があった。個人的には産直住宅協会の幹部の方から岐阜県の工務店の状況等を聞かせていただいたのが興味深かった。林業県である岐阜県特有の背景があって成り立っている仕組みでもあり、すぐに愛知県に持ってこれる訳ではない。県・市町村・工務店・設計者・森林組合・製材関係者等、多くの関係者の連携が必要になる。中でも、木造仮設住宅の活用という面では、特に市町村の取組みが重要だと思う。白川町ではその点、町長主導でうまく動いているようだ。
 一方、木造仮設モデル住宅を開発する背景にはうまく木造振興につなげたいという意図がある。被災時の工事発注に乗り遅れまいとするだけでなく、通常時の産直住宅の建設促進に向けて、仮設住宅開発で培った技術等をうまく活用することが重要だ。白川町でも当然その意識で取り組んでいる。逆に言うと、前者だけでは必ずや失敗すると思われる。責任と覚悟を持った取組みが期待される。

●マイフォト 「白川町木造仮設住宅」

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2013年2月13日 (水)

仙台から石巻まで、被災地を巡る。

 仙台駅を起点に1日、仙台市から東松島市、石巻市、女川町の被災地を回ってきた。
Dsc02638 まずは仙台市宮城野区福田町南仮設住宅へ。ここには伊東豊雄らによる帰心の会が被災地の仮設住宅に建設している「みんなの家」の第1号が建設されている。「みんなの家」は様々な支援により建設されているが、福田町南仮設住宅は熊本県の支援により、「くまもとアートポリス東北支援『みんなの家』事業」として建設された。総事業費1000万円。熊本県産材を使用した木造平屋約39m2の小さな集会施設だ。設計は伊東豊雄始め4名の建築家。2011年5月に熊本県としての支援を決定。6月には住民の方の話を聞く会を開催し、8月初めに基本設計を完了。熊本県で仮組みをした後、9月に木材の出発式。9月13日に仙台の現地で起工式。10月26日に完成している。
 今回は、熊本県・仙台市の方々に間に入っていただき、「みんなの家」館長の平山さんにお会いして話を伺うことができた。仮設住宅の住人である平山さん自身がもちろん被災者。当日は奥さんと二人で車に乗って逃げたが、途中で津波に追い付かれ、奇跡的に地上に打ち上げられて九死に一生を得た。高齢になってからの将来が見えない不安の多い生活には精神的に辛いことも多いが、「みんなの家」が住人相互の心の支えとなっていると言う。
Dsc02634 福田町南仮設住宅はプレハブ建築協会による一般的な建物で規格どおりの集会所も併設されている。みんなの家は集会所と廊下で接続する形で配置され、駐車場から仮設住宅棟に至る動線上に建設されている。室内は四畳半の畳敷きコーナーと対角に大きなテーブルを囲んで椅子やベンチが並ぶコーナーがあり、入口コーナーにはストーブ。対角に水回りがある。住宅棟に向かう通路に面して窓が大きく開き、各戸に帰る途中でいつでも寄ることができる。実際、知った顔を見かけてそのまま入り込み、家に電話をして奥さんを呼び、食材を持ち寄って酒盛りになることもあると笑う。
 壁には書棚にぎっしりマンガ本などが並び、神棚が設えられ、神札が貼られ、色紙や額が懸けられ、一升瓶が並べられている。流し横の壁にも神札が貼られている。またテーブルの上には大きな花瓶に美しく花が活けられ、この施設がみんなに愛され利用されていることがよくわかる。
 室内壁と天井には漆喰が塗られている。平山さんも元は左官職人で、この施設の有用性にいち早く気付き、一部には生活物資を望む声がある中、建設を後押ししてきた。通路沿いの軒には大きなフックが付けられ、クリスマスの前には大きなイルミネーションが飾られていたと言う。
Dsc02644 仙台市の仮設住宅は一部でグループ申込も行ったが、利用する人は少なくほとんどは世帯毎の申込。しかし、地域毎に概ね近くの住宅を紹介したし、申込み時に誰がどこを申し込んだか、すぐに知れ渡ったから、同じ地区の人が同じ仮設住宅に入居しているケースが多い。福田町南仮設住宅は宮城野区岡田地区の被災者が多い。岡田地区は海岸沿いに南北に走る県道が海側に嵩上げして建設することが決まり、従前地区で住宅の再建が始まっていることから、少しずつ退去が始まっているとのこと。平山さんもこれからどうするか、市街地に住む息子さんと相談しているところだと言う。
 仮設住宅はこうして最終的には撤去され解消されていくわけだが、この「みんなの家」についてはせっかくだから移設して再利用したいという希望もあるようだ。まだ決まっていないが、困難を一緒に支えあった施設でもあり、ぜひみんなの心の拠り所、コミュニティの象徴としてうまく活用していってほしいと思う。
 30分ほども滞在して次へ向かう。まずは岡田地区を視察。確かに塀や樹木が一切なくなり荒涼とした土地の中にいくつもの新築住宅が建設されていた。被災からもうすぐ2年。土地さえあれば復旧はかなりのスピードで形を見せ始めている。
Dsc02660 そのまま県道を横切り、若林区荒浜地区に入っていく。地上8m近くに設置された道路標識の下部がめくれあがって、そこまで津波が襲ったことを物語っている。荒浜小学校2階バルコニーの手すりが曲がっている。校庭に置かれていた自動車やバイクのがれきはかなり片付けられていた。集落跡地は一面の原っぱ。基礎だけが空しく残っている。復興の意思を伝える黄色く小さい旗が多数はためいていた。
 また、県道沿いの農地にはいくつもの土砂の山が並んでいる。塩を被った農地の再生事業だろうか。改良道路の測量旗もはためき、何台ものダンプが砂塵を舞い上げて走り過ぎる。
 続いて、松島方面に向かう。三陸自動車道を松島海岸ICで降りる。松島町は津波ではそれほど大きな被害はなかったと言うが、それでも災害公営住宅の建設が検討されている。石巻を結ぶ仙石線は松島海岸駅隣の高城駅から不通で代行バス運行となっている。仙石線に沿って東松島市に入る。東名駅から野蒜駅までの間は平野が広がるが、ここがすっかり津波に洗われた。残っている家屋を見ると津波高さは4m程か。1階は完全に破られている。それでもそんな中に早くも新築された住宅も見られる。山裾が新市街地になる計画だ。野蒜駅は架線柱が引き倒されたままだが、ホームは平穏な感じだ。道路に並行して流れる東名運河に架かる橋の欄干がうねうねと捻じれて倒れている。駅の隣のコンビニは復旧する気配もない。
Dsc02686 東松島市の仮設住宅グリーンタウンやもとには「こどものみんなの家」が建設された。こちらは伊東豊雄の呼び掛けによる大西麻貴の設計。グリーンタウンやもとは矢本工業団地内に建設された仮設住宅で約600世帯が生活している。駐車場に面して復興仮設店舗が建設され、市街地へのバスの待合所もある。大規模なひまわり集会場が団地の中心にあり、隣接してかわいい三角屋根とドーム屋根の小屋が3棟。これが「こどものみんなの家」。あいにく平日の午前中には子供たちは誰も遊んでいなかったが、ドーム屋根の下は厚い布地の幕が開閉され、ちょっとした舞台になりそうな雰囲気。これなら子供たちも楽しく遊べそうだ。集会場やみんなの家の前のアスファルトには草やヒヨコたちの絵がペイントされ、ほのぼのとした演出がされていた。
 仮設住宅から航空自衛隊松島基地に沿って東進。石巻港を中心とする工業地帯を走る。原野の中に散見される家屋は津波被害の跡が見えるが、工場の多くは既に操業を開始している。住宅地と違って産業施設は移転する必要もなく、復旧が早いのだろう。それにしてもこれだけの設備投資を強いられるのはかなり大変だったろう。石巻漁港の付近は広範にがれき置場だったが、それもかなり撤去されている。あと半年も経たず再利用ができるのではないだろうか。
 道は大きな入り江(万石浦)を右に見て峠を登っていく。震災時には女川町の側からこの峠を越えて津波が流れてきたと言う。女川町に入る。一面、何もない原っぱだ。港の手前にRC造3階建ての建物が横倒しになっている。震災後によく見た光景だ。その横を通り過ぎ、坂道の途中に作られた仮設料理店「岡清」で昼食をとる。海鮮丼改め女川丼を注文するが、これが旨い。何種類もの刺身にカニやエビ、白子などがてんこ盛りに盛られている。白子やカニの入った味噌汁も付く。これで1200円はバカ安。2500円と言われても不思議ではない量と内容だ。まだ周りには何もできていないが、こうして元気な姿を見るのはうれしい。
Dsc02719  岡清から何もなくなった市街地と港を挟んで向かい側に大きな病院が見える。女川町地域医療センターだ。被災前は町立病院だったが、公益社団法人地域医療振興協会の運営で蘇った。病院入口の柱には津波高さが記されている。海抜16mの高台に建てられていたが、さらに2m以上も高く津波が襲ってきた。壁の銘板には町立病院は平成9年電源立地促進対策交付金事業により建設されたと彫られている。その横にはスイス赤十字等への感謝の銘板が設置されていた。
 その駐車場から市街地を眺める。ここまで波が上がってきたのかと恐れる。眼下に横倒しのRC造。またその左にはべた基礎の裏側が露わな2階建てRC造。さらに杭が引き抜かれた跡も生々しい2階建て交番が転がっている。すごいの一言に尽きる。
Dsc02727 そのまま北へ伸びる谷を上がっていく。丘の中腹に女川町役場があり、女川運動公園がある。陸上競技場の周りに仮囲いが建てられ、URによる災害公営住宅の建設が始まっていた。まだ、地業工事の段階だ。右に回り込むと野球場のRC塀が一部切り取られ仮設住宅が建設されている。坂茂設計によるコンテナを積み上げた3階建て仮設住宅だ。クリーム色の外壁に布張りの日除けがおしゃれ。住宅団地の中心にコンテナを四隅に置いてテントを張った広場があり、その横にコンテナと木造で造った集会所があり、紙パルプで作られた施設がある。その隣ではイオンの移動販売車が呼び込みの放送をしていた。各住戸は狭いのだろうが、外観からはこのまま恒久住宅にした方がいいのではないかと思える。
 女川町の復興計画を見ると、被災した市街地を広く災害危険区域に指定し、防災集団移転促進事業を実施することになっている。被災者のブログ「仮設暮らしと山歩き」を見たが、まだまだ大変そうだ。がれき置場になっていた市街地はだいぶがれきも片付きつつあり、漁港前の施設では再開の準備が進められていた。そのまま海沿いに北進。曲がりくねった道の下に小さな漁港が見え、道路脇に仮設住宅が作られている。こうした小さな漁村集落が続く地域が軒並み津波被害を受けたのだろう。また眼下の湾内にカキ養殖だろうか、筏が浮かんでいる。
 こうしてしばらく走ると、石巻市に入り、雄勝地区に入っていく。旧雄勝町は平成の大合併で石巻市に吸収合併されたが、地理的には原発のある女川町を中に挟み、石巻市の中心からは遠く離れた位置にある。京都府立大名誉教授の広原盛明氏がブログ「広原盛明のつれづれ日記」で石巻市の強引な高台移転計画を批判しており、地元の診療医によるブログ「石巻市雄勝町の復旧復興を考える」でもその状況が報告されていたことから個人的に関心を持っていた。しかし訪ねた現地は女川町と同様に、リアス式の入り江にあったと思われる港と市街地が津波で洗い流され、原っぱが広がるばかり。港の入口に特徴的な外観のRC造の建物が無残な姿をさらしていた。屋上にバスを乗せた姿が震災後に広く報道された雄勝公民館はどれなのかわからなかった。
Dsc02749 続いて石巻市大川小学校へ向かう。児童・教職員84名が死亡・行方不明となり、悲劇として検証本まで発行された小学校は北上川の河口に面した平地の中にあった。玄関前には献花台が設けられ、私たちが滞在中にも弔問に訪れる姿が見られた。平屋一部2階建ての校舎はアントニン・レーモンドに師事した北澤興一氏設計の曲線を多用した美しいデザインで、それが悲しみをさらに増幅する。逃げれば助かったと言われる北上川堤防と反対側の山は登り口が整備されているわけでもなく、小学生には急峻で、一瞬の判断ミスとは言え、一概に責められるものではないように感じるが、一見の来訪者が判断すべきものではないだろう。
 その後、北上川を遡る。堤防改修工事が急ピッチで進められている。国道45号にたどり着いて左折。途中、道の駅「上品の郷」に寄る。木造格子組を前面に出したデザインで屋根は膜構造になっている。設計は関・空間設計の渡辺宏氏。
 しばし休憩の後、石巻市の市街地に入る。旧北上川の中瀬にある石ノ森萬画館は修復し既に再開を果たしている。川を隔てた向かい側には石巻まちなか復興マルシェがオープンしている。少し戻り、石巻街道を西に向かう。道路の両側にはサイボーグ009の像が元気な姿を見せている。この辺りは1階途中まで浸水した様子だが、そのまま休業した店舗と再建・再開した店舗が混在している。石巻市は郊外の新蛇田地区で区画整理事業による新市街地開発を進めているが、津波被害で衰退傾向に拍車がかかった感じの旧市街地がどうなるのか、大胆な都市政策の将来が心配だ。
Dsc02757 すっかり暗くなってきた。三陸自動車道を経由して仙台に戻る。わずか1日だけの駆け足の被災地視察で何がわかったというのもおこがましい。率直な感想としては次の2点。2年近く経って新築住宅や工場の操業再開も進み、かなり復旧が進んできているという印象。それと対照的に、災害危険区域に指定され防災集団移転促進事業等が進められている地区ではまだまだ宅地整備の途上で全くまちの姿が見えていない。住民合意に手間取っている地区ではなおさら将来が見えてこない。復興にはスピードと無理のない計画が重要。だが、被災直後では被災者も当面の生活に精一杯で、次世代に向けたまちづくりに参加する気力も時間もない。こうした中での一方的な復興計画が時によっては混乱を生み、却って復興を遅らせている可能性もある。
 被災前から復興都市計画を検討する動きがあるようだが、多くの場合、その手順を定めておくだけにとどまっているようだ。いっそのこと被災前に、災害に強いまちのあり方について構想する被災後都市計画を策定しておいたらどうか。ただし、被災しない限り発動しないことを条件とする。この条件の元で、理想的なまちの姿を描き合意しておく。そして被災したら余計な手続きもなく発動する仕組みは取れないだろうか。
 被災状況によってどこまで、どのエリアで発動させるのか議論が生まれるだろうか。問題点も多くあるだろうが、被災後の建築可能地区の特定時期が復興のスピードと可能性を決定的に左右することを痛感した。災害の多い国、災害の多い時代だからこそ、災害に向けた理想的な仕組みができればいいと思う。

●マイフォト 「宮城県の被災地を巡る」

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2013年2月 9日 (土)

せんだいメディアテーク

Dsc02626 仙台へ行ったついでに一度は見てみたかった「せんだいメディアテーク」に寄ってきた。仙台駅から地下鉄で2駅。県庁や市役所などもある勾当台公園駅で降りて、定禅寺通りを歩くこと5分。通りに面して北側に大きな太陽模様の外壁が目立つ建物がある。宮城県民会館。宮城県らしくネーミングライツに取組み、今は「東京エレクトロンホール宮城」と呼ぶ。設計は山下寿郎で1964年の完成。曲線で受ける打ち放しのバルコニーなど、昭和の時代を髣髴とさせるデザインだ。
 県民会館を通り過ぎ、ガソリンスタンドの向こう側にガラス張りの建物が見えてくる。「せんだいメディアテーク」だ。想像していたよりも小柄で周辺に溶け込んでいる。通りの反対側から見ると、けやき並木に隠れてよく見えないくらいだ。入口の表示もおとなしい。ガラス越しに特徴的なチューブ状の柱が並ぶ脇にさりげなくエントランスの風除室が設置されている。
 入って右手にショップ、その奥にカフェがある。通り沿いにはベンチが設えられ、ガラス越しに定禅寺通りを見ながら、多くの人が陽だまりに憩っている。案内カウンターの奥にチューブ柱に囲まれたエレベーターとエスカレーターがある。まずはエスカレーターで2階へ。踊り場でいったん折り返してエスカレーターを乗り継ぎ、2階ライブラリーへ向かう。
Dsc02614 低くうねる腰壁に囲まれた中に児童書コーナーがあり、その外側は新聞雑誌や映像音響ライブラリー、そして通り沿いには被災復旧パネルが展示されていた。明るい中に閲覧用ソファが多く配せられている。ただし、リノリウムの床は照明や外光を反射して室内に明るさをもたらしているが、歩くとキュッキュッという音が気になる。
 エスカレーターで3階に上がる。3階ライブラリーのエスカレーター周りは雑誌のバックナンバーやテーマ図書コーナーとなっており、郷土誌や被災・復興関係の図書が並べられていた。北側壁沿いに図書カウンターがあって、貸出手続きの来場者が並んでいる。またカウンター横の階段を上がると、中2階形式の4階があって、参考資料等が並べられている。一般図書は3階フロアの中央に書架があるが、思ったほど広くない。そもそもせんだいメディアテーク自体が私が想像していた以上にこじんまりとした施設だ。そして通りに面して閲覧用ベンチ。
 南東角の柱は階段になっていて昇降ができる。5階・6階のギャラリーが展示入替作業中で立ち入ることができなかったので、階段を登りながら見学。ギャラリーは基本的にフロアがあるのみだが、階段の柱や梁に書かれた箴言が面白い。「ところが、この階段のみが、新しいもの決定的なもの―つまり、これらの建築物の与える空間感覚のことであるが―を十全に認識させてくれるのだ。Benjamin 」うーん? 階段ですら、意味のある空間への意図を忍ばせる。
Dsc02619 そして7階スタジオフロアーには半透明のうねる壁に囲まれて会議室やスタジオシアター、管理部門等が仕込まれ、周囲は雰囲気の違ういくつものゾーンに分かれている。階段室から出たコーナーには黒板とチョークのイメージのオープンスクエア「考えるテーブル」のコーナーがあった。その他のコーナーも特にイベントは開催されておらず、テーブルで作業する若者が散見される程度だった。
 帰りはエレベーターで降りる。ちなみにエスカレーター・エレベーター周りの各階入り口付近に置かれた各階案内は立体模型になっていて面白い。ちょうどお昼時でカフェで昼食をとる。ランチはカウンターで注文すると後はテーブルまで運んでくれる。明るくファッショナブルな雰囲気でいつまでもいたい気分。平日は並ぶ人もなくちょうどいい規模だが、休日はどうなってしまうのか、施設全体の規模も含めて少し気になった。
 案内カウンターに「ようこそ杜王町へ」と書かれたパンフレットが置かれていた。「ジョジョの奇妙な冒険」の作者・荒木飛呂彦は仙台市出身。仙台は「S市杜王町」のモデルなのだそうだ。作中でモデルにした施設等を案内するガイドマップが配布されていた。やるな、仙台市。
Dsc02623 せんだいメディアテークも東日本大震災で被災し、しばらく閉館していた。ちょうど3月11日は、卒業設計日本一決定戦「せんだいデザインリーグ2011」の最終日だった。地震のため天井が落下し、模型などの展示物が破損する被害が生じた。このことは建築系学生の間ではけっこう話題になったようだ。しかし私が来訪したこの日には何事もなかったかのように多くの来場者を集め、カウンターには今年のせんだいデザインリーグ2013のチラシが置かれていた。今年もまた盛大に開催されるだろう。素直にそのことを喜びたい。明るく希望に満ちた建物はこれからの仙台に希望を照らしている。

●マイフォト 「せんだいメディアテーク」

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