まちづくり・あれこれ

2013年2月13日 (水)

仙台から石巻まで、被災地を巡る。

 仙台駅を起点に1日、仙台市から東松島市、石巻市、女川町の被災地を回ってきた。
Dsc02638 まずは仙台市宮城野区福田町南仮設住宅へ。ここには伊東豊雄らによる帰心の会が被災地の仮設住宅に建設している「みんなの家」の第1号が建設されている。「みんなの家」は様々な支援により建設されているが、福田町南仮設住宅は熊本県の支援により、「くまもとアートポリス東北支援『みんなの家』事業」として建設された。総事業費1000万円。熊本県産材を使用した木造平屋約39m2の小さな集会施設だ。設計は伊東豊雄始め4名の建築家。2011年5月に熊本県としての支援を決定。6月には住民の方の話を聞く会を開催し、8月初めに基本設計を完了。熊本県で仮組みをした後、9月に木材の出発式。9月13日に仙台の現地で起工式。10月26日に完成している。
 今回は、熊本県・仙台市の方々に間に入っていただき、「みんなの家」館長の平山さんにお会いして話を伺うことができた。仮設住宅の住人である平山さん自身がもちろん被災者。当日は奥さんと二人で車に乗って逃げたが、途中で津波に追い付かれ、奇跡的に地上に打ち上げられて九死に一生を得た。高齢になってからの将来が見えない不安の多い生活には精神的に辛いことも多いが、「みんなの家」が住人相互の心の支えとなっていると言う。
Dsc02634 福田町南仮設住宅はプレハブ建築協会による一般的な建物で規格どおりの集会所も併設されている。みんなの家は集会所と廊下で接続する形で配置され、駐車場から仮設住宅棟に至る動線上に建設されている。室内は四畳半の畳敷きコーナーと対角に大きなテーブルを囲んで椅子やベンチが並ぶコーナーがあり、入口コーナーにはストーブ。対角に水回りがある。住宅棟に向かう通路に面して窓が大きく開き、各戸に帰る途中でいつでも寄ることができる。実際、知った顔を見かけてそのまま入り込み、家に電話をして奥さんを呼び、食材を持ち寄って酒盛りになることもあると笑う。
 壁には書棚にぎっしりマンガ本などが並び、神棚が設えられ、神札が貼られ、色紙や額が懸けられ、一升瓶が並べられている。流し横の壁にも神札が貼られている。またテーブルの上には大きな花瓶に美しく花が活けられ、この施設がみんなに愛され利用されていることがよくわかる。
 室内壁と天井には漆喰が塗られている。平山さんも元は左官職人で、この施設の有用性にいち早く気付き、一部には生活物資を望む声がある中、建設を後押ししてきた。通路沿いの軒には大きなフックが付けられ、クリスマスの前には大きなイルミネーションが飾られていたと言う。
Dsc02644 仙台市の仮設住宅は一部でグループ申込も行ったが、利用する人は少なくほとんどは世帯毎の申込。しかし、地域毎に概ね近くの住宅を紹介したし、申込み時に誰がどこを申し込んだか、すぐに知れ渡ったから、同じ地区の人が同じ仮設住宅に入居しているケースが多い。福田町南仮設住宅は宮城野区岡田地区の被災者が多い。岡田地区は海岸沿いに南北に走る県道が海側に嵩上げして建設することが決まり、従前地区で住宅の再建が始まっていることから、少しずつ退去が始まっているとのこと。平山さんもこれからどうするか、市街地に住む息子さんと相談しているところだと言う。
 仮設住宅はこうして最終的には撤去され解消されていくわけだが、この「みんなの家」についてはせっかくだから移設して再利用したいという希望もあるようだ。まだ決まっていないが、困難を一緒に支えあった施設でもあり、ぜひみんなの心の拠り所、コミュニティの象徴としてうまく活用していってほしいと思う。
 30分ほども滞在して次へ向かう。まずは岡田地区を視察。確かに塀や樹木が一切なくなり荒涼とした土地の中にいくつもの新築住宅が建設されていた。被災からもうすぐ2年。土地さえあれば復旧はかなりのスピードで形を見せ始めている。
Dsc02660 そのまま県道を横切り、若林区荒浜地区に入っていく。地上8m近くに設置された道路標識の下部がめくれあがって、そこまで津波が襲ったことを物語っている。荒浜小学校2階バルコニーの手すりが曲がっている。校庭に置かれていた自動車やバイクのがれきはかなり片付けられていた。集落跡地は一面の原っぱ。基礎だけが空しく残っている。復興の意思を伝える黄色く小さい旗が多数はためいていた。
 また、県道沿いの農地にはいくつもの土砂の山が並んでいる。塩を被った農地の再生事業だろうか。改良道路の測量旗もはためき、何台ものダンプが砂塵を舞い上げて走り過ぎる。
 続いて、松島方面に向かう。三陸自動車道を松島海岸ICで降りる。松島町は津波ではそれほど大きな被害はなかったと言うが、それでも災害公営住宅の建設が検討されている。石巻を結ぶ仙石線は松島海岸駅隣の高城駅から不通で代行バス運行となっている。仙石線に沿って東松島市に入る。東名駅から野蒜駅までの間は平野が広がるが、ここがすっかり津波に洗われた。残っている家屋を見ると津波高さは4m程か。1階は完全に破られている。それでもそんな中に早くも新築された住宅も見られる。山裾が新市街地になる計画だ。野蒜駅は架線柱が引き倒されたままだが、ホームは平穏な感じだ。道路に並行して流れる東名運河に架かる橋の欄干がうねうねと捻じれて倒れている。駅の隣のコンビニは復旧する気配もない。
Dsc02686 東松島市の仮設住宅グリーンタウンやもとには「こどものみんなの家」が建設された。こちらは伊東豊雄の呼び掛けによる大西麻貴の設計。グリーンタウンやもとは矢本工業団地内に建設された仮設住宅で約600世帯が生活している。駐車場に面して復興仮設店舗が建設され、市街地へのバスの待合所もある。大規模なひまわり集会場が団地の中心にあり、隣接してかわいい三角屋根とドーム屋根の小屋が3棟。これが「こどものみんなの家」。あいにく平日の午前中には子供たちは誰も遊んでいなかったが、ドーム屋根の下は厚い布地の幕が開閉され、ちょっとした舞台になりそうな雰囲気。これなら子供たちも楽しく遊べそうだ。集会場やみんなの家の前のアスファルトには草やヒヨコたちの絵がペイントされ、ほのぼのとした演出がされていた。
 仮設住宅から航空自衛隊松島基地に沿って東進。石巻港を中心とする工業地帯を走る。原野の中に散見される家屋は津波被害の跡が見えるが、工場の多くは既に操業を開始している。住宅地と違って産業施設は移転する必要もなく、復旧が早いのだろう。それにしてもこれだけの設備投資を強いられるのはかなり大変だったろう。石巻漁港の付近は広範にがれき置場だったが、それもかなり撤去されている。あと半年も経たず再利用ができるのではないだろうか。
 道は大きな入り江(万石浦)を右に見て峠を登っていく。震災時には女川町の側からこの峠を越えて津波が流れてきたと言う。女川町に入る。一面、何もない原っぱだ。港の手前にRC造3階建ての建物が横倒しになっている。震災後によく見た光景だ。その横を通り過ぎ、坂道の途中に作られた仮設料理店「岡清」で昼食をとる。海鮮丼改め女川丼を注文するが、これが旨い。何種類もの刺身にカニやエビ、白子などがてんこ盛りに盛られている。白子やカニの入った味噌汁も付く。これで1200円はバカ安。2500円と言われても不思議ではない量と内容だ。まだ周りには何もできていないが、こうして元気な姿を見るのはうれしい。
Dsc02719  岡清から何もなくなった市街地と港を挟んで向かい側に大きな病院が見える。女川町地域医療センターだ。被災前は町立病院だったが、公益社団法人地域医療振興協会の運営で蘇った。病院入口の柱には津波高さが記されている。海抜16mの高台に建てられていたが、さらに2m以上も高く津波が襲ってきた。壁の銘板には町立病院は平成9年電源立地促進対策交付金事業により建設されたと彫られている。その横にはスイス赤十字等への感謝の銘板が設置されていた。
 その駐車場から市街地を眺める。ここまで波が上がってきたのかと恐れる。眼下に横倒しのRC造。またその左にはべた基礎の裏側が露わな2階建てRC造。さらに杭が引き抜かれた跡も生々しい2階建て交番が転がっている。すごいの一言に尽きる。
Dsc02727 そのまま北へ伸びる谷を上がっていく。丘の中腹に女川町役場があり、女川運動公園がある。陸上競技場の周りに仮囲いが建てられ、URによる災害公営住宅の建設が始まっていた。まだ、地業工事の段階だ。右に回り込むと野球場のRC塀が一部切り取られ仮設住宅が建設されている。坂茂設計によるコンテナを積み上げた3階建て仮設住宅だ。クリーム色の外壁に布張りの日除けがおしゃれ。住宅団地の中心にコンテナを四隅に置いてテントを張った広場があり、その横にコンテナと木造で造った集会所があり、紙パルプで作られた施設がある。その隣ではイオンの移動販売車が呼び込みの放送をしていた。各住戸は狭いのだろうが、外観からはこのまま恒久住宅にした方がいいのではないかと思える。
 女川町の復興計画を見ると、被災した市街地を広く災害危険区域に指定し、防災集団移転促進事業を実施することになっている。被災者のブログ「仮設暮らしと山歩き」を見たが、まだまだ大変そうだ。がれき置場になっていた市街地はだいぶがれきも片付きつつあり、漁港前の施設では再開の準備が進められていた。そのまま海沿いに北進。曲がりくねった道の下に小さな漁港が見え、道路脇に仮設住宅が作られている。こうした小さな漁村集落が続く地域が軒並み津波被害を受けたのだろう。また眼下の湾内にカキ養殖だろうか、筏が浮かんでいる。
 こうしてしばらく走ると、石巻市に入り、雄勝地区に入っていく。旧雄勝町は平成の大合併で石巻市に吸収合併されたが、地理的には原発のある女川町を中に挟み、石巻市の中心からは遠く離れた位置にある。京都府立大名誉教授の広原盛明氏がブログ「広原盛明のつれづれ日記」で石巻市の強引な高台移転計画を批判しており、地元の診療医によるブログ「石巻市雄勝町の復旧復興を考える」でもその状況が報告されていたことから個人的に関心を持っていた。しかし訪ねた現地は女川町と同様に、リアス式の入り江にあったと思われる港と市街地が津波で洗い流され、原っぱが広がるばかり。港の入口に特徴的な外観のRC造の建物が無残な姿をさらしていた。屋上にバスを乗せた姿が震災後に広く報道された雄勝公民館はどれなのかわからなかった。
Dsc02749 続いて石巻市大川小学校へ向かう。児童・教職員84名が死亡・行方不明となり、悲劇として検証本まで発行された小学校は北上川の河口に面した平地の中にあった。玄関前には献花台が設けられ、私たちが滞在中にも弔問に訪れる姿が見られた。平屋一部2階建ての校舎はアントニン・レーモンドに師事した北澤興一氏設計の曲線を多用した美しいデザインで、それが悲しみをさらに増幅する。逃げれば助かったと言われる北上川堤防と反対側の山は登り口が整備されているわけでもなく、小学生には急峻で、一瞬の判断ミスとは言え、一概に責められるものではないように感じるが、一見の来訪者が判断すべきものではないだろう。
 その後、北上川を遡る。堤防改修工事が急ピッチで進められている。国道45号にたどり着いて左折。途中、道の駅「上品の郷」に寄る。木造格子組を前面に出したデザインで屋根は膜構造になっている。設計は関・空間設計の渡辺宏氏。
 しばし休憩の後、石巻市の市街地に入る。旧北上川の中瀬にある石ノ森萬画館は修復し既に再開を果たしている。川を隔てた向かい側には石巻まちなか復興マルシェがオープンしている。少し戻り、石巻街道を西に向かう。道路の両側にはサイボーグ009の像が元気な姿を見せている。この辺りは1階途中まで浸水した様子だが、そのまま休業した店舗と再建・再開した店舗が混在している。石巻市は郊外の新蛇田地区で区画整理事業による新市街地開発を進めているが、津波被害で衰退傾向に拍車がかかった感じの旧市街地がどうなるのか、大胆な都市政策の将来が心配だ。
Dsc02757 すっかり暗くなってきた。三陸自動車道を経由して仙台に戻る。わずか1日だけの駆け足の被災地視察で何がわかったというのもおこがましい。率直な感想としては次の2点。2年近く経って新築住宅や工場の操業再開も進み、かなり復旧が進んできているという印象。それと対照的に、災害危険区域に指定され防災集団移転促進事業等が進められている地区ではまだまだ宅地整備の途上で全くまちの姿が見えていない。住民合意に手間取っている地区ではなおさら将来が見えてこない。復興にはスピードと無理のない計画が重要。だが、被災直後では被災者も当面の生活に精一杯で、次世代に向けたまちづくりに参加する気力も時間もない。こうした中での一方的な復興計画が時によっては混乱を生み、却って復興を遅らせている可能性もある。
 被災前から復興都市計画を検討する動きがあるようだが、多くの場合、その手順を定めておくだけにとどまっているようだ。いっそのこと被災前に、災害に強いまちのあり方について構想する被災後都市計画を策定しておいたらどうか。ただし、被災しない限り発動しないことを条件とする。この条件の元で、理想的なまちの姿を描き合意しておく。そして被災したら余計な手続きもなく発動する仕組みは取れないだろうか。
 被災状況によってどこまで、どのエリアで発動させるのか議論が生まれるだろうか。問題点も多くあるだろうが、被災後の建築可能地区の特定時期が復興のスピードと可能性を決定的に左右することを痛感した。災害の多い国、災害の多い時代だからこそ、災害に向けた理想的な仕組みができればいいと思う。

●マイフォト 「宮城県の被災地を巡る」

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2012年4月12日 (木)

刈谷のまちづくり みなくる刈谷とカリコン・カリアンナイト

 春恒例の建築学会東海支部都市計画員会「春の見学会」に参加してきた。今年は刈谷市。日本政策投資銀行の藻谷氏が「日本一寂れた中心市街地」として各地で講演して回り、地元でも話題になっていた2005年に中心市街地を見学したことがあった。今回、7年ぶりにまちを歩いた。
Dsc01723 この間の最大の変化は、駅南の再開発事業が完成・オープンしたことだろう。1973(昭和58)年に刈谷市公社が旧タイル工場跡地を取得して以来、運動公園として利用されていたJR刈谷駅南の一等地で再開発事業の検討が始められたのはもう20年近く前のことだ。1997(平成9)年に当時の住宅都市整備公団に施行要請をして以来、権利者調整等が進められてきたが、ようやく2007(平成19)年に工事着手。翌2008(平成20)年には商業施設棟がオープン。さらに2009(平成21)年には住宅棟も竣工し入居開始。一昨年の2010(平成22)年4月、刈谷市総合文化センターがオープンして、全体事業が完了した。
 商業施設には岐阜を拠点に近年業績を拡大してきているバローを誘致。住宅棟には126戸の分譲・賃貸住宅が建設された。また、刈谷市総合文化センターには1541席・288席の大ホール、小ホールが整備され、生涯学習センターとして多くの会議室等が並んでいる。
 UR施行でそのノウハウを活用。特定建築者制度を活用し、商業施設・住宅施設の保留床を民間に譲渡。また刈谷市も公益棟の保留床を取得。棟毎に土地を分筆し、容積率も都市計画上400%を220%の利用率に留めるなど「身の丈再開発」に留意した点が特徴だ。
Dsc01776 特に市職員の方が強調していたのが、バリアフリーへの配慮。福祉団体の協力を得て、設計段階から使いやすい施設整備を検討。エレベータのフットスイッチなど様々な設備や工夫がされている。商業棟の正面には、建物愛称の「みなくる刈谷」の名前を取った「みなくる広場」が整備され、ステージやミスト設備等を設置。ストリートミュージシャン等の利用もあるようだ。
 また、刈谷駅南北連絡通路から円弧状を描くペデストリアンデッキでそのまま2階レベルにつながる動線処理もきれいだ。デッキから見下ろすように、駅南口の駅前広場や駐輪場も整備された。ちなみに再開発地区の南側には、保健センター、子育て支援センター、健康づくりを促すげんきプラザが入った刈谷市総合健康センターも2011(平成23)年春にオープンしている。
 「みなくる刈谷」の会議室で市職員の方に説明を受け、再開発事業の各施設を見学。続いてデッキと刈谷駅南北連絡通路を渡り、駅北口に出る。刈谷駅北口駅前広場も2006(平成18)年に再整備され、企業送迎バスの乗り入れにも対応できるようになった。デッキを進むと広場北側の広場に降りる。ここは市が民有地を買い上げて、広場にした。刈谷駅前商店街振興組合の有志がプランター等の管理をしている。
Dsc01735 続いて、中国料理「香楽」で刈谷駅前商店街振興組合の杉浦理事長から、商店街活動について話を聞いた。
 1999(平成11)年に刈谷市中心市街地活性化基本計画(旧法)が策定されたことをきっかけに、2002(平成14)年、350万円の補助を受けて、競争力強化基本構想を策定。グルメマップの作成やグルメツアー、地域情報誌Eライフの発行、花いっぱい運動などを開始した。2005(平成17)年には商店街の中に増えてきた風俗店との懇談会を開催。桜小路連絡会として継続開催し、2007(平成19)年からは風俗店の従業員が派手な仕事着のまま、月1回地域の清掃を行う「花と蝶のパトロール」を実施。現在も継続し、警察から感謝状も受けている。またこの年には、地元の愛知教育大学と連携しアクアモールイルミネーションを始めた。「アクアモール」とは明治用水上に延びる通りの愛称で、用水から水を汲み上げ、通り沿いに水のモニュメントが整備されている。
 そして2008(平成20)年、第1回「ほろ酔いカリアンナイト」が開催された。「店自慢の一品とドリンク一杯」のチケットが5枚綴り3500円(前売り)で振興組合加盟店舗(2011年秋は56店舗)を自由に飲み歩くイベントだ。大変好評で年に2回、既に7回開催されている。
Dsc01740 2009(平成21)年には大学生の活動拠点づくり事業として、アクアモール沿いの空き店舗を活用し、スペースAQUAがオープンした。さらに2010(平成22)年度には第1回カリアンゼミの開催。こちらは商店街内の店主等が講師となってミニ講座を行うもので、岡崎で実施されている「岡崎まちゼミ」と同様の取組だ。
 昨年2011(平成23)年には「情報誌あくあ」を創刊。年4回発行で、地域密着のイベント情報や店舗紹介などが満載だ。そして2012年1月14日、県下最大級、250対250の合コンと銘打った「第1回カリコン」が開催された。20歳以上2~4名のグループで申し込み、男性は6500円、女性は3500円の参加料を払えば、19時のスタートから23時の終了時間まで飲み放題。最初の店は指定され、30分過ぎたら強制的に次の店に移動。これを繰り返しては偶然隣り合わせた異性グループとの交流を楽しむというもの。地元TV局にも大きく取り上げられ、さっそく「第2回カリコン」は、500対500に拡大して、この週末4月14日に予定されている。
 こうしたイベントへの参加を期待して商店街振興組合に加盟する店舗も増加している。またこれらの活動に対して2012(平成24)年3月には、愛知県地域づくり活動表彰も受けている。
Dsc01743 理事長の杉浦氏は、今期で理事長からの退任を口にするとともに、まちづくり会社を設立して、補助金頼りではない活動を行うことを計画している。ちなみに駅南再開発事業に対しては、地元住民との連携や参加が十分でないと批判的であった。
 話を伺った後、商店街の見学。さらにみんなと別れ、数人で7年前に歩いた東陽町商店街と銀座新町商店街に向かった。東陽町商店街は通りの北側の店舗がほとんど閉店し解体され、大きな空き地が広がっている。南側の刈谷名店街ビルは上部の県営住宅は入居者が退去し、1階も空き店舗が目立つが、NPO法人が運営する「かたーら」は元気に開店していた。取り壊し計画が進んでおり、近いうちにまた新たなまちの顔が出現するかもしれない。
Dsc01745 銀座新町商店街は、周辺の商店街と合併し現在は、かりやセントラル商店街と言う。銀座通りは道路拡幅のための用地買収が進められているようで、道路後退した新築住宅や空き地の間に老朽化した建物がぽつんぽつんと残る状況になっていた。かつて1階が店舗の市営住宅があった土地も撤去され空き地となっている。駐車場になった広大な空き地は昔のままだ。その隣で優良建築物等整備事業により建設された高層マンションが2棟そびえ、現在さらに3番目の地区整備が進められている。
 商店街と言うにはあまりの惨状にびっくりしたが、整備中の過渡的状況と思えば仕方がないか。通りに面してレトロな外観の銭湯「刈谷浴場」はまだ現役のようだ。さらに西に進めば亀城公園に続くが、だいぶ暗くなってきたのでここらで引き返してきた。
Dsc01753_2
 7年という歳月は刈谷の街を大きく変貌させた。駅南再開発は駅を降りた時の展望を一変させたし、駅前商店街振興組合の活動にはびっくりする。豊富な財政力を活かし、刈谷市役所も建て替えたし、基盤整備・施設整備にはカネを惜しまない。だがそれが本当に市民の活性化につながっているのかと言うと、よくわからない。商店街振興組合は市補助金をうまく活用し、したたかに活動を進めている。今後の変化にも注目していきたい。

○参考
・マイフォト「刈谷のまちづくり」・・・その他の画像はこちらにあります。

・中心市街地研究会「刈谷市の中心市街地」

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2011年4月23日 (土)

桑名市赤須賀のまちづくりと水郷景観

 桜まっさかりの桑名市へ行ってきた。建築学会東海支部都市計画委員会恒例の春の交流会。桑名市へは2002年9月に中心市街地を歩いたことがあるけれど、それ以来の実に9年ぶりの訪問。当時は中心市街地活性化計画を中心に話を伺い、見学は駅前の再開発や寺町通り、六華苑などを廻った。見学の最後の方で、「典型的な漁村集落である赤須賀地区も面白いですよ」という話を聞き、是非とも行きたいと思った記憶がある。それから8年半、ようやく念願がかなった。
Kuwana03 当日は赤須賀地区に平成22年5月に完成オープンした公共施設「はまぐりプラザ」に集合。まずはここで市役所の方から、桑名市景観計画の概要と赤須賀のまちづくりの取組みについて伺った。
 ちなみに「はまぐりプラザ」は、地区の公民館である城東公民館と業業交流センターを合わせた施設で、展示室や会議室等から成り、赤須賀漁協も建物の一画を占めている。また、厨房施設を利用してレストランを開業し好評を博している。設計は内藤廣建築設計事務所。鉄骨造4階建てだが、杉板の外装、切妻屋根が3棟並ぶ外観は周囲に溶け込んでやわらかい。堤防側に開いてデッキがめぐり、大きな階段が道路際まで裾を広げている。
 さて、赤須賀地区である。その歴史は慶安4年(1651年)新田開発がされた頃にさかのぼる。その後、河川改修に伴う開発・移住があり、さらに戦災を受け、すべての建物が消失した後、従前の狭い路地のまま建物が再築され、現在の町並みをつくっている。江戸時代から漁師が集団で住み、大正年間には総戸数670戸、人口3,000人余を数えた。昭和24年に赤須賀漁協が設立されたときには600人を超える漁業者が加盟し、年間3,000トンの水揚げを誇ったが、河口堰の運用で漁獲高が激減。その後、育苗・稚貝放流等の取り組みにより、100数十トンまで回復してきた。
Kuwana01 町並みは「猫とび横丁」という俗称がよく物語っている。路地幅員2m程度のびっくりするほど狭い路地が何本か奥に伸びている。路地を挟んでモノの貸し借りもできそうなほど。平成15年に、地震時に大規模な火災の可能性があり重点的に改善すべき密集市街地である「重点密集市街地」に指定された。
 平成16年度に設置された河川改修に伴う赤須賀水門改修のための地元組織「赤須賀ネットワーク懇談会」をベースに、翌年度には、三重県が密集市街地整備基本方針の検討モデル地区の一つに取り上げて、自治会や漁協、消防団等の関係者が集まった地元懇談会が設置された。これが18年度の「赤須賀まちづくりの会」設立につながる。
 毎月1回メンバーが集まり、老朽住宅対策や避難路等の問題、及び住民啓発等について検討、まちづくりニュースの発行などを行っている。桑名市では、まちづくりの会から老朽化した空家への不安の声が多くあったことから、まちづくり交付金を活用し、平成21年度から「空家老朽住宅等除却補助事業」に取り組んでいる。22年度までに6棟が除却された。
Kuwana11 建替えたくても敷地が狭く建蔽率も目一杯なことからほとんど建替えが困難な状況にある。密集解消のためには2項道路の拡幅を行う必要があるが、現在はそこまでは進んではいない。「赤須賀まちづくりの会」は平成21年に「NPO法人 赤須賀まちづくり推進協会」に改組。さらに活発な活動を目指している。
 というような話を伺った後、現地見学。まずは最も古い街区である一・二番組地区へ。話にあった路地や空家除却後の空き地を見て回った。子供たちが意外に多い。案内の市職員があいさつした若い男性は漁師で生計を立てていると言う。
 川沿いの港にはたくさんの漁船が並んでいる。ただし川漁が中心のため、小さい船が多い。高潮に備えた高い堤防から明治の河川改修で移住した五・六番組地区を見る。こちらは東西方向に整然と路地が入り、密集してはいるが、一・二番組ほどの迷路感はない。はまぐりプラザの裏手は船止まりとなっており、揖斐川河口との間に立派な水門が整備されている。
 空家が除却され、空き地がぞくぞくと出現する。整備計画では道路拡幅の予定になっている。地区内でも建替えが可能な敷地には、現代風の建物に建て替わっている。このまま計画通りに道路拡幅がされると、今のような生活感のある町並みとそれに拠ってたつコミュニティが残っていくのかと心配でもある。
Kuwana15 しばらく堤防を歩き、その後集落の北辺を通って神明社、さらに九華公園の南端を歩く。九華公園は桑名城址だが、お堀端の桜は満開で多くの市民で賑わっていた。そのまま西辺を巡り、公園北端へ。前回見学したときには工事中だった水門管理事務所は、当時の蟠龍櫓として再現された。
 その西には七里の渡し跡。大きな鳥居がそびえている。ここから熱田の宮の渡しに至るのが正式な東海道ルート。七里の渡しから西へ旧東海道沿いに雨水浸透式の道路整備がされている。住吉入江を北に渡ると河川整備に伴い移設された住吉神社。このあたりは国の七里の渡し周辺整備事業で整備され、前回見学時と大きく変わっていた。
Kuwana22 六華苑は夕方でもう閉園されていたので、住吉入江を廻って寺町通りに向かう。入り江の角に架かる橋は船の通行のために上下移動する。角の内側には石積みの蔵がある。石取祭りの山車が入っている。また、歩道沿いにはかつて用水が流れていたことを示すシンボル施設が整備されている。
 寺町商店街を抜け、桑名市民会館へ。こちらは耐震補強とともにリニューアルしたとのこと。とてもリニューアルとは思えない外観ですばらしい。しかし、はまぐりプラザまで30分近く歩き、さらに久しぶりのまち歩きはさすがに堪えた。最後は足を引きずりつつ懇親会場へ。前回見学時も感じたが、桑名のまちづくりは本当にすごい。そのパワーの源泉はどこにあるのか、特別な財政状況にあるのかと聞いたが、通常の交付団体だという。とすれば、その源は人にあるのか。アピタなどの大型商業施設がオープンしてなお商店街が残り、駅前再開発も完成するのは、市民の愛着と支えがあってこそに違いない。

関連サイト
「中心市街地すまい研究会:桑名市の中心市街地について」
●参考
マイフォト「桑名赤須賀のまちづくりと水郷景観」

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2011年2月15日 (火)

三河田原駅周辺のまちづくり

 愛知県田原市は先進的かつ積極的に住宅施策やまちづくりに取り組んでいる自治体である。古くはHOPE計画に取り組み、市街地再開発事業に取り組み、中心市街地活性化対策に取り組んできた。以下のサイトは2004年9月に田原市を訪れた時のものだが、それ以前の記録もリンクを辿っていくと、色々と思い出される。
「住宅施策を考える:田原市の中心市街地活性化への取り組み」
 最近では、一昨年10月に市営住宅を訪問した。ちなみに、この住宅は2010年度の住生活月間大臣表彰を受けている。
「すまいづくり・あれこれ:低層RCで造る 田原市緑ヶ丘住宅」
Tahara1316 さて今回、田原市の中心、三河田原駅周辺の土地利用について検討したいという趣旨で見学会が開催された。これまで市の都市・住宅関係の委員会等に関わった研究者の方々が主だったが、私も昔のよしみで声をかけていただいた。
 最初に再開発ビル「セントファーレ」の会議室で、田原市の都市整備の経緯や現状について伺った。
 平成8年度に田原市の都市整備の方向について、 (1)市立図書館の整備、(2)渥美病院跡地整備、(3)市街地再開発の推進、(4)駅周辺整備の推進などを定めた。このうち(1)~(3)は整備が完了し、(4)も次第に形が見えてきた。
 しかし、市全体の人口は微減傾向で、中心市街地は微増とはいうものに単身向けアパートが多く、地区内には空き家や空き地が目立つ。空き家・空き地バンクも始めたが、登録物件が少ないのが現状である。こうした状況を踏まえ、今後の田原市の駅周辺地区の都市整備の方向について改めて検討したい。
 ざっとまとめると以上のようであった。この後、街に出る。
Tahara1320 住民参加型で整備された「はなとき通り」の延長の都市計画道路は、再開発ビル「セントファーレ」の横を通って、三河田原駅の西側に向かっていく。前に来た時はまだ多くの建物が建っていたが、来る度に減少し、もうほとんど道路にかかる建物は移転してしまった。道路の形が空地となってはっきりわかる。
 都市計画道路は三河田原駅の西側を通って、区画整理事業で整備された広幅員の道路に接続する。三河田原駅は豊橋鉄道渥美線の終着駅なので道路が線路を跨ぐことはない。現在、駅の南側に駅前広場を整備中だが、将来的には道路に沿って歩行者空間が回り、駅の南北をつなぐ予定だ。
 駅前広場の南側には、市の公共駐車場が建設されている。その西隣も市所有地でホテル誘致を図ったが、リーマンショック以降、保留となっているそうだ。公共駐車場は月極5,000円で鉄道通勤利用者が多いようだが、まだ半分ほどしか埋まっていない。道路整備予定地内の土地を無償で貸し出していることも原因だと言う。ちなみに渥美鉄道も駅構内の一部を月極で駐車場用地に貸し出している。
Tahara1329 駅前広場の東に戸建て住宅団地がある。住宅地と駐車場の東側、汐川との間の土地に、最近、2~3階建ての鉄骨造の民間賃貸住宅が数棟建設された。トヨタ自動車勤務の単身者や世帯を当てにしたもので、ほとんど満室のようだ。ちなみに川向こうに愛知県住宅供給公社の賃貸住宅が見える。こちらはRC造5~8階建てでその違いに驚く。
 汐川は民間賃貸住宅のある辺りで支流の清谷川が分かれ、駅の南側を区画するように流れている。清谷川の南側は田原福祉センター。そこから南の田原赤石土地区画整理事業は平成8年に完了している。
 川沿いを歩き、道路予定地を渡る。フタムラ化学(株)の田原工場だ(会社の沿革を見ると、子会社のフタムラスターチ(株)の所有になっているかもしれない)。既に工場としての操業は中止し、現在は研究施設として使用している。小規模だが、化学工場らしくいくつもの炉が聳えるさまは、工場萌えの対象になるかもしれない。地元の方にとっては、駄菓子を製造していた原野産業(株)の工場として懐かしいようだ。その北隣には漁網製造の工場もある。
Tahara1343 この後、自動車で県道北、汐川沿いの松下公共駐車場まで乗せてもらった。こちらは134台あり、ほぼ満車。周辺地区の居住者、企業通勤者が大半だそうだ。かつてはここで二七の市を開催していたが、現在はセントファーレの駐車場で行っている。ちなみにこの朝市の出店者は近在の農家などで、よく賑わっているとのことだった。
 帰りは町中の路地を通ってセントファーレまで戻った。途中には柳町公共駐車場、路地奥の空き地に鉄賃アパート、北には渥美病院跡地に整備された市営福祉の里住宅などが見える。
 見学会が終わった後、道中を一緒に歩いていただいた市会議員の方から「OIDEN MAP 田原まちなかものがたり」という小冊子をもらった。横幅がA4の半分の縦長変形、表紙も入れて48Pの小冊子だが、田原の中心市街地の歴史や案内、昔話などが満載。特に興味深いのは「まちなか時空地図」と題して現在の地図の上にトレーシングペーパーで幕末近い文化5年(1808年)の古地図を重ね合わせたページ。当時の通りや家中屋敷が今にどう残っているか、どう変化したかがよくわかる。これを制作したのはNPO法人たはら本舗。田原のまちづくりに向けた様々な活動を展開しており、田原市検定なるものも実施中だ。
 こうした市民活動がある街は心強い。見学会後に感想を聞かれたが、新しい民間賃貸住宅が建設されているのを見ると、田原の中心地としての住宅需要はそれなりにあると思われる。今後重要なのはこの民間需要をいかにコントロールするかではないか。市民と連携した行政力が今こそ問われる。トヨタ自動車(株)の好調にも陰りが見られる昨今、都市整備・まちづくりの優等生、田原市の今後が注目される。

●参考
マイフォト「三河田原駅周辺のまちづくり」

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2009年12月 1日 (火)

「白壁・主税・橦木」の町並み保存活動

 都市住宅学会全国大会(名古屋)の見学会で名古屋市の白壁・主税・橦木町界隈を歩いてきた。最近、通勤帰りにこの界隈を歩いていくこともたまにはあり、見慣れた景観ではあるけれど、改修し一般公開後、まだ入館したことのなかった建物に入ることができた。またこの地区で町並み保存活動を実践している白壁アカデミアの牛田さんから最近の町並み保存活動の状況を聞かせていただき、大変有意義な半日となった。
6415 出発点は地下鉄「市役所」駅の出口。帝冠様式の名古屋市役所に愛知県庁、第9代名古屋市長・大喜多寅之助の旧邸である愛知県議員会館、旧名古屋地方裁判所の名古屋市市政資料館、カトリック主税町教会などを巡り、2時頃に最初の入館施設である旧春田鉄次郎邸に着いた。
 隣の春田文化集合住宅は外からしか見られないが、きれいに手を入れたお宅が垣間見える。旧春田鉄次郎邸は1階がフレンチ・レストランとなっており、見学できるのは主に2階の空間。ただし2階も1室はデザイン事務所が借用している。
6413 春田鉄次郎は陶磁器貿易商として財を成した人物で、武田伍一設計のこの建物は大正13年に造られ、平成11年に当主のご好意で(財)名古屋都市整備公社に貸し出され、一部が転貸しされている。レストラン部分の洋間の装飾がすばらしいと言われるが、2階の洋室も天井の漆喰模様やアールの付いた壁面との取り合わせ部分など、優美なやさしさにあふれている。
 続いて訪れたのが隣に建つ旧豊田佐助邸。豊田佐助はトヨタ自動車の現社長の祖父である喜一郎氏の父であり発明王の豊田佐吉の弟で、豊田紡績の社長を務めた人物。立派な鉄製の門の正面に洋館風の建物がデンと座り、その奥左手に和洋建築が並んでいる和洋併設の取り合わせが面白い。天井換気口の鶴に「とよた」のマークや格天井風の漆喰模様が質実剛健な感じがする。和室の金箔の襖の豪華さに目を見張り、2階の障子桟のデザインも面白く見た。
6417 ここで、牛田さんからこれまでの活動の経緯と現状について伺う。白壁・主税・橦木町の町並み保存については、昭和60(1985)年に名古屋市教育委員会が町並み保存地区保存計画を策定、原則2階以下、伝統的デザインの採用等を内容とする修景基準を定めている。
 私が初めて愛知建築士会主催の町並みウォッチングに参加したのは平成7(1995)年だから、もう14年も前のことになる。そのときには牛田さんも参加していたのかもしれないが、私はその後も時々この地区を訪れては、さまざまな活動の展開や町並みの変わりように驚き、また感心してきたに過ぎない。
 当時は井本邸と呼んでいた鐘木館の活動。白壁アカデミアによる講演会や研究活動。名古屋市による旧春田鉄次郎邸と旧豊田佐助邸の保存活用の取組み。そして二葉館の移築復元。こうしたある意味派手な活動の陰で、白壁・主税・橦木町地区にはマンション建設の波が押し寄せ、牛田さんたちによる地道な保存活動が続けられていた。
6431 牛田さんの話は白壁景観裁判から始まった。平成14(2002)年に積水ハウスが地区内に8階建て高さ30mのマンション計画を立てた。これに対して住民らは高さ20mを越える部分の建築禁止を求める仮処分申請を行い、これが名古屋地裁で採用されたのだ。しかしながら結局この仮処分は、積水ハウスが計画を7階建て高さ約25mに譲歩したことで住民の申し立てが取り消され、現在はその変更計画に即した建物として、地区内に聳え立っている。
 こうした状況を受け、牛田さんたちは「白壁・主税・橦木」町並み保存地区の住環境を考える会を結成。平成17(2005)年に「まちづくり憲章」を定め、住民に配布するとともに、主要な施設等に提示してきた。
6429 しかし、平成18(2006)年には大京が15階建て高さ47mのマンション計画を立て、住民説明を始めた。平成13(2001)年に名古屋市では広告・景観審議会条例が施行されており、これに基づき開催された審議会で大京の言い分は委員の不興を買い、結局、この土地は地元地権者の一人が購入し、現在はコインパーキングとなっている。
 牛田さんに言わせれば、この地区の住民は戦後近所付き合いがほとんどなく、コミュニティのない町だったと言う。しかしこうした事態が続く中で、ようやく地元住民からも町並み保存活動に主体的に参加しようとする人が現れ始める。平成20(2008)年から名古屋工業大学兼田研究室の協力を得て、地域の有力者を代表とする「白壁・主税・橦木まちづくり提案」発起人会が設立され、景観法の基づく都市景観形成地区の指定を住民提案するアクションを起こそうとする活動が動き始めた。そして今年に入り、住民の半数以上や公的施設管理者からの同意書を得て、名古屋市も地区指定に向けて動き出したという状況である。
6435 「コミュニティのない町だった」という言葉も強烈だが、そうした中で住民の心を動かしここまでに至ったというのは、心底、その活動の粘りと継続性に感心する。とは言っても、14年前に比べ、かなり雰囲気も変わってしまったことも事実。パーキングも増えたし、低層とはいえRC造打ち放しの建物や周囲をクリーム色の壁で囲まれた結婚式場もあり、高さ規制だけでは必ずしも武家屋敷町らしい景観が守られているとは言い難い。町並み保存の難しさを感じずにはいられない。
 豊田佐助邸を出て、次は鐘木館へ向かう。鐘木館の歴史について語り始めるとキリがないのでここでは省略。有志で共同賃貸していた時期を経て、現在は他の施設と同様、市が借り上げ、NPO法人に指定管理を委託している。きれいに改修された室内は、一部喫茶に利用され、和室は貸室として利用されている。また2階展示室のサンルームや浴室もきれいに整備され、瀟洒な雰囲気。玄関ホールのステンドグラスや2棟ある黒壁の蔵もいい感じだ。
6439 外に出るともうだいぶ薄暗くなってきた。二葉館に着いたのはもう閉館間際の4時40分。ステンドグラスや廻り階段と飾りランプなどを楽しむ。この後、URの賃貸住宅アーバニア主税町とともに残された主税町長屋門、モーニングパーク主税町を通り、白壁筋を西に戻って、料亭・か茂免、マンション白壁ハウスに残された旧豊田家の門・塀、料亭・樟、さらに鐘木筋に戻って大森家住宅、伊藤家住宅を見つつ、すっかり暗くなった道を地下鉄駅まで歩いた。
 改めてすばらしい町並みを、その保存に向かう努力の跡ともに振り返ることができた。景観形成地区の指定を受け、さらにその活動が広がっていくことを願って止まない。

●参考
 まちなみ・あれこれ:「白壁・橦木町界隈ウォッチング」
 まちなみ・あれこれ:「NAGOYA 文化のみち」

●マイフォト「「白壁・主税・橦木」の町並み保存活動」もごらんください。

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2009年4月19日 (日)

豊川稲荷門前のまちづくり

4669 豊川稲荷門前のまちづくりについては、『あいちまちづくりシンポジウム「地域が担うまちづくり・まちおこし」』で、豊橋技術科学大学の松島先生と「(株)豊川まちづくり そわか」の鈴木代表取締役から話を聞いた。その時に「何やら元気な取組みが豊川で行われている。一度見に行かなくては!」と思ったが、建築学会東海支部都市計画委員会恒例の春の交流会が豊川で開かれるというので、喜んで参加した。
 当日は豊川稲荷寺宝堂にて、豊川市建設部次長兼まちづくり推進課長の荘田さんから、「豊川稲荷表参道地区の都市計画の見直しについて」と題して、これまでの経緯と現在の活発な地域活動の状況について報告があり、ついで豊橋技術科学大学の松島准教授から「豊川稲荷門前の景観整備事業について」研究室の活動を中心に話を伺い、その後、まち歩きを楽しんだ。
4693_2 東海道の脇道・姫街道と伊奈街道の交差部に位置する豊川市は、1441年室町時代前期に開創された豊川稲荷を中心に発展し、戦前には海軍工廠もできて旧街道が拡幅整備されてきた。都市計画法制定に伴い、駅北側から豊川稲荷門前に至る表参道も現道幅員6mのところ12mに都市計画決定された。しかし整備は進まず、時代の変化に伴う商業環境の変化から、昭和55年には商業近代化計画が策定され、表参道も観光客を対象にした商店街振興を目指し、電線地中化と景観整備が提案された。しかし都市計画に基づく道路拡幅については、30年近く権利制限をしてきたことから、住民ワークショップにおいても、計画どおり拡幅すべきという意見と、現道のままにすべきという意見の両論が出され、まとまる気配がなかった。
 こうした状況に、二代目の若手経営者の中から、「ハード整備をすれば本当に経営状態はよくなるのか? 商業意欲の高揚の方が大事じゃないのか。」という意見が出て、「まずは自分たちでできることから始めよう」とソフト先行のまちづくりがスタートした。
4701 そこで行われたのが「元気軒下戸板市」。ただでさえ狭い路上に戸板を並べ、さらに人密度を上げてにぎやかさを演出。これが受けて、平成15年から毎月1回「いなり楽市」を開催するようになる。大道芸にフリーマーケット、そしてチンドン屋に市民主体のダンスやブラスバンド。市からの補助金は拒否し、イベント業者に委託することなく、すべて商店街店主たちの手作りで実施。年々盛大になり、今では2万人近くの人でにぎわう。そのためのミーティングも毎週木曜日に開催。毎回深夜まで語り明かし飲み明かしているという。
 都市計画道路の方はさまざま検討した結果、平成19年についに計画廃止。地区計画を制定し、地区施設道路として位置づけ、風格のあるまちなみ形成を進めることとしている。このため、住民主導で景観整備基準も制定。平成18・19年と松島研究室の下に社会実験を行った結果、平成20年度から景観補助を始めている。
 以上が荘田氏の話。続いて、松島先生から。
4713 平成18年度から実施した社会実験は、18年度はカバン屋、19年度は酒屋を対象に、研究室の学生たちにより、実測、住民投票による外観決定、そして工事を行い、さらに売上高や視線調査などを行い、結果の評価をしている。また店主参加のワークショップも開催し、景観整備ガイドラインの作成や補助制度の大要(補助率1/2、補助上限200万円=>実際には150万円で決定)を決めている。
 外観デザインは昭和レトロ。市内に住む琺瑯看板コレクターの協力も得て、レトロまちかど博物館をテーマに景観整備を進めている。また、まちづくり会社そわかの拠点「いっぷく亭」内にサテライト・ラボを開設し、地域に入ってのさまざまな活動や研究を続けている。
 「専門家の役割をどう考えるか」という質問に対して、「住民だけの時は景観整備までは進まなかった。専門家として実例を示すことで、次の一歩に踏み出せたのではないか。」と語っていたが、それはそのとおりだろう。しかし、社会実験で整備した店舗が必ずしもよい景観とは言えない。
4717 復元をするのではなく、レトロに整備している。すなわちニセモノを造っているのであり、表層のみの仕事だ。「外観からは瓦葺きに見える」ということを改修の工夫点として紹介していたが、「それでいいのか」と若干疑問。「昭和レトロ」をキーワードに、住民や来客の好感度を指標にした景観整備を進めるとすれば、今後も時代や意識の変化に対応し、常にフレキシブルに改修していくことが求められる。そうした姿勢が景観ガイドラインにどう表れているかと質問したが、「最終的には住民協議会で承認されればOKという柔軟な内容にしている」という答え。
 景観の善し悪しは結局は住民意識に拠ると思えば間違ってはいないが、今ひとつ十分には議論し考えられていない印象。松島先生がよいと言えばよい、ダメと言えばダメといった、専門家まかせになっていないだろうか。6月には映画監督の想田氏を迎え、景観ワークショップを計画しているそうだ。結局、松島先生はデザイナーであり、運動家なのだとナットク。稲荷門前に続いてもう一つの商業中心地区・諏訪地区の整備構想にも関わろうとしているそうだが、すべて松島先生に丸投げでほんとうに大丈夫か?=>豊川市
4721 この後、まち歩きに出る。豊川市まちづくり推進課の山本主査の軽妙な案内の下、豊川稲荷(正式には豊川閣妙厳寺)の見所、総門の小さな表札、本尊である千手観音を祀る妙厳寺本堂と守護神であるダキニ真天を祀る稲荷本殿、奥の院、100体はあるという霊狐塚などをめぐる。
 続いて門前表参道に出て、平成18年度社会実験のカバン屋・キング堂、20年度に改修したせんべい屋・手焼堂、シャッターをペイントしたHIKOSAKA邸、19年度社会実験の富岡屋酒店、そしていっぷく堂などを見て回る。それらは画像のとおり。
4723 続いて、ひとりで豊川駅や閑散とした歯抜け商店街の駅前通り、地区内の狭く魅力的な路地などを見て回る。最後に、5時半から懇親会。初代おかみさんの会・会長を務めた和食処松屋のおかみの口上を聞きつつ、おいしいお酒を飲む(ちなみに私はほとんど下戸なので、大して飲めない)。地元商店主たちの意識と取組みが商店街再生には一番の特効薬であり最も重要なものだと改めて痛感。若手商店主たちの活動が今の活況を生んだし、今後もそれがすべてのベースである。それをうまくサポートするのが専門家の役割だと思う。次は「いなり楽市」の日に来てみよう。
4719
【参考】
豊川市の中心市街地(2000.6.29)/中心市街地すまい研究会

●マイフォト「豊川稲荷門前のまちづくり」もごらんください。

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2009年2月 5日 (木)

椿とともに散歩道を歩く-2009冬

 昨年に引き続き、今年も常滑やきもの散歩道で、つばきをテーマに展示されたギャラリーを巡るイベント「椿の頃、陶都とこなめに遊ぶ」が開催された。これで3回目。仲間内で「やりたい!」という声が出たら開催するという不定期イベントで、今年は少し準備不足で、事前告知も十分行えなかったが、それでも天気に恵まれ、そこそこの人出でにぎわっていた。
 「タウンキーピングの会」は今年も土管坂休憩所「旧渡辺邸」をお借りし、甘酒の無料サービスをするとともに、セントレアが一望できる高台の日当りのいい和室でお餅を火鉢で焼いて食べながらのんびりとした時間を過ごしていただいた。
 他に、常滑屋では椿をあしらったしつらえの中でお食事をいただく「召しませ 椿づくし」を開催。また、TO'sギャラリーでは富本泰二氏の器に伊藤圭祥氏の花を生けた「艶葉木」、名古屋芸大のギャラリー「art&design rin’」では「Tsubaki 1 rin」を開催した他、ギャラリー共栄窯を始めとする各ギャラリーでそれぞれ椿にちなんだ展示が行われた。
 「椿の頃、陶都とこなめに遊ぶ 2009」
Imgp6093 私は1日(日)午後の当番だったので、少し早めに来て、普段はあまり歩かない散歩道の北側を廻って、土管坂休憩所に向かった。
 一昨年頃から、散歩道を東西に掘り割って通る市道沿いに、招き猫の屋外展示などが施されている。かつての窯場の風景を映したタイル画と歩道脇の巨大な招き猫を確認。この招き猫については、会の中でも賛否両論あったが、「そのチープさ、キッチュさが常滑らしい」と反対派も今やあきらめの境地。それがまた常滑らしい。
 タイル画のある交差点を北に向かうと、競艇ラーメンの店がある。楕円形の器に1cm以上ある分厚いチャーシューが2枚乗り、おにぎりがついて600円は安い。濃いめの醤油味もおいしい。
Imgp6090 その東の坂を上がると土管擁壁が出迎え、奥に野ざらしになった窯が見える。通り過ぎて坂を下ったところがギャラリー共栄窯。そこを右に折れ、黒壁の工場の前、植木鉢が積み上げられた作業場の脇の細い道を登っていくと掘割市道の上の陸橋に出る。椿や蜜柑に彩られた緑の木々と年月を経た工場や家屋がいい雰囲気を醸している。
 常滑と言えば土管など窯材を利用した擁壁が有名だが、石垣も多い。それが丸石だったり、無造作な欄積みだったり、また城郭風に反りを付けてきれいに積み上げたものありとさまざまで興味深い。この多様さも常滑の面白さの一つだろう。
 われわれ(タウンキーピングの会)が椿をテーマにしたイベントを始めたのは、瀧田家前のでんでん坂脇の椿が花を散らしたきれいな1枚の写真(「椿の頃、陶都とこなめに遊ぶ」の冒頭の写真)がきっかけだが、今の時期、散歩道のここかしこに椿やさざんかが咲いている。日だまりの中、蜜を求める小鳥たちが鳴きながら飛び交う姿を追いかけるのは、至福の時間だ。
Imgp6085 歩道の上に出ると、巨大な招き猫にご対面。市道のコンクリート擁壁の上にも、何匹もの猫の遊んでいる姿が見られる(陶芸作品です)。
 この後はいつも見る風景。「art&design rin’」など協賛ギャラリーの展示を見つつ土管坂休憩所へ向かう。午後はもっぱら旧渡辺邸の台所で甘酒を給仕して半日を過ごした。若いカップルや幼い子供を連れた家族連れが多い。散歩道を訪れる人にも少しずつ変化があるようだ。
 さて、今年中にも常滑市は景観計画を策定する意気込みだ。いよいよ会の目的の一つが実現するかと思うと、今から楽しみ。この町の変化をさらに楽しんでいきたい。

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2008年11月24日 (月)

可児市桜ヶ丘ハイツの住民主導のまちづくり

 「各務原の景観まちづくり」を見学した後、続いて可児市桜ヶ丘ハイツに向かった。ここは、住民主導で地区計画の策定や様々なまちづくり活動が展開されており、今期の都市住宅学会で学会賞を受賞することとなった地区である。推薦をされた名城大学の海道先生の案内により、まちづくり協議会の副会長である河崎さんにお話を伺い、地区を見学させてもらった。
Imgp6074 桜ヶ丘ハイツは、不二企業(株)という民間ディベロッパーが開発を行った、計画面積300ha、1973年より入居が開始され、現在の人口が約9500人の大規模戸建て住宅地である。企業の方針により、60〜100坪とゆとりのある敷地、芝生舗装の歩道、自然石積みの擁壁など非常にレベルの高い住宅地開発が行われ、開発途中には私も見学に来たことがある。しかしその後、開発途中で企業が倒産。未着手の土地が競売にかけられ、今後の動向が非常に不安定な状況でもある。
 1997年に開発企業が経営難から近隣センターにパチンコ店の誘致をしたことから、住民のまちづくり活動が始まった。最初は「桜ヶ丘ハイツのまちづくりを考える会」が1998年に発足し、10名ほどの有志で定例の勉強会が始められた。その後2002年に「まちづくり懇談会・桜ヶ丘」となり、「桜ヶ丘ハイツまちづくり協議会」が発足するまでの4年半、ほぼ2ヶ月に1回のペースで会合が開かれ、地域の様々な問題を議論・検討していった。
Imgp6062 この間、基本的に役員が単年度任期である自治会の中に、年度を越えた活動を行う地区計画プロジェクトチームが設置され、地区計画の策定が検討された。もともと桜ヶ丘ハイツのうち、桜ヶ丘と皐ヶ丘の2地区は開発業者により建築協定が定められていたが、その後地区計画が都市計画決定された。1993年から入居が始まった桂ヶ丘は、当初より地区計画が決定されていたが、プロジェクトチームにより見直しが検討され、2007年に改訂された。改定後には、近隣センターの用途制限の他、フレンドリー・ガーデンという沿道1mの植栽規定などが定められている。
 「桜ヶ丘ハイツまちづくり協議会」には、移動支援、集う場つくり、開発計画の各視点からまちづくり検討と活動を行う3つの部会がある。移動支援グループでは、2008年1月から、可児市及び多治見市内を範囲に、会員制の移動支援活動を始めた。またお休み処担当では定例的にお休み処を開設し、お茶・お菓子とおしゃべりなどの交流会を開催している。
Imgp6068 現在、桜ヶ丘ハイツで最大の課題は、欅ヶ丘問題である。桜ヶ丘、皐ヶ丘と桂ヶ丘の間に横たわる約70haの欅ヶ丘地区は、開発企業が倒産後、競売にかけられ、土地ブローカーの所有になっている。一時は大規模ショッピングセンターという話もあったが、まちづくり協議会欅ヶ丘部会が中心となり、欅ヶ丘地区まちづくり計画(案)をまとめ、市と協議を進めていくうちに、商業者から撤退の申し出があった。その後、隣接地に大規模な配送センターを建設する計画が出て、現在、協議会が中心となり交渉を進めているところである。
 以上が、桜ヶ丘ハイツ内を見学後、桜ヶ丘公民館で河崎さんに伺った話に、海道先生による学会補足資料を参考にまとめたまちづくり活動の経緯と現状である。
 桜ヶ丘ハイツに着いたのが遅く、もう夕闇も迫る時間だったため、河崎さんに同乗してもらい、バスを走らせながら各地区を案内してもらった。さらに桂ヶ丘ではバスを降り、芝生歩道を踏みしめながら、フレンドリー・グリーンなどの地区計画の成果を実感した。
Imgp6071 各務原から続いた見学会の後、多治見駅前の居酒屋で、河崎さんも同席して交流会が開かれた。河崎さんは名古屋天白区の出身で、この春に定年を迎えたそうだが、まちづくり協議会の他、2006年に行政・市民・議員らで設立した地域づくりフォーラムの代表を務め、また「可児市めだかの楽校」という環境活動にも中心的に関わっている。退職しても毎日忙しいと楽しそうに笑う。
 桜ヶ丘ハイツが住宅地として非常にレベルの高い整備がされていることは知っていたが、これほど活発で多様なまちづくり活動が展開されていたとは知らなかった。まだまだこれからの街である。なお一層がんばっていってもらいたい。

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2008年11月21日 (金)

各務原の景観まちづくり

 都市住宅学会中部支部の見学会で、岐阜県各務原市と可児市を見学した。秋の午後からの見学会で、明るい時間が短く、駆け足で巡ったものの可児市に着く頃はもう夕闇が迫り、あわただしい半日となった。まずは各務原の景観まちづくりから。
 まず最初に、「学びの森」横の那加福祉センターで、各務原市景観計画の概要を伺う。人口約15万人の各務原市は、名古屋市、岐阜市へのベッドタウンでもあり、県内第2位の工業出荷高もあり、さらには市域に自衛隊基地も抱えることから、人口も順調に増加し、財政的にも比較的ゆとりのある自治体と思われる。
 現在3期目を迎える現市長のリーダーシップの下、平成18年4月に景観法に基づく景観計画を策定した。濃尾平野の最北部に当たり、北に山、南は木曽川に挟まれ、東西に中山道が走る多様な自然と文化を備えた市の特徴を生かし、市内全域を森・まち・川・田園と歴史の4つの風景区域に分け、テーマと方針を定めている。市内全域に地区に応じた高さ制限をかけるとともに、高さ20m超・延べ1,000m2超の大規模建築物等に対する届け出制度を規定している。また、テクノプラザ、グリーンランド柄山の2つの景観地区と、9つの重点風景地区を指定。テクノプラザ景観地区では景観協定も締結している。各務原の景観基準の特色に一つに、色彩ガイドラインをマンセル表色系で明確に定めていることが挙げられる。重点風景地区内における新築・増改築等は届け出・審査が義務づけられ、さらに景観アドバイザー、景観審議会といった制度も整備されている。また、中山道鵜沼宿の歴史的建造物のうち15物件を景観重要建造物に指定しており、修景整備に対する助成も行っている。また、県を隔てた木曽川対岸の犬山市と木曽川景観協議会を組織している点も特徴の一つだ。
Imgp6033 「学びの森」は、まっすぐに続く並木道が「冬のソナタ」のロケ地となった春川市南怡島の並木道とそっくりだということで話題になった。ちょうどイチョウが黄葉のまっさかりで、美しい景観を見せていた。来月にはイルミネーションが飾られ、多くの人を集める。各務原市は韓国春川市と姉妹都市提携をし、各務原キムチなども積極的にPRしている。
 「学びの森」そして隣接する市民公園や中部学院大学ともども岐阜大学の跡地で、全部で12.3haほどもあり、有効に活用し、都市ビジョンである「公園都市(パークシティ)かかみがはら」づくりを進めている。市民公園の西に流れる新境川沿いには桜並木が整備され、春には30万人近くが訪れるという。
Imgp6039 市の北西端になるグリーンランド柄山地区は、積水ハウスが分譲している面積4.3ha、126区画の戸建て住宅地で、景観地区に指定されている。分譲時から宅地裏路地を利用した電線地中化や壁面後退と緑化など、景観に配慮した整備がされていたが、それを将来とも担保するため、既に一部住民が居住していた状況ながら、住民協議を重ね、景観地区に指定した。ただし景観地区として定められる事項は、高さ・色彩、壁面後退、敷地面積、意匠形態に限られるため、景観形成ガイドラインを作成し、緑化や外構についても自主規制を行っている。東に聳える権現山を背景に、グリーンランドにふさわしい自然豊かな景観が美しい。
Imgp6043 次に、同じく景観地区に指定されたテクノプラザ地区の横を通り過ぎ、「瞑想の森 市営斎場」に向かう。設計・伊東豊雄建築設計事務所、周辺環境デザインを石川幹子が担当。西側に広がる山並みに合わせ、雲のように漂うシェル構造の白い屋根が特徴だ。外壁はほとんどガラスで覆われ、建物に面して配置された池と一体化している。室内も、流れるような曲面天井にリジッドな大理石壁面。その足下はゆるくアールを描いて床面と一体となっていく。グランドピアノが置かれ、コンサートが催されたこともあるとのことだ。
 斎場を出て、市の中心街路を東に向かう。沿道7kmの区間にイチョウ並木が美しい。剪定はしない方針を市長が宣言し、電線には防護チューブが巻かれている。落ち葉の掃除は、市も年4回実施するものの、基本的に市民管理とし、ゴミ袋の無料配布を行っている。また屋外広告物規制もしており、市民ボランティアのビューレンジャーが張り紙剥がしの活動を行っている。
Imgp6050 各務原市の西端から東端まで、30分近くも車を走らせ、ようやく鵜沼宿へ。重点風景地区として、「宿場町としての歴史的まち並みの再生」をテーマに、風景形成基準を定めるとともに、まちづくり交付金を活用し、菊川酒造(株)本蔵など景観重要建造物の修景や町屋館の整備、脇本陣の復元等の整備を進めている。時間がなく、町屋館の見学しかできなかったが、2階のむくり天井など見所の多い建物である。江戸時代は旅籠を営み、昭和39年までは郵便局として使われていた商家で、濃尾地震で倒壊した後、明治末に再建されたもの。今回の整備に伴い、主屋を1mほど曳家し、付属屋・離れともども登録文化財に指定されている。旧中山道の市道鵜698号線は非常に交通量が多く、駐車場からの横断もままならない。再生計画では水路を復元することとしており、住民との協議が進められている。
 以上、非常に早足で各務原の街を西から東まで通り過ぎた。景観計画では、村国座や晩松園(旧川上別荘)、ごんぼ積み集落地区などが重点風景候補地区に挙げられており、まだまだ多くの見所がありそうだ。また機会をつくって見て回りたい。

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2008年7月 8日 (火)

城下町・犬山・まち歩き

 国宝・犬山城のお膝元の城下町に高層のビジネスホテル建設騒動が持ち上がり、犬山市に景観条例ができたのが平成5年。平成6年からの2年間、この街の景観まちづくりに多少とも関わったことがあったが(ほとんど何もできなかったが)、地元(市・住民)の努力によるその後の変化には目を見張るものがある。週末、妻が「どこかへ行こうよ」というので、ガソリンの高騰もあり、尾張パークウェイの無料化もあったので、近場の犬山を久しぶりに訪れることにした。
Imgp5934 わが家から車で30分。尾張パークウェイを快適に飛ばすと、あっという間に木曽川河畔に出る。犬山城を眼前に眺めながら、名鉄犬山ホテル横の坂を上るとすぐに城前の広場に出る。前は体育館前の空地が駐車場になっていたが、今はきれいに整備され車を駐めることができず、有料のキャッスルパーキングへ回る。時間無制限で200円なら安いし、このいくらかでも景観整備費に回るのであれば、協力しなければと思う。
 それにしても暑い。お城前の本町通りを下っていくが、相変わらず地元の車がひっきりなしに通る。通りの東側にこぎれいな広場が整備されていた。「大手門いこいの広場」。板土塀に囲まれた一角に、芝が張られ、四阿と大手門が建てられている。誰もいない。この暑さだし。しばらく先の左手に民家を活用したまちの駅「しみんてい」がある。NPO法人犬山市民活動支援センターの会。HPを見るとさまざまな市民活動に年間100万円程度の助成を行うとともに、活動の場の提供などの支援を行っている団体らしい。最近の犬山の市民活動の盛り上がりを象徴する団体ということか。私はただの無料休憩所かと思って、トイレを借りて出て来た。
Imgp5881 しばらく行くと「FM84.5」の幟。通りの西側、民家の中で、愛知北エフエムの生放送をしていた。軒下に「犬山まちづくり株式会社 弐番屋」の看板がある。平成12年にできた犬山市中心市街地活性化基本計画「城下町新生計画」に基づき設立されたTMOで、市と商工会議所等が出資して作った第3セクターのまちづくり会社。「弐番屋」はこの会社が展開するSHOP事業の店舗で、愛知北エフエム放送(株)が入っている民家が1号館。昨秋には2号館が南側数軒先にオープンした。このまちづくり会社は駅西パーキングの経営の他、チャレンジショップや空店舗活用事業などを実施している。
 愛知北エフエムの南隣が井上邸。井上印刷の看板が掲げられている。登録有形文化財指定。この三叉路の周りには、他にも山田五平餅店やなつかしやなど、古い民家を活用した店舗が多く集まっている。若い女性を相手にする親父店主の姿が見られ、まあいいことかなと。
Imgp5898 この交差点を東に向かった。三井邸の立派な土蔵と美しい格子窓の外観もさることながら、景観に配慮した新しい建物もいくつか目に入る。また、材忠邸や寅屋などの古い建物も健在。道路がカギ状に曲がった余坂の木戸に面して、ぎゃらりぃ木屋がある。ちょうど藍染作品の展示をしていて妻がつかまった。扇風機にふかれてしばしの涼を楽しんでいると、麦茶を出していただいた。申し訳ありません。木戸跡の先に「余遊亭」という名前のまちづくり拠点施設がある。当日は子どもたちが中庭に集まって、何かの作品づくりをしていた。こうした見通しのよい明るい施設がまちかどにあるのは、まちの活気の表出という意味で効果がある。おしゃれだし。
 道を戻って、寺内町の石畳を南に下っていく。道に面して間口は狭いながらおしゃれな家が見られる。景観まちづくりが進められる中で、市民の意識がこうした形で表れていることを嬉しく思う。南北の道を抜け、寺内町通りを西に戻る。お寺の土塀が目立つ。鍛冶屋町を南に下り、駅前通りを西に向かう。本町通りの入り口東角に目立つ大きなお屋敷が真野邸。本町交差点の南に並ぶ3階建てのビルは昭和40年代初頭に下本町防災建築街区造成事業で建設されたもの。
Imgp5915 本町通りをお城に向かって北上すると右手に、中本町まちづくり拠点施設「どんでん館」。城下に最近整備されたいくつかの施設と同様、街なみ環境整備事業で整備されたもので、山車蔵に似せた近代的なファサードの中に、3台の山車が展示され、音と照明の演出により、早朝から夕焼け、月が昇る夜までの祭りの日の1日を感じさせてくれる。こぢんまりとした展示ながら良質。和室でお茶のサービスもあり、なかなかよかった。
Imgp5925 この界隈も古い民家を生かした店舗が多い。その中に、むくり屋根がめだつ上品な商家がある。登録有形文化財旧磯部家住宅。土産物にばかり目を向けていると通り抜けてしまいそうな外観だが、入館無料で非常に充実した保存がされている。入り口の土間・板の間から番台、清浄とした仏間・座敷。紅殻に塗られた渡り廊下・中庭を経て、裏座敷、土蔵、奥土蔵、物置。旧呉服商・柏屋として幕末慶応年間に建築され、土蔵の類は明治初期の建築。その後、製茶・販売業に転じ、倉庫として利用されていたものを、市が譲り受け、平成16年から17年にかけて復元改修を行い、公開された。
Imgp5933 寺内町通りまで戻る。北東に遠藤邸。南東の民家もよく整備されている。通りを西に抜けて帰りは大本町通りを北上する。比較的広い幅員にインターロッキング舗装の通りは、商家中心の本町通りとはだいぶ様相が異なる。昔は武家町だったと聞くが、今はポツポツと長屋も残る住宅街となっている。遮蔽物がなく直射日光を浴びてすっかり暑さに参ってしまった。犬山北小学校の修景された板塀をぐるっと回って、ようよう駐車場にたどり着く。
 久しぶりに訪れた犬山の城下町は、思っていた以上に整備され、訪問者もそこそこ賑わい、いい感じ。15年近く前に書いた「犬山北のまちづくり」のHPを久しぶりに読み返したら、「50年100年続くまちづくりをしよう」と書かれていた。今度はいつ訪れようか。その時にはまたどう変化しているだろうか。
 マイフォトもごらんください。

(参考)
犬山市の中心市街地 【中心市街地すまい研究会】
犬山北のまちづくり 【まちづくり・あれこれ】

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