建築アルバム

2013年8月24日 (土)

あいちトリエンナーレ2013 オープンアーキテクチャー「愛知産業大学言語・情報共育センター」

 あいちトリエンナーレ2013が8月10日から始まった。2回目となる今回は芸術監督に建築批評家の五十嵐太郎氏を迎え、アート作品としての建築物への注目度が高い。そんな意向を受けたイベントの一つとして、オープンアーキテクチャーが開催されている。先日、オープンアーキテクチャー・スペシャル企画として、「愛知産業大学言語・情報共育センター」の見学と設計者のstudio velocityや五十嵐氏らによる語る会などが開催されたので参加した。
Dsc03106 名鉄本線藤川駅からスクールバスで5分。バスは見学施設である「愛知産業大学言語・情報共育センター」の前に到着する。施設の一画はバス待合所になっている。東側に食堂等のあるコミュニティセンター、体育施設等から成る恒誠館が並び、西側には1号館から4号館までの校舎が囲む中央広場部分に「言語・情報共育センター」は立地している。
 元々、中央広場だった位置に、バス降車場と各校舎を結ぶように通路が設けられ、その間に、ITセンター、プレゼンテーションルーム、言語ラボなどが並ぶ。とは言っても部屋名は便宜的なもので、各スペースは開け放し可能な大型サッシュが嵌められ、開放すれば屋内外はまったく同一平面でつながれてしまう。屋根のある部分は床があるもののその他は芝生。
Dsc03057 最初にプレゼンテーションルームで名古屋音楽大学吹奏楽部のサクソフォン・アンサンブルがお出迎え。葉加瀬太郎の情熱大陸とエトピリカでいい気持ちにした後、おもむろにstudio velocityの二人、栗原健太郎氏と岩月美穂氏から作品の説明を受ける。
 岩月氏から「私たちは植物が生長するように建築することを心がけています」という設計方針が語られた後は、栗原氏から専ら構造の話。柱を直径60mmの中空でない鉄棒とし、梁は高さ125mmのH型鋼。そこにデッキプレートを置き、設備配線用の空間を取った上に断熱・防水を行っている。バス降車場から校舎棟まで東西に通路が走り、それに交差する形で4つの細長いスペースが突き刺さる。そして全体を開放的な渡り廊下が取り囲む。大きな四角形の大屋根の数ヶ所に穴が開いていると言った方がいいかもしれない。
Dsc03094 屋根は高低差4mの敷地に斜めに架かり、地面は微妙なアンジュレーションをつけて校舎棟に向けて上っていく。東西方向のサッシュは平行四辺形の特殊な形状をしている。地面と屋根をつなぐ柱は場所によって長さが違う。元々は高さ4mの擁壁で上下に分けられた敷地なので、微妙な起伏は彼らが作り出したもの。基礎もその起伏に沿ってうねうねと配置された。構造設計は藤尾篤。栗原氏からは、繊細さを表現するための構造計画の困難さを強調していたが、たかが鉄骨造平屋建てでどれだけ大変だったのかよくわからない。デッキプレートによる床剛性の確保について構造上の課題があったのかもしれない。
Dsc03087 その後、栗原氏、岩月氏に率いられ、施設を見学。「言語・情報共育センター」自体はそんなに大きな施設ではないが、校舎棟に移って4階、屋上階(7階相当)と西側の2階デッキから施設全体を俯瞰する。「緑芝に浮かぶ白い屋根 公園のような中庭回廊の建築」と見学用リーフレットに書かれていたとおり、芝生の上に白いスチレンボードで作った模型をそのまま置いたような建築物だ。造形的にはもう少し高さ方向のバリエーションがあった方が自然との一体感が生まれるのではないだろうか。半田市新美南吉記念館やモリコロパーク地球市民交流センターなど愛知県内でも地形と一体となった施設が増えてきたが、それらと比べると地形を受け止めつつ、あくまで施設自体は人工的なフラットさを保っている点が特徴的だ。
 道中で都市計画が専門の小川学長(愛知産業大学)に質問。「開学20周年記念事業の一つとして施設を建設することになった。設計事務所の決定は学長が理事長に進言して決定。当初、中央広場には図書館等の中高層棟を建設する構想もあったが、今後の施設拡幅予定もないことから、有機的なスペースとして本施設を構想した」などの話をしていただいた。
Dsc03103 小1時間見学した後、再び名古屋音楽大学のサクソフォン・アンサンブルの演奏を楽しむ。今度は5曲ほど。自己紹介・楽器紹介も交え、楽しくリラックスした時間を過ごす。言語ラボの中で、英語書籍が並べられたブックラックを背に演奏。僕らは屋根の下、芝生の上、思い思いの場所に緑陰を見つけて演奏を楽しんだ。
 その後、小川学長も参加して「語らう時間」という名のパネルディスカッション。五十嵐先生が「通常の4面だけでなく、上から見たファサードも楽しい」と言われた。まさに「模型の視点」。岩月氏から「私たちはとにかく模型をたくさん作って考えます」という言葉があり、小川学長からは「設計段階で模型を展示して学生らから意見を集めた」という話があった。また、小川学長から「まだこの建築は未完成だと思っています」と発言。「人・組織・社会、多くの壁に遮られている日々の生活の中で、この施設はすべての壁を取り払い、自由な利用を促している。空間がどう使われるかを求めている。施設名の「共育」にはそんな意図もこめている。10月の学園祭が楽しみだ。」 なるほど、ディスカッションを聞いている我々の間をさわやかな風が吹きすぎていった。風、日差し、匂い、暑さ・寒さ。すべてが開いてつながっている。
Dsc03090 次第に話はあいちトリエンナーレの話題に。五十嵐先生から「建築家のアート作品が既にまちに存在することに気付いてほしい。そんな思いで建築系の作品を多く紹介している」。その後は岡崎市内のショッピングセンター「シビコ」で展示されているstudio velocityの作品の話で盛り上がった。トリエンナーレ期間中に一度は見に行こうかな。
 こうして快い雰囲気の中で全プログラムが終わった。「愛知産業大学言語・情報共育センター」は確かにアートとして取り上げるにふさわしい作品だ。風も光も人も時間も、すべてがこの施設の中を通り過ぎていく。それがこの建物にどんな変化を及ぼすのか。可能性を秘めた施設でもある。

●フォトアルバム 「愛知産業大学」

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2013年8月21日 (水)

愛知県立芸術大学で新築なった音楽学部校舎を見学

 愛知県立芸術大学と言えば、吉村順三氏の設計で、数年前に大学が再整備計画を明らかにした時には 地元のマスコミ等でも建替えの是非について取り上げられた。これを機に、DOCOMOMO japanの一つに選定され、保存・活用に関する要望書も提出された。その後、大学当局では有識者等を集めてキャンパスマスタープランが検討され、改修を中心に再整備を進める方向性が示されている。私自身は30年近く前に一度訪れた記憶があるが、その後は長らく訪問していない。先日、音楽学部校舎が新築完成されたのを機に見学をする機会を得た。
Dsc03631 猛暑の中、リニモ「芸大通」駅から歩く。アプローチは街路樹の日陰となっているが、それでもけっこう遠い。ようやく近付くと、正面に管理棟。右手にアーチ状の屋根にカマボコ型の妻面が特徴的な講義棟の外観が見えてくる。芝生や植木はよく手入れをされている。二つの建物とも1階は十字形の柱が支えるピロティ形式で、上階にマッシブな箱が載っている。管理棟に入ると吹抜けロビーにモザイクタイルの壁画とブロンズ像。いかにも芸術大学らしい佇まい。サッシュの枠や天井などが細身の部材で構成された和風な雰囲気で、これが吉村順三好みかなあと思う。
 管理棟の奥、東側に音楽学部の新校舎が建設されている。奥に細長い音楽学部棟が訪問者をやさしく迎え入れるように軽く内側に折れ、左右に翼を伸ばしている。その手前にあるのが右に室内楽ホール、左に演奏棟。室内楽ホールは上部が狭まった縦長の台形で、昔ながらの細い杉板模様の型枠によるコンクリート打ち放しの外壁。1階ホワイエ部分の内壁も同じ仕上げで、しかも壁面の膨らみや補修痕もない。いい仕事をしている。
Dsc03637 室内楽ホールは200人ほどが収容できる小振りの部屋で高い天井が特徴的。左右の壁面にランダムに角材が張られ、音響に配慮している。安い材料を巧く使ったという印象。室内楽ホールには他に小演奏室が1室付属しているが、これも十分音響に配慮した造りになっていた。
 室内楽ホールに対峙して北側に演奏棟。こちらは一転、タイル張りの外装でコントラストをつけている。コンクリート打ちの上部を荒く研ぎ出した床仕上げとしており、これも面白い。ビニルシートなどの仕上げでは重い楽器の搬出入ですぐに傷んでしまうからだそうだ。内部は、オペラ・合唱室と大演奏室2部屋。室内楽ホール同様に音響第一の内装だ。
 この演奏棟からブリッジを渡り、音楽学部棟へ向かう。音楽学部棟は東垂れの斜面地に建っており、ブリッジから入るロビーは2階に当たる。右に練習室、そして左に教授陣の研究室が並ぶ。音響を第一にした小部屋だが、電子音楽、録音スタジオ、オルガンやハープ、コントラバス研究室など各種の楽器に応じた専門室や楽器庫もある。練習室はロビーから使用・非使用の表示を操作できるようになっている。研究室から窓の外を眺めると鬱蒼とした緑の海、その先に愛・地球博記念公園モリコロパークの観覧車が見える。絶好のロケーションだ。
Dsc03635 音楽学部棟を地階まで降りると、ピロティ形式の円柱が並ぶ屋外ステージになっている。ロビー部分を上部まで延びる円柱がきれいだ。ここから東側を見ると足元に調整池と工事中の雨水等を下流まで送る排水管が見える。敷地東側を流れる堀越川に生息する貴重種「カワモズク」を保護するための対策だ。また絶滅危惧種であるギフチョウが産卵するというスズカカンアオイの移植や域外から園芸種を持ち込まないなど、環境保護に最大限配慮を行ったそうだ。
 今回の音楽校舎棟は、これまで学長公舎があった斜面地に建設されたとのことだが、地形を生かし周囲に溶け込んだ配置としている。また、吉村順三設計のデザイン的特徴である部材の細分化とボリュームのコントラストを取り入れ、既存棟ともよく調和している。続いて、既存の講義棟を見学した。
Dsc03644 講義棟は3階部分の長大でマッシブな講義室が圧倒的なデザインをリードしている。長さは100mほどもあるだろうか、ロールケーキのような3階部分の妻面には壁画、平入りの側面は細いルーバーが並ぶ。ピロティ形式の1階の柱も十字形にして見え掛りを細くし、マッシブな形態と対照的に繊細な表現となっている。所々に打ち放しの階段を迎えてぶら下がる必要室がデザインに複雑さを加え、全体としてよくバランスが取れている。
 しかし、打ち放しの柱を見ると、コンクリートが剥がれ、鉄筋がむき出しになっている所も。建替え反対派のブログを見ると管理が不十分なためと糾弾しているが、そもそも当時の施工や設計に無理があったのではないか。最近、天井のコンクリート片が落ちたというデザイン棟のアトリエ内も見せてもらったが、PC部材の屋根材同士をつなぐ部材の端部が欠け落ちたもので、コンクリートが回りきらない端部は欠けても当然と言えるデザインだった。もちろんその後、寒冷紗張りの上補修されている。
Dsc03645 できればその他の建物も見学したかったが、今回のメインは音楽学部新校舎ということで後は歩きながら外観を眺めることしかできなかった。DOCOMOMO japanの要望書に付属した見解書を見ると、地形を生かした建物群、コンクリート打ち放しの外壁と情操教育面での貢献が挙げられている。だが、コンクリート打ち放しについては今回建設された新校舎の方がはるかにきれいな仕上がりになっているし、コンクリートの剥落など既存棟には問題も多く見られる。当時の記録としては意味があるかもしれないが、品質的に問題のある建物をそのまま利用することについてはどう考えるのだろうか。
 それよりは吉村順三の和風なデザインを評価してほしかった。地形を生かした配置や建物の形態は確かに評価に値する。しかし、音楽・美術教育という視点からは何が何でも既存建物を利用することに教育上効果があるわけではあるまい。音響効果の高い音楽学部校舎の新築は音楽教育関係者には大歓迎なことだろう。一方、美術教育という面ではどうだろう。絵画や彫刻などは建物の新旧に左右されるとは思えない。だが、耐震性や雨漏りなど作品を損傷する可能性は最大限排除する必要がある。
Dsc03634 今回、大学のキャンパスマスタープランを見ると、改修が中心となった提案となっている。たぶん県の厳しい財政状況を反映した内容なのだろうと思うが、個人的には講義棟など特徴的な建物棟は保存しつつ、配置とデザインを重視して、少しずつ建替えを進めていくことが適当ではないかと思った。建設当時の設計関係者を審査員に迎えて、設計コンペ方式で少しずつ置き換えていくということができれば、同種のまとまりある建物群を利用しつつ生かしていく先導的取り組みになるのではないか。サグラダ・ファミリアやイギリスのコミュニティ・アーキテクトのように、半永久的に改修と更新が続くイメージ。ある日突然発見される遺跡とは違い、一定のレベルで整備された街区や建築物群は、完成後も常に一つのコンセプトの下で、維持・改修と更新・整備を続けていく仕組みが求められるのではないか。その意味でも実質設計を担当したという奥村昭雄氏が再整備計画検討の途中で席を立ったということは非常に残念だった。どんな理由があったんだろうか。

●マイフォト 「愛知県立芸術大学」

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2013年2月 9日 (土)

せんだいメディアテーク

Dsc02626 仙台へ行ったついでに一度は見てみたかった「せんだいメディアテーク」に寄ってきた。仙台駅から地下鉄で2駅。県庁や市役所などもある勾当台公園駅で降りて、定禅寺通りを歩くこと5分。通りに面して北側に大きな太陽模様の外壁が目立つ建物がある。宮城県民会館。宮城県らしくネーミングライツに取組み、今は「東京エレクトロンホール宮城」と呼ぶ。設計は山下寿郎で1964年の完成。曲線で受ける打ち放しのバルコニーなど、昭和の時代を髣髴とさせるデザインだ。
 県民会館を通り過ぎ、ガソリンスタンドの向こう側にガラス張りの建物が見えてくる。「せんだいメディアテーク」だ。想像していたよりも小柄で周辺に溶け込んでいる。通りの反対側から見ると、けやき並木に隠れてよく見えないくらいだ。入口の表示もおとなしい。ガラス越しに特徴的なチューブ状の柱が並ぶ脇にさりげなくエントランスの風除室が設置されている。
 入って右手にショップ、その奥にカフェがある。通り沿いにはベンチが設えられ、ガラス越しに定禅寺通りを見ながら、多くの人が陽だまりに憩っている。案内カウンターの奥にチューブ柱に囲まれたエレベーターとエスカレーターがある。まずはエスカレーターで2階へ。踊り場でいったん折り返してエスカレーターを乗り継ぎ、2階ライブラリーへ向かう。
Dsc02614 低くうねる腰壁に囲まれた中に児童書コーナーがあり、その外側は新聞雑誌や映像音響ライブラリー、そして通り沿いには被災復旧パネルが展示されていた。明るい中に閲覧用ソファが多く配せられている。ただし、リノリウムの床は照明や外光を反射して室内に明るさをもたらしているが、歩くとキュッキュッという音が気になる。
 エスカレーターで3階に上がる。3階ライブラリーのエスカレーター周りは雑誌のバックナンバーやテーマ図書コーナーとなっており、郷土誌や被災・復興関係の図書が並べられていた。北側壁沿いに図書カウンターがあって、貸出手続きの来場者が並んでいる。またカウンター横の階段を上がると、中2階形式の4階があって、参考資料等が並べられている。一般図書は3階フロアの中央に書架があるが、思ったほど広くない。そもそもせんだいメディアテーク自体が私が想像していた以上にこじんまりとした施設だ。そして通りに面して閲覧用ベンチ。
 南東角の柱は階段になっていて昇降ができる。5階・6階のギャラリーが展示入替作業中で立ち入ることができなかったので、階段を登りながら見学。ギャラリーは基本的にフロアがあるのみだが、階段の柱や梁に書かれた箴言が面白い。「ところが、この階段のみが、新しいもの決定的なもの―つまり、これらの建築物の与える空間感覚のことであるが―を十全に認識させてくれるのだ。Benjamin 」うーん? 階段ですら、意味のある空間への意図を忍ばせる。
Dsc02619 そして7階スタジオフロアーには半透明のうねる壁に囲まれて会議室やスタジオシアター、管理部門等が仕込まれ、周囲は雰囲気の違ういくつものゾーンに分かれている。階段室から出たコーナーには黒板とチョークのイメージのオープンスクエア「考えるテーブル」のコーナーがあった。その他のコーナーも特にイベントは開催されておらず、テーブルで作業する若者が散見される程度だった。
 帰りはエレベーターで降りる。ちなみにエスカレーター・エレベーター周りの各階入り口付近に置かれた各階案内は立体模型になっていて面白い。ちょうどお昼時でカフェで昼食をとる。ランチはカウンターで注文すると後はテーブルまで運んでくれる。明るくファッショナブルな雰囲気でいつまでもいたい気分。平日は並ぶ人もなくちょうどいい規模だが、休日はどうなってしまうのか、施設全体の規模も含めて少し気になった。
 案内カウンターに「ようこそ杜王町へ」と書かれたパンフレットが置かれていた。「ジョジョの奇妙な冒険」の作者・荒木飛呂彦は仙台市出身。仙台は「S市杜王町」のモデルなのだそうだ。作中でモデルにした施設等を案内するガイドマップが配布されていた。やるな、仙台市。
Dsc02623 せんだいメディアテークも東日本大震災で被災し、しばらく閉館していた。ちょうど3月11日は、卒業設計日本一決定戦「せんだいデザインリーグ2011」の最終日だった。地震のため天井が落下し、模型などの展示物が破損する被害が生じた。このことは建築系学生の間ではけっこう話題になったようだ。しかし私が来訪したこの日には何事もなかったかのように多くの来場者を集め、カウンターには今年のせんだいデザインリーグ2013のチラシが置かれていた。今年もまた盛大に開催されるだろう。素直にそのことを喜びたい。明るく希望に満ちた建物はこれからの仙台に希望を照らしている。

●マイフォト 「せんだいメディアテーク」

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2012年7月22日 (日)

東京丸の内近辺散策

 東京での仕事帰りに東京駅まで戻ってから、せっかく来たのでと丸の内近辺を散策した。地下鉄「丸の内」駅から新丸ビルの地下に移動。エスカレーターで地上階に上がる。「新丸ビルも1階基壇部分に少しは昔のイメージを出そうとしているみたいですが」と 後述する初老の男性に水を向けると、「全く違う」とにべもない。屋内デザインには大正・昭和レトロの雰囲気を出そうとしているが、外観デザインはかなりごつい。
Nec_0011 屋外に出ると正面に東京駅。3階部分を増築し、創建当時の外観に戻す保存・復原工事が進められているが、先ごろ一部仮囲いが撤去され、その外観が姿を現した。工事前に比べればかなり堂々とした感じで、一回り大きく見える。後方にガラス張りの超高層ビルが聳えているのが目につく。不思議な景観だ。
 東京駅正面から皇居に向かって伸びる行幸通りも2010年に再整備された。イチョウ並木が復活し、保水性タイルで舗装。街灯もポツポツと並んでいるが、中央の空間が広過ぎて空虚な感じ。反原発デモもどうせ首相の耳には届かないのだから、この広場でやればいいのに、なんて思った。帰りに道路下の行幸地下ギャラリーを歩いたが、やはり閑散として寂しい。
Nec_0010 東京駅の右側に白いタイル張りに大きな壁時計のビルが目立つ。東京中央郵便局だ。かつての局舎がファサード保存され、上部にガラス張りのJPタワーが聳えている。タワーの外面は折り鶴を模したと言われる微妙な屈折があり、やさしい印象を与える。
 実はオープン間もないとは露知らず、引き寄せられるままに局内に入っていった。ダークオークの柱型など内観を眺めていたら、案内の男性が「何か御用ですか」と話しかけてきて、オープン3日目と知った次第。東側に東京駅を見ながら回り込むと、屋外階段が突き出した外観が面白い。
 そのままJRの高架線路沿いに有楽町駅に向けて歩く。ガード下店舗の猥雑な感じがいい。右側は東京ビルTOKIA。2005年に竣工。三菱電機やJPモルガン等が入居している。正面に見えるのが東京国際フォーラム。旧東京都庁跡に1997年に建築されたが、竣工当時に訪れたことがあるが、その後は新幹線から眺めるだけで施設内を歩くのは久し振り。久し振りに歩いてみると、中庭の緑がしっかり育って気持ちのいい緑陰空間になっている。線路沿いのガラス棟が印象的だが、反対側のスクエアな4つのホールも美しい。大小さまざまな大きさの違いと抜けた通路が面白い空間を作っている。ラファエル・ヴィニオリ設計。今回最も気に入った場所の一つだ。
Nec_0018 有楽町駅まで歩いて、そこから引き返すことにする。DNタワー21の下部、農林中金有楽町ビルの再現ファサードを観賞。ただしこれはイメージ再現で昔のままではない。丸の内仲通りを通って東京駅方面に向かう。両側に国際ビル(1966年竣工)、新国際ビル(1965年)、富士ビル(1962年)、新東京ビル(1963年)。新国際ビルと新東京ビルの間から東京フォーラムの四角いガラス面が覗く。国際ビルヂングという箱文字が三菱地所所有であることを示している。いずれも旧耐震の時代の建物だが、耐震性はどうなっているのだろうか。通りに面して超高級ブランドのテナントが多く並んでいる。
 都道406号馬場先通りの大きな交差点に出ると、右に丸の内パークビル・三菱一号館。左に丸の内マイプラザ・明治生命館。通りを渡ってまず左の明治生命館へ。通り側の入口を入って守衛さんに「一般公開しているところはどこですか」と聞いたら、第一生命館のマッカーサー記念室の期間限定一般公開を紹介された。時間がないというので急いでまたDNタワー21まで戻ったが、整理券は既に13時前に配布が終わり、見られなかったという顛末もあったが、第一生命館の内部を楽しめたのはよかった。
Nec_0026 それでも再び丸の内仲通りを歩かされるという破目になって、馬場先通りの交差点を今度は右側、丸の内パークビル・三菱一号館へ向かう。 三菱一号館は1894(明治27)年ジョサイア・コンドル設計の赤レンガの建物で1968年に解体工事が強行されたが、三菱地所の丸の内再構築の一環として、2010年に丸の内パークビルが建設され、その一角に三菱一号館美術館としてレプリカ再建された。交差点に面して特徴的な丸屋根のアネックス棟のゲートをくぐると、一号館広場に入る。赤レンガの外壁を眺めながら、緑の多い憩い空間で多くの人がベンチに座っていたが、やや狭い感じ。
 この再開発により1928(昭和3)年竣工の八重洲ビルヂングが解体され、東側外壁に飴色の小松石が粗積みされた基壇部が再現されているが、これもレプリカ(一部再利用)である。
Nec_0027 丸の内パークビルのオフィスフロアを北に抜けて、丸の内マイプラザを北側から入る。丸の内マイプラザは1934(昭和9)年の建設された明治生命館(設計:岡田信一郎)を取り込む形で2004年に建設された複合商業ビル。入口を抜けると屋内に明治生命館の外観が見えるアトリウムがあり、そのまま明治生命館のラウンジに入っていく。重厚なホールに応接ソファが並べられ、静謐で快適な空間。一号館広場の明るさと自然もいいが、この内省的な静けさもお気に入りだ。いつまでもソファに抱かれていたい気になる。あいにく平日は資料・展示室は一般公開されていない。しばしのんびりしてからまた東京駅へ向かう。
 丸の内仲通りは緑が多く、夏でも涼しく気持ちいい。丸ビルまで戻ってもう一度東京中央郵便局前の交差点に向かうと、オープンしたばかりの建物を感慨深げに眺める初老の男性がいる。「昔からこんなに白かったんですか?」と声をかけると、「いや、前はもっとくすんだ感じだった」と応じてくれた。かつて八重洲ビルヂング内にあった金融機関で働き、毎日東京駅からこの建物の前を歩いて通ったと言う。「だいぶ雰囲気が変わってしまった」と言うが、東京駅の復原と東京中央郵便局の再生はうれしそうだった。
 多くの人が働き、また上京する者たちを迎えてきた東京駅と丸の内地区。ファサード保存とレプリカ保存を行うことで、ある程度景観に配慮した街区整備が進められてきた。そして東京駅の復原工事で一つの区切りが付く。日本経済がまだ命脈を保っている間にある程度の完成を見ることになったことは喜ぶべきことかもしれない。

●フォトアルバム「東京丸の内近辺散策」


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2012年7月20日 (金)

茅野市の藤森作品と茅野市民館

 このところ夏には避暑に車山高原によく行く。茅野市神長官守矢史料館へは2005年に訪れたが、その時には完成していたはずの高過庵には寄らなかった。茅野市民館は2007年に行ったが、その時も娘はいなかった。一昨年、娘と一緒に車山高原に行った時は、安藤忠雄の小海高原美術館美術館に寄ったので、今年は茅野市内の藤森作品と茅野市民館に寄ることにした。
Dsc01920 朝9時過ぎに家を出て、11時半位に 茅野市神長官守矢史料館に到着。受付の担当者が親切に解説してくれる。建物はRC造2階建てで、屋根はフランス産の天然スレート、地元産の鉄平石とサワラ板葺。内壁の土壁はRC造にモルタル塗の上に藁を混ぜた土壁を塗ったもの。2階へ通じる可動式梯子も操作してくれた。階段手摺は特製鋳物。正面に伸びる2本のイチイの柱に打ちつけられている鳥を模した装飾は「薙鎌(なぎかま)」と呼ばれる古代の武器。夜間は装飾の明りが洩れる照明も面白い。
 ロビーには御頭祭の様子を展示。鹿の頭が多く並び、生贄の御柱、お供えの供物は鹿肉の脳味噌あえ。げっ! 今も諏訪神社上社で毎春執り行われるが、その際には75頭の鹿が集められる。と必ず1頭は耳に切れ込みがある。ってホンマかいな。 なんてことを説明してくれる。親切で楽しい。
Dsc01936 史料館を左手に進み。墓地を抜けて農道に出ると、その先に異様な浮遊物体が。これが「空飛ぶ泥船」。これは2010年、茅野市美術館の藤森照信氏の展覧会が行われた際に、一般市民とともにワークショップで作成されたもの。昨年、この場所に移設された。両側2本ずつの柱から吊り下げられ土で塗り固められた物体は茶室。まるで「ハウルの動く城」。どんぐりが空を飛んでいる。ちゃんと中に入れるようにじり口のような入口があり、地上脇には梯子も添えられている。ただし厳重に鍵で固定されている。あの中空から、揺られながら茅野の街と車山高原の山々を眺めるのは気持ちいいだろうなあ。とても楽しい建物である。
Dsc01940_2 そのさらに奥に聳えるのは「高過庵」。こちらは「借りぐらしのアリエッティ」と娘が言うが、観たことがないのでよくわからない。おじさん的にはスターウォーズの帝国軍の二足歩行兵器(「AT-ST」というらしい)のように見える。自然のクリの木の上に作られたツリーハウスで、床下からにじり入る茶室。これも室内に入ると気持ちよさそう。
 藤森作品を満喫して、次は茅野市民館へ。娘は着くなりカメラ片手に飛び出していった。設計は古谷誠章。市民との共同ワークショップを重ねて設計した。茅野駅から連続して小さな図書館とホール、美術館等から成る。ひと巡りした後にレストランカフェ・アンダンテで食事。中庭に面し、気持ちのいい席で美味しい昼食。食事後ももう一度歩き回って建物を観賞。現代的で素直なデザイン。奇を衒わず、センスあふれる上質の建物だ。
 しばしのんびりしてから、その後、車山高原へ。山頂は涼しく気持ちよかった。建物も楽しく嬉しい1日だった。

Dsc01966●フォトアルバム「茅野市の藤森作品と茅野市民館」

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2012年4月15日 (日)

東京スカイツリー

Dsc01782 上京したついでに東京スカイツリーを見てきた。2月29日に完成したけど、オープンは5月22日。それまでは見上げるだけ。友人に連れられて地下鉄半蔵門線で押上駅まで。改札を出ると真上にスカイツリー。高過ぎてただ見上げるばかり。カメラを向けるもなかなか全景が入らない。隣に立つイーストタワーも地上31階建て、最高高さ158mと十分高いが、スカイツリーはその4倍以上。だが下から見上げると、その違いがよくわからない。
 南に接する水路、北十間川に沿って、西に向かって歩いていく。この川もスカイツリーの整備と合わせてすっかりきれいに整備されている。水面近くに親水テラスが設けられ、船着場もできた。ところどころベンチも置かれ、散策する人々、寛ぐ人々。スカイツリーに直面するベンチから上を仰いで写真をパチリ。鉄骨の複雑な骨組みが上まで伸びて面白い景観。
Dsc01786 スカイツリーを過ぎると西街区。東京ソラマチというのは東京スカイツリータウンの中野商業施設の名前で、東街区も含めている。西街区は地上7階だが、水族館などが入る。東街区にはプラネタリウム。また完成したら建物内部を訪問しよう。
 そのまま親水デッキを突き当たりまで歩いて、業平橋からスカイツリーを振り返る。大きい。東京ソラマチの階段状の外観も面白い。東武伊勢崎線「業平橋」駅は、近日、「東京スカイツリー前」駅に変わる予定だ。墨田公園に至る小梅牛島通りをスカイツリーを振り返りつつ歩いていく。ネットで見ると、この道路の名称は昨年4月に決定したばかり。それまではどういう名前で呼ばれていたのか? これもスカイツリー効果の一つなんだろう。
 この通りを公園突き当たりまで歩いて振り返る。正面に東京スカイツリー。ただし無数の電線を纏った姿。それも一興。墨田公園内からスカイツリーがきれいに見える場所を探す。散り際の桜越しに眺めるスカイツリー。でもあいにくの曇天で桜の花びらと空が同じ色になってイマイチ映えない。晴れたらもっときれいかも。
Dsc01794 公園を抜けて墨田区役所前に架かる橋からまた見上げる。東武鉄道の電車がやってきて、川に浮かぶ船と電車とスカイツリー。これもまた面白い。この後、リバーピア吾妻橋やアサヒビールの足元を通って吾妻橋を渡る。西詰めで振り返ると、左から墨田区役所、スカイツリー、金色に輝くアサヒビール本社ビル、觔斗雲 を載せた吾妻橋ホールとリバーピア吾妻橋が並んでいい感じ。多くの人がここから写真を撮っていた。もちろん僕もハイ、パチリ。
 オープンしてしばらくすれば当たり前の景観になってしまうんだろうけど、facebookで投稿したらけっこう反応があったのでまだまだ地方の人間にはニュースバリューがあるようだ。でも完成したらやはり館内を見学して回りたい。そのときはまたレポートするのかな。

●フォトアルバム「東京スカイツリー」・・・他の画像はこちらにあります。

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2010年11月29日 (月)

名古屋城本丸御殿の復元工事

Dsc01160  グランパスが優勝した。名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)がことさら輝いて見える。

 名古屋城は慶長15(1610)年、徳川家康がいわゆる「清洲越」と言われる清洲城からの遷府を決定し、加藤清正・福島正則らに命じて普請、1612年に完成した平城である。

 1615年には本丸御殿も完成し、その後、徳川家から明治後には陸軍省、宮内省、名古屋市と所有者が移管しつつ、その偉容を誇ってきた。しかし昭和20(1945)514日、名古屋を襲った大空襲とともに被弾・炎上。金の鯱もろとも灰燼に帰した。

 その後、天守閣は市政70周年事業の一環として昭和34(1959)年に鉄骨鉄筋コンクリート造により再建されたが、本丸御殿はそのままとなっていた。

 しかし平成に入った頃から名古屋財界等も巻き込んだ復元運動が繰り広げられた結果、20091月、いよいよ復元に向けて工事が着手された。復元見直しを公約にした河村市長の当選により、一時、復元工事の前途が危惧されたが、20108月復元継続を発表。現在、平成25(2013)年の第1期工事が鋭意進められており、全体としては第3期まで、平成30(2018)年の完成・公開をめざしている。

 今回、愛知建築士会主催により見学会が開催されたので参加した。名古屋市の担当職員及び工事請負業者の現場担当者から復元までの経緯や現場の苦労などを聴講。その後、素屋根下で進められている復元工事現場と城内の一角に設置された木材加工場・原寸場を見学。これらは一般入場者にも曜日等を限って公開されている。

 本丸御殿復元を求める運動は、元上司が積極的に関わっていたこともあり、かなり初期から知ってはいたが、今回説明を聞いて、復元したいと思う気持ちがよく理解できた。

 一つは、本丸御殿の格式の高さ。現在、本丸御殿が現存するのは、高知城、川越城など数少ない。熊本城は2008年に復元完成したが、名古屋城本丸御殿は規模・格式ともにこれらの上を行き、現存する御殿では二条城と同程度のレベルだという。

Dsc01165_2  そして復元機運が盛り上がったもう一つの理由が、建物が終戦前まで残っていたことから、文献や古写真、実測図などが数多く残され、史実に忠実な復元が可能であったこと。例えば、二条城を越えるレベルの御殿は江戸城の本丸御殿は大政奉還の直前1863年に火災で焼失、復元に足る史料は残っておらず、名古屋城のような復元は不可能だという。

 レベルの高さ、そしてそれが史料的に可能な唯一無二な御殿であること、さらに宮大工などの伝統的技能者の減少傾向が拍車をかけ、今こそ復元工事をという機運が盛り上がったと言える。

 さて、史料が残されているとは言え、復元工事である。通常の文化財の改修工事であれば文化庁が担当するが、この工事は名古屋市が施主である。文化庁の外郭団体である文化財建造物保存技術協会に実施設計を委託、建築基準法第3条適用除外規定を適用し、史料に基づいた材料・工法により復元工事をしている。

 木材は木曽ヒノキ、屋根は柿葺き、金物は用いず、仕口等は手刻みで加工し、組み上げていく。現場担当者が言うには、文化財工事であれば数年前から伐採・乾燥された木材が支給されるのが通常だが、今回の工事は請負業者が調達する必要があったが、当時のような長径木の木曽ヒノキを入手することは非常に困難だったと言う。

 伝統的工法という面では、着工後、名古屋工業大学の先生から、「背割り」の実施と、柱と基礎の固定方法について疑義が出されている。「名古屋城本丸御殿ホームページ:本丸御殿復元工事に関する報道について」に、この問題についての当局の見解が示されているが、材木が支給材でなく、工期が予め定められていたという点がその背景にある。よって、この見解は極めて妥当なものと思われた。もっとも今回はその当局側からの説明しか聞いていないので、反論もあるかもしれない。

Dsc01166_2  柱と基礎との固定方法についても、江戸時代にはクレーンはなかっただろ、というのは言いがかりのような気がしてならない。当時は石場立てだったわけだから、金物で補強するよりは、柱芯にボルトを仕込む方が適当だと思う。

 また、特に問題になっていないようだが、柿葺きの材料は本来サワラであったが、材料が集まらないため、今回、スギに変更したと言う。耐久性では多分サワラの方が上だと思うが、定期的に補修・葺替えをするのであればどちらでも支障ないということか。ただし、補修・葺替え経費が将来的に負担になる恐れはある。本丸御殿全体の建設後の維持管理費はどう考えているのか、現時点であまり詳らかではないようだが。

 本丸御殿自体は享保13(1728)年に、維持管理等の都合で柿葺きから瓦葺きに変更している。この点について市担当者は「御殿がよく利用されていた創建当時に戻す」と復元の意義を強調されていた。それはよく理解できるが、そのうちに維持管理の都合で瓦葺きに変更される可能性もなきにしもあらず。もっともそういう順を踏むこと自体が歴史により忠実という言い方もできる。

Dsc01168  さて工事現場であるが、まだ玄関棟の屋根組みが終わったところである。それにしては非常に大きなもので、第1期工事分だけでも、この数倍の規模になる。全体が完成したらその規模の壮大さはどれほどのものだろう。小屋組みの横に土壁用の泥舟が置いてあった。案内者に聞いたところ、土は各務原や関のものを使用。ワラを混ぜて7ヶ月ほども練り込み、十分粘りが出た土を使用しているとのこと。土にもこだわっている、ということ。

 木材加工場や原寸場も見た。確かに木材の径は大きい。また手刻みで加工している点も興味深いが、それ以外は見慣れた木材加工場と大きな違いはない。しかしこうした状況が常に公開されているというのは意義がある。もっとも私たち以外の見学者は皆無だったが・・・。

 名古屋城の入場料は1500円だが、1年有効の年間パスポートは2000円で購入できる。年間パスポートを買ったらと同僚には言われたが、今回は遠慮した。全部が完成するまでにはまだだいぶ時間がかかる。年に1回位、定期的に工事の進捗状況を見に行くのも面白いかもしれない。いずれにしても完成すれば「どえりぁ~」建物になることは間違いない。河村市長好みだろうなあと思う。

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2010年8月22日 (日)

小海町高原美術館

 814日。お盆の週末の真っ最中。今だ続く高速道路1000円の割引制度を活用し、中央道長坂ICから国道141号を北上する。松原湖入口を左折して、松原湖畔を通り過ぎたところに小海高原美術館はあった。

Dsc01005  地上1階地下1階の建物は、駐車場から見ると、低く長いコンクリート塀があり、真ん中に入口がある。灰色の無機質なコンクリート塀ながら、格子状のスリットや植栽が壁面を飾り、また塀自体も高すぎず、意外なほど威圧感がない。

 中央に「小海高原美術館」という箱文字が置かれ、衝立の左右に開かれた入口から中にはいると、2mほど隔てた向こう側に同じような灰色のコンクリート壁。左右対称に掲示ケースが並び、右の突き当たりに美術館、左の突き当たりにレストランの入口が見える。

 まずは右側の美術館入口に向かう。自動ドアをくぐり、前室を左に入ると、エントランス・ロビーが広がる。右にカウンター。こぢんまりしたロビーに置かれた机の上に絵葉書などの美術グッズが置かれ、その先は吹き抜けとなって、外から明るい光と緑が目に飛び込んでくる。

Dsc01010  ちょうど平山郁夫展をやっており、受付の女性に「館内は写真撮影禁止です」と注意されたので、画像はなし。ロビー奥の細いながらも明るいスロープのガラス面が向かうべき道筋を示す。緑の牧草のその先はやはりコンクリート打放しの塀が左右から視線をさえぎり、塀と塀の間には高木のアイストップ。塀の上からも風に揺れる林の木々の緑が見える。光に誘われて、外部の緑を気持ちよく感じながら、スロープを下っていく。途中で折り返しつつ、重力に身をまかせていつしか地下の展示室に引き込まれている。

 平山作品はこれはこれでまた素晴らしい。青の深さ、赤の深さ、陰の深さに引き込まれる。

 19977月末開館なので、もう13年が経つが、一向に時間を感じさせない、安藤忠雄らしい作品。

 展示室を抜けると地下ラウンジがやさしく迎える。23組のイスとテーブルが置かれ、薄型ディスプレイがビデオを流す。この日は平山画伯愛用の品々が一画に展示されていた。

Dsc01019  出口へはスロープを戻るか、エレベータに乗る。スロープの途中に展示室の入口があり、展示室のフロアが次第に下る構造になっていたことがわかる。気持ちよく下りつつ作品を鑑賞する仕掛け。

 美術館を離れて、今度はエントランス通路向かいのレストラン「花豆」に向かう。地元で採れたてのふんだんの野菜を包んで食べるトルティーヤが美味しい。席に着き外を眺めると、展望台が見える。薄い屋根、薄い壁で囲まれた3段棚のような建物。レストランに向いた1面以外は全て無機質なコンクリート打放し壁に包まれている。

 レストランを出て外部を回って展望台にたどり着く。階段と踊り場しかない展望台。折り返しつつ3層を駆け上がると最上階。しかしここから見る美術館の外観は格別。

Dsc01026  細長いコンクリートの箱の手前に、円形に張り出す展示室。屋上は牧草に覆われ、また展望台も美術館本館も牧草の中に置かれている。背後には豊かな森と八ヶ岳の峯々。レストランの上に高くそびえる2本の排気筒が唯一のシンボリックなモニュメント。といってもただ高く細くそびえるばかりだが。

 今回の旅行では、続いて茅野の藤森照信作品を廻るつもりだったが、諏訪湖の花火大会のせいでこれだけしか見ることができなかった。しかしその不足を補って余りある安藤作品。気持ちのいい建物を見せてもらった。

●参考
フォトアルバム 「小海町高原美術館」

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2010年3月28日 (日)

中京競馬場の見納め 改修工事に

6686 中京競馬場が3月28日の高松宮記念を最後に、2年間の改修工事に入る。中京競馬場を運営する日本中央競馬会に土地・建物を貸す(株)名古屋競馬で働く先輩の好意により、休止前の競馬場を見学させていただいた。
 日本中央競馬会(JRA)は、日本中央競馬会法に基づく特殊法人で、「競馬の健全な発展を図って馬の改良増殖その他畜産の振興に寄与するため」に設立されている。JRAが主催する競馬場は全国に10カ所あるが、必ずしもJRAが自らこれらの施設を所有し運営しているわけではないようだ。
 中京競馬場は昭和25年に競馬法改正により中京地区に国営競馬場が設置されることになったことを受けて、愛知県や地元金融機関等が出資して昭和27年に設立された株式会社名古屋競馬が所有している。農水省(後に日本中央競馬会)と施設賃貸借契約を締結し、昭和28年から競馬興行が行われている。
 現在のスタンドは昭和45年に建築され、その後前面がガラス張りとなった新スタンドが増設されているが、メインのスタンド棟は新耐震以前の建築で耐震性に劣ることから、今回全面的に建て替えるとともに、馬場も全面改造することとなった。
 私たちが訪問したのは最終日の前日27日だが、久し振りに朝からよく晴れ上がり、場内にも多くのファンが詰めかけていた。
6682 最初にパドックを見せてもらう。テレビで見る限りはいったいどこにあるのかわからなかったが、スタンドの裏側に小さな楕円形の広場があり、そこを次のレース出走予定の馬たちが並んで回る。ファンが群がり馬の様子を見定める。意外に簡素な造り。競馬場とは地下通路で結ばれている。
 スタンド1階には馬券売場や飲食等の各種サービス施設が整備されている。マークシートを塗りつぶしてお金とともに投票機に入れると馬券が発行される。単勝・複勝以外に枠連・馬連・馬単・ワイド・3連複・3連単とあって、何がどうなのかさっぱりわからない。説明の女性の言われるまま、適当に500円分購入するが、もとより当たるわけもない。ちなみに同行者6人のうち、当たったのは1名のみ。還元率75%というが、やはりランダムに購入しては当たるものも当たらないという点は宝くじとは違う。
 スタジオ棟の1階を馬場に向けて通り過ぎると気持ちのいい芝生広場が広がる。シートを広げおにぎりを食べる家族連れも多い。コースに沿って歩くと地下道があり、くぐるとコース中央の子供広場に出る。
 「動物園に行こうか」と行って子供を連れ出し、競馬場に行くというのは昔からよく聞く冗談だが、子供広場には馬車や遊具が数多く取り揃えられ、順番待ちの子どもたちの列ができている。もっとも最大でも5分待ち程度。入場料200円を払えばすべて無料なので家族連れにはいいレジャーかもしれない。ただしおとうさんが競馬で負けなければだが。
 スタンド棟の隅に関係者用の入口があり、そこから関係者用スタンドへ案内してもらう。とは言っても、同じフロアに一般客用の観戦席があり、別室になっているだけのことである。観戦席はS・A・B・Cの各指定席になっており、屋内側で馬券投票ができ、レースは屋外席で観戦できるようになっている。1,000〜2,800円。1日ゆっくり楽しむのなら高くないと思うのだろうか。既にS・A席は売り切れになっていた。
6680 来客数は最近若干減少傾向とのことだが、平均1日25,000人程度は入場すると言う。「1人1万円として2億5千万円ですね」と言ったら、いやもっと多いと言う。75%は払い戻すわけだから、平均すればその数倍の売り上げがあるということか。今はネットや携帯でも馬券購入ができるから、それらを足せば売り上げはもっと多い。ネットで見ると、日本中央競馬会の年間馬券売り上げ収入は、2兆7600億円以上だが、年々減少しているようだ。
 野球やサッカーの観客1〜4万人程度と較べても遜色ない入場者数で、競馬が大衆レジャーとしてしっかりした地位を占めていることがわかる。場内を見て回っても、場末的な印象はそれほどない。JRAの経営方針を見ても「健全な娯楽」への意志を感じるが、毎週入り浸るというのもどういうもんか。それを言ったら野球ファンも同じかもしれないが。
 中京競馬ファンは、今後2年間は競馬の生観戦ができないのだが、その間、彼らは何を楽しみに週末を送るのか。そして新装なった競馬場を彼らはどんな思いで迎えるのか。戻ってくるのか。そして何より新競馬場はどんな姿を見せるのか。2年後、見学できる機会があればぜひ見に行きたいと思う。

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2009年9月11日 (金)

松山の建物を巡る-道後温泉本館・坂の上の雲ミュージアム・萬翠荘ほか

 愛媛県には大学時代に友人と尾道から因島や大三島などの島をフェリーで渡り、新居浜から松山を経て宇和島まで旅行したことがある。しまなみ海道が開通するはるか以前のことで、宇和島の小さな町並と城跡、また外泊の石垣の景観だけを妙に覚えているが、道後温泉や内子についてはほとんど記憶にない。行ったはずだが、温泉に入ったのだったか、町並を歩いたのだったか。その後、内子は重要伝統的建造物群保存地区に指定され、街なみ環境整備事業地区としても名前を聞くことが多くあった。今一度訪れたい町として、常に私の心の中にリストアップされてきたうちの一つだ。
5863 さて、早朝の飛行機に乗り、松山空港には9時前に到着した。ちょうど道後温泉行きのバスが止まっており、それに飛び乗って、まずは最初に道後温泉に行くことになった。
 JR松山駅から市内を巡ってバスは市電道後温泉駅に着いた。景観に配慮した木造の懐かしい建物である。その向かい側には道後放生園(足湯)があり、屋根に白鷺の飾りが付く時計塔の下で、数人の市民が足をつけて語り合っていた。右側に緑の丘を感じつつ広い道を歩くと、眼前に道後温泉本館が見えてくる。神の湯(400円)と霊の湯(1200円)のどちらにしようかと迷いつつ、まずは本館の周りをぐるっと巡る。裏手に皇族用の入口があり、銅葺きの屋根が複雑に幾重にも重ねられ建物全体を蔽っている。道路向かいの斜路の上から全体を眺めた後、又新殿も見学できる霊の湯に決定する。霊の湯自体は小さなお風呂で朝からの疲れを取り、明日までの旅程を思い起こす。いつまでも汗がわき出る身体を十分涼めて、又新殿の案内をしてもらう。数年前、皇太子ご夫妻が来られたというので、入浴したのかと問うたら、見学しただけという。なんだ、僕らと一緒じゃないか。湯玉や白鷺の意匠が美しい。
5873 道後温泉本館を出て道後商店街を通り、市電駅に戻る。松山での最大の目当ては、数年前にオープンした「坂の上の雲ミュージアム」に行くことである。設計は安藤忠雄。大街道の電停を降りて松山地裁の手前の道を入ると、RC造打放しと大きなガラス面が組み合わされ、斜めに鋭い造形を描く建物が右手に見えてくる。道路が狭くて全貌を見るにはやや苦しい。突き当たりの門番所らしき石造りの建物に目がいく。明治陸軍用の軍服を着たおじさんが「坂の上の雲ミュージアムは右手へ、萬翠荘は左手へ」と案内をする。心を落ち着かせるため、まずは萬翠荘へ向かう。萬翠荘は伊予藩主の子孫・久松定謨が別邸として建築した洋館で、大正11年建築。ネオルネサンス様式とされるが、アールヌーヴォーの意匠が優雅な印象を与え、窓上のステンドグラスが美しい。階段上の大きなステンドグラスや扉上に描かれた壁画などが漆喰壁や金色のシャンデリアとなじんでなごんだ雰囲気を与えている。
 萬翠荘の奥上には正岡子規・夏目漱石が句会を楽しんだという愚陀佛庵がある。こちらは市内にあり戦災で焼失した建物を復元したもので、質素だが2階の丸窓や障子の多い造りが開放的で明るい雰囲気を醸している。
5903 さていよいよ「坂の上の雲ミュージアム」である。導入の細い坂道を上りエントランスへ導かれると、左右に分かれた小さなホールの間を通って正面に入口ブースがある。通った奥は情報ライブラリーである。展示は手前の斜路を上がっていく。基本構成は三角形に配置された斜路と途中途中に設けられた展示室・展示コーナーである。ほとんどの説明は「坂の上の雲」の記述から取られ、司馬遼太郎ファンには十分な満足を与えつつ、明治という時代、松山の歴史、正岡子規や秋山好古らの人生を紹介する。気持ちのいい展示である。建物もよくマッチして一気に見終わってしまう。そして疲れを感じさせない。いつまでもいたい気分にさせる。安藤らしい良い建物である。
5921 ミュージアムを出たら11時少し過ぎの微妙な時間。松山城ロープウェイ乗り場の近く「秋山兄弟生誕地」へ向かってみる。それらしい建物や庭が復元されているが、有料なので入館はパス。それよりも松山城の東側東雲口にある松山東雲学園の立派な門が目を惹いた。
 松山城へは翌日の早朝、県庁口から城山を登った。ちなみに、愛媛県庁は昭和4年建築の重厚なもの。設計は萬翠荘と同じ木子七郎である。市電からもよく目立ち、目を惹く。
 さて松山城へ至る道は急坂で鳥の声を聞きながらじっくりと登っていく。朝の涼しい空気の中でもじっくり汗ばんでくる。本丸正面から眺める天守閣は妻面の白と左右に広がる屋根のラインが伸びやかで気持ちがいい。慶長年間築城で天守閣自体は安政元年建築の3代目。城内の門や櫓も古くからのものが多く残っている。帰りは大手口を下る。二之丸史跡公園は復元整備中で、登山道の途中、塀の外から全貌を眺める。ま、立派なお屋敷という感じ。さて、このあと内子へ向かった。続きは後日報告します。

【参考】
マイフォト「松山の建物を巡る」もごらんください。

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