すまい・まちづくりノート

2012年5月16日 (水)

建築の大転換

 建築家・伊東豊雄と思想家・中沢新一の対談集。2009年7月の青山ブックセンターでの対談。2011年2月の伊東豊雄設計事務所設立40周年パーティでの対談。2011年3月の伊東建築塾プレイベントでの藤森照信も加えた鼎談。そして2011年7月の伊東建築塾での中沢氏の特別講座。10月の伊東豊雄事務所での対談と1988年に書かれた中沢氏の「建築のエチカ」が掲載されている。
 主要テーマは、建築と自然。建築家が論理や知性で作りだす建築から、自然的な力が作りだす建築に向けて、伊東豊雄の建築思想と中沢新一のチベット仏教思想が共鳴する。「建築のエチカ」については、チベット仏教の宗教教義の説明が独走し、理解できない面もあるが、中沢氏の「自然の贈与」を中心に据える思想は大震災後の日本で大きな説得力を持つ。
 伊東豊雄を始めとする著名建築家の被災地での活動には必ずしも共感しないことが多いが、建築家自身が今被災地で民の力を学んでいるのだと思う。伊東豊雄の作る「みんなの家」プロジェクトが何の変哲もない木造建築であるという点には可能性がある。「建築家はネゴシエーターである」(P33)というのは至言。そもそも民衆の建築に建築家が必要なのか。震災は建築家の職能について問いかけている。そこに気がつくのは伊東豊雄らしいのかもしれない。「建築の大転換」とはまさにこのことを示している。

●建築家は本来、建物に住む人とその周りの社会のネゴシエーターであり、そしてまた、自然と人間が生活する世界のネゴシエーターであるはずでした。それが弱化していたのが近代であり、被災地では、その機能を取り戻す試みをしているようにも思えます。(P35)

●人間による設計やデザインとは別の原理にしたがって、東京という都市の基本構造が決定されていることが見えてきました。・・・では「誰が、何がこれを決定しているのか」と考えていくと、それは人間による設計の外側の自然が決めているんですね。自然の理法のようなものが、人間のつくりだすものの中に浸透しているんです。最終的な決定をしているのは自然なんだ、という実感を得ました。(P42)

●人間がつくりだすいろいろなもののなかに、フィシス、自然的なものの力を組み込んでいくことが、いろんなジャンルで行われなければいけないと思っているんです。いちばんそれが必要なのは、経済の領域です。・・・思想もそうです。(P82)

●第一種交換は国家、キアスム構造をもった第二種交換は、地域・地方と見ることもできると思います。第一種交換構造に駆り立てられた国家は、自然の贈与に従ってゆるやかに動いている地方あるいは地域の生活を従属させ、無視することさえしばしばだというのが、近代以降の日本の状態です。(P231)

●建物を建てるために無神経に森や土地を切りくずし、均質に地ならしをして、自然を圧倒し、抑圧してしまうのではなく、自然の方が精妙な必然性を持って選び出した大地を借りて、さまざまな好ましい諸力が結集した時空で建築を行わなければならない、と考えられたわけだ。ここには人間の精神活動も自然のプロセスの一部であるとする考え方が反映されている。(P240)

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2012年4月22日 (日)

階級都市

 「橋爪紳也」氏が書いた都市論だと勘違いしていた。筆者の「橋本健二」氏は社会学者。それも「都市社会学」という分野があるらしい。本書はタイトルのとおり、社会階級が都市に表れているということを説明するものだが、それだけなら、「山の手」と「下町」を取り上げれば足りる。実際、本書でも第3章では山の手と下町の形成史や文化の違い等を文学作品や古い雑誌等から説明するのだが、筆者の関心はそれだけではない。
 一つは最近の格差社会の進行に伴い、特に東京の各地域の格差はどのように現われているのか示すこと。そしてもう一つは、それが地域内の格差拡大という形で表れていることを説明する。そのための道具立てが第4章で用いる統計的手法だ。23区別の収入や学歴、ジニ係数等を用いて、23区間の格差が拡大するとともに、各区内において格差が拡大していることを証明する。いわゆるジェントリフィケーションである。最近、下町の工場跡地などを再開発したビルに上級階層が住みつく現象が各地で見られる。六本木ヒルズなどはその典型だ。
 これらの現状を説明した後、第5章で突然、街歩きを始める。最初は、六本木ヒルズから湾岸へ。次いで、文京区春日から根津を経て谷中へ。さらに板橋と練馬の境の街々を。世田谷区では三軒茶屋から下北沢、そして祖師谷から成城、国分寺崖線の山の手に並ぶ高級住宅地を確認する。最後は足立区を北千住から歩き、新住民と旧人民の軋轢を見る。
 街歩きの最後は居酒屋だ。結局、この人は街歩きを楽しむために社会学を研究しているのかと思う。もちろん人のことは言えない。僕は建築や都市計画を学んで、まち歩きを楽しんでいるのだから。
 まとめの第6章「階級都市から交雑都市へ」で、やはりソーシャルミックスをめざす方が、人々の健康や教育水準を高め、文化を発展させ、相互理解を促すと利点を主張する。だが、それを妨げる人々の意識をいかに変化させるか、その具体的な提案は書かれない。先日、法政大の稲葉佳子氏が「社会学者は現象の要因を明らかにするところに留まるが、工学系の専門家は解決策を示そうとする」といった趣旨のことを述べていたが、まさにそのとおり。下町に建設された東京スカイツリーが交雑都市の形成につながることを期待する旨の記述で本書は締めくくられるが、本当にそうなるだろうか。そのための仕掛けや戦略が東京スカイツリーを建設する東武鉄道や墨田区にあるようには思えないのだが。

●都市とは、単なる人口の集積ではない。だから、多数の人が集まる難民キャンプを都市とは呼ばない。また都市とは、単なる産業の集積ではない。だから、石油コンビナートや巨大な製鉄所は都市ではない。集合的消費手段が配備され、大量の労働力が再生産される空間的な単位のことを、都市と呼ぶのである。(P052)

●震災前の好況期には、閑静な住宅地だった山の手にも工場が進出し、商業地も形成されたが、震災後の都市計画によって、それぞれの地域には同一目的の建築物を集めることになった。/これによって山の手は「多種多様の生産過程、並に生活様式の混在から免れ」、住宅地としての色彩を保つようになった。・・・労働者階級(プロ)は下町に住み、新中間階級(プチブル)は山の手に住む。このような山の手と下町の階級的性格の違いは、以前にも増して明確になったということができる。(P106)

●人々はしばしば、・・・みずからの社会的地位にふさわしいとされる地域に住もうとする。このことが、地域の格差を再生産し、固定化させる。それだけではない。このような居住分化の構造は、人々から居住の自由を奪う。どの場所に住むかの選択に対して社会的圧力が加わり、自由な選択が妨げられるからである。(P253)

●かつて東京都庁の新宿移転は、東京の西進と下町の没落を印象づけたが、スカイツリーは正反対の効果をもち、下町の復興のシンボルとなる可能性がある。/下町に、下町を愛する高学歴の新中間階級が流れ込み、高層マンションのようなゲットーに立てこもることなく定住することによって、彼ら・彼女らの親しんできた文化と従来からある下町文化が交雑し、新しい下町が生まれることに期待したい。(P264)

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2012年4月14日 (土)

住まいの手帖

 「暮らしの手帖」をパクったタイトル。装丁も内容の雰囲気も似てるかもしれない。「都市住宅」や「GA HOUSES」など住宅・建築雑誌等の編集長を長く担当してきた植田実氏による上質のエッセイ集。月刊「みすず」に連載した60回分を掲載している。
 住宅の本にしては一切、写真も図面もついていない。簡潔すぎる文章だけで綴っていく。筆者の著作は「集合住宅物語」位しか読んでいないが、住宅や建築物に対する目は確かだし、愛情を感じる。
 3部構成になっているが、ほぼ連載時の順番と同じだという。確かに内容で分類した感じもあまりしないが、3部では街の構成要素としての住宅を取り上げたものが多いような気がする。「差別化がすなわち均一性」という日本の街並み景観の指摘はまさにそのとおり。「この作用がいつか途方もなく入り組んだ未知の都市風景にふいに逆転して、みなが名作建築より街そのものを見にやってくる日があるはずなのだが。」(P154)というのは何より強烈な皮肉か。
 疲れたときに何気なく頁をくくるには最高の癒し系住宅エッセイだ。


●ピロティが現代のスタイルであるのは、地面の開放性というより、その場所から離れてどこにでも歩いていける脚の表現によるのだろう。集合住宅に似つかわしいゆえんである。現代の集合住宅は、世界中を歩き回っている。(P13)
●「水まわり」と一括して呼ばれる部屋はどの家でもよく知っている機器で構成されているのに、使い方、飾り方はそれぞれの家によってちがうし、よその家で借りるとなると細かいところまで目について、緊張ととまどいが生じる。それだけ身体に近いのだ。(P31)
●窓をつくるためには、まず壁をつくらなければならない。日本の住まいには、まだ壁もない。(P72)
●玄関ドアを一歩入った住戸内全体は、パジャマ化された空間なのである。(P87)
●できれば世界に唯一の自分の住まいを持ちたいという願望を、じつはだれもが等しく夢見ているという関係であり、それは住まいにとどまらず、公共建築や超高層ビルだって、差別化が均一性に呑みこまれていく制度は変わらない。・・・ようするにおしなべて好き勝手につくっていることの均一性が、北の端から南の果てまで貫徹しているために、この列島は奇妙に広く、奇妙に狭い。(P153)

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2012年3月 5日 (月)

世界が賞賛した日本の町の秘密

 タイトルを見て、「世界が賞賛する日本の町」のいくつかが紹介されているのだとばかり思っていた。それは、京都か、奈良か、それとも金沢・・・? ところが本書で賞賛されているのは、日本のどこにでもある「ママチャリタウン」だ。そう、本書はママチャリを礼賛し、ママチャリが日常的に使われる町を「ママチャリタウン」と呼んで賞賛するのである。
 ママチャリタウンは、環境にやさしく、人にやさしく、賑わいを創出し、隈なく張り巡らされた正確で安価な公共交通網によって、全国どこにでもつながっている。
 確かにそういう見方を取れないこともないが、一方で不便さや危険性なども存在する。過疎が一定以上進んだ地方部では「ママチャリタウン」は既に幻想に過ぎないし、公共交通網も各地で寸断され始めている。
 だがそれでもなお、高速道路1000円施策が推進されたりする現状の前には、ママチャリが日常的に利用できる狭くて安全な道路、濃厚なコミュニティ、アイコンタクトによるコミュニケーション、活性化された便利で快適なミックスタウンを強調することは意味のないことではない。
 私自身も最寄り駅まで一時自動車やバイクを利用していた時期もあったが、ここ10数年は自転車通勤にしている。私のブログに対しても、自転車のベルを鳴らしたり、通行マナーについて指摘するコメントが付くことがあるが、杓子定規に規則に縛られるのではなく、柔軟なコミュニケーションとして評価する筆者の視線は日本人以上に日本人的だと言える。我々はやはり欧化洗脳から依然として逃れられていないのかもしれない。

●電信柱は景観的には魅力が乏しいですが、自転車や歩行者にとっては、乱暴な運転をする車に対する、ときどき現れる避難所のような役割を果たしています。(P32)

●アムステルダムの人々は彼らの都市が自動車ではなく、自転車の都市であることに誇りを抱いているように思えます。利便性が高く、低炭素で健康、そして安価な乗り物というだけでなく、自転車はアムステルダムという都市の美徳の構成要素なのです。駐輪されているママチャリも見方を変えれば、日本の美しさと知恵の証としてみることができるのではないでしょうか。(P119)

●都市内の街路を自動車のために転用するという事例は、日本の都市を含めて世界中で見られる現象です。都市内の幹線道路は、高価な信号機や標識、立体交差、ガードレールなどさまざまな設備を設置することで、道路における最も広い空間が自動車に提供され、それ以外のものは端に追いやられることになります。・・・そして、我々はこれが正しい状態であると認めるよう洗脳されてしまっているのです。8P131)

●日本では自転車、そして歩行者はお互いの道路での位置づけを、・・・交通の流れに応じて、より柔軟に判断しているように感じました。/二つの自転車が近づくときには、ほとんど無意識に近い微妙なものではありますが、コミュニケーションが交わされているように感じます。乗り手は一方がちょっとタイヤを動かすことで無言のサインを出して、どちらに行くかを相手に伝えると、もう片方が違う方向にタイヤを動かすことでそのサインを了解したことを伝えます。そして、二つの自転車は行き交うのです。/これと類似した、無言ではあるけれどその場の文脈によってどのように行き交うかを相手に伝えるサインは、自転車が走行可能な歩道を利用する自転車と歩行者とでも見て取れます。(P136)

●狭い道路は自動車交通を抑制するのにも効果があります。それは「自転車の買い物カゴ」のサイズのなかで生活が足りることを可能にします。・・・日本は交通静穏化にかけては、そもそも住宅地内の街路の多くが狭いために、アメリカのはるか先を行っているといえるでしょう。/また、狭い道路は都市におけるヒート・アイランド現象を緩和します。・・・もちろん、都市において、ある程度の広幅員の道路があることは、物流面や緊急時において重要です。広い道路と狭い道路のほどよいバランスをめざすことが必要ではないかと思われます。(P173)

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2012年2月29日 (水)

後藤新平

 越澤先生が「東京都市計画物語」や「東京の都市計画」を書かれていることは知っていたが、そもそも東京のことをよく知らない私が読んでも理解できないだろうと思い、未だに読んでいない。東日本大震災が発生し、震災復興が大きな課題になっている。今この時に、関東大震災にあたり帝都復興を主導した後藤新平の話を読むことは何かの参考になるかと思い、越澤先生の著作を初めて手にした(多分)。
 もう一つの動機は、西澤先生の台湾・満州等における植民地建築に関する本を2冊続けて読み、そこに後藤新平の姿が著されていたことだ。
 後藤新平は岩手県水沢の下級武士の家に生まれ、福島県で設立されたばかりの医学校で教育を受け、医師として生活を始めた。そこから、後藤の実力を見込んだ官僚や軍医の推挙を受け、内務省に抜擢・採用され、衛生局長の地位にまで上り、その後、台湾総督民政長官、満鉄初代総裁と植民地の開発と経営に関わっていく。この新しい土地で医師として衛生行政に関わってきた経験が活かされる。
 上下水道や公園の整備など良好な住環境を整えることは、確かに衛生の観点からも重要な事業である。だが、後藤は台湾・満州で専門的見地から都市整備を進めただけではない。都市経営を行い、本土の政治家や官僚と渡り合う中で、政治的センスや人材育成・登用の術を学び、さらに内務大臣・東京市長等を歴任して、押しも押されぬ有力政治家に成長していった。
 筆者が本書のために書き下ろした第1章から4章までは、こうした後藤の前半生が描かれている。そして第5章以降はいよいよ都市計画、復興計画の策定と復興事業である。
 多分、「東京都市計画物語」などでは既に書かれていたのだろうが、政治的嫉妬の前に挫折した帝都復興計画は、しかし大半を東京市の事業に移すことで実現された。単なる大風呂敷ではなく、引くところは引きつつも実を取る後藤のしたたかさが如実に現れている。後藤は単なる政治家ではなく、偉大な実務家であったのだ。
 現在進行しつつある震災復興も、まるで後藤が直面したような政治家同士の政争の道具と化している。しかも後藤新平はいない。今こそ後藤新平が望まれている。いや、どこかで現在の後藤新平が活躍していると信じたい。

 

●日本ではまだ有力政治家や世論の都市問題・都市計画に対する関心がきわめて薄かった大正時代に、有能な実務家・専門家の人材を結集して、自分がその先頭に立って法制度と政策形成を行っていた。都市問題の普及啓発を進め、都市計画をいつでも実行できる準備を済ませていた。この6年間の政策形成、人材蓄積、助走期間が、帝都復興を4ヶ月という短期間で計画策定し、6ヵ年余という短期間で復興事業を完成させるという、二つの偉業を成し遂げた原動力と背景であった。(P018)

●後藤は調査研究を重視し、ビジョンを打ち出し、人材を集め、リーダーシップを発揮して政策を実行するという日本の政治家としてはきわめて特異なパーソナリティを持っている。それが帝都復興の原動力となったが、後藤の都市計画、社会資本整備に対する熱意をつくった原点は、台湾総督府時代と・・・満鉄総裁時代にある。(P112)

●結局のところ、都市計画法草案から国庫補助の規定は全面削除された。この結果、道路は道路法、河川は河川法、と個々の土木事業として国庫補助をするしか方法がなくなった。都市計画、都市改造という都市のインフラ整備を総合的に推進し、それを国庫補助する途がふさがれた。・・・また、道路、河川、下水道という個々の土木施設しか考えないという傾向、視野の狭さを国の公共事業・社会資本整備にもたらすことになり、都市の将来像を見すえてトータルに計画し、社会資本整備を実施することが困難になった。(P176)

●枢密院や二大政党の長老政治家は、首都の復興という国家・国民の一大事を放り出して、政争を優先させた。後藤が主導する帝都復興計画を山本権兵衛内閣への政治的揺さぶりの機会として利用した。それは後藤には勝手なことをさせないという”政治的な嫉妬”であり、そのため復興事業の実行は財産権の侵害だと攻撃した。/このような執拗で激しい「政治的な嫉妬」を引き起こした原因は、後藤内閣誕生の阻止であったと筆者は考える。(P223)

●政友会の予算修正により、区画整理は地主組合を主体とし、国の事業執行は幹線道路に限定されることになった。・・・しかし、これでは都市改造の実現が不可能になりかねない。そこで、復興計画を推進してきた後藤たちは、区画整理の事業主体を東京市に切り替え、東京市の負担を増加することによって、この緊急事態を切り抜けることにした。・・・東京市長永田秀次郎は帝都復興を推進する立場をとり、東京市会もこの措置を支持したのである。(P244)

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2012年1月19日 (木)

日本の植民地建築

 年末に読んだ「植民地建築紀行」に続いて、西澤先生の植民地建築本を読んだ。こちらの方が先に発行されており、あとがきには日本建築学会賞を受賞した「日本植民地建築論」のダイジェスト版として発行されたと書かれている。
 「第1章 植民地建築」で西澤先生がフィールドとする台湾、朝鮮、中国東北部(関東都督府及び満鉄)の植民地建築を紹介し、第2章以降、建築組織と建築家、建築材料、建築関係団体と建築雑誌を紹介する。そして「第5章 植民地建築とネットワーク」で、植民地建築の特徴や意味などをまとめて考察している。
 本書を通じて筆者が説明しているのは、植民地建築はけっして支配と権力誇示のためだけの建築ではなかったということ。もちろん支配の一環ということでもあったが、教育機関や医療施設など民政用建築物が先に建築され、官庁施設が建設されるのは数十年経ってからということが少なくない。また、日本の伝統的な様式で建てられた建築物はほとんどなく、当初は西洋建築の様式で建てられ、世界に支配の正当性を誇示する必要がなくなる満州事変以降は、現地の伝統的な建築様式を学び採用するようになる。植民地建築の建築家たちは、けっして頑迷な保守主義者ではなかった。
 これは藤森照信氏も書いているが、戦前の軍部はけっして日本の伝統様式を強制することはなかったし、逆に先端技術を取り入れることに熱心だった。帝冠様式はけっして軍部の強制ではなく、逆に保守的傾向におもねった建築家の作品だと言う。
 そういう風潮の中、植民地建築は日本本土以上に世界性と先進性を得ていく。シロアリ対策として台湾でRC造が積極的に建築され、その結果、劣化の問題も世界で最初に直面し、解決を模索していたという記述は興味深い。
 西澤氏は最近、「植民地建築紀行」に続いて「東アジアの日本人建築家」を刊行している。これも読みたいとは思うが、本書に重なる部分も多いと思われるので、またしばらく時間を空けてからにしようと思う。忘れずに覚えておかなくちゃ。

●後藤が唱えた「文装的武備」は、軍事力に頼ることなく、支配地の経済力と住民の生活環境の向上を図ることで支配を進めるという理論であった。そして、そのためには、教育、衛生、学術面の充実を目的として、それに応じた施設を作ることが必要であった。・・・さらに、満鉄が鉄道附属地の支配能力を示すには、少なくとも、中国各地の列強支配地における建築物と同等同質の建築物を満鉄が建てる必要があった。・・・そのために、世界水準の建築物が必要とされた。(P63)

●満州事変以前における日本の東アジア支配は、欧米諸国との協調の下で認められた支配であり、欧米諸国の支配の枠組みに組み込まれていた。したがって、その支配能力を問われ、それを示す一環として、西洋建築を規範とした建物を建てる必要があった。(P193)

●満州事変によって、欧米諸国による東アジア支配の枠組みからはみ出した日本は、他国に支配能力を認めさせる必然性はなくなり、・・・その結果、総体的に東アジアの伝統的建築の様式・意匠が重要視されることとなった。(P194)

●鉄筋コンクリート造建築の普及度合いは、日本国内に比べて台湾の方が早く、台湾総督府は次々と鉄筋コンクリート造建築を建てていった。台湾では、鉄筋コンクリート造の普及に先進性が存在した。/その先進性は、鉄筋コンクリート造建築の劣化という予想外の問題を引き起こした。・・・欧米諸国とは気候が違いすぎた台湾での鉄筋コンクリート造の普及は、その劣化においても先進性を持つこととなった。(P203)

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2012年1月 7日 (土)

郊外はこれからどうなる?

 「はじめに」に「東京郊外を考えるための最低限の基礎知識が身につく、入門書」と書かれている。また「公開講座で・・・若い人たちを相手に話した内容をまとめたもの」とある。
 これまで『「家族」と「幸福」の戦後史』や「ファスト風土化する日本」などで郊外を題材にした社会論、マーケット論を論じてきた筆者から、新たな郊外論が展開されるかと期待して読み始めたが、内容は「はじめに」に書かれているとおり、東京郊外の歴史や郊外の問題点を、主要な書籍や文献、現地に足を運んでの実感や写真等を用いてていねいに解説している。「郊外」をテーマに社会学の卒論を書こうとする学生向けの入門書といった感じ。
 同時に、「本書は私のキャリアヒストリーでもあります」と書かれているとおり、「第四山の手論」を『「東京」の侵略』を牽きつつ再解説するとともに、これを執筆するに至った当時の上司、パルコの増田通二の思い出を語る。
 さらに江戸時代から明治、昭和、戦後、さらにバブル期を経て、東京がいかに拡大し発展してきたか、いかに変遷してきたかをわかりやすく解説する。いまやどこも小奇麗な街となってしまった東京だが、かつては工業都市として煤煙にまみれ、歓楽街や下層労働者が呻吟する現実があった。
 そして一転、「郊外の文化論」としてアメリカ郊外の歴史や意味を説明する。冷戦時代に「専業主婦はアメリカの兵器だった」。さらに、世界最初の田園都市レッチワースを紹介、ニューアーバニズムとアワニー原則などを解説。ニューアーバニズムの街とは実は日本の古いまちの再評価ではないかという結論につながる。
 新しい発見というのではなく、きちんと文献に当たってみる。ちゃんと街に足を運んで見てみる。その大切さを自ら実践することで披露している。内容ではなく、それが披瀝してあること。それがまさに三浦氏の「キャリアヒストリー」であり、本書の入門書としての価値だと言える。

●工業地帯があるということは、そこに低賃金で働く労働者がたくさん住んでいたということです。だから今でも南武線沿線には、労働者の娯楽として、ソープランドや競馬場や競輪場がある。もっと言うと、在日韓国朝鮮人が劣悪な環境で働かされたという歴史もあるわけです。・・・東京の中の貧困、差別、格差といった問題とも深く関わるのです。・・・私としてはそういうことに無頓着であってほしくないのです。(P59)

●最初に視察に行って感じたのは、「なんだ、ニューアーバニズムが目指しているのは日本のまちじゃないか」ということでした。特にヴィレッジホームズを見たときには「なんだこれは。阿佐ヶ谷住宅と同じじゃないか」と思いました。(P181)

●健康のためには、ファストフードだけではダメというのは常識です。それと同じで、たしかにファスト風土的な商業空間が必要な面もあるでしょうが、それだけで生活するのはよくないと私は思うんです。やはりスローな風土とスローなフードをしっかり維持しなければいけない。歴史のあるまち、人が歩いて生活できるまちを残していかなければならない。だから、食育という言葉がありますが、それと同じようにまちが人を育てるのではないかと。言ってみれば「街育」が大切だと思うようになったんですね。(P194)

●近代化、高度成長の時代には、・・・未来に向かって前進することのほうが大切だという考え方があった。・・・しかし、社会が成熟し、人口も減少し、高齢化も進んでくるとなると、私たちは、単純に過去を否定して未来を求めるだけでは満足しなくなる。幸福を感じられなくなる。・・・これからは「輝く都市」より「古くて味のある都市」のほうが求められる。そんな変化がすでに始まっていると思うのです。(P213)

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2011年12月30日 (金)

都市計画の世界史

 娘に「都市計画の本がない?」と聞かれて、学生時代、日笠端先生の「都市計画」を教科書として使ったことを思い出した。が、今となってはどこにあるのかわからない。結局、この本を図書館で借りてきてレポートを提出したらしい。返却が年明けになっていたので、それまで私も読んでみた。
 本書の存在は知っていたが、まるで教科書のようで読む気がしなかった。あとがきによれば、著者の慶應義塾大学での講義録をまとめたものということで、実際、教科書である。それがわずか1000円で購入できるのだ。改めて都市計画の歴史について勉強させてもらった。
 本書では古代から中世の都市を、「第1章 城壁の都市」「第2章 都市施設と都市住居」で取り上げ、第3章以降は、「格子割の都市」「バロックの都市」「社会改良主義の都市」「近代都市計画制度の都市」「メトロポリスとメガロポリス」に分けて記述している。概ね時代の流れに即してはいるが、当然、都市が時代に応じてガラリと変わるわけもなく、また日本の土地区画整理事業においていまだに格子割街路が主流を占めているように、これらは重なり合いつつ、現代の都市を形作っている。
 中でも「バロックの都市」が興味深い。オースマンの都市改造に代表される放射状道路を印象的に用いた都市計画に対して「バロックの都市」という呼称があることすら私は知らなかったが、確かに現代都市計画を経て、今もなお光り輝き愛される都市の形である。
 私が覚えているのはもちろん、「ハワードの田園都市」以降、A.ペリーの近隣計画論、ラドバーン計画やクルドサックなどである。ポート・サンライトやボーンヴィルなどの理想社会主義の工場都市は10数年前に中部大学の佐藤先生に教えられて初めて知ったし、イギリスのバイロー・ハウジングも三宅先生に教えてもらうまで知らなかった。そう考えると、学生時代の都市計画などほとんど勉強していなかったし、覚えてもいないことがよくわかる。
 また、ドイツのBプランやアメリカのゾーニング制の背景とそれらを教条的に当てはめた結果の日本の現状、市街地の改善と歴史的地区の保全、巨大都市圏の成長管理とエキュメノポリス論など、主だった都市計画の歴史と課題は余すことなく網羅されており、まさに都市計画の教科書にふさわしい内容になっている。都市計画に少しでも携わる専門家であれば、一家に一冊、備えておきたい本である(と言いつつ、今回、図書館で借りて済ませてしまったが…)。

●都市と都市計画の関わりは、経済社会の枠組みの変化とともに変質してきた。それぞれの時代の都市の経験や都市計画の知恵を次の世代が引き継いで発展させ、そこでも人々の生活経験が積み重ねられ、後世がそれを評価して体系づけてきたのが都市計画の歴史である。都市の設計と計画は安易な実験が許されないという点において、先行する経験が尊重され、継承される性質を持っている。(P16)

●格子割道路である広い大路の一部だけでなく、小路も住民などによって占拠され、宅地や耕地になり、これが「巷所」と呼ばれた。平安京の南端の東寺周辺に見られる巷所の多くは耕地化したもので、市民生活にとって広すぎる道路用地が農地に転換された。(P134)

●バロックの都市計画の社会性には問題があるとしても、ヨーロッパではバロック都市において、はじめて意識的な都市計画が行われ、バロック都市の様式は、近代都市計画のプロトタイプの一つともみなされている。しかも、生きた歴史文化の象徴となって人々から好まれ、輝いている世界の都市の一角にバロックの都市がある。その都市づくりの作法に現代都市計画が学ぶべきものがあるのではないか。(P161)

●規制の結果がさらに無秩序な街並みの形成につながる場合も起こりうる。わが国の都市のように、その大半の市街地がアメリカの都市のような幾何学的形状の都市基盤を持たない場合には、ゾーニングによる敷地単位の規制は必ずしも合理的に作用しない場合が発生するのである。(P293)

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2011年12月24日 (土)

植民地建築紀行

 著者の西澤氏とは一度プライベートでお会いしたことがある。当時は植民地建築の研究を主にしていることも知らなかったが、それを知った以降もなかなか著者の本を手に取る気がしなかった。それはもちろん日本が植民地支配をしていた時代、支配のための建築物について、通常の建物と同じ感覚で見ることができないと感じたからだ。
 もう一つ、朝鮮総督府庁舎の保存・解体騒動の記憶もあった。韓国の人々の気持ちもわかる中、残したいという建築の専門家としての思いをどう始末していいかわからなかった。ところがこの本を読むと、そんな感情などつまらないものだということがわかり、すっきりした。いい建築は使用目的や歴史に関わらずいい建築物なのだ。そのことがよくわかる。
 朝鮮総督府庁舎も戦後、大統領府として利用され、五輪後は博物館として利用されてきたものを、朝鮮王朝の王宮であった景福宮復元のために解体するということで、解体論争になったのだそうだ。しかも建設当時には日本においても、王宮の露骨な破壊に対して批判的な意見が少なくなかった。今、朝鮮総督府庁舎の一部は独立記念館の庭に歴史の記憶を示す野外芸術作品として展示されているという。
 朝鮮、台湾、中国東北地方で日本人が作った植民地建築はどれもその時代を生きた建築家にとって丹精を込めた作品だった。そのために西洋に学びに行く建築家がおり、海外から伝わってくる情報に最大限のアンテナを張っている。彼らは植民地という新開地で自らの才能と努力の成果を建築物という形で花開かせたのだった。
 だから現地人にも「いい建物ですよ」と言ってもらえる。建築物は、見て、感じて、評価すればいい。その目的や経緯はあくまで付属的情報に過ぎない。そうでなければ独裁者の建築した建物は全て壊されねばならない。ピラミッドも王宮も宗教建築も。そう考えれば、植民地建築はその性格ゆえにこそ、保存され、歴史を伝えていく価値があると言える。
 本書は月刊誌に連載された紀行文を編集したものである。残念ながら紹介される建築物に全て写真が掲載されているわけではない。文章だけでは実際の姿がよくわからないものも少なくない。それを実際に見るためには現地に行かねばならない。それもいいが、著者の植民地建築に対する考え方をもう少しきちんと読んでみたい。そこでさっそく著者の「日本の植民地建築」を図書館で予約した。楽しみにしたい。

●御真影が大会議室の演壇後方に保管されたのは、台湾総督の官職と役割に依拠している。・・・この大会議室は、台湾総督府の施政に関わる重要な会議が開かれた場であり、そこでは、台湾総督が天皇の代理者として会議を主宰し、決定を下す。天皇の写真である御真影は、日本に居る天皇の代わりであり、そのため、この大会議室に面した場所に保管された。(P31)

●「この駅は、立派でしょう。いい建物ですよ」と笑顔で語ってくれた。このことで、私は、植民地建築が、植民地支配から脱した時期であっても、その地で存在感を持っていることを思い知らされた。(P67)

●この近江町住宅・・・の竣工の1年後、1909年12月に工事概要を載せた『建築雑誌』は「満洲に於ける一名物または成績のよい事業の一つ」と評価した。それは、当時の日本国内では見ることのできなかった低層集合住宅が、日本国内から見れば「未開の地」であった中国東北地方の茫漠とした広野の中に忽然と出現したことへの驚嘆でもあった。(P197)

●中華バロックの成立と似た現象は、明治維新の日本にも見られた。日本各地に建てられた擬洋風建築がそれである。ただ一つだけ異なる点は、建てられた時期であり、それに起因する意匠の差である。・・・そのため、手本になった西洋建築にも時代の差があり、一方で装飾過多な中華バロックが成立し、一方で簡素な擬洋風建築が成立した。(P251)

●植民地建築と向かい合うことは、日本人にとって日本の支配と向かい合うことである。・・・植民地建築を使い続けることは、支配を受けた人々にとって、支配を受けたという事実を後世に伝えながら、その歴史を乗りこえる糧である。植民地建築の過去と現在を歴史教育の題材として使うことができるなら、歴史認識をめぐる東アジア諸国の軋轢は解消されるであろう。そこに植民地建築の新たな存在意義が生まれ、未来が開けるはずである。(P269)

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2011年12月20日 (火)

ジェイコブズ対モーゼス

 「アメリカ大都市の死と生」でこれまでの都市計画を批判し、住民主体による既存の環境を生かした都市再生を説いたジェイン・ジェイコブズ。本書の誕生のきっかけとなったのは、ニューヨークの都市行政官として君臨したロバート・モーゼスとの下町の都市改造をめぐる闘いだった。
 ジェイコブズが都市問題をめぐる市民活動家としてアメリカでこれほどまでに有名だということも知らなかった。私としてはジェイコブズのもう一つの名著「市場の倫理 統治の倫理」が生まれるきっかけも描かれるものと期待していたが、それはジェイコブズ晩年の著作の一つとしてさらっと流されている。本書はあくまでもモーゼスとの都市計画をめぐる闘いの記録である。
 ジェイコブズとモーゼスは本書によれば都合3回、大きな都市改造計画において対立している。最初はジェイコブズが普段利用しているウエストンスクエアパークに貫通道路を通す計画。続いて、彼女自身が住む街、グリニッジ・ビレッジの都市再生計画。いずれもジェイコブズの勝利に終わり、これらの経験を通して「アメリカ大都市の死と生」を著述する。
 そしてジェイコブズ自身、その後は著述家としての人生を送りたいと考えていた頃、最後の対立、ローワーマンハッタン・エクスプレスウェイの問題が発生する。彼女の住む地域から離れた地区での問題で最初は気乗りしなかったが、モーゼスの強引なやり方、撤去される地区の広さなどから活動に参加。既にカリスマとなっていた彼女の参加と逮捕劇はモーゼスの市民を無視した強引なやり方への批判となって、ベトナム戦争時の反権力の風潮と一体となり、ついに市民側の勝利に終わる。いまやその地区はソーホー地区としてニューヨークでも人気の地区となっている。
 序章から第5章に至るまで、基本的にジェイコブズ側に立ってモーゼスの強引な手法を批判的に描きだしているが、終章では微妙にトーンが変わっている。今、アメリカでは、モーゼスを批判した摘発本「パワーブローカー」で貶められた悪役モーゼスのイメージを見直そうという動きが出ており、展覧会も開催されたという。
 訳者の渡邉泰彦氏もモーゼスの再評価に賛同の意を書いているが、私は必ずしも賛同しない。結局、モーゼスの推進した都市整備は時代の要請であったが、だからと言って住民を無視した方法が許されるわけではない。ジェイコブズの市民活動が結果としてNIMBYを生んだという批判もあるようだが、NIMBYをいかに乗り越えるかをテーマに市民主体の都市計画手法が様々に研究され試みられている現状を余りに知らない感想に思われる。
 もちろんジェイコブズとて万能ではない。低所得者向け住宅の供給については今も様々に模索や研究が進められている課題だが、与えればいいという思想は手っ取り早いが結果的に成功しないことは明らかだ。我々はさらに研究し模索しなければならない。
 ジェイコブズとモーゼスのどちらが正しいかではなく、二人を乗り越えた先に我々は進まなくてはいけない。だが取り敢えず、二人の闘争の歴史を知っておくことは都市計画の将来を考える上でけっしてじゃまにはならない。何よりノンフィクションとして面白いのだ。

●都市計画家は自分たちが最善と考えることを単純に実行に移してしまい、そこの住民がなにを求め、彼らにとってなにが最善かとは考えてくれないのだ。・・・都市計画家とは地域社会に大きな変化を押しつけておいて、その結果をきちんと評価しようともしない傲慢なうぬぼれ屋にすぎないということだった。(P50)

●「ワシントンスクエアパークは多様性のなかにおける団結の象徴である。アーチ門から一ブロックもしないところには高級マンションもあれば、お湯なしの安アパートもあり、19世紀の大邸宅もあれば、大学さらには零細企業の集積もある。公園は変化に富んだ趣向や素性を持つビレッジの住民を一つに結びつける絆なのだ。最もよい点は複雑なニューヨークの素晴らしさを享受できることにあるし、最も悪い点は、自分が他人とどれだけ違うのかを、あらためて思い起こさせることにある」。(P137)

●ある晩のこと、偶然酒場から出てきた人が、板ガラスの窓を突き破って落ちた少年の腕に止血帯を巻き、それを見て玄関口のポーチに座っていた女性が十セント玉を借りてきて病院に緊急電話連絡をした。ここには通りを見守る人の目があるのだ。・・・機能的で、かつ多様性に富んだ都市近隣地域の最善例を、彼女は自宅二階の窓の外に目の当たりにしていた。(P154)

●モーゼスの見解は、たとえ欠陥だらけだったにせよ、「健全な政府が道路、公園、橋梁といった社会インフラを整えてくれ、それが我々をひとつの国にまとめ上げるのだと確信していた当時のアメリカを象徴していたのだ。一方のジェイコブズ夫人は、我々をコミュニティに結びつける、より繊細な絆を守るために闘ったのである。都市が生きつづけ、繁栄するために、この双方の見方が必要だ」。(P289)

●荒廃地域に対する処方箋として彼女が施した「脱スラム化」や、ウエストビレッジでの改善運動は、・・・多くの場合、彼女の表現では「できすぎ」状態で、高級住宅化現象が起こってしまったのだ。・・・都心近隣地域は途方もなく人気が出て、富裕層、それも主として白人層しか住むことができない状態になってしまった。・・・カフェやアートギャラリーが金物屋やコインランドリーを駆逐したのだ。(P290)

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