すまい・まちづくりノート

2009年11月 3日 (火)

コミュニティを問いなおす

 あとがきで、本書は「グローバル定常型社会」と”対”の関係にある、と書かれている。「グローバル定常型社会」で語られた有史以来の歴史認識とその上で提唱される「環境と福祉の統合」。ローカル・コミュニティを出発点としたグローバル・ミニマムな対応という発想をさらに問い進めた結果、筆者の目に止まったのは都市計画と住宅政策だった。
 全体3部構成で、第1部「視座」、第2部「社会システム」、第3部「原理」で構成される。第1部は、「都市とコミュニティ」を主題においた第1章「都市・城壁・市民」で始まり、「コミュニティの中心」という視点から、「空間的な多様性」による解決へと目を向ける。そこでは「福祉地理学」や「空間化するケア」という独自の視点が示される。
 第2部「社会システム」では、都市計画の国際比較や歴史軸で見た都市政策・福祉政策の変遷を分析し、第5章で「ストックをめぐる社会保障」を検討する。自治体に対する土地・住宅政策アンケートが引用されているが、内容についてはそれほど目新しいわけではない。逆にこれまで福祉政策に目を向けていた筆者が都市政策・住宅政策をストック政策として注視する視点が興味深い。そして「福祉政策と都市政策の統合」である。
 ここで筆者は、今後重要となる政策として次の4つを列記する。(1)「人生前半の社会保障」の強化、(2)住宅の保障機能の強化、(3)福祉(社会保障)政策と都市政策の統合、(4)課税・財源のあり方、である。特に3点目については、都市マスなどの最近の方向を評価しつつ、「空間格差や社会的排除を生みにくい都市のあり方」という課題を指摘する。現に公営住宅で起きている貧困の集中、スラム化という状況に対して、解決の方向を示唆するものであり、確かに福祉政策と都市政策、なかんずく住宅政策は一体のものである。
 第3部は全体を振り返り、特に第6章では、現代社会の構築の重要な起動源である「科学」に目を向け、人間(個人)と社会(コミュニティ)と自然の一体化の方向を指摘する。その上で、筆者の学生時代の問題意識「独我論」を引き合いに、コミュニケーション、新しいコミュニティ、普遍的な価値原理の構築の3つを定常化する時代におけるポイントであると指摘する。
 本書はコミュニティ論であり社会論であるが、都市政策・住宅政策の転換と重要性が一貫して述べられている。その点で、都市・住宅の専門家にも大いに参考になる。広井氏は「定常型社会(岩波新書)」の時から注目してきた社会学者であるが、本書を読み、ますます目を離せないと思った。
【参考】
「定常型社会」
「とんま天狗は雲の上:グローバル定常型社会」

●現在の日本の都市において、見知らぬ者どうしのコミュニケーションがほとんど見られないということと、いま述べたような「建物」の孤立性ということは表裏のものに見える。つまり人と人との関係のあり方という「ソフト」面と、建物どうしの関係や全体としての街並みという「ハード」面のありようとは不可分の関係にあるということである。(P041)
●”「福祉」を場所・土地に返す”こと、つまり福祉というものを、その土地の特性(風土的特性や歴史性を含む)や、人と人との関係性の質、コミュニティのあり方、ハード面を含む都市空間のあり方(たとえば商店街や学校、神社・お寺等、先述の「コミュニティの中心」の分布やポテンシャルなど)と一体のものとしてとらえ直していくことが重要となっている。(P083)
●こうした「外部」との接点(あるいは外部に開かれた”窓”)としての性格をもつ場所が「コミュニティの中心」としての役割を果たしてきたという事実自体が、「コミュニティ」というものが本来的に外部に開かれた存在であるということを示している、といえるのではないだろうか。同時に、そうした内部と外部との動的な相互作用が、コミュニティそして人間の「創造性」ということと重なっているのではないだろうか。象徴的にいえば、コミュニティはその「中心」において外部へと”反転”するのである。(P092)
●今後の(経済成長という目標の絶対視から抜け出た)成熟化ないし定常化の時代におけるコミュニティやつながりの構築において、(1)ごく日常的なレベルでの、挨拶などを含む「見知らぬ者」どうしのコミュニケーションや行動様式、(2)各地域でのNPO、社会的起業その他の「新しいコミュニティ」づくりに向けた多様な活動、(3)普遍的な価値原理の構築がポイントになる(P249)
●結局自分がやっていることは「人間についての探求」と「社会に関する構想」という二つに集約されると感じているが、コミュニティというテーマは、ある意味で他ならずこの両者を架橋する、結節点のような主題のひとつであると思われる。(P289)

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2009年10月24日 (土)

団地再生まちづくり2

 友人が東京都東久留米市でUR都市機構が実施した「ひばりが丘団地ストック再生実証実験」を見学してきた。雑誌などで読んだ限りでは、減築を始め多様なストック再生の試みを行っており面白そうだなと思っていたが、見てきた友人によれば、取り壊し予定の住棟を対象に、多大な経費をかけて物理的な実施可能性を検証したもので、経済的な有効性や従前居住者の住み替えや継続居住等の問題などが検証できておらず、つまらなかったと言う。
 ちょうど仕事でも、従来の建て替え一辺倒の更新計画が財政状況などから計画どおりの実施が困難となりつつあり、さまざまな再生手法を取り入れた団地再生を検討していこうと考えていたところだったので、友人の言葉にはがっかりしたが、本書を読みつつ、予算的にも住環境的にも、またコミュニティ、地球環境、居住支援、地域活性などの面からも有効な再生のあり方について夢を膨らませた。
 本書は全体4章の構成で、団地再生の理念からドイツ・ライフェネルデを始めとする再生事例、地域に視野を広げた取組み、居住支援活動の事例、さらに具体のリフォーム事例や設備から見た再生技術の紹介に至るまで、実の多くの事項について、専門家の論文が集められている。その数、全部で39編。これには序を書いた村松秀一教授なども含んでいるが、1編は6ページほどの分量で、多くの専門家や活動家がそれぞれの立場や見方で書いており、目録的な観点からも再生のもつ意味の広がりが感じられ興味深い。また図版が多いのも特徴。カラーページを見ているだけでも面白い。
 全体のストーリーというような構成はあまりされていなく、具体的な技術を紹介する第4章を除いては、どこから読み始めてもいい。それだけ多様な視点があり得るということでもあり、再生の可能性を表しているとも言える。
 分譲マンションを念頭に再生の有効性と方法を論じる文章が多いが、私の目下の関心は、公営住宅において事業経営的に成り立つ再生手法にあり、その点では、「棟別再生」の考え方と可能性について記述している小林秀樹氏の論文に興味を持った。
 中部圏では椙山女学園大学の村上先生が論を寄せているほか、多治見ホワイトタウン自治会の元役員さんからの寄稿もあり目を惹く。実は団地再生については経営的に少しあきらめていたところもあったが、心機一転、真剣に考えてみようという気がフツフツと沸き起こってきた。元気になる1冊でもある。

●「箱」の産業から「場」の産業に転換するうえで、どんな血を導入すればよいのか。まずそれはその場で生活する人々、空間を利用する人々であろう。・・・建築をはじめとする居住環境の専門家独自の知識も必要だが、空間の利用者が再生事業において中核的な役割を担うべきことは論をまたないと思う。このいわば「利用の構想力」をどう導き、どう組織化し、それにどのような形を与えるか、それこそが専門家側の勝負どころとなる。(P5)
●実は「再生ブーム」は必ずしも望ましいものではありません。大量・急激につくり出した地球上の人工環境へ手を入れ続ける努力を怠った結果、あるいは、手を入れ続けるシステムを用意していなかった結果、急激な環境性能向上を行わざるを得なくなった現象にほかならないからです。(P19)
●私が注目するのは、郊外団地は、数多くの住棟から構成されている点です。実は、この特徴は、団地再生を進めるうえでは好都合なのです。というのは、同じ団地のなかで、建て替えをする棟や修繕のみとする棟を混在できるからです。これにより、住民の選択の幅を広げることができます。このように住棟ごとに再生方針を選択する方法を「棟別再生」といいます。(P105)

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2009年8月 3日 (月)

都市の記憶を失う前に

 文化庁で長く歴史的建築物の保存と修復に携わってきた後藤治氏による、歴史的建築物保存に係る課題と解決のための提言の書である。保存のための経済的な制度等について研究するプロジェクトを立ち上げ、提言を行っているオフィスビル総合研究所が共著として名を連ねているが、ほとんどは後藤氏の執筆になる。ちなみにプロジェクトメンバーが執筆したコラムが5編挟まれている。
 歴史的建築物が破壊されていく要因として、(1)国土の高度・効率的利用、(2)防災・安全対策、(3)文化財保護法の失敗の3点を取り上げ、各要因がどう作用し歴史的建築物が壊されてきたか、またそれを防ぐための方策について検討する。
 さらに、第4章「今後の課題—どうすればよいのか?」では、それぞれの課題について、具体的な対策を提言している。
 (1)国土の高度・効率的利用は、日本の都市部の歴史的建築物を破壊していく最大の要因である。これに対して5%ルールを提案しているが、正直、すぐに実現可能な対策とは思えない。地方部でも歴史的建築物保存による経済的価値が建替・更新の価値を上回ることができない現実の前では、優遇支援制度というより国民の意識変革が必要だ。
 それよりも、(2)防災・安全対策の章が面白い。建築物の安全性を担保する建築基準法の抱える問題点を指摘するのだが、単に歴史的建築物を保存する上での問題点というより、日本人の法令依存・行政依存の状況を指摘していて興味深い。専門家の職能やコンプライアンスにまで踏み込んでいるが、まさに的確である。具体的には、不特定多数が集まる施設として歴史的建築物に対してもいたずらに法遵守を求めるのではなく、利用制限や管理方法などで対応することで安全性を確保する方法があるのではないか、と柔軟な対応を求めている。
 また、(3)文化財保護法の失敗では、そもそも日本の文化財保護法が、古寺社の保存から始まったことによる影響から未だに脱却できずにいる状況が暴露される。動産と不動産が混同され、建物を本来の目的で利用することができない仕組みに問題を投げかける。最後には、行政組織の問題や公共が所有する歴史的建築物の破壊の危機について指摘している。あまり知られていない話なだけに非常に興味深い。
 歴史的建築物や町並みを見ることは大好きだ。それが保存の危機に瀕している。それが国民の意識のレベルであればまだあきらめられるが、人為的な法制度が保存を困難にし、国民の意識すら方向付けていると思うと、何とかならないかと思う。歴史的建築物保存のプロが執筆する法制度の話題は非常に興味深く面白い。

●建物の構造や材料の性能だけに基づかない、利用方法への評価や管理方法への評価を含めた、柔軟な対応が可能な性能評価方法の確立が、歴史的建築物の保存のためには必要であると筆者は考える。(P82)
●日本では、建物の安全については、法令によって十分な措置を確保すべきと考える傾向が強い。例えば、建築基準法に適合していた建物が、大地震で・・・ひどく壊れてしまったとしたらどうだろう。一般の人々やマスコミの意見は、法令の不備を批判するか、建てることを認可した行政が責任を取るべしという声が大勢を占めるに違いない。そして、行政は責任を取らないかわりに、必要最小限という法が定める限度を高める形で規制を強化するのだ。このため日本では、法令が求める水準が勢い高くなったり、手続きが複雑化したりする傾向が強い。その弊害として、法令の最低限度とは別に存在するはずであった自己責任による安全の確保という意識が失われてしまっているようにすら思える。(P100)
●自己責任による安全を求める欧米諸国では、法令の求める水準は、それほど高くない。このため、法令を遵守することは比較的に容易である。・・・つまり、欧米諸国におけるコンプライアンスは、単に法令を遵守することにはそれほど意味はなく、法令遵守は当たり前で、法令以上にどのような備えをやっているのかが重要な意味をもっているのである。・・・このような状況だから、コンプライアンスという考え方を、法令の求める水準の高い日本に持ち込むこと自体に無理があるのだ。建物の安全については、日本では、法令を満たすことに相当の努力が必要で、それ以上のことをするゆとりはないといったところが実情だろう。(P106)
●ドイツの文化財保護は、・・・歴史的建築物は最も適切な目的で利用し続けなければならないことが、精神的な規定として記されている。つまり、建物を利用しつづけることが、「活用」というよりもむしろ「保存」そのものにあたるという考え方である。これならば、営利法人が特別な公開を行わなくても、収益をあげながら資産として歴史的建築物を使うことも、公共性のある行為として十分に法的に認められることになる。(P142)
●将来的には、文化財保護法の建造物や土地(公園、庭園等)といった不動産を定めるものや地区を定めるもの(重伝建地区、重要文化的景観)については、景観法の中で明確に位置付けていくべきではないかと考える。また、景観と文化財というふたつの施策は、少なくとも市民の窓口となる市町村においては、行政窓口をひとつ、都市計画を担当する部局にまとめるべきだと考える。(P174)

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2009年7月 2日 (木)

災害社会

 筆者は東大卒業後、富山大学でスロー地震などを研究し、2002年より京都大学防災研究所で教授を務めている地震学の専門家である。2008年の四川大地震や岩手・宮城内陸地震などのホットな地震災害を題材に、海溝型地震、内陸型地震のメカニズムと軟弱堆積層による長周期地震動など最新の地震学の知見を紹介するとともに、災害は自然現象としての危険因子に人間社会の脆弱性が合わさって発生するという観点から、都市開発や社会・経済政策に対して警鐘を鳴らす。
 前半の地震メカニズムの概説は専門的な内容がやさしく説明されており、わかりやすい。しかし筆者が言いたいことは政治・経済政策における不作為であり、危険性を技術的に克服する以前に、危険性が明らかなところに建物を建築したり、都市開発をしないことが必要だろうと訴える。特に、長周期地震動に対する超高層ビルへの対策として6つの具体的な提案がされている。
 第8章以降は、地震学から離れ、格差社会批判や地球温暖化対策、「農」の不安、自由貿易批判などに及んでいく。タネ本は「格差社会」(橋本俊詔・岩波新書)や「金融権力」(本山美彦・岩波新書)、「『農』をどう捉えるか」(原洋之介・書籍工房早山)などで、一面的な感がしないでもない。最後に附章として「学問と社会-京都大学らしさとは?」と題する論考が附けられているが、これを読むと、筆者の退職間際の集大成として執筆された本なのかなという気もする。
 一言で言えば「地震学者による社会への警鐘」と言えばよいだろうか。筆者の社会政策に対する主張が必ずしも正しいわけではないと思うが、少なからず社会政策に関わる人には一読して欲しい書籍ではある。

●危険因子が社会の脆弱性に出会ったときに災害は生じる。地震が発生しても、社会が脆弱でなければ、災害は発生しない。・・・危険因子と脆弱性を合わせたものを「リスク」と呼ぶ。(P21)
●そもそも、「プレート・テクトニクスの枠組によって駿河湾が抱える地震リスクが明確になった」以降に、三号機から五号機が増設され続けてきたことに根本的な疑念を感じる。原子力発電所のようなものは巨大地震の断層の真上のように危険な場所を避けることは、耐震強度以前の問題なのではないだろうか。(P78)
●地震による人的被害を減らすための急所は、その頃(戦後から高度成長期の1980年頃まで)に急速に拡大したに大都市郊外の密集市街地と住宅地である。・・・もし「地震=断層滑り説」の証明の方が先だったら、もし活断層学の発展が先だったら、事情はずいぶん違っていただろう。(P91)
●日本の政治と経済のリーダーたちは、なぜ、地震学的「危険因子」と「増幅要因」を無視した、超高層ビルの乱立というリスクに満ちた政策をとるのだろうか? 子供の世代や孫の世代に地震リスクを先送りしているだけではないだろうか。(P131)
●私が四川大地震から再認識したことは、非常時においては、平常時に行われている以上のことは期待できないということである。平常時の医療が崩壊の危機に瀕しているところで、非常時の災害医療がうまく機能するはずがない。平常時の「食」が危機に瀕しているところで、非常時の「食」の供給がうまくいくはずがない。(P187)

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2009年6月12日 (金)

住宅政策のどこが問題か

 住宅問題に関する新書はそう多くない。とりあえず早川和男による「居住福祉」(岩波新書)くらいしか思い浮かばないが、これはかなり偏った視点から書かれていたように記憶する。本書の著者の平山洋介も早川門下の一人ではあるが、15年ほども前に出版された「コミュニティ・ベースト・ハウジング」を読んで以来、その動向には注目をしていた。2006年に発行された「東京の果て」では、本書で書かれた「住宅システムの市場化」や「住宅のメインストリーム」の不安定化、ベビーブーマーとバスターの差異などの問題が既に書き表されているが、東京/地方問題など著者の旺盛な好奇心に紛れて、多様な問題点の一つという印象だった。この問題に焦点を当てて書かれた本書では、公営住宅制度を始めとする住宅政策に対して強烈な批判が繰り返されている。
 著者の主張の基本的な認識は次のフレーズに集約される。

●日本の福祉国家にとって、住宅所有を促進するシステムは社会統合を図るための仕組みである。・・・経済が成長し、中間層の持家が増え、そしてメインストリームが拡大する、という方向性を社会に埋め込むことが福祉国家の関心事であった。(P42)

 しかし、新自由主義と保守主義があいまった日本独自の持家中心の住宅政策では、「梯子」からこぼれ落ちる、または足をかけることすら許されない人びとが増えてきている。特に、従来の世帯単位での調査・分析では見えてこない世帯内単身者や扶養配偶者が、保守主義的な住宅システムゆえに世帯内に閉じこめられている。若しくは離婚や親の老齢化があれば途端に住宅困窮に落ち込んでしまう。住宅問題を個人レベルで捉えるべきだという主張は拝聴に値する。
 しかし、「『梯子』への最初の足がかりを作れ」という主張と、「梯子」システム自体への批判はどう両立させるのか、という疑問は残る。貸家支援を充実し、戦前のように持家と貸家が両存する仕組みへ変わることを理想としているようだが、本当にそうだろうか。貸家という存在は、貸し手と借り手という2者があって成り立つ。かつ両者は等分の権利と利益を有するべき、というのは理想論に過ぎないのではないか。逆に、居住権と所有権の一体保護(全世帯持家化支援?)という視点も成り立つはず。読後に過去の読書歴を振り返っていて、「土地・持家コンプレックス」(山田良治/日本経済評論社)を再発見した。もう一度読み直すことが必要かもしれない。
 「おわりに」で、特定の「主義」への依拠をたしなめる記述があるが、著者自身も別の意味で特定の「主義」から執筆・主張しているように感じられる。「複数の方法の組み合わせ」という主張は正しいと思うが、そのベストミックスにいかに到達するかはかなり難しい。
 新書版で住宅問題に警告を発する本が発行されるのは、一般人に住宅政策が抱える矛盾や問題を周知する点で意義は大きい。その意味では、本書のように少し過激なくらいの書きぶりの方が注意喚起に資するのかもしれない。しかし書きぶりはあまりに難解。「あとがき」に「センセーショナルな言葉づかいばかりが目立つ本が好まれ、どんどん消費される。本書は、新書としては読みやすいとは言えないし、地味なんだろうな、と思う。」(P296)とあるが、それにしても「難解」。もう少し何とかならないものだろうか。

●政府が住宅システムの市場化に踏み切った背景には、住まいと住宅ローンを市場経済に委ねても、社会統合の安定は崩れないという読みがある。住宅問題を計測するうえで政府は重視した指標は、住宅建築の量と質であった。・・・これらの指標からすれば、住宅問題はすでに緩和し、住宅システムの市場化は社会不安を起こさないと考えられている。(P88)

●世帯主を重視する世帯単位の分析では若年層の住宅条件の分析は困難である。・・・世帯主の多くは男性であることから、世帯主に注目した世帯レベルの分析では女性の状態は把握できない。・・・世帯レベルの分析は、子ども、若い人たち、女性、高齢者など、世帯主以外の世帯員の状況を覆い隠す効果さえもつ。(P166)

●政府が助けるのは、住まいの「梯子」に加わった世帯形成者である。ひとたび「梯子」を登り始めた人たちはシステムの援助を得る。「梯子」に加わるための最初の「足がかり」を準備し、世帯内単身者と単身者の住宅確保を促進するシステムは存在しない。(P187)

●日本の福祉国家が住宅システムの運営において重視するのは、個人としての人間の社会権の尊重ではなく、その集団としての社会の統合である。人びとが住まいの「梯子」を登り、社会の「流れ」に合流するというパターンが社会安定を支えると想定されてきた。住宅困窮が社会統合を脅かすまでに増大するのであれば、住宅保障の政策は拡大する。しかし、「梯子」を登っていない人たちが存在しても、それが「流れ」を破壊するほどのマグニチュードをもたない限り、彼らを保護する必要は小さいと判断される。(P243)

●何らかの特定の「主義」を純化し、それに過度に依拠する方針は危険である。新自由主義の政策再編は、純粋な市場経済を拡大しようとし、暮らしの基盤を深く傷つけた。純化した保守主義は社会標準の生き方しか支持せず。そこからはずれる人たちを冷遇する。特化した「主義」によってシステムを運営できるほど社会は単純ではないし、単調でもない。特定の「主義」を強調するのではなく、複数の方法の組み合わせによって住宅システムの適切なあり方を検討することが必要である。(P289)

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2009年5月20日 (水)

景観形成と地域コミュニティ

 まちなみ景観に関する建築・工学系からの考察は数多くあるが、社会学からのアプローチは観光化や地域活性化とからめて考察されることが多く、直接、景観形成そのものを考察することは少ない。本書は、筆者の一人、鳥越教授とその門下の二人の環境社会学者による、生活環境主義というアプローチからの、景観形成と地域の継続・活性化のあり方についての論考をまとめたものである。
 冒頭、景観法に対する評価と疑義が述べられている。「従来、住民主役で進められてきた地方自治体の景観政策を骨抜きにするものではないか」という指摘は、私も景観法制定寺に感じたことであり、大いに同感する。加えて、最近のどこでも同じような多自然工法の河川改修に違和感を訴えるのも、まさに同感の至り。筆者たちの主張はあとがきの一文に十全に現れている。

●本書で指摘したことは単純なことである。すなわち、生活と景観とを絶対に切り離してはいけない、ということである。・・・それぞれの地域で人びとは生きつづけており、その生きている総体の形が景観である(P303)

 このことを主張するために取り上げる現地は、竹富島であり、阿蘇山の草原であり、白保のサンゴ礁と恩納村の海面管理であり、宮崎の山村・諸塚村(神楽と山に生きる生活)であり、中国の白洋淀と霞ヶ浦の潮来とイギリスの湖水地方の観光の取組みである。
 阿蘇山の草原を守るNPO等の活動と放牧や野焼きでは生活できない地域住民の相克は、生活と景観保全の矛盾を見事に現しており、興味深い。また、景観を生かした有力な地域産業である観光について、近代化の進展と景観資本の発見との関係を分析する第6章の考察も面白い。
 ただし、この考察が、住民生活と景観形成が両立し得る明らかな処方箋を明示しているわけではない。もとよりそれは難しいことだが、「生活と景観を切り離してはいけない」という主張は絶対的に正しいと私も思うし、その上で景観政策や景観形成活動に関わっていければと考える。


●地方自治体の基本的な姿勢は、景観はあくまでまちづくりの一環であるという発想にある。まちづくりであるから当然のことながら、主役は住民である。ところが、罰則規定を付置したこの法律(景観法)は、・・・住民が意見を挟むことができる配慮をしてはいるものの、住民は主役の座から降ろされている。(P44)

●目に映る地表の相貌としての景観は、目に見えない仕掛けに支えられて人びとの目の前に現れる(P170)

●さまざまな事情があって農山村で暮らそうと決めた人たちは、自然の、循環する時間のなかで生きることを受け入れ、決意する人でもある。・・・彼らは、無事に楽しく生きることが目的だという。・・・重要なのは、・・・それが、無知やひがみや強がりではなく、自分がここで暮らすことの意味を考え抜いた結果として生まれてきた思想だということである。・・・それは、直線的な時間のなかでみると「努力しない」「上昇志向をもたない」人たちにみえるかもしれない。しかし、先ほど述べた阿蘇の農家は、そのことを「負ける勇気」と表現する。いま農業をつづけていくためには、都市と同じ土俵で行動するのではなく、負ける勇気が必要だというのである。(P251)

●景観論にとって、観光産業の位置づけはむずかしい。観光はしばしば景観を俗化させるし、さらには心ない観光客によって地元の人の心が痛めつけられることもある。しかしながら、・・・観光は当該地域を活性化させる力をもっており、さまざまな産業のなかでも景観を大切に考える産業である。生活から乖離していかないことを”地元が”心がければ、観光から発想された通俗的な景観も楽しめるのではないだろうか。(P300)

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2009年3月23日 (月)

原っぱと遊園地2

 建築論集として話題となった「原っぱと遊園地」の続編である。地元の図書館になかなか納入されないのでリクエストした。前書では、行動や創造が発生する場としての「原っぱ」と「動線体」という発想が話題を呼んだ。そのベースになっているのは、ルイ・ヴィトンの一連の仕事だったが、本書はその後の作品、特に青森県立美術館を始めとする建築作品の設計手法を中心に語られる。
 全体は3部構成である。第1部は、青森県立美術館をめぐって、「図式とルール」など青木氏が採っている設計手法や考え方が綴られている。『「せんだいメディアパーク」は図式を持っている。』(P50)という記述がある。図式を当てはめ展開することで、「公園的な人の居方」を定着させたと読み解き、それとの比較で自らの建築は、直感的なルールの設定から始まり、現実との調整を経て具体化していくと説明する。図式とルールの違いは、図式は直接、建築物のカタチに現れるのに対して、ソフトなルールは臨機応変にカタチを変えていく、という点にある。これは「原っぱ」にも通じる考え方で、カタチは活動を規定しない。
 第2部は、「新建築」に発表された建築作品に対する論文集である。正直、かなり難解で、かつ図面や写真が乏しいことから、言わんとすることが十分理解できないところも多い。
 第3部は、他の建築家や芸術家とその作品に対する批評集である。批評をすることで、逆に青木氏の立ち位置が明らかにされる。その点では興味深いが、当該芸術家や作品を知らないものが多く、本当の意味では理解しがたい。
 全体として、前作にくらべ、わかりやすさの点で若干落ちる。もちろん、青木氏のスタンスはよくわかるし共感する部分もある。ただ「原っぱと遊園地」がメインのテーマではなかったナと思う。「図式とルール」がこの本の趣旨をもっとも伝えるタイトルではなかったか。あえて二匹目のドジョウを狙って「原っぱと遊園地2」というタイトルにしたのだろうが、もう少し素直でもよかった。ま、そうだったら、読まなかったかもしれないけどネ。

●自分でできることから始める。そうして、それがこの世の中で成り立つためには、どういうルールが最低限必要なのか。それを身をもって発見し、自分の内側から「職能」を築いていく。どこかに属するのではなく、自分で自分をつくっていく。(P15)
●図式そのものが重要なのではない。ぼくはそれに対して、ルールやそのシーンを、それ自体に「ある特定の世界」を含んだものにするまで、研ぎすまそうと思う。そこから建築にストレートに直結させようと思う。(P60)
●「装飾」は、それが包み隠している実体と等価である。装飾という表面それ自体が実体であって、それらを取り去ったものが実体ではないのである。それらは内部へと誘惑するけれど、その内部には何もない。もしそれが隠しているものがあるとすれば、むしろ「実体の無さ」なのである。(P107)
●僕たちが現実に住む都市は、不断に思いがけない展開をもち、動的な実体であるとすれば、それは「それぞれ独立した雑多な要因が重複して運動している」からである。現実の都市は、未来において達成されるべきある姿へとリニアに向かっていく運動ではなく、またあらかじめ変容が許容されている均質空間の中の運動でもない。もっと予測不能で危険な有機体なのである。(P174)
●ぼくたちの内面は、どれもが偶然の、その連鎖にすぎない。あとから振り返ってみれば、二度と起きえない偶然が奇跡のように積み重なっている。でも普段の生活では、ぼくたちはそれを必然と捉えている。そして、その必然が実は必然でないことをどこかで知っているからこそ、ぼくたちは漠然とした不安と重圧に縛られている。(P208)

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2009年2月15日 (日)

建築史に何ができるか

 全国で町並み保存の活動が次第に活発になってきている。私自身が多少なりとも関わってきたまちもある。しかし多くの場合、そうした活動に関わっている先生は、都市計画系の先生や社会学の先生だったりする。東大の西村先生しかり、名市大の瀬口先生しかり。古い建築物の調査に専門的に携わっている建築史の先生がまちづくり活動に積極的に関わっているという話をこれまであまり聞いてこなかった。
 西先生のことは最近その名前を聞くようになった。この本を手に取ってみたら、先日見学した鵜沼宿の調査も手掛けられている。ぜひ行きたいと考えていた松代に町づくり研究所を開設したという。是非読みたいと本書を手に取った。
 全体は4部構成。「町並み調査と町づくり」と題する第1部では、平戸、江津、松代、壱岐勝本、鵜沼宿、長井(山形県)での経験を紹介している。第2部の「蘇った建物」では、足利学校、旧染井能舞台(横浜市)、三渓園旧原邸、佐賀城本丸御殿、出島オランダ商館の実例を紹介する。第3部「文化を守り、町をつくる」、第4部「建築史に何ができるか」は前出の事例を踏まえた考察だ。それらはいずれも基本的に既出の雑誌等からの抜粋である。しかし単に掲載されているだけでなく、その当時の意図や意味が添えられている。それも、調査報告書のような学術的なものもあれば、講演会記録、座談会、ポエム形式のものまである。きわめて多様で面白い。かつ文章が平易で読みやすい。訴えたいことがストレートに伝わってくる。とてもいい本だと思う。
 筆者が訴えたいこと。その一つは、「私たちが大切にしたいと感じたら、それが文化財ですよ」ということ。そして、「町並み調査は町に返しましょう」ということだ。とてもシンプルだが大切なこと。それを実践している西氏の姿勢に感服する。建築史にできること。それは建築することの心を知り、謙虚になることかもしれない。先生の心が伝わってくる良書である。

●町並みを整備するにはどうしたらよいだろうか。・・・歴史的な背景をきちんと認識し、平戸の町並みの歴史的特色を正確に把握した上で、それを生かして整備すること、これしかない。そのためには、平戸の町並みの歴史をよく知らねばならない。町並みを構成してきた建物はどのようなものであったのか、これを知らねばならない。町並み調査は、そのために実施されるのである。(P022)
●どんな重要な建物も「指定されるまでは指定されていない」のだ。かといって、指定された途端に価値が出るわけではもちろんない。つまり、指定だけが価値判断の基準ではないのだ。自分たちが大切だと思うもの、それこそが文化財である。私はそれを庶民文化財と呼んでいる。(P036)
●一番大事なのは、町の方たちにとって住みやすいこと、これを基本に据えないとうまくいかない。・・・まずどんな場合でも、町民が主体です。(P038)
●建築とは何か、よい建築とは何か、これを考えるために歴史を勉強する。(P124)
●あなたが町を、水辺を、緑の森を、あるいは社寺などの歴史的建造物を見て「素晴らしいな」と感じたら、それはすべて優れた景観であり、あなたはそれを所有し、保全する仲間の一人にすでになっている。横浜をよりよくしていくデザイナーの一人になっている。(P198)
●研究者は、調査は自分の研究のためにやると思っている人が多い。そういう人が得てして結果を地元に還元すべきだ、などと言う。ほんとうはそうではない。地元のためにやる。地元と一緒に、地元と力を合わせてやる。わかったことはすぐ地元に報告する。成果は自動的に地元のものになる。(P218)

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2009年2月 4日 (水)

ここまで変わった 木材・木造建築

 建築の専門教育を受けた方はご存じのように、私もご多聞に漏れず、木造に対する知識は非常に乏しい。それでも多少の現場経験と耳学問でここまでやってきたが、仕事で木造4階建てといった言葉を聞く機会が多くなり、最新の木材・木造事情について確認しておきたいと本書を手に取った。もっとも、本当に入門書なので、この程度の知識を持って専門家というには誠に恥ずかしい限りだが、それでも「最近はそうなのか」と目を開かれる箇所も少なくない。

●木材の知識が欠けていることを心苦しく感じておられる建築業界関係者には、ぜひ一読をお願いしたい。(はじめにP6)

 と最初に書かれているが、全く同感。同様に感じておられる方は是非ご一読ください。とは言うものの、本書も発行されて早6年になろうとしているので、この最低限の基礎知識の上に最新の情報を積み重ねる必要がある。努力します。
 筆者は農学を学び、木質材料の研究を長くやってきた方なので、エンジニアードウッドを始めとする木質材料の解説が詳しい。私の関心は木構造の方にあったので、その方面の記述が相対的に少ないのはやや物足りなかったが、まずは材料が基本なので、本書で基本を確認できた意味は大きい。
 それにしても、木材の世界も十数年前からすると大きく様変わりしているらしい。品質保証された材が普通に流通しているのが現状であれば、確かに木構造の世界も大きく変わる。本書を疑うわけではないが、現実の実態をよく見極めた上で、今後の木造建築の方向についてよく考えてみたい。

●木材は強度の異方性だけではなく、収縮や膨潤にも異方性がある。このことが、木材の取り扱いを難しくしている一つの原因である。(P38)
●もちろん、大工さんが勘と経験(と度胸)だけで作ったからといって、その建物が危険だというわけではない。また構造計算をしたからといって、その建物が絶対的に安全であるわけでもない。その時点における工学的な知識により強度性能がそれなりに保証されているというだけのことである。(P77)
●EW化技術とは製品の5%下限値を高め、それを維持管理するために行う様々な工夫のことである。(P96)
●高気密・高断熱のようにちょっとした隙間も許されないよう構造が普及し始め、また部材の狂いが許されない構造用の金物が多用されるようになると、乾燥していない材が徐々に敬遠され始めた。そこに10年間の瑕疵保証を定めた品確法が1999年に登場し、クレームを恐れた住宅メーカーが雪崩を打ったように、乾燥した外材の製材や構造用小断面集成材などに鞍替えを始めたのである。(P136)
●どうもわれわれは「匠の技」とか「千年の歴史」という言葉に弱く、逆に「化学薬品」とか「工業製品」といった用語に対して妙な嫌悪感を感じてしまうことが多いが、このようないわば一種の思考停止状態に陥ることは避けるべきである。(P187)

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2009年2月 3日 (火)

都市住宅学 第64号「200年住宅を考える」

 都市住宅学会の機関誌「都市住宅学64号2009冬」の特集は「200年住宅を考える」。やはり今、「200年住宅」は建築・住宅・都市分野の専門家にとって、気になるテーマの一つと言える。
 集められた論文は全部で10編。「そもそも住宅の長寿命化とはどういう取り組みか」と題する国土交通省住宅生産課による長期優良住宅の普及の促進に関する法律を始めとする関連施策の解説に始まり、日本大学経済学部の中川雅之氏による「200年住宅構想は何を目指すか?」、東京大学の野城智也氏による「住宅履歴書の制度設計について」、さらには不動産税制や住宅金融、住宅流通、また環境、森林・木材、都市工学、国土形成に至るまで、多方面から「200年住宅」を巡る考察と検討がなされている。
 これらを眺めて興味深いのは、住宅の耐用年数を現状から200年に伸ばすための技術的検討や視点からの論文がないことである。

 東京大学名誉教授の有馬孝禮氏による「200年住宅を森林・木材・木造から考える」では、建てた時のまま200年保たせるのではなく、更新・維持という視点から考察を進めている。その際、数年前に取り組まれたセンチュリーハウジングシステムを取り上げていることが興味深い。

●このセンチュリーハウジングシステムの設定耐用年数の持つ意味は「何年もつ」という耐久性を保証するのではなく、「何年もたすための仕組み(システム)を有している」ということを意味する。(P23)

 そして最後にはこう結んでいる。
●200年木造住宅にとって何より重要なことは平和である。200年平和の重みこそ重視したい。木造200年住宅が存在する時代こそ平和であることの証である。/大事なことは「百年」、「二百年」という数字でもなければ言葉でもない。それを可能とする空間的仕組みと時間・世代を超えた連携がどのようになされるかである。(P24)

 「平和」を出したら反則という意見もあるだろうが、東京大学の浅見泰司教授による「都市工学からみた『200年住宅』」でも、

●100~200年という長期で考えた場合には、人口が半減以下になる都市が多く発生することを鑑みると、現在の市街地圏域よりも狭い範囲でしか、200年住宅を供給することは適切でないことになる。(P41)

●都市的行政サービス圏域からはずれる地域においては、・・・むしろ部材を他の地域で有効に利用できるような配慮こそ求められる。(P42)

 という指摘がされており、住宅が本当に200年間保ってしまうとすると、社会的にどう受け入れるのかという射程の長い問題に目を向けざるを得ない。国土交通省は、都市計画や国土形成等も所管しているのも関わらず、この点についていかに無頓着であるかが問われる。

 千葉大学の小林秀樹教授は「共同住宅の長寿命化と不動産関連制度の変革」において、長寿命化建築の実現に関わる課題を、(1)スケルトンとインフィルの分離、(2)ライフサイクルコストの低減、(3)地域の持続性を高める仕組み、の3つにまとめている。3番目はまさに前2者の論文に通じる課題である。その上で、「スケルトンとインフィルの分離」に応えた建築基準法の見直しと、「ライフサイクルコストの低減」等に応えた金融と税制の見直しを提言している。「そもそも不動産だけが『資産税』をかけられる仕組みに無理がある」という前置きをした上で、「不動産利用に伴う公的サービス利用の対価として税を位置づけるほうが適切である」として、以下のように提案する。

●サービスの対価として位置づけるならば、建物の築年数とは無関係になる。ではどうするか。一つは、建物課税を廃止し、土地課税に一本化することだ。・・・もう一つは、建物については、築年数や構造種別に関係なく、床面積によって一律に税金を定めることである。(P20)

 実に合理的であり、単に200年住宅のための制度というだけでなく、快適で環境にやさしい都市づくりや税負担の公平性の観点からも一考に値する提案だと思う。

 熱が入って面白いのが、移住・住みかえ支援機構代表理事・立命館大学教授の大垣尚司氏の「2つの長寿命化と住宅金融」である。2つの長寿命化とは、「人間の長寿命化」と「住宅の長寿命化」を言う。この2つの長寿命化のミスマッチが起きているという視点から、住みかえの必要性とそのための金融制度と政策支援の必要性を説いている。「住宅家賃を金融資産として認めるべき」というのがその要諦であるが、既に「住みかえフラット35」などの具体的な金融商品も出ているようであり、今後の発展に注目される。

 実は、この特集でもっとも興味深かったのは、リクルート住宅総研の島原万丈氏による「既存住宅流通の本当の阻害要因と活性化策」である。日本人の新築志向の実態は、(1)潔癖性や美観、(2)見た目から感じる性能への不安、(3)リフォームに関する知識不足、であると指摘し、そのためには、「建設・リフォーム業と宅建業の垣根を取り払い、流通+リノベーションという住宅の取得方法の認知度を高めていく」ことが必要と提言する。

●「200年住宅」がいくら高耐久で可変性の高い建物で、新築時からの履歴情報が残っていても、他人の痕跡を嫌い、現代的な設備や美観にこだわって新築住宅を選好する層は、見た目が悪い既存住宅を選ぶことはないだろう。・・・既存住宅を流通時点で買い手のコスト負担でリノベーションするという手法は、市場システムの大がかりな改造を必要とせず、「200年住宅」以外の既存住宅の寿命も延長することができる。(P34)

●「200年住宅」が長寿命を理由に各種の優遇を受けられるなら、リノベーションによって再生した既存住宅は、あらゆる恩恵が「200年住宅」と同等に扱われるべきである。(P34)

 通して読んでみて感じることは、「200年住宅」という発想は、新築住宅だけしか見えていない安易で視野の狭いものだということだ。本気でやるなら、「既存住宅をいかに長寿命化するか」こそが中心的に据えられるべきであり、そのための税制や都市計画等も含めた制度構築が求められるだろう。
 今は経済対策の一環として、長期優良住宅制度に注目が集まっていると言う。経済対策であれば何も「200年住宅」などと限定する必要もない。わざわざ差別化を図るのは、その結果、優遇されることが見込まれる住宅メーカーへの支援策だからという穿った見方もしてみたくなる。しかしそれではますます住宅産業内の格差化と貧困化が進むのではないか。
 各論文はどれも「200年住宅」という発想そのものには好意的な論調である。必要なのは、これらの英知に真摯に応えていくことではないだろうか。

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