日々の書斎(閉架)

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2008年11月10日 (月)

食糧がなくなる!本当に危ない環境問題

 今や日本の環境問題の第一人者といった感もある武田先生が、今度は「本当に危ない環境問題」と題して、食糧問題について書いた。アメリカ主導のバイオエタノールは、アメリカの石油政策、食糧政策から出た自国主義の産物で、地球にやさしいどころか、最貧国に飢餓をもたらす最悪のシナリオだ、ということを訴える。そしてその打撃を最も強く受けるのは、北朝鮮よりも穀物自給率の低い日本だ、と警鐘を鳴らす。
 こうした着眼点はいいと思うし、第2章の「地球温暖化が食糧危機を救う!」というのも、この人の持論で許せる範囲だが、次第に止まらなくなり、「食品添加物よりも食品そのものが危ない」とか「農薬は本当に危険だったのか?」といった主張になると、ホンマかいな、という感じが否めない。
 私の専門に多少は近い地震や原子力発電所の耐震設計になると、言わんとすることはわからないでもないし、大筋はまちがっていないが、筆が走り過ぎてそこはちょっと、と言いたくなる。本当の専門家ではないので、専門家ならそうは書かない、考えないという基本的な認識のズレが気になる。
 この人がネットで強く否定されるのはこうした部分なんだろうなあ。一般庶民向けにTV出演や講演をしている方が合っているのにと思う。

●アメリカは、まず国内の油田を掘るのをやめて外交に走った。「外交努力」によって自国の石油を消耗せずに、他国から調達しようとしたのだ。資源というものは長期間、安定的に得ることだから、大切なことは、自分の世代の損得ではなく、子供のためにうごくことでもある。(P20)
●すべての食糧は油である、そういう時代になったのだ。(P88)
●奇人にとって貯金は良いことだし、借金は悪いことだが、国全体としてみれば、誰かが積極的に借金しないと、お金は回らないし利子もつかない。貯金に利子がつくということは誰かが借金して新しい事業を展開することであり、節約とは全く違うのだ。(P128)

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2008年10月31日 (金)

アキハバラ発<00年代>への問い

 今年6月に秋葉原で起きた無差別殺傷事件。中学校まで優等生で高校で挫折した非正規雇用者。犯行の数日前からネットの掲示板に書き続けられた自己否定の言葉と犯行の実況中継。そしてオタクの聖地、日曜歩行者天国の秋葉原に車で突っ込みかつダガーナイフで刺殺してまわるという行動の特異性。この衝撃的事件は、政治経済的視点から、ネット社会とオタク文化の視点から、また格差社会の視点からと、事件発生当時、さまざまな視点で報道が繰り返された。が、いまや、結局一人の弱い人間の犯行という印象を残して、人々の記憶から消えようとしている。
 この一見わかりやすい事件をめぐって、幾数人もの社会学者、評論家、ジャーナリスト、作家らが集まり、それぞれ独自の立場からこの事件を論評し、同時に現代社会に抱える病巣をえぐり出す。
 集まった識者は総勢22名。全体は3部構成で、第1部ではもっぱら犯人を取り巻く社会環境の問題を、第2部では希代の社会学者が現代社会と人間疎外について、そして第3部では作家や演出家、マンガ評論家など現代社会に最も関わり同時代的に生きている感性からと、複眼的・多様な解釈や批評でこの事件が物語るもの、この事件を生み出したもの、そして我々がこの事件から汲み取るべきものをさまざまに示してくれる。
 編者である大澤氏は「世界の中心で神を呼ぶ」という評論で、現代社会に生きる若者の精神性を読み解く。「なぜKは『2ちゃんねる』ではなく『Mega-View』に書き込んだのか?」という情報環境研究の濱野智史氏の最近のネット環境の解説とその上に立った分析も興味深い。
 世界恐慌というとんでもない事態に巻き込まれつつある現代。我々はどう生きていけばいいのか。しかしこの評論集を読んで、モンスター化を加速してきたこれまでに比べ、縮小しつつある現在は意外に生きやすいかもしれないと何となく感じた。どうしようもなく孤独で不安で不安定だけど、小さく愛すべき人生を取り戻す。そんな時代のトバ口にいるような気がした。

●動機なき殺人がアリバイを持ってしまい、そこに社会の格差構造が重なった。仮に敵が独裁者であるならば、・・・非正規雇用者たちの不満や鬱憤は、レジスタンストして居場所を、あるいはテロリストとして名前を与えられたかもしれない。しかし可視化される敵はどこにもいない。(P20)
●いまや犯罪は、不完全な社会システムが必然的にはらんでしまうリスクとして一定の確率で生じ続け、一定のやり方で処理される。彼らはたまたまシステムに「選ばれた」にすぎず、そこにはいかなる必然性もない。だとすれば、犯罪すらも彼らを匿名性から救い出すことはできないのだ。(P41)
●表面的な偶然が達成された結果、資本主義が抱える本質的な偶然性、ギャンブル性も明確になった。その状況に人々が耐えられなくなっているのではないか。(P69)
●事件の外側で展開されてきた語りが、加害者本人によって忠実に模倣されて反復された。それを通じて、どちらの語りも解釈ゲームでしかないことを否応なしに見せつけられた。・・・Kの語りを通じて、私たちは、衝撃的な犯罪事件を語ってきた自分たちの浅さと気持ち悪さも見せられたのである。(P86)
●なぜ秋葉原なのか? 秋葉原こそは、Kにとっては、世界の中心、世界の臍だからであろう。世界の中心で絶対的な悪を犯せば、世界の中心で究極の破壊を遂行すれば、神としても無視することはできまい。(P150)

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2008年10月19日 (日)

ブログ論壇の誕生

 私も末端のブロガーの一人だと思うけど、佐々木氏の今回の著書では、ブログ世界で繰り広げられる言説がリアル社会を変えていく可能性と限界を、既成メディアや社会システムを牛耳る団塊世代とロストジェネレーション世代の対立という視点を持ち込みつつ、考察していく。
 小泉内閣の郵政民営化選挙の際に果たしたインターネット世界の影響に逆に嫌気が指したという中高年も多かっただろうが、その時をピークにブログ論壇の力が弱まったという指摘に対して、それは単に対立的なテーマがなかっただけで、新たな論壇テーマが現れれば、再びその実力が発揮されるだろう、と著者は言う。
 ネット論壇を担っているのがロストジェネレーション世代という設定が正しいのかどうかも多少疑問だが、安倍内閣・福田内閣の退陣、金融危機の勃発といった昨今の社会的状況に対して、ネット世界でどれだけの議論が巻き起こっているかかと考えても心許ない。
 「ネット論壇が公共圏へ昇華するために」というのが最後のパラグラフの項目名だが、そこまでになるためにはまだ少し時間がかかるだろう。書かれているように、新たなアーキテクチャが必要かもしれない。
 しかし書かれていることはどれもまさに「リアル」で、興味深いことこの上ない。公共圏まではいかなくても、マスコミに載らない多様な視点や立場からの意見や考え、思いを知ることができる今までにないメディアであることは間違いない。巻末につけられた佐々木氏がフィード購読しているというブログのいくつかを私も一度チェックしてみよう。

●ウィキペディアの編集行為が可視化されていれば、・・・省庁の職員や大企業の社員、さまざまな関係者・・・がいったい何を考え、どのように外界と関係しようとしているのかを認知することができるようになる。そうしたことが丸ごとひっくるめて見えてくるようになることによって、初めて人々は自分の目の前に起きていることが正義と正義の衝突なのか、それとも情報操作なのか、あるいはノイズのようなたわごとなのかを判断することができるようになる。(P55)
●ブログは、・・・書かれている内容だけを軸として、コメントやトラックバックによって議論を波及させていく。つまりは属人主義からの解放であり、「誰が書いたか」ではなく「何が書かれているか」を重視するパラダイムへの移行である。インターネット空間に生まれたこの新たなパラダイムは、マイクロ化されたデモクラシー、断片化されたポリティックスの可能性を切り開くかもしれない。・・・つまりは党派性によってではなく、課題ごとに議論が行われるような政治の枠組みである。(P69)
●人は、どこかで無条件に承認されることを本能的に求めている。・・・いまは農村も終身雇用制もなくなってしまって、承認される安息の場所としては、家族や恋人ぐらいしか残っていない。だったら家族や恋人のいない人は、どうやって自分が承認される安心感を抱くことができるのか?(P153)
●インターネット論壇がこうしたマイノリティ意識を乗り越え、「われわれの世論こそがリアルの世論である」という認識に達する日がやってくれば—そして衆愚化を防ぐ何らかのアーキテクチャを実現することができれば—いずれこのネット論壇の世界は、公共圏へと昇華していくことになるだろう。(P240)

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2008年10月 2日 (木)

ナイチンゲールの沈黙

 処女作「チーム・バチスタの栄光」はベストセラーになっただけでなく、映画化され、また今月にはテレビシリーズもスタートする。私自身が先々週から捻挫に始まる足のトラブルに見舞われ、外出もままならない中、書店で短時間に物色してこの本を入手。退屈な時間を埋めた。
 ミステリーや推理小説は10代の頃を除いてほとんど読んだことはないし、読みたいとも思ったこともないが、前著はなか楽しんで読んだ。その記憶で読み始めた本書は、最初、そのいかにエンターテイメント調の文体にこんなだったっけと少し後悔をした。それでも読み進めれば、非常に楽しめる展開と情感に訴える内容が、さすが海堂尊と思わせる。
 解説によれば、次作以降もこの東城大学病院を舞台に、複雑に絡み合った展開がされるという。その意味では第2作は「つなぎ」的な作品かもしれない。もちろんこの作品だけでも十分楽しめる。それがさらに輻輳していくというのはなんと楽しみではないか。今回のように少し落ち込んだ時など、心も癒してくれるやさしさが海堂作品にはあると言える。次作が楽しみだ。

  • 子供と医療を軽視する社会に、未来なんてないわ。(上P91)
  • わたしはね、負けてはダメと言っているんじゃない。負けてもいいの。人間なんて必ずどこかで負けるんだから。だけど怪我をしないような負け方を覚えないと、ね。(上P182)
  • 霞ヶ関の住人はみんな数字のカルトマニアだ。(下P72)

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2008年9月27日 (土)

治療塔惑星

 大江作品の中で女性が語り手となることは少ない、と前作「治療塔」の解説に書かれていた。今作品の解説では、まさにその女性性こそが本書のテーマではないかと書かれている。治療する者としての女性の存在を「治療塔」になぞらえていると。
 そう言われれば、そのように読むこともできるが、私としては、語り手であるリッチャンとお祖母さんが、治療塔を巡っての活動や戦争すらする男たちを見守りつつ、自分たちは自然の摂理に従って老い、死んでいこうと言うところに興味が引かれた。世界宗教の構想なども描かれているが、治療塔とは果たして人類にとっていかなる存在なのか。
 前作の感想にも書いたが、大江健三郎にしては大変読みやすい作品だ。これが書かれたのは、「燃えあがる緑の木」の前(ノーベル賞受賞前)の1991年。もう17年も前のことだが、ようやく文庫本となり、こうして私たちの前に読みやすい形で帰ってきたのはうれしいことだ。

  • しかしリッチャン、私らはやはりこの現実世界に生きておるのであって、苦しい失望をするかと思えば、桜の花ざかりにも出会うわけですもの。いのちなりけり、ですよ、なんとかがんばりましょうな!(P86)
  • 私はタイくんより早く、朔ちゃんよりも早く老いて、自然な生き死にの過程を辿りたい。そのなかでなければ自分のものにならない老いさらばえた年を、犬の尻尾のようにくっつけて、死のおとずれを空のちぎれ雲か鳥のさえずりと受けとめていたい・・・ むしろその上でこそ本当に新しい生命の再生があることを、イェーツの詩はあらわしている。(P161)
  • 自分は広島の「原爆ドーム」にまさに「崇高なもの」と「無気味なもの」を見出したと思う。しかもその時点で、自分はそれを「治療塔」に結んでもいた。そのように受けとめる時、じつは自分がはるかな以前から「治療塔」に慣れ親しんできたと感じるのだ。それも大出発につづく「新しい地球」での「治療塔」経験すらの、はるかに以前から・・・(P248)

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2008年9月20日 (土)

ハイエク

 有名ブロガーでもある池田信夫の言説は、自由主義的で好きではないが、知的所有権に対する批判などには納得できる部分もある。ハイエクという経済学者については、その名前しか知らなかったが、最近耳にすることが多い。書評を読んでも好意的なものが多いので、読んでみることにした。
 池田氏によれば、ハイエクの主張も時代によって変化しているようだが、自由を信奉する姿勢は変わらない。というより、ハプスブルグ帝国が崩壊する19世紀末に生まれ、混乱と貧困の社会不信の中で育ったハイエクには、人間が理想的な社会経済をコントロールできるとする社会主義的な考え方に対する不信感が根にあると言える。そもそも社会全体の目的が特定できない、という指摘が繰り返されるが、その中で、自由を保障することで、社会は進化論的に変化するという思想はわからないではない。
 しかし、たぶんそれは人間社会を生き延びさせる上で最適な社会システムかもしれないが、そのシステムが人間にとって幸せかどうかはわからない。いや人間もそれぞれで、全員が幸せな社会なんてないだろう。
 インターネット社会を肯定する池田氏の思想は理解するが、それを支持することが自分自身の幸せにつながるかどうかは自信がない。人は正しい理論を認めるのではなく、自分に有利な理論を認めるものだから。しかしわからないでもない。池田信夫Blogをこれからもウォッチしていこう。

  • ハイエクにとっては、市場の問題は長期的には市場が解決するはずだったが、ケインズにとっては「長期的にはみんな死んでしまう」のだ。(P44)
  • このように自由度を最大化するようなルールが望ましいというハイエクの発想を、ハイエクは「ルールの功利主義」と呼んでいる。つまり、効用を最大化するという目的には意味がないが、人々の自由度を最大化するルールを設計することが、自由な社会を建設するためには重要なのである。(P136)
  • 彼は「不安定な職業についている人々に万一の場合の最低生活を保障する」ことは否定しないが、その措置は市場のルールとは別の例外的なものであり、社会正義といった大原則から導かれるものではない。(P165)
  • 「ブルジョア社会は、自分が呼び出した地下の魔物をもう使いこなせなくなった」のだとすれば、それをふたたび地下に戻すことはむずかしい。このグローバル資本主義という魔物とうまくやっていくためにも、その基本思想であるハイエクを理解することは役に立つだろう。(P196)

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2008年9月 9日 (火)

ローマ人の物語12 迷走する帝国

 「ローマ人の物語」文庫版の最新巻「迷走する帝国」が発刊されたのでさっそく購入。時代はいよいよ3世紀、五賢帝に続き何とか帝国の権力を保っていたセプティミウス・セヴェルス帝が倒れ、皇帝はカラカラ帝に引き継がれる。しかし失政を重ねる中、謀殺によりその治世はわずか6年で終わり、次々と新しい皇帝が立っては代わっていく混迷の時代に入っていく。
 混迷の要因は、皇帝の失政ということもあるが、蛮族の侵入の激化やササン朝ペルシアの興隆などの外的要因による部分が大きい。こうした環境変化に対して、相変わらず無責任にして体面ばかりを重んじる元老院と属州で蛮族等との戦いに奔走される軍団との確執の中で的確な対応ができず、ますます衰退への歩みを早めるローマ帝国。73年の間に22人もの皇帝が次々と現れ消えていく物語は、読んでいる限りでは変化に富んで面白い。そしてその姿に、現代日本を重ね合わせてしまう読者も多かったのではないか。
 「ローマ人の物語」を通して個人的に関心があったテーマの一つに、「多神教が特徴であったローマ帝国が、なぜキリスト教を受け入れ、キリスト教国家に変貌していったのか」がある。次巻で取り上げられるはずのコンスタンティヌス大帝の時代に、キリスト教の公認があり、そこからローマ帝国のキリスト教国化が始まるが、その要因はこの3世紀にあるとして、第二部第三章「ローマ帝国とキリスト教」でこの問題を取り上げ考察している。結論的に言ってしまえば「ローマ帝国の衰退が始まったから」ということではあるが、ローマ史を取り上げた歴史家のギボンとドッズの批評を取り上げつつ、筆者独自の考えを重ねて書かれた内容は興味深く、かつ説得力がある。
 いつの間にかこのシリーズは年1回発行となったようだ。それくらいがちょうどよいかもしれない。次巻は来年のお楽しみ。

●属州民とローマ市民の境を撤廃したことで、「アントニヌス勅命」はかえって、ローマ社会の特徴でもあった流動性を失わせてしまったことである。(上P47)
●平和は最上の価値だが、それに慣れすぎると平和を失うことになりかねない(中P129)
●不安に満ちた時代に生きる人々は、寛容でリベラルなものよりも、不寛容で全体主義的でさえある信仰のほうに、より強く魅きつけられるものなのである。(下P184)
●キリスト教の勝利の要因は、実はただ単に、ローマ側の弱体化と疲弊化にあったのである。(下P207)

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2008年8月29日 (金)

ほんとうの環境問題

 「ほんとうの環境問題」というタイトルと、池田清彦の名前に惹かれて購入してしまった。しまった! 養老孟司の名前を借りて、洞爺湖サミットに合わせて出版されたトンデモ本の一つ、という括り方もあるかなあと思うけれど、内容がトンデモ話という訳ではない。しかし、対談や談話を書き起こしたような内容で、洞爺湖サミットを契機に少し環境問題に関心を持った一般読者向けの大衆本という体裁。
 「環境問題とはつまるところ、エネルギーと食料の問題である。」(P5)とか「実は環境問題とはアメリカの問題なのです。・・・簡単に言えばアメリカ文明とは石油文明です。」(P16)といったフレーズにはなるほどと切れ味のよさを感じる。「ほんとうの環境問題」というタイトルもまさに二人の問題意識を示している。環境貢献という心地よい言葉ではなくて、本当のところ今を生きる自分がすべきこと、できることを、環境問題を離れて考えるとき、そこにこそ「ほんとうの環境問題」が立ち現れるような気がする。人間の生と環境の関係として。

●環境問題とはつまるところ、エネルギーと食料の問題である。・・・未来のエネルギーを確保するためにどういう戦略が必要なのかこそが、日本の命運を左右する大問題なのだ。地球温暖化などという些末な問題にかまけているヒマはない。(P5)
●実は環境問題とはアメリカの問題なのです。つまりアメリカ文明の問題です。簡単に言えばアメリカ文明とは石油文明です。(P16)
●環境問題にはある種の「流行」のようなものがある。・・・とにかくいまは、CO2による地球温暖化が環境問題における最大の「流行」になっているのだ。(P43)
●世の中は変わる。そのなかで、ベストの方法を考える必要がある。そのためには原理主義的にならないで、バランスを考えてやっていかなくてはならない。(P110)

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2008年8月27日 (水)

異邦人

 内田樹の構想主義に関する本を読んでいると、カミュの名前が何度も出てくる。そこでついに「異邦人」を読むことになった。名作をろくに読まずこの年になったけれど、若い頃に読んだ名作をどこまで理解してきたか心もとない。もっともこれだけくっきりしたストーリであってみれば、当時熱狂的に迎えられたということも理解できるし、年相応の理解が可能だろう。
 不条理が問題なのではない。不条理とどうつきあうかが問題なのだ。そしてそういう社会の捉え方、生き方が構造主義的かもしれない。
 サルトルは若い頃読んだが、今となっては何も覚えていない。今になってサルトルとカミュの論争を読むのは、人生の無駄だろうか。少し興味を覚えた。

●「ゆっくり行くと、日射病にかかる恐れがあります。けれども、いそぎ過ぎると、汗をかいて、教会で寒けがします」と彼女はいった。彼女は正しい。逃げ道はないのだ。(P21)
●結局において、ひとが慣れてしまえない考えなんてものはないのだ。(P119)
●このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。(P127)

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2008年8月23日 (土)

現代思想のパフォーマンス

 神戸女学院大学文学部の二人の英才、難波江和英氏と内田樹氏とによるソシュールを始めとする6人の現代思想家(他に、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイード)の解説書である。解説書であるが、案内編、解説編に加え、実践編が加わっている。解説された各思想を映画や小説評論に適用することで、今まで漫然と読んでいた作品がいかに違った映像でくっきりと見えてくるかを実践し示している。
 まえがき、あとがきでも書かれているが、基本的に現代思想に関心を持つ学生や院生を対象に、現代思想への誘引を目論んでいる。今まで読んだどの解説書よりも非常にわかりやすく書かれている。しかし「新書版のためのあとがき」の最後には、「中には、かなり単純化した解釈を施しても見せたものもある。でも、それはその解釈で『解釈を終わらせる』ためではむろんない。そうではなくて、読者の中に『そんなわかりやすく書いていいんですか、ほんとに?』という懐疑を誘発するためなのである。その懐疑から、みなさんのパフォーマンスは開始されるはずである。」(P430)と書かれている。そう、あくまでよくできたプロバガンダ書なのである。
 そう言われても、若いみなさんと違って、この年になってこの本を読んだ私としては、新たなパフォーマンスを開始する元気はないが、いつまでも書棚に並べて、何か疑問が出たときに振り返る本として重宝することになると思う。よくできた本である。

●夢は、わたしたちが知らなかったことを教えてくれるのではなく、わたしたちが知っていたにもかかわらず、知らないと思いこんでいたものを思い起こさせてくれる。(P65)
●わたしたちは「あるがままの事実を見ている」のではなく、「解釈された意味を読んでいる」。そのことを絶えず自分に言い聞かせておかなければならない。「ソシオレクト」と「神話」の檻の幸福な囚人でありたくないなら、わたしたちは自分たちとはちがう解釈の仕方でも世界は「読める」という事実を絶えず思い起こさなくてはならない。(P110)
●分析医のところに来る患者はある意味で「石化」している。患者は経済活動ができないか、コミュニケーションができないか、愛を成就できないか、(レヴィ=ストロースの言う)「交換の三次元」のどこかで停止している。治療とは、患者をその停止状態から動かし、交換の運動に巻き込むことである。(P313)
●鏡に映ったイメージは、どう言いつくろうとも「私そのもの」ではないからである。つまり、人間は「私ならざるもの」を「私」と誤謬することによって「私」を形成するのである。「私」の起源は「私ならざるもの」によって担保されており、「私」の原点は「私の内部」にない。これが人間的事況である。(P315)

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2008年8月10日 (日)

こんな日本でよかったね

 副題は「構造主義的日本論」。それはそのとおりだが、「『構造主義』がわかるとちがう日本が見えてくる」という帯はいかがなものか? 確かに内田樹が説く教育論や格差問題、日本辺境論などは面白いが、だから構造主義がわかるというものでもない。しかしメディアが報じる偏見的社会観を疑い、ウチダ的視点から社会を見直すのは、社会に対する視座を客観的なものとし、精神衛生上もよい。
 「404 Blog Not Found」で小飼弾氏が「著者自身が、日本という構造による受益者なのに、その負担を「他の日本人」、もっと具体的には「著者より若い日本人」に求めているようにしか読めない」と書いているが、確かにそうした読み方もあるだろう。何より帯を批判しているのには同感。でも、そんな日本の中でどう生きていくのか(どう変革するのかではなく)と考えたら、内田氏の構造主義的社会観は大いに参考になると言える。

●人間が語るときにその中で語っているのは他者であり、人間が何かをしているときその行動を律しているのは主体性ではなく構造である、というのが本書の主な主張であります。(P005)
●言葉には現実を変成する力がある。・・・言葉によって足元から揺り動かされる経験に比べれば、作者の意図なんかどうだってよい。(P028)
●「金のことをつねに最優先に配慮する人間」は私の定義によれば「貧乏人」であるので、格差社会の是正のために「もっと金を」というソリューションを提示し、それを支持する人々は、論理的に言えば、これまでもこれからも未来永劫に「貧乏人」であり続ける他ないと思うからである。「格差社会論」に基づく社会改良政策はますます「金で苦労する人」を増やすだけだろう。(P115)
●「誰の責任だ」という言葉を慎み、「私がやっておきます」という言葉を肩肘張らずに口にできるような大人たちをひとりずつ増やす以外に日本を救う方途はないと私は思う。前途多難だが、それしか方法はない。(P177)
●おおかたの人は誤解しているが、願望達成の可能性は、本質的なところでは努力とも才能とも幸運とも関係がなく、自分の未来についての開放度の関数なのである。・・・未来の未知性に敬意を抱くものはいずれ「宿命」に出会う。未来を既知の図面に従わせようとするものは決して「宿命」には出会わない。真に自由な人間だけが宿命に出会うことができる。(P210)
●悲しい話だが、正義の実現と無償の贈与は両立しない。正義は「奪われたものを奪い返す」ことを求める。だが、無償での贈与は正義に悖る。正義は「赦すこと」を許さないからだ。(P227)

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2008年8月 8日 (金)

逆接の民主主義

 「逆接」とは「逆説」ではなく、対立する語句を結びつけるという意味。通常の民主主義を乗り越え、「民主主義以上の民主主義」を提案する。それは、対立する両者の問題解決を図るために、第三者的委員会方式を導入し、かつ当事者は委員会には直接コミットせず、媒介者を通じることで、当事者が必然と信じていた者を偶有的なものへと転じ、客観的な判断・結論に導くというもの。読めばそんな気もするが、提案が非常にテクニカルなのに対して、これをラカンやロールズ、ジジェック等の思想を総動員して証明していくのは、かなり難解。それでも、民主主義の限界やグローバル化批判には納得する。
 そもそも雑誌に連載した社会・思想に関する時評をまとめたもので、(1)北朝鮮を民主化する、(2)自衛隊を解体する、といった具体的な問題に、筆者なりの具体的な提案をしている。例えば、前者については、「北朝鮮難民を積極的に受け入れることにより、北朝鮮の民主化をめざせ!」、後者については、「自衛隊を解体し、内紛地帯に飛び込み難民に直接援助をする部隊Xをつくれ!」と提言する。
 そしてその筋道で、ハーバーマスとデリダの論争やキリスト磔刑の意味を問う。その理論展開を追うのがとても面白い。なかなか刺激的な論文である。

●真の赦しは、・・・未だに謝罪していない者への赦し、赦しえない者への赦ししかない(P86)
●民主制は、多数者による少数者の支配の制度化であって、決して、すべての被支配者の合意によって支えられているわけではない。・・・民主的な政治過程の核心的な特徴は、合意の創出にあるのではなく、非合意の可能性を留意している点にこそある(P103)
●制度化された社会秩序の中で位置づけをもたず、公認の誰の意思をも直接には代表しない、排除された他者を、普遍的な開放性を有する社会の全体性と妥協なく同一視してしまうこと、これが・・・来るべき民主主義の基本的な構想である。・・・「われわれ」の共同体の中に侵入している「他者」こそ、今述べた、逆接的な民主主義の開放性をもたらす「排除された他者」以外のなにものでもない(P233)

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2008年8月 3日 (日)

パレード

 「センセイの鞄」のサイドストーリー。センセイとツキコさんの、暑い土曜日の昼下がりのひとときに、ちゃぶ台を挟んで寝転びながら語る昔話。子どもの頃、みんな、あなぐまやろくろ首や砂かけばばあなどの妖怪に守られながら育っていた。そしていじめに悲しむ天狗。なつかしくあたたかくほっこりとした川上ワールドが広がる。
 でも、そろそろ卒業してもいいかな、と思った。あたたかいだけではない世界に向けて。ありがとう、川上弘美さん。

●「天狗たちはツキちゃん次第なんだからね。今の関係を大事にしなさいよ。」(P41)
●突然、わかってしまいました。ゆう子ちゃんは、何かをあきらめたのです。悲しいとかくやしいとか、そういうのを捨てていたのです。祖母が息をするのをやめたのと同じように、ゆう子ちゃんは感じるのをわざとやめてしまっていたのであう。(P58)
●昔の話は、なかなかいいでしょう。センセイが言った。・・・センセイのてのひらから伝わってきた温かなものが、センセイにふれていないのに身内からわきあがった。(P74)

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2008年7月27日 (日)

宇宙旅行はエレベーターで

 図書館でいかにもSFっぽい宇宙ステーションの装釘が目に留まった。「宇宙旅行はエレベーターで」なんて、スペース・ラブ・ロマンスみたいで面白そう・・・と思って手に取ったら、これがなんと真面目な「宇宙エレベーター」技術と構想に関する一般向け啓蒙書。著者の一人、ブラッドリー・C・エドワーズは米国ロス・アラモス国立研究所に在籍していた物理学博士号を持つ科学者。宇宙エレベーターは、ロケットの最大な欠点である莫大な費用とエネルギー消費を解決して、宇宙空間へ人類を導く実現可能な技術だと言う。
 静止軌道上から上下にバランスを取りつつケーブルを伸ばしていくことで、一端は地上に、もう一端は10万km先の中空に届き、地球とともに回転する。地球から見れば宇宙エレベーターがすっくと立ち上がり静止する。そのケーブルをクルーザーが上下し、宇宙へ人類を運ぶ。読んでみれば確かにできないことではない。技術的な唯一の問題が鋼鉄の180倍の強度を有するケーブル素材の開発だったが、それもカーボンナノチューブの開発で夢ではなくなった、と言う。
 こうした基本的原理や建造方法、地上側の出発地点アースポート建設地の選定検討、事故等の安全性検討などの技術的な解説の後は、建造・運用主体とその可能性、軍事防衛上の検討など、政治的・経済的な検討まで行っている。さらに、宇宙観光旅行や月の宇宙エレベーター、火星の宇宙エレベーター、さらにその先の惑星や宇宙への旅など、夢の世界に想像力をはばたかせる。
 冷静に考えると、(筆者も指摘しているが、)NASAがロケットを捨てて宇宙エレベーターへ全面的に方向転回することの難しさや、最近の米国の経済的な変調、政治的な変動、さらには資源の問題など、筆者たちが想定するような2025〜30年の実現というのは難しいと思うが、政治経済の世界変動の中で、思いがけない方向から実現しないとも限らない。本当に実現したらどんなにか楽しいことだろう。

●1975年、ロケットはまだ宇宙に到達していなかった。しかし12年後の1969年、人類は月面を歩いていたのである!・・・宇宙エレベーターの場合は、既存の技術を再利用することができる。宇宙エレベーターの建造は、人類初の月面着陸の場合と比較しても、決して難しいことではない。(P72)
●宇宙エレベーターの場合、・・・建造に必要な費用と技術は、国家、企業、個人の各レベルで、すでに十分に手の届く範囲内にある。問題は、そのなかのどの集団、あるいは個人が、政治的課題や資本コストの問題、技術的な課題を真っ先に克服することに成功するか、ということにある。(P189)
●宇宙エレベーターは、人類に取って、宇宙への扉を最大まで開いてくれるものだと言える。残された現実的な問題は、財政的支援であり、そこから得られる収益である。また、政治的利害関係であり、需要と供給の力関係なのである。それらすべてが宇宙エレベーターの実現を左右している。(P341)

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2008年7月21日 (月)

治療塔

 大江健三郎初のSF的小説ということで当時話題になった。今回ようやく文庫本となり読むことができた。若い女性の視点から書き上げた小説という点でも、大江健三郎初ではないか。
 あからさまに近未来の時代を舞台にしたということではSF的と言えるかもしれないが、これまでの大江の世界も現実感から遊離していたことでは、ある意味SF的だったのではないか。そして、大江作品の中心的テーマである「新しい宗教」を担う「夢を見、語る人」の末裔や大江の障害を抱えた息子であるヒカリまでも登場する。そしてイェーツの詩が重要なモチーフとなり、ブレイクまでが登場する。大江文学の系譜に則った作品といえる。
 テーマは、「科学の時代の人間の罪と蘇り」といったところか。リッチャンと朔ちゃんの愛の展開は、今までの大江作品の中でも読みやすく、引き込まれるように読み終えてしまった。

●コノ地球ニ、人間トイウ意識ヲソナエタ生物ガ現れレタニハ、アヤマリダッタナ。ミシロコウシタぜらにうむヤ虎猫ニヨウナモノガ、幾千万年モ幾億年モ、晴レタイレバタダボンヤリ陽ノ光ニサラサレタリ、雨ナラバ乾イタ所ヲ探シテ眠リコンダリ、マタ眼ザメタリスル。・・・タダソウイウヨウニシテ永イ永イ時ガタツノガ、地球ニハイチバンヨイコトダッタカモシレナイ。(P14)
●《かれは刻一刻若がえってゆく》・・・《軽快な馬車に揺られ、旅しながら/かれ自身の夜明けへ向けて、/かれが苦痛あるいは喜びとともに学んだすべての/かれがなしとげたすべての/重荷の糸巻の糸をほぐしてゆく。》(P71)
●—頭の中では新しい経験をしても、そのまま死んでしまうのでは、なんにもならないでしょう?/—五億年たってみれば、私らの生はむしろ全体がそうなのじゃないか?それでも私らは意味があるとして生きて来たよ。(P94)
●かれらをあらためて受け入れているのは、やはりどんな構造も持たない、柔らかい農場だからねえ。(P189)
●「治療塔」で肉体改造を受けた人間は、地球の困難のなかで傷ついてもきた人びとのために、奉仕すべきだと思います。むしろそのためにこそ帰還したのだと、いまの僕は考えています。(P269)

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2008年7月15日 (火)

街場の現代思想

 「街場の中国論」は面白かった。本書も「街場」シリーズの第一弾として一度読みたいと思っていたら、文庫本として発行された。解説で橋本麻里が書いているように「平積みにされた本書を目にするや直ちに手に取り」買ってしまったが、まずこの解説を見てから判断すればよかったかも。「30代、未婚、子なしであるワタクシ同様の、『負け犬属性』読者の大量ゲット」が橋本氏の使命だったようだから。
 「現代思想」というタイトルから、レヴィナスやラカンなどの内田先生の専門分野に関する思想をやさしく解説する本かと勘違い。考えてみれば、レヴィナスやラカンが「現代」思想であるわけはなく、この本には内田流処世術による人生の生き方・見方がいつものとおり縦横無尽に書き連ねられている。いや、面白い。
 まあでも前半の「文化資本主義」に関する章はいかがなものか。「文化資本の逆説」で説くとおり、文化資本に殺到することで逆に階層社会の出現を先送りすることにつながる、とたとえ力説されても。階層社会を防ぐ手だてはそんなつまらない方法しかないのかと。

●歴史が証明しているのは、あらゆる組織は—世界帝国から資本主義企業まで—多様性を維持しているときに栄え、「栄えている」という事実ゆえに均質的な個体を結集させ、結果的に組織としての多様性を失って滅びる、ということである。(P111)
●知性というのは「自分の愚かさ」に他人に指摘されるより先に気づく能力のことであって、自分の正しさをいついかなる場合でも言い立てる能力のことではない。(P126)
●人間だけがして、他の霊長類がしないことは一つしかない。それは「墓を作る」ことである。・・・人間が墓を作ったのは、「墓を作って、遠ざけないと、死者が戻ってくる」ということを「知っていた」からである。・・・人間の人類学的定義とは「死者の声が聞こえる動物」ということなのである。(P159)
●人間の身体はリアルタイムに動いているのではない。ちょうどリールが釣り糸を巻き込むように、「未来」が「現在」を巻き取るような仕方で動くのである。私たちは、輪郭の鮮明な「未来像」をいわば「青写真」に見立てて、その下絵のとおりに時間をトレースしてゆく。(P176)
●想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく、「自分が『奔放な空想』だと思っているものの貧しさと限界を気づかうこと」である。(P216)

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2008年7月 6日 (日)

”環境問題のウソ”のウソ

 読み終わりました。武田教授が自分の主張を伝えるために、かなり無理な説明を重ねていることはよくわかった。それでも軍配は武田教授側に上げたいと思う。なぜなら、武田教授は環境問題に対して伝えたいことがあり、山本氏には独自の視点や主張が見られないから。唯一、環境負荷による外部費用を正確に見込めない中で、「心の中の外部費用」に従う、という説明は独創的かもしれない。しかし環境問題に対する姿勢という点では、両者ともあまり大差ないのではないか。その中でも、武田教授が伝えたい、と考えていることは拝聴に値する。
 すなわち、(1)ペットボトル・リサイクルを進めることがペットボトルの製造をますます増やし、石油の使用量を増やすことになった。免罪符としてのリサイクルに対する懐疑。(2)京都議定書は政治的な思惑が大きい。それを根拠に二酸化炭素削減施策を講じることの嫌悪。本当に二酸化炭素削減を進めるのならば、国民に対するレジ袋削減や省エネ運動よりもやるべきことがあるのではないか。(3)環境施策が合理的でない。その影に政府と経済界の癒着がないか。マスコミも政府や広告主の意向に沿った偏向的な報道や情報誘導をしている危惧がある。などだ。
 これを読みつつ、団塊の世代の前後という両者の年代差や、理系科学者と文系小説家の違いを感じた。SF小説やファンタジーなら何を書いても許されるが、科学者が一般向けに書くものには一片の間違いがあってもならない、という姿勢には疑問を感じる。武田教授にとってリサイクルや環境問題は、正確な意味での専門分野ではないと思われる。しかし自分の専門に近いところで繰り広げられている論争や政策に対して、日ごろから感じていることを書いてみた。確かに筆が滑った、または知ったかぶりをしてしまった、という部分は多いかもしれないが、その最初の直感「何か変じゃないか」は無視すべきではないと思う。「ト学会」とやらもこんな突っ込みをする暇があったら、もっと突っ込むべき対象があるのではないか。

●話しているうちに、武田教授の性格が分かってきた。この人はおそらく、自分を誠実な善人と思っている。「普通の人が読むことを想定して」本を書いているという説明を、何度も聞かされた。自分の主張を一般読者に分かりやすく伝えるのが使命だと。そのために、データを書き換えたり、一部の説明を省略してもいいと思っているらしい。(P175)
●武田教授の本の内容がすべてウソだとは言わない。正しいこともたくさん書いてある。勉強になる部分や、「もっともだ」と思う部分もいっぱいある。しかし、明らかなウソや間違いが多すぎる。だから僕は武田教授の本を信用しない。(P256)
●環境問題を憂えている人はみんな、合理的な判断から行動しているわけではない。「心の中の外部費用」を補填し、地球を救っているという安らぎを得るために、ごみを分別し、電気を節約している。(P333)

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2008年7月 4日 (金)

環境問題はなぜウソがまかり通るのか2

 2008年は京都議定書の目標期間の初年度にあたるということで、政府やマスコミが環境問題を取り上げることが多くなってきた。そしていよいよサミットが近づくにつれて、その頻度も高くなってきている。しかし日本(とカナダ)ばかりが目標を達成せず、アメリカはさっさと逃げ出し、中国やインドは知らんぷり、という状況の中で、最近はロシアの排出権を金で買って達成しようなどという話まで出てきて、どうしてそこまで達成にこだわるのか、達成できないとどのような不都合が起こるのかわからない、といった感じを持っていた。
 加えて、IPCCの第4次報告あたりから地球温暖化の二酸化炭素説というのは必ずしも確定的ではない、先進諸国が後進国の経済発展を押さえ込むための謀略だ、といった話まで聞くに及んで、いよいよ環境問題に対する関心が高まってきた。
 「疑似科学入門」も終わりに近づいた頃、ふらっと立ち寄った書店で、本書と前著「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」にその批判本「”環境問題のウソ”のウソ」が並べられていた。あまり時間がなかったこともあり、本書とその批判本を衝動買い。続けて読もうと思った次第。
 前著については、「たかじんのそこまで言って委員会」で取り上げられたこともありベストセラーになったそうだが、地球温暖化と京都議定書を中心に取り上げた本書は、当面の私の関心にもジャストフィットし、とても面白く読み進めた。そして納得。多少筆の滑っている部分もあるのかもしれないが、基本的な方向や態度は正しいものと思われる。
 これに対して続いて読もうと思う批判本はどう展開するのか。興味深いような恐ろしいような。今のところの気持ちは、本書側の圧勝、という印象なんですが、どうでしょう。

●ヨーロッパ勢の作戦は、自分たちがアメリカより強い立場にあって会議を主導できること、アメリカは抵抗せず調印し批准しないこと、中国やインドは削減の義務を負わないこと、そしてターゲットとなった日本だけが義務を負うことになること、それはやがて日本の経済発展を阻止して、自らの国の産業に利すること−それらはすべて計算済みだったと思われる。(P34)
●産業革命以来の長い歴史を振り返れば、実は「省エネルギー」は常に「経済の拡大」「物質生産の量的拡大」につながってきた。(P91)
●ゴミ焼却から発生するダイオキシン→リサイクル推進→地球温暖化への影響という3つの「虚構の環境問題」がセットになって、お互いを強め合い、環境保護に関して間違った方向に世論がつくり出され、リサイクルが推進されていった。(P166)
●リサイクルは大量消費を促進し、売上高を増やしたいと思っている人たちには最適な社会システムなのである。(P214)

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2008年7月 3日 (木)

疑似科学入門

 刊行され書店に並べられた時に買おうかなと思ったけど、しばらく見送ったら店頭でトンと見なくなった。予約してようやく入手したらもう第3版。売れてるんだ。
 疑似科学といえば、前にカール・セーガンの「人はなぜエセ科学に騙されるのか」を読んだことがあるけれど、本書は疑似科学を、占いや超能力等の第1種疑似科学、科学を乱用・悪用してビジネスと結びついた第2種疑似科学、そして地球温暖化などの複雑系ゆえに科学的に解明し尽くされていない問題を扱う第3種疑似科学と、3種類に分類している点が新しい。特に第3種疑似科学という分類は本書独自の分類だということで書評などでも評価されていた。
 この第3種疑似科学への対処法として「予防措置原則」の適用を訴えている。それもわかるが全てがそれで割り切れるわけではない。筆者自身「とはいえ、予防措置原則の誤った適用には気をつけねばならない。(P188)」と書いており、その限界も理解しているだろうが、予防措置原則で対処できない、又はどの程度で対応することが適当かさまざまな意見や考え方がある、といったところで論争になっているのだと思う。
 地球温暖化論争然り。耐震偽装事件に対する過度のピアチェック制度然り。
 結局、筆者が言うように、自分の頭で考える習慣を持つことが一番の対策なんだろうと思う。

●何より私が恐れるのは、非合理を安易に許容することで人間の考える力を失わせているのではないか、ということである。・・・考えることは他人に「お任せ」し、自分はそれを信じ拍手を送るだけの態度が蔓延していると感じられるのだ。(はじめにP2)
●インターネットという、社会に顔を見せる窓口が増えたのだから人間を解放する手段として歓迎すべきものであるのは確かである。しかし、現実においては、むしろ自己中心主義が強くなっているように感じている。他人を意識する分だけ社会性が高まったというわけではなく、自分はこうなのだと居直り、自己を正当化することが常態になっているからだ。(P104)
●地球が複雑系であるために原因や結果が明確に予測できないとき不可知論を持ち込むのではなく、人間や環境にとっていずれの論拠がプラスになるかマイナスになるかを予想し、危険が予想される場合にはそれが顕在化しないよう予防的な手を打つべきなのである。それが複雑系の未来予測不定性に対する新しい還俗で、「予防措置原則」と呼んでいる。(P147)
●「安心・安全」な社会という標語がよく使われているが、「安心」は納得して心が安定する状態であり、「安全」は環境に対する物理的な措置の問題である。(P163)

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2008年6月24日 (火)

偶然の祝福

 「失踪者たちの王国」を始め、不倫の結果生まれた少年とペットと犬とともに暮らすシングルマザーの小説家をめぐる7編の連作短編集である。子どもの頃のお手伝いさんとの物語や不倫相手の指揮者との出会い、処女作誕生の秘密など、時を前後する様々な物語がランダムに並んでいる。「偶然の祝福」というタイトルはどこからつけられたのだろう。7編それぞれが偶然の小さな出来事で彩られている? それとも、作者にとっての偶然から生まれた珠玉たちと言った意味か。
 「失踪者たちの王国」のタイトルにあるように、相変わらず小川作品では多くのモノが失われていく。モノ、ヒト、コト、コトバ・・・。それを自然に受け入れるのが小川作品の常だが、解説の川上弘美が言うように、「キリコさんの失敗」だけが、なくなったものがキリコさんの手によって蘇ってくる。いなくなってしまうのはキリコさん自身だ。思えば「博士の愛した数式」でも、失われる記憶をつなぎ止めるための装置としてのルートくんが、失われないものとしての存在を主張し、我々をほっとさせた。それゆえの大ヒットなのだろう。
 小川作品を読むとは、失われるものの対照に、本当に大事なもの、存在の根となるものを探す旅をすることかもしれない。

●みんな不意にきっぱりと行方をこらませた。・・・そして残された人々はそっと私のそばに近寄って、耳元で失踪の物語を語り、すべてを言い尽くしてしまうともう心残りはないというふうに、私の感想など聞かないまま遠ざかっていった。こうして私の耳には、子羊の毛皮や入歯や手帳のように、物語だけが残される。(P17)
●ほかの人々は残らず皆、どこか遠い場所へ旅立っていったのではないだろうか。私たちには内緒で、さよならも告げず、大事な荷物だけ持って。・・・不思議なくらい、この想像は私を辛くさせなかった。孤独にも陥らなかったし、絶望もしなかった。むしろ反対に安らかな気分にさえなれた。(P141)
●「キリコさん」の中には、まだ失われていない、そしてこれから失われないものの存在が、ある。失われず、これからも在り続け、辺りを暖めてくれるもの。そんなものたちが、作品のここかしこにひそんでいる。(P201・解説)

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2008年6月21日 (土)

イスラム金融入門

 「イスラム金融」と聞いて「グラミン銀行」のことだと思った。バングラディッシュで貧困層の主婦向けに始められた無担保小口融資制度が高い返済率に支えられ生活改善に大いに役に立っている。06年のノーベル平和賞を受賞したことで一躍有名になった。しかし、グラミン銀行は利子の取引を伴うので正確にはイスラム金融ではないと言う。イスラム金融とは、利子が禁じられたイスラム圏で、投機的行為の禁止や豚類・酒類・武器・ポルノなどの使用を禁じるなどのイスラム法「シャリーア」に適合した金融取引を指す。仕組みを見ると、投資信託を取り扱う信託銀行のようなものか。
 原油の高騰で潤うオイルマネー。9.11以降、イスラム回帰の傾向の中、昨今のサブプライムローン問題も相俟って、膨大なムスリムの金融資産が米国の金融機関等から引き上げられ、イスラム金融が世界的に拡大しているという。加えて、イスラム圏の諸国では今、オイルマネーを生かした多角的な経済施策が進められており、ポストBRICsとして注目を集めている。さらに、そのオイルマネーの投資の受け入れ先として、イスラム金融を整備する国々も多いという。
 本書はイスラム金融の説明にとどまらず、今後の経済発展が見込まれるイスラム圏やBRICs諸国の現況を網羅的に披露していくが、読みながら、こうした経済発展がもたらす地球環境への影響が心配になった。金儲けだけを考えていていいのだろうか?それとも田中宇氏が言うように、環境問題はイスラム圏諸国の発展を阻害するための先進国の陰謀なのだろうか。

●「イスラム金融」を振興していると、原油高で潤う中東諸国のオイルマネーが流入しやすくなるので、巨額のオイルマネーの受け皿となるために、あえて「イスラム金融」を発展させようという意図もあります。(P53)
●ドバイの人口は現在、140万人程度で、そのうち、UAEの人が占める割合は20%にすぎない。インドやパキスタン、イランなどからやってくる外国人労働者が経済活動を担っている。(P80)
●「MEDUSA」の4カ国(マレーシア、エジプト、ドバイ、サウジアラビア)は、リスクの大きいサブプライム担保証券などにはいっさい投資を行っていない。このため、米国のサブプライム問題の影響を受けづらいという点からも、「MEDUSA」は有望な投資先グループといえるだろう。(P97)
●サブプライムローン問題の深刻化に伴うリスク許容度の低下によって、先進国の投資マネーが新興国から引き揚げられるなか、今後は原油高で潤うオイルマネーがどこまで新興国に流入してくるかが、新興国の株式市場の好不調のカギを握る。(P165)
●アメリカ型のグローバル資本主義のもとでは、マネーが現実の経済活動を離れて暴走してしまうおそれがある。・・・その点、イスラム教の教えに従う「イスラム金融」では、マネーと現実の経済活動が密接に結びついているので、グローバリズム資本主義のようにマネーだけが一人歩きしていくようなことにはならない。(P216)

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2008年6月18日 (水)

ひとりでは生きられないのも芸のうち

 内田先生お得意のブログ・コンピレーション本。いずれもどこかで聞いたことのあるような話の繰り返しだが、それがこころよい。「そうだよな、そうだったよな」と読むたびに思い出し、自らを慰め、生きる糧としている。
 最近、内田先生のブログに、長々と批判的コメントを書き込む人が現れた。この人は内田先生の表明する思想や考え方が微温的・偽善的で我慢ならないらしく、執拗にコメントを書き込むとともに、コメント欄で内田教信者(!)とバトルを繰り返している。賢い内田教信者はとうにコメント欄を読んでいないだろうけれど、先日、少し暇だったのでコメントを読み込んでみた。うーん、疲れた。
 何が正しいのか、は結局分からないし、各人が納得した人生を歩むことしかできない。その上で、「ひとりで生きていこうなんて思わない方がいいよ」と助言をしてもらうのは、肩の荷が下りる気がする。結局、それは各人の心の問題で、しかし多数の人の考え方、行動が社会の方向を決める要素の一部になることはあるだろう。どうなってもしょうがないし、自分も同じ時を生きたという点で責任の一端を感じるけれど、同時にどんな時代であろうと、立ち会えたという喜びを感じることができればと思う。
 ひとりでは生きられないけど、ひとりで生まれて死んでいくのも事実。ならば人間関係も含め全てをトータルで受け入れて生きていくのがいいのではないか。本書の最後の2編、「あなたなしでは生きていけない」と「愛神愛隣」はそういう意味で心温まる励ましのエッセイである。だから内田教はやめられないのですが。

●「公的なもの」は盤石であるから、いくら批判しても構わないし、むしろ無慈悲な批判にさらされることで「公的なもの」はますます強固で効率的なものに改善されるであろうという楽観です。私は正直言って、この「楽観」の根拠がわからないのです。・・・もしかすると、この方々は「公的なもの」を支えてくれている専門家がどこかにいて、その人に宛てて改善要求をしているつもりでいるのかも知れません。申し上げておきますけれど、そんな人、どこにもいませんよ。(P11)
●社会的なふるまい方の根本原則はどんな場合も同じである。それは「世の中が全部『自分みたいな人間』ばかりになったときにでも愉快に生きていけるような生き方をする」ということである。(P50)
●敗者になっても命まで取られるわけではないという「お気楽」な社会でのみ「自己利益の追求を最優先する」という生き方は許される。それ以外のすべての場合においては、努力の成果は占有してはならず、つねに他者と分かち合わなければならないという「無人島ルール」が適用される。(P107)
●階層を上昇するためにいちばん有効な言葉は「ごめんね」と「知りません」である。だが、「そういう言葉を決して口にしてはいけません」とフランス人たちは子どものころから教えられている。それは下層にいるフランス人たちをそこに固定させるための階級的「陰謀」ではないかと私は思うのだが(P176)
●「強者」というのは「勝ち続けることができるもの」ではなくて「何度でも負けることができる余力を備えたもの」のことである。「弱者」というのは「一度も負けられない」という追い詰められた状況にある人間のことである。人間の強弱は最終的には「勝率」ではなく「負けしろ」で決まるのである。(P239)
●時間の中を生きるということは、未知性のうちに生きるということである。一瞬後の世界は予見不能であり、その中で自分がどのようにふるまい、どのような社会的機能を担うことになるのかを主体は権利上言うことができないという事実「から」出発することである。(P244)

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2008年6月11日 (水)

不可能性の時代

 時代が大きく変化しつつある、そうした感覚は最近誰しも抱いていると思う。気鋭の社会学者・大澤真幸氏はそれを、戦後から1970年頃までの「理想の時代」、1995年頃までの「虚構の時代」を経て、「不可能性の時代」に入っているからであると説明する。アメリカやマイホームが天皇に代わる理想を提示した「理想の時代」、東京ディズニーランドやオタク文化に代表される「虚構の時代」はある程度わかりやすい。これらについてそれぞれ1章ずつを割き分析した後に、「オタク現象」に潜む次の時代への変化、リスク社会をテーマに、「第三者の審級」(見えざる手、理性、予定説の神)の喪失・撤退が起こっていると分析し、現代は「不可能性の時代」に入っていると述べる。
 「不可能性」とは何か?ということについて、十分理解できたわけではない。しかし、第三者の審級の不在、撤退というのは実感できるし、同意する。同時に、<他者>との関係もまた。第6章の「政治的思想空間の現在」では、この「求めると同時に忌避する」という関係が「物語る権利」と「真理への執着」というテーゼに置き換えられ、多文化主義と原理主義の相克と同一といった推論に深化していく。どんどん深まる推論はいよいよ難解で追い付くのがやっと、という状況ではあるが、「超越的な他者-第三者の審級-の不在」や「求心化/遠心化」の心的活動の二重性といった説明は説得力があるし、それこそが我々の不安定な心性の源泉であると納得する。しかるにそこからの救いはあるのか?
 「結 拡がり行く民主主義」では、「小さい世界」の理論(人は6次の隔たりで世界中の人とつながる)を根拠に「活動的な民主主義」に期待と希望を求める。が、現状はまだほとんどの人がそれで救われるとは感じていないだろう。不可能性の時代。可能性は本当に「活動的な民主主義」で開かれるのだろうか。

  • リスク社会とは、「本質に関しては不確実だが、実存に関しては確実である」と言えるような第三者の審級を喪失することなのである。(P139)
  • 虚構の時代の後に、現実を秩序づける準拠点となっているのは、この認識と実践から逃れていく「不可能なもの」である。すなわち、現代を秩序づけている反現実は、直接には見えていない「不可能性」である。・・・われわれが今、その入り口にいる時代は、「不可能性の時代」と呼ぶのが適切だ。(P167)
  • 人は、<他者>を求めている。と同時に、<他者>と関係することができず、<他者>を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの<他者>こそ、<不可能性>の本態ではないだろうか。(P192)
  • 誰とも特定しえない、不定の<他者>に見られているという感覚がまずあり、その不気味さを解消し、馴致するために、その<他者>を「神」等と名づけ、意味づけることで安心感を得ているのではないだろうか。(P248)
  • 神的暴力という概念の政治的な含意は、何であろうか。それは、活動的で徹底した民主主義以外のなにものでもあるまい。・・・統治者と被治者の厳密な同一性によって定義できるような、活動的な民主主義こそ、神的暴力の理念の直接の具体化である。(P273)

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2008年5月28日 (水)

蛇を踏む

 川上弘美の芥川賞受賞作品。「古道具 中野商店」から川上作品に入った私としては、「椰子・椰子」で少し経験したとは言え、これが初のいわゆる「川上ワールド」体験。どことなく先日読んだ内田百閒を思い出す。現代版内田百閒。なるほどこれが川上ワールドか。
 人間と動物、生物と無機物、夜と昼、時間と空間、日常と非日常、規律と不定形。さまざまなモノがカタチが自由奔放にその形を変え、その変容を少しの戸惑いを感じつつも「しょうがない」「こんなこともあるのね」といった感じで受け入れていく。
 蛇が耳から体内に入り込み、蛇水が全身にくまなく行き渡っていく描写などは少しおぞましさを感じるが、快感すら感じつつ受け入れてしまう姿は実に「難儀である。」同時にユーモラスですらある。結局全てを受け入れてしまうから「なんでもあり」である。そこに女性性を感じるのは僕だけであろうか。
 表題作「蛇を踏む」の他、奇妙な慣習を当然に受け入れる家族とそんな家族ばかりの奇妙な世界を描く「消える」、変容する少女と動物を主題とした19の変奏短編からなる「惜夜記」の3編からなる。自由奔放な「惜夜記」にはさすがについていけない気分になる。おそろしや、川上弘美。

●「踏まれたらおしまいですね」・・・と言ってから人間のかたちが現れた。「踏まれたので仕方ありません」今度は人間の声で言い、私の住む部屋のある方角へさっさと歩いていってしまった。(P10)
●母にも父にも弟に対しても、薄かったり厚かったりするが壁というものはあって、壁があるから話ができるともいえるのであった。蛇と私の間には壁がなかった。(P29)
●好きが裏返って嫌いになってまた裏返って好きになってあと3回くらい裏返ってそれで少し嫌いなのよね。でもそういう嫌いの中には好きがまばらにまぶされているから、コスガはすごく気分が悪いんだわ。(P42)
●そう思った瞬間に、時間が止まり、しばらくすると、ものすごい勢いで収斂が始まった。(P118)
●永遠の象というものが西方にいると聞いたので、探すことになったのである。あまり気が進まなかったが、探すことに決まってしまっているのだった。(P149)

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2008年5月10日 (土)

高度成長—シリーズ日本近現代史(8)

 戦後10年。朝鮮戦争も終結し、日本は国際社会の中に自立していくことが求められるようになった。1955年から始まる20年間は、アメリカの顔色を窺いながら、韓国や中国その他の対戦国との戦後処理を行いつつ、国際社会での地歩を築いていった時代だった。同時にそれは現在に至る戦後日本の特異な国家性格を規定する「高度経済成長」の時代だった。日本にとって経済成長とは何だったのか。本書の最後に綴られた次の記述は、その疑問を厳しく問いかけている。

● 経済成長を目指した時代には、成長それ自体が目的だったわけではなかった。鳩山内閣の経済自立5カ年計画が5%成長を目標としたのは、未だに広範に残っていた雇用の不安や潜在的な失業を解決していくことが必要だったからである。そうした目的を失ったとき、成長は自己目的化し、日本は成長の神話を追いかけ続けることになった。(P240)

 1955年からの20年間を本書では概ね5年毎に次のように捉える。1955年から60年までの政治の季節。65年までの経済の季節。70年までの開放経済体制への移行を迫られ経済大国日本を実現していく時代。そして狂乱物価と金権政治に伴い成長が終焉する75年まで。最後の「おわりに」では80年代の安定成長を正確に捉えられずバブル経済へ突入していく時代を概括的にまとめているが、そこに描かれている社会経済や政治は、もう戦後の経済成長時代とは違う時代のものだ。ここは次巻の「ポスト戦後社会」で詳しく記述されるだろう。改めて、55年から75年までの20年間がいかに特異な時代だったのかが理解される。
 また、憲法改正問題が、戦後わずか10年の55年の時点で既に大きな政治の焦点となっていたことに驚く。「戦後60年を経て、憲法も陳腐化」という言説がいかにまやかしであったか。結局それは国際情勢の中で日本をいかに運営していくべきかという外交問題であり、政体の問題である。
 鳩山内閣から岸内閣、池田内閣、佐藤内閣と続く中で、国民の期待と失望はジェットコースターのように上下する。しかし大半は20%前後に低迷する内閣支持率の中で、次第に政治は国民から離れ、派閥や政局政治に終始するようになる。田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘とめまぐるしく首相が変わっていった時代である。政治は次第に国民から離れ、我々は経済状況にばかり一喜一憂する。政治は経済成長のためにあり、経済成長こそが国民の幸せの尺度だと考えた時代。先に引用した「成長の神話」の時代である。そうした時代が、村上や堀江を時代の寵児とするような歪んで不安定な現在日本につながっていく。近現代史を振り返る重要性の一端を認識する思いがした。

●原水爆禁止運動に象徴されるような戦後の平和運動は、憲法改正・再軍備という政権の骨格をなす政策構想の実現を、野党勢力が議会で三分の一以上を占める状況を作り出すことによって阻止した。憲法改正は鳩山内閣の重要な公約であった。(P64)
●経済成長政策を前面に出すことによって「国民に夢を与える」という選挙戦略はそれなりの効果をあげた。しかし、その限界が露呈するのにそれほど時間はかからなかった。皮肉なことに、所得倍増計画が政策の中心に据えられて以降、消費者物価の上昇など急激な成長政策がもたらす「ひずみ」が問題視されるようになったからである。(P79)
●(日韓)交渉のなかで両国間の認識の差を際立たせたことの一つに、歴史認識にかかわる問題があった。・・・外国の歴史教科書記述について訂正を求めたのは、日本が先であった。(P126)
●(佐藤内閣の)強硬な議会運営に加えて、政治体制への批判が強まったのは、カネに絡んだ政治的な腐敗が相次いで明るみに出たことであった。・・・自民党政権が長期化するなかで、政治家は利権に群がりはじめていた。(P155)
●池田内閣の懸案解決に最初の1年で精力的に取り組み、強硬な議会運営で決着を付けた佐藤内閣は、二年目以降、・・・党内の融和を優先して争点となる問題を避け、派閥内の均衡人事によって政権の長期安定を図った(P171)

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2008年4月26日 (土)

内田百閒

 内田百閒はいつか読みたいと思ってきた作家の一人だ。卓抜した随筆家ということは聞いていたが、書店で何度か「阿房列車」シリーズの一部を立ち読みしては、「難しそう。難しい割には意味なくつまらないかも」と購入までには至らなかった。
 今回ようやく手に取って、その面白さに脱帽。確かに面白く、そして意味もない。日常の些末な出来事や心に去来するつまらない事共を書き綴りながら全く飽きさせない。そこがすごい。
 なかでも「餓鬼道肴蔬目録」には面食らった。解説の赤瀬川原平も書いていることを繰り返すのも芸がないが、戦時中で食物が乏しい中、記憶の中のウマイ物、食べたいモノを書き記す、としてただただ食べ物の名前が延々と書き連ねられている。「とにかくシルエットとしては現代詩である」(P459)という解説文には思わず笑い出す。
 もう一つ気に入ったのは「無恒債者無恒心」。借金を重ねる自分を開き直って「お金の有り難味の、その本来の妙諦は借金したお金の中にのみ存するのである。」(P352)とのたまう。確かに百鬼園先生、ただものでない。
 根っからの随筆家かと思ったら、初期には夏目漱石の門下生にして短編小説を書いていた。この作品集にも前半の1/4程は短編小説が集められている。これがまた不思議な作品ばかりである。夢を綴ったに違いない。先日読んだ川上弘美の「椰子・椰子」と同様の奇想天外な話がいくつも集められているが、いずれも夢のように不思議な感慨を残してすっと消え去っていく。「山高帽子」や「サラサーテの盤」のような私小説もなかなか味があって、しかし切れのいいビールのように嫌な後味を残すことなくすっきりと消え去る、読み心地の良さ。
 こうした切れや読み心地感こそが内田百閒の神髄かと思う。面白い。

●私は早く飯が食い度くて堪らない。けれども、山東京伝は、食えとも何とも云ってくれない。食えとか何とか云うのが、厭なのかも知れない。そうだと、無闇に遠慮しているのは、却って悪いかも知れないから、食おうかと思った。けれども、そうでないのかも解らない、今丁度食えと云おうとして居るところかも知れない、すると私が無遠慮に箸をつけるのも、亦よくない。(P20)
●西の空の果てまで晴れ渡っているので、夕日が赤赤と辺りを照らしているのに、何となく物の影が曖昧で、道端の並樹も暗い様であった。(P229)
●厭うべきはお金である。お金があっては、道を修め、徳を養う事は出来ない。・・・自分が汗水たらして、儲からず、乃ち他人の汗水たらして儲けた金を借金する。その時始めてお金の有難味に味到する。(P352)

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2008年4月11日 (金)

ニシノユキヒコの恋と冒険

 五十肩もだいぶよくなってきたが、まだまだ気を許すと再発しそうで恐い。ストレス性?なので心にやさしい読書をしようと、買い貯めた本の中から川上弘美をチョイス。
 ニシノユキヒコを巡る恋愛話が10話。それぞれ違う時代、違うシチュエーション、違う性格の女性によるニシノユキヒコとの恋愛を、女性の目から綴る連作という仕立て。「クールに見えるけれども、存外勤勉で努力家の、西野くん」(P132)は、「するりと女の気分の中にすべりこんでくる種類の男性」(P200)、「女自身も知らない女の望みをいつの間にか女の奥からすくいあげ、かなえてやる男」(P201)である。男性からすればうらやましいような気もするニシノユキヒコだが、実は自分のために愛を求め女性を求める情けないダメ男である。人間的にあまり魅力があるわけでもない。だからこの本はニシノユキヒコの物語ではない。実は男性は誰でもいい。女性の愛と恋の物語である。
 10の愛の形。女性たちは意外に冷静で計算ずくで自立している。そして恋に落ちる自分をコントロールし、確信的に身を委ね、冷徹に別れを告げる。恋と性と生の間の微妙なバランスを生きていく女性たち。女性の読者からは彼女らはどのように映るのだろうか。作家の藤野千夜は解説を次のように締めくくっている。「ニシノユキヒコとは、私たちがつかみそこねた愛の名前なのだ」(P279)

  • 久しぶりに、お腹に穴が開いて空気が漏れていってしまうような心もちになった。(P15)
  • てのひらに濃い色の油絵の具がついて、洗っても洗っても落とせなくなったときみたいな気分になったわよ(P16)
  • たとえばそれは永遠という言葉にまつわることごと、なのかもしれない。ひとのあたたかな息づかいの中にある、かすかな匂いをはなつもの、なのかもしれない。空や流れる水や地面がもたらしてくれるしっくりとしたかぐわしいもの、なのかもしれない。ユキヒコは、そういうものがこわくて、そういうものにつながっている女の子たちがこわくて、決して女の子たちを好きにならなかったのだ。(P79)
  • とめどないこの世界の中で、自分の居場所をみつけることが、できるのだろうか?(P270)

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2008年4月 9日 (水)

未亡人の一年

 五十肩から回復し、春の陽気に浮かれて家庭菜園を少しがんばったら、五十肩が再発! 新年度早々、異動もあって新しい職場、新しい同僚となじむ間もなく休みの日々。つらい。
 ストレスが原因と言われ、布団に横になりつつ読んでいたこの本がまたストレスの一因? 性描写の連続、なかなか進展しない展開にイライラ。それでも長引く痛みの中、ようやく読み終えたと思ったら、パソコンが故障。五十肩にパソコン故障。泣きっ面に蜂。
 上巻の裏表紙に「母の不倫の現場を目撃するという出来事が4歳の少女の心に残したものは・・・」といった趣旨の作品紹介が書かれていたが、そのことが彼女の人生を変えたといった類の話ではない。どちらかといえば不倫相手の14歳の少年、エディの方がショックは大きかった。第1部は多感な少年エディの物語で終始する。二人の兄の死亡事故とその代償のように生まれた少女。少年たちの死から立ち直れない母と良心の呵責も見せず浮気を繰り返す父。崩壊しつつあった家族の中に送り込まれた少年はそこで初めての性と恋を経験し、やがて母は家族を捨てて家出する。ジョン・アーヴィング独特のユーモアさえ感じさせる筆致で、物語は意外に明るい印象で読み進められる。
 性と暴力を、明るさとユーモアで、生と人間性の物語に変える。ジョン・アーヴィングの小説を一言で言ってしまえばこう言えるかもしれない。
 約30年後、エディと当時少女だったルースは作家となっている。第2部はルースを巡る愛の物語。父への愛、母への想い、そして恋愛できない自分への思い。父と同様、セックスをゲームのように生きる友人やレイプシーンなどを交え、性と愛を問い、アムステルダムの飾り窓地区を歩き、売春婦と交流する。そして懇意となった売春婦の殺人現場に立ち会う。
 さらに5年後の第3部。ヨーロッパから帰り、父の自殺を聞き、かねてよりの求婚者アランと結婚。しかし程なく夫が死に、未亡人となる。アムステルダムの頃から温めてきた構想をようやく結実させて新作を公表。それが縁で、殺人事件の担当警察官だったハリーと結婚。ようやくたどり着いた幸せな生活。母マリアンが出奔後40年以上経ってようやく旅だった地に帰ってくる、エディとともに。
 最後は大団円となるが、そこに至るまでの複雑な物語展開に翻弄される。主人公や登場人物が軒並み作家や編集者等で、小説の意味や物語性を問う記述が多く散見される。その点も興味深い。
 読み終わるとともにようやく五十肩も快方に向かってきた。それが何よりうれしい。この小説に治癒力があったのか、それとも回復を遅らせていたのか。心に堪えたことは間違いない。

●彼女を失ってはじめて、彼には言うべきことができた。マリアンなしの人生について考えることで、エディ・オヘアは書くという権威を手に入れた。(上・P226)

●よい物語を想像でつくりあげなければならない。そして細部を本当のことに見えるようにしなくてはならない。細部を本当に見せようとするには、本当の細部をいくらか使うのが有効だ。・・・重要なのは観察だ。(下・P87)

●小説家としてのダッシュ夫人は、実在の人物を書くことを軽蔑していた。それは想像力の欠如だと考えていた。(下・P147)

●作家が抱える問題とは、進行中の小説について考えるのをやめようとしても、想像力は働きつづけるということである。想像力はとめられない。(下・P211)

●小説家は世界の変革者ではない。彼らはただ、ふつうよりはましな物語を語る物語作家だった。そして、なかでもよい作家は信憑性のある人物を登場させる。(下・P288)

●ハリーの考えでは、キリスト教徒はいつもなにかをほしがっていた。いまリアドン夫人がほしがっているのは、自分に対する許しの言葉だ!(下・P408)

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2008年3月23日 (日)

椰子・椰子

 不思議なタイトル。「長男が小さいころ・・・『おやすみなさい』のことを『やしやし』って言ってたので」(P120)。不思議な話の数々。「もともとこれは自分の夢日記から始まったものなんです」(P120)。
 春夏秋冬。春に15日分、夏に14日分、秋に22日分、冬に11日分の日記と各季節4つの短文+「ぺたぺたさん」のおまけ短文。挿絵の山口マオ氏との対談(挿絵がまた秀逸)まで、楽しさ満載。
 夢と言われれば確かにそんな、突飛、荒唐無稽、ご都合主義な楽しい話がいっぱい。それでもそのゆったり感、まったり感、ほんわか感、ふわふわ感がとっても気持ちいい。これが噂の川上ワールドか。いや、「センセイの鞄」や「古道具 中野商店」にも通じる懐かしさややさしさも感じられる。全体を通して川上弘美。アタリマエ。しばらく川上弘美、読み続けよう。

●二羽ともいちいち素直にうなずいていたが、話が終わると声をそろえて、「鳥の理性はあてにできませんぜ」と叫び、笑いながらどこかに遊びにいってしまった。(P24)

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2008年3月 8日 (土)

疲れすぎて眠れぬ夜のために

 この本は内田樹初の「語り下ろし」本だと言う。「語り下ろし」? 「書き下ろし」かと思って読み過ぎて「ん?」と戻って見直した。10時間余りも編集者たちの前で、時にワイン片手に語り続け、テープ起こしをしたら「はい、出来上がり」。
 んな訳には行かず、その後、全面書き直しの悪戦苦闘が待っていた、というのが「文庫版のためのあとがき」に書かれたオチだが、確かにそうして出来たと思わせないでもない。何より、他のブログから作った本に比べ、全体に流れがある。前出の言葉や文章を受けた記述がここ彼処に見られる。全体としては、「生きるということ」、「働くということ」、「身体」、「アイデンティティ」、「家族」と大きく5つの章に別れているのだが、章をまたいで遥か前の表現を受けて「前にも言ったように」と書かれる箇所が何カ所も見られる。そうそう、「言ったように」とまさに語りの言葉で記述される部分も多い。
 そうしたこの本独自の特徴はさておき、そればかりでは先生指摘の「午後5時11分01秒と02秒の間の黄昏の色調の差異」の析出に夢中になっているだけの人間になってしまう。でも内容はいつもの内田節。その変奏を楽しむのがファンの心理にして真理。
 注意深く読めば、「利己的」に生きようとすれば相当な我慢や努力を強いられ、「我慢をしない」生き方とは矛盾するようにも思うのだが、それは人生を杓子定規にとらえる囚われた生き方であって、もっと柔軟に利己的に自分らしく型を受け入れ、そうして矛盾をいっぱい抱えて生きていくのが、人間らしい生き方なんだろう。自分って存在は常に複数いて、しかも常時変化をしていく。自分のない自分らしい生き方がいいんだろうと思う。
 ところでこの本の解説、銀色夏生さんが書いている。銀色夏生って名前は知っていたけど、これまで絶対手に取ってみたことのない作家だった。今回初めてその文章を読んで、「あれ?銀色夏生って女性?」。そこで検索してみました。内田先生のブログに初めて銀色夏生さんに会った時のことが書かれていた。先生も男性と思っていたんですねえ、それも私同様の先入観を持って。そこも面白かった。午後5時11分03秒の出来事ですが。

●アメリカにはたまたま、女性が希少であるような性的不均衡の場所を二世紀にわたって維持し続けることなしには国土を開拓しえなかったという歴史的条件がありました。・・・フェミニズムがアメリカではなばなしく成功した理由もここにあるとぼくは思っています。なにしろ、これほどあからさまに女性の排除の物語を量産してきた社会は世界でアメリカだけなんですから。(P53)
●要するに、「やりとり」をするのが人間性の本質だということです。それさえ満たされれば、人間はかなりの満足を覚えることができます。「やりとり」というのは、「交換」のことです。人間は交換が好きなのです。(P83)
●「戦後民主主義」の最良の点は、社会体制は成員の同意によって作られる暫定的な制度にすぎないという、・・・リアルでクールな社会観に支えられていたということだとぼくは思います。・・・成員が民主主義社会を「信じるふりをする」という自分の責務を忘れたら、ぼくたちの社会は別の制度に簡単にシフトするでしょう。民主主義というのは、そのことを知っている人たちの恐怖心に支えられた制度です。(P97)
●神さまが心の中まで見ているのなら、心の中が正しければ、その行いや姿かたちが周囲からどう見えようと、それは副次的なことにすぎません。しかし、「人」は心の中までは見てくれません。心の中が正しくても、行いや姿かたちにそれが外形化していなければ、その「正しさ」は社会的に承認されません。だから日本の「恥の文化」は同時に「型の文化」とならざるをえなかった、ぼくはそういうふうに考えています。(P115)
●死者であれ、制度であれ、イデオロギーであれ、死に際には必ず「毒」を分泌します。・・・それをどうやって最小化、無害化するか、それを考えるのは、社会人のたいせつな仕事の一つなのだとぼくは思います。(P212)
●親権の行使に対して、親たちの兄弟姉妹が横から介入してくる、というのが、親族の基本構造です。これがほんらいは親族の最小単位なのです。・・・人類学的基準に照らして言うなら、核家族は「不完全なシステム」です。(P218)
●「温かい家庭を構成できる人間」とは「一人でいることに耐えられる人間」にことです。・・・家族は社会であり、家族は他者です。そこで人間は生まれてはじめて共同的に生きるマナーを学びます。(P229)

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2008年3月 3日 (月)

羊をめぐる冒険

 「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」と来て、僕と鼠の物語は最後に「羊をめぐる冒険」で完結する。ジェイに見守られて。美しい耳のガールフレンド、いるかホテル、羊博士、羊男・・・ユーモラスで魅力的なキャラクターに囲まれながら、僕の、星形の斑紋を持つ羊と鼠を追う冒険は、最後に北海道の奥地で謎めいた大団円を迎える。
 読みながらこれは「海辺のカフカ」に似ているな、と思った。いや順番から言うと逆なんだけど、似ているということ。
 内田樹に触発されて読み始めた青春3部作。村上作品は全部読んで来たと思っていたけど、家に本が見当たらず、「1973年のピンボール」と「羊をめぐる冒険」は今回新たに購入してしまった。でも少なくとも「羊をめぐる冒険」は前に一度読んだ事がある。楽しい作品は何度読んでも楽しい。ウキウキ。
 村上春樹の魅力は主人公(多くの場合「僕」)が実に普通に肩肘張らず日常を送っている、平凡な存在だというところだ。ジャズを好んだり、バーでビール飲みながら時間を過ごすのは、本当のところは自分とはすごく違うけれど、なぜか
同一感を感じる。人生なんて意味ないよ、なんて一般論で自分を慰めつつ平凡に生きようとする。そんな僕=読者自身がいつしか非日常の世界にスリップして世界滅亡の邪悪な陰謀を未然に防いでいく。とってもハートウォームでワクワク。
 これだから村上作品はやめられない。次は「ハードボイルド・・・」にしようか「ノルウェイの森」にしようか。どちらもけっこう忘れてしまっているし。

●「それはあなたが自分自身の半分でしか生きていないからよ」と彼女はあっさりと言った。「あとの半分はまだどこかに手つかずで残っているの」(上P77)
●「何故だ?俺の知らないところでいったい何が起こっているんだ?」「縁の下で名もない小人が紡ぎ車をまわしているんだよ」(上P108)
●たとえ何が起こるにせよ、まだ何も起こってないんだ。そして何かが起こったとすれば、それはもう起こってしまったことなのだ。(上P114)
●「細胞は一ヶ月ごとに入れかわるのよ。こうしている今でもね」彼女はほっそりした手の甲を僕の前にさしだした。「あなたが知ってると思ってるものの殆どは私についてのただの記憶にすぎないのよ」(下P26)
●ジェイ、もし彼がそこにいてくれたら、いろんなことはきっとうまくいくに違いない。全ては彼を中心に回転するべきなのだ。許すことと憐れむことと受け入れることを中心に。(下P178)
●俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。(下P228)

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2008年2月16日 (土)

センセイの鞄

 この「センセイの鞄」は2001年のベストセラーだったと言う。特に中高年男性に評判が良かったそうだ。私の回りでそんなオヤジは見かけなかったのでよく知らなかったが、70過ぎの老人と40前の独身女性との恋愛を描いており、さては自分もと思った輩がいたか。しかしこれは本当に恋愛小説なんだろうか。
 「これが短編小説だったら、恋愛にすら発展しなかったかもしれない。」(P296)とは解説の斉藤美奈子氏の一文だが、「古道具 中野商店」のヒトミさんに通じるぼやっとして基本的に受け身の姿勢で生きてきたと思われる女性の心情の変化が巧みに描かれ、静かにほんわかとした気分になる。まさにそこにこそ、作者の書きたかったことなのではないかと思う。多分、中年オヤジよりはツキコと同年代の女性たちに支持されただろうナア。
 「あわあわ」と流れる時間。「ぼわぼわ」としたおしゃべり。「ほとほと」と扉が叩かれ、かもめは「ざわざわ」。「ふわふわ」とした笑い。「ごつごつ」と目のつんだ木綿豆腐。・・・川上氏の小説はこうした重ねられた擬音語のような表現が彼処に書かれ、時の流れをやさしく後押しする。それも魅力の一つ。
 本書は先に読んだ「古道具 中野商店」とよく似てる。川上氏の初期小説はもっと幻想譚らしい。もう少し読み進めてみようか。

● 「まだ電池が残っているんですね」センセイは静かに言った。「モーターを動かすほどの力はないが、ほんの少し生きている」・・・「ほそぼそ生きてるんですね」と言うと、センセイはかすかに頷いた。「そのうち全部死に絶えるけれどねえ」のんびりした、遠い声である。(P20) ● それでこうしてここにいる。センセイが以前は「ちょくちょく」訪れたらしい島に。島の小さな民宿に。センセイはいつもの鞄を持って。わたしはこのために買ったまあたらしい旅行用の鞄を持って。二人で。共に。ただし部屋はべつべつに。断固としたセンセイの提言により、(P190) ● もう、どうでもいいや。恋情とかなんとか。どっちでもいいや。ほんとうに、どちらでもよかった。センセイが、元気でいてくれれば、よかった。(P254) ● 鞄の中には、からっぽの、何もない空間が、広がっている。ただ儚々とした空間ばかりが、広がっているのである。(P289)

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2008年2月12日 (火)

占領と改革—シリーズ日本近現代史(7)

 日本は終戦とマッカーサーの占領統治により、それまでの邪悪な軍国主義を一掃し、民主的な近代国家に生まれ変わった。僕たちは長らくこうしたステレオタイプの戦後観に浸ってきた。しかし本当にそうだろうか?

● 戦後は自分にとって幸福でも立派でもないと思う人々が増加し、戦後体制がゆらいでいる今、占領はいかなる位置と意味をもつのだろうか。(P193)

 日本の戦後体制が作られていく下地は既に戦争中の総力戦体制の中にあり、それどころか、総力戦体制によって、日本の社会改革が進められていた。

● 1930年代の後半から40年代前半の総力戦体制によって、社会関係の平等化、近代化、現代化が進行した。(P4)

 確かに総力戦体制にはそうした側面があっただろう。当時の政治潮流として、東条英機らが率いる国防国家派、下からの平等化をめざす社会国民主義派、吉田茂などの自由主義派、そして明治時代への復帰を考える反動派の4つがあり、反東条派の流れが日本の早期終戦を可能とし、自由主義対修正資本主義の対立構図を作っていく。それはGHQの参謀第二部と民政局との対立に呼応し、55年体制構築へつながっていく。
 政治オンチには難解な文章表現が多く、正直、未だによく理解できない部分も多いが、大局はそうした理解でいいと思う。この自由主義対修正資本主義の対立構図が現在の政治潮流にも脈々とつながり、グローバリズムという新自由主義のお化けとなって日本を世界を覆っている。現代の幸福はどこにあるのか。占領体制という歴史を客観的に評価することで、今後進むべき道が明らかになるだろうか。少なくとも我々は何に囚われているのか、そうした第3の視点から考える視座を与えてくれるのではないだろうか。

● 本土決戦が避けられたことについて、アメリカの知日派の役割や原爆投下、ソ連の参戦がその要因だったといままで説明されてきているが、必ずしもそれだけでは十分条件にはならないだろう。むしろ日本国内で降伏をきちんと受け入れることができる、そういう政治勢力があるかないか、ということが決定的な意味をもったのではないか。(P22)
● 天皇の戦争責任について言うと、少なくとも占領期にはその意思があったにもかかわらず、アメリカによって阻止され、政治体としての自立性を奪われたといえる。(P47)
● このようにして経済再建をめぐる国内中心で修正資本主義、協同主義を基調とする社会党、進歩党、経済同友会、総同盟、民政局の組み合わせが形成された。その一方、経済政策で自由貿易を実現しようとする自由主義、資本主義を基礎とする吉田茂、自由党、日経連、一時期の総評、GHQ参謀第二部、アメリカの投資家の組み合わせが形成されつつあった。(P127)
● 47年10月、ケナンは早期講和に反対して、日本経済の復興をはかって共産主義勢力への抵抗力をもつ経済的、社会的体質をそなえる必要があると主張した。・・・ケナンの主張は、・・・「対日政策に関する勧告」として結実した。・・・まさに「対日政策に関する勧告」を日本側で担う主体として吉田茂が登場し、アメリカのエージェンシーとなったのである。(P157)
● 50年代の農村社会には、「前近代的」というイメージとは明らかに異なる、青年を中心とした、文化・生産にわたって地域コミュニティを基礎とする生き生きとした諸運動があり、それが「保守化」したのは、農業生産物の商品化とそれにともなう生産基盤、生活基盤をめぐる問題からである。(P187)

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2008年2月 6日 (水)

1973年のピンボール

 相変わらず村上春樹の文体はいい。軽くて都会的に明るく乾いている。同時に、ウェットで哀しくユーモラスにして心にジンと来る。相反する印象を同時に感じることを評して、内田樹は「倍音的な文章」と言ったが、確かにそうかもしれない。
 この小説の主人公である僕と鼠も相反する精神状態の中で、それぞれの青春を生き、そして旅立つ。鼠は、閉塞感に苛まれ、無を指向する。

● どんなにあがいてみたところで何処にも行けやしないんだ、と思う。(P138)

 一方、僕はいろいろあっても前向きな態度をやめない。

● 「世の中に失われないものがあるの?」「あると信じるね。君も信じた方がいい」(P147)

 そして一度は廃棄処分されたピンボールに再会し、愛を交歓する。彼らを取り巻くジェイや双子、講師、そしてピンボールすら、彼らの回りで暖かい。救いは周囲に満ちている。僕らはそれを信じて、できることを真面目にこなせばいい。そうやさしくささやき、慰めてくれる。
 青春3部作というのだそうだけど、その第2部は、なつかしさと温もりの中で静かに幕を閉じる。

● 理由こそわからなかったけれど、誰もが誰かに対して何かを懸命に伝えたがっていた。(P6)
● そうさ、猫の手を潰す必要なんて何処にもない。・・・無意味だし、ひどすぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。(P96)
● 大学でスペイン語を教えています。・・・砂漠に水を撒くような仕事です。(P128)
● 「人間てのはね、驚くほど不器用にできている。あんたが考えるよりずっとね」・・・「ねえ、誰かが言ったよ。ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲めってね」(P144)

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2008年2月 3日 (日)

ネット未来地図

 web2.0以降、IT・ネット関連の本を各新書等で精力的に著している佐々木氏。それらの中でもこの「ネット未来地図」は、近い将来のIT界の方向を20の論点で整理しており、わかりやすい。
 20の論点はさらに5つにグルーピングされている。ビジネスとインターネット、インターネット業界、メディアとインターネット、コミュニケーションとインターネット、未来とインターネットの5つだ。プロローグに書かれているとおり、「ここに書かれている20の論点は、それらビジネスの実現可能性を包括的にとらえる試みである。」(P11)
 つい先頃、マイクロソフトがヤフーに買収を持ちかけたというニュースが話題になっていたが、一人勝ちに見えるグーグルでさえ、既に新しい波の中では旧態勢力になりつつある。それほどまでにこの世界の変化と進歩は早い。せいぜい置いてけぼりを食わないように、少しでも知識を吸収し、理解しておきたい。それにしてもTwitterは知らなかった。もうすでに遅れ気味?
 20の論点の中では、TVや雑誌、新聞などの旧態メディアの将来像を予測する部分が最も興味深かった。そして広告を越えて「リスペクト」を収益化しようという方向性が示されているが、今後の変化が楽しみだ。

● 企業買収だけで事業をドライブさせようとする企業は、最終的には新しい社会価値を生み出さない。(P64)
● 携帯電話キャリアのある中堅幹部は、私の取材にこう言った。「もう通信料では儲からない。われわれは今後、通信企業から脱皮してプラットフォームビジネスに向かわざるを得ない局面に来ているんです。」(P66)
● 規模と構造の両立があってこそ、グーグルは高い収益性を実現できたのだった。・・・規模と構造は、常にお互いの影響を与えあい、双方をドライブさせる。(P90)
● 新しいパラダイムにおいては、コンテンツそのものにこそ優位性があり、コンテナーの優位性は減衰していく。コンテンツはオープン化され、さまざまな媒体によって広く流布されていくことになる。・・・そのような状況が現出して来れば、コンテナー本位制は間違いなく崩れる。テレビの崩壊の日は今後十年以内の必ずやってくる。(P126)
● いまや閉塞しているのは都市の若者ではなく、地方の若者であり、・・・この「静かな怒れる若者たち」の流入が、インターネットのサービスのみならず、その圏域を激変させていく可能性はきわめて大きい。(P178)

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2008年1月31日 (木)

風の歌を聴け

 「村上春樹にご用心」では、村上春樹の初期の3部作、「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」からの引用が多かった。羊男や鼠、ジェイバーには覚えはあったが、どういうストーリーだったか、さっぱり思い出せないので、実家に帰った際、この本を引っ張り出してきた。読み返してみると、そう言えば昔読んだかな?
 内田樹は、基本的に村上春樹の小説は、平々凡々な日常を送る主人公が不条理な出来事に巻き込まれ、人生ってそんなもんだよねと日常に戻る話、と説明しているけど、この初期作品「風の歌を聴け」では、主人公の僕は特別わかりやすい不条理な事件に巻き込まれるわけではない。でも鼠や小指のない女が、僕に知らないところで何かに巻き込まれ、そして僕のところへ戻ってくる。僕は少しドギマギするけれど、ちょっと刺激的な夏も終わり、東京の大学に帰っていく。そんなまったり感とドキドキ感とクールさと温もりが村上春樹らしくてイイ。
 さて次は「1973年のピンボール」を読もう。

  • 僕の書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。(P7)

 何となく、「星の王子様」の書き出しを思い出す。次もいかにも村上春樹らしい表現、二つ。

  • パチン・・・OFF。(P31)
  • 店の中には煙草とウィスキーとフライド・ポテトと脇の下と下水の匂いが、バウムクーヘンのようにきちんと重なりあって淀んでいる。(P44)

 次は、村上春樹が小説を書き始めた動機か?  風に託したものとは何か?

  • 時が来ればみんな自分の持ち場に結局は戻っていく。僕だけは戻る場所がなかったんだ。・・・「これから何をする?」・・・「小説を書こうと思うんだ。(P113)
  • 文章を書くたびにね、僕はその夏の午後と木の生い繁った古墳を思い出すんだ。そしてこう思う。蝉や蛙や蜘蛛や、そして夏草や風のために何かが書けたらどんなに素敵だろうってね。(P115)
  • あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることができない。僕たちはそんな風にして生きている。(P147)

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2008年1月23日 (水)

「法令遵守」が日本を滅ぼす

 1年ほど前に発行された本で、一時書店に平積みされていましたが、最近はあまり見かけなくなったカナ。友人から借りて読みました。著者が言いたいことを要約すれば、「今の日本では、法令と社会実態とが遊離しているので、社会的要請に応えた将来に向けて継続する組織体とするためには、法令遵守だけでは不十分であるし、時に組織を破滅に導く恐れさえある。コンプライアンスという言葉がかびすましい今の時代だからこそ、法令遵守だけにとらわれず、社会的要請をしっかり捉えた的確な組織運営を行っていく必要がある。」といった感じだろうか。
 日頃からコンプライアンス(法令遵守)という言葉に違和感を持っていただけに、非常に素直に受け入れることができた。談合問題、ライブドア等の経済事件、耐震偽装事件、パロマ事件などを題材に、高度経済成長期に談合制度が果たしてきた役割などを的確に評価しつつ、マスコミや行政の機能不全が法令遵守だけを問題にするいびつな現状を助長していると指摘する展開は説得力がある。「日本は法治国家か」「日本の法律は象徴に過ぎない」といった各章のタイトルも鋭く興味深い。
 では処方箋はというと、「環境変化を迅速に感知し適応できる組織になれ」という一般的な組織論になってしまうのはしょうがない。それぞれの組織や課題に応じて、異なった処方箋があり、それが正しいかどうかは「進化」の歴史が証明するのだろう。今の時代、それがわからないのがもどかしい。

  • 競争は常に万能で、あらゆる場合に善かというと、そうではありません。競争がその機能を発揮するのは、取引の当事者に情報が十分に与えられ、自己の責任で判断できる場合です。(P37)
  • 建築の安全性を確保することに関して建築基準法という「法令」がいかに実態と乖離していたかを認識し、建物の安全を確保するシステム全体を見直していかなければ、根本的な問題解決にはなりません。(P84)
  • 大切なことは、細かい条文がどうなっているということを考える前に、人間としての常識にしたがって行動することです。・・・本来人間がもっているはずのセンシティビティというものを逆に削いでしまっている、失わせてしまっているのが、今の法令遵守の世界です。(P103)
  • 民から切断された官の世界は、法令の「内的世界」で自己増殖を続けているように思います。官僚は、自らが国家公務員倫理法の遵守を徹底する代わりに、民間企業には法令の遵守を徹底するように求めます。その法令が経済実態と乖離してしまうことが、法令遵守の弊害を一層大きなものにしているのです。(P112)
  • 私は、コンプライアンスを「組織が社会的要請に適応すること」と定義しています(P114)

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2008年1月19日 (土)

東京奇譚集

 文庫版が12月1日に発行。内田樹の「村上春樹にご用心」を読んだから、次はこの本。全部で5編の短編集。最初の「偶然の旅人」は鼻梁をなでる癖のある二人の女が同じ病で入院手術する偶然の話。面白く心に染み入るけど、期待したほどもなくあっさり終わりを告げる。村上春樹ってこんなんだったっけ、と思う。
 2作目「ハナレイ・ベイ」。おしゃれでいい話。3作目「どこであれそれが見つかりそうな場所で」。でも結局見つけることはできずに話は終わる、中途半端感。「日々移動する腎臓のかたちをした石」。主人公の書く小説と現実の恋人との離合がシンクロする。そして最後の「品川猿」も、名前を忘れるという現在と寮生活時代の過去が猿を媒体にしてつながるという話。
 全てを読み終えてみると、5編には共通の通奏低音が流れており、そのことは1作目の最初に書かれていた。人生に何らかの影響をもたらしたり、または何の影響もなかった「不思議な出来事」。時や場所やときに小説と現実など全く別のところで進行している事柄が偶然のようにシンクロするという物語。その後、何もなかったかのように時はまた日常を継続している。これを内田先生のように、雪かき仕事と邪悪なものとの邂逅と捉えるのも分かるけど、必ずしも邪悪ではない「不思議な出来事」。でもオカルトでもない。人生ってそんなもの、という感覚。

  • 実のところ僕はオカルト的な事象には関心をほとんど持たない人間である。・・・まったく信じないというのではない。その手のことがあったってべつにかまわないとさえ思っている。ただ単に個人的な興味が持てないというだけだ。・・・ただそれらの出来事をとりあえずあるがまま受け入れて、あとはごく普通に生きているだけだ。(P16)
  • 偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。(P47)
  • 彼女にわかるのは、何はともあれ自分がこの島を受け入れなくてはならないということだけだった。・・・私はここにあるものをそのとおり受け入れなくてはならないのだ。公平であれ不公平であれ、資格みたいなものがあるにせよないにせよ、あるがままに。(P90)
  • この世界のあらゆるものは意思を持っているの・・・彼らは私たちのことをとてもよく知っているのよ。どこからどこまで。・・・私たちはそういうものとともにやっていくしかない。(P166)

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2008年1月16日 (水)

村上春樹にご用心

 村上春樹は好きで文庫本になったものは全て読んでいるが、読んだ端から忘れるので昔のものはタイトルを除いてはほとんど覚えていない。内田先生の村上春樹論を読むにあたっては、正月にでも実家に置いてある段ボールからいくつか村上春樹を取り出して来ようと思っていて忘れた。手許に村上春樹本がない中でこの本を読み出すのはけっこう不安だったが、読み始めてみると何のことはない。内田先生がブログを始めあちこちで書いてきた文章を「村上春樹」で検索・抽出してグルーピング、セレクトして必要な加筆を加えて出来上がったのが本書。
 すなわち村上春樹批評本ではなく、村上春樹を引用して内田先生が書いた文章を集めたもの。もちろん、「村上春樹は実はこんなことを言いたいんだよ。」といったやさしく本質を突いた批評もあるが、村上春樹を事例の一つとして引用しました、といった文章もあって、それはそれで面白い。これならそんなに構えて読み始める必要はなかった。でもやっぱり「羊をめぐる冒険」や「「風の歌を聞け」をもう一度読んでみようかとも思った。だって面白そうなんだもん。
 第1章は「翻訳家・村上春樹」。「翻訳とは憑依することである」といった翻訳論を収録。第2章は「村上春樹の世界性」。なぜ村上文学は世界性を獲得できたのか。翻訳しても意味が変わらないことなどを示しつつ、その世界性を語る。第3章は「うなぎと倍音」。ここでは村上文学の魅力の源泉はその倍音性と「うなぎ」性にあると説く。第4章は「村上春樹と批評家」。村上春樹はなぜ日本の批評家に評価されないのか、憎まれてさえいるのか、という問いを対する内田先生の考えを示す。加藤典洋の「村上春樹 イエローページ2」の解説でもある「『激しく欠けているもの』について」が出色。最終章は「雪かきくん、世界を救う」。最後は、肩に力が抜けた気楽なエッセイが並んで、読者をやさしく日常生活へ送ってくれる。でもけっこう村上春樹の本質を突いているところがすごい、というか面白い。
 ということで、とても楽しいいつもの内田本でした。よかった、よかった。

  • 誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないと、あとで誰かが困るようなことは、特別な対価や賞賛を期待せず、ひとりで黙ってやっておくこと。そういうささやかな「雪かき仕事」を黙々とつみかさねることでしか「邪悪なもの」の浸潤は食い止めることができない。(P66)
  • 文学性とはそれが読者にもたらす「私たちは選ばれた読者であり、このマジョリティを形成するものたちとは別種なのだ」というアイデンティフィケーションの「効果」のうちにあるのです。(P145)
  • 村上春樹は、「私が知り、経験できるものなら、他者もまた知り、経験することができる」ことを証明したせいで世界性を獲得したわけではない。「私が知らず、経験できないものは、他者もまた知り、経験することができない」ということを、ほとんどそれだけを語ったことによって世界性を獲得したのである。/私たちが「共に欠いているもの」とは何か?/それは・・・端的に言えば「死者たちの切迫」という欠性的なリアリティである。・・・/村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。(P183)
  • 「自分がものを知らず、知っていることについても不完全な推論しかできない人間であることを知っている」ことだけが「より正しい推論」に至るための唯一確実な道である(P195)
  • 心を鎮めて考えれば、誰でも分かることだが、私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、懲戒的な要素もない。それらは、何の必然性もなく私たちを訪れ、まるで冗談のように、何の目的もなく、ただ私たちを傷つけ、損なうためだけに私たちを傷つけ、損なうのである。/村上春樹は、人々が「邪悪なもの」によって無意味に傷つけられ、損なわれる経験を淡々と記述し、そこに「何の意味もない」ことを、繰り返し、執拗に書き続けてきた。(P210)
  • 家族を条件づけるのは、「共生」や「充足」ではなく、「欠落」と「不在」なのだ。(P232)

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2008年1月14日 (月)

日本語は天才である

 娘が学校で薦められて図書館で借りてきた。なかなか読まない娘に代わり読了。「高校生にも読めるように」書いたとあるとおり、楽しく読みやすい、かな。まあまあ。筆者の柳瀬さんは、根室出身の英文学者で、J・ジョイスなどの翻訳がある。
 第1章は、英語の言葉遊びをいかに日本語に訳すか、という話。onionに穴二つ。ところがたまねぎにも穴二つ。ほら、「ま」と「ね」の中に。素晴らしい。第2章は漢字と日本語の関係。漢字からひらがなが生まれ、国字が中国に渡り中国語に取り入れられる。第3章は、日本語には侮蔑や悪態の言葉が少ないという話。第4章は敬語。第5章はルビ。第6章は方言。第7章は「しち」と「なな」について。第8章はいろは48文字を1回ずつ使った筆者創作の言葉遊び、アナグラム。
 ひらがな、カタカナ、漢字、記号、ルビ、外国語、なんでも取り入れ消化する。1字に必ず音が付くので並べ替えも自由自在。そんな日本語を筆者は「天才」と讃えます。たしかに、なかなか、面白い。

  • 日本語は胃袋が強い。そういう横文字記号を受け入れても、胃痛や胃痙攣を起こしたりしない。むしろ、使い方次第でたいへん便利な筆記具を手に入れたわけです。(P82)

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2008年1月 7日 (月)

古道具 中野商店

 年末のブックオフで105円で売っていた。定価は1400円。2005年発行なのにわずか3年で105円。川上弘美にはしばらく前から関心があったので、いい機会と購入。正月休みはこれを読んで過ごした。
 正月に読むような景気のいい話でもない。中野商店という名の古道具屋を舞台にまったりと進む若い男女の恋愛話。主役が本当にヒトミとタケオという二人なのかどうかはよくわからない。本当は「中野商店」かも。やる気があるのかないのかわからない店主の中野と恋多い芸術家の姉・マサヨ。二人を巡る異性たち。サチヨさん、丸山さん・・・。
 川上弘美の作風はうかがい知れた。女性らしく繊細でやさしく上手。小川洋子のように設定から飛びぬけるのでなく、日常の中で展開する話が得意? 1作だけではなんとも言えないね。しばらくは書店の文庫本を立ち読みしてみよう。

  • ヒトミさんも、生きていくのとか、苦手すか。(P67)
  • 「もう会わないからね」・・・なぜ自分が咄嗟にあんなことを言ってしまったのだか、ぜんぜんわからなかった。蜂がまた入ってくる。さきほどのようにすぐには出てゆかず、店じゅうをぶんぶん飛びまわる。(P143)
  • 好きをつきつめるとからっぽな世界にいってしまうんだな。わたしはぼんやりと思った。(P179)

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2008年1月 3日 (木)

チーム・バチスタの栄光

 今年の年末年始は、この本を読んで年を越した。「このミステリーがすごい」大賞を受賞し、単行本でもベストセラー、この冬にはついに映画化もされるという傑作である。某アルファ・ブロガーが絶賛しているのを読み、書店で平積みされていたのをついつい購入してしまった。噂に違わぬ傑作、なんだと思う。ミステリーや推理小説は普段ほとんど読まないため、比較ができないが・・・。
 それでも読み始めは「なんか素人っぽい書き出しだなあ。」と思ったが、それがこの作者の持ち味なのか。全体的にユーモアがあふれ、読みやすい中に、医学界をめぐる矛盾や社会批判などが込められ、また専門用語が散りばめられるなど、なかなか複層的な出来映えになっている。ちなみに作者は現役の勤務医である。
 犯人やトリックの設定は、意外とも言えるし、それほどでもないとも言える。要するに日頃読んでいない私ではほとんど適正な評価はできないが、年越しを楽しむには十分なエンターテイメントだったる。

  • 大学病院の内部に眼を転じると、過去の医局政治のルールに従っててっぺんに登りつめた人たちが病院の舵を執っている。しかし、彼らが権力の階段を登ることに全力を傾注している間に、世の中のルールは大きく変わってしまった。ハシゴを外され時代に取り残されてしまった彼らは、世の中からのしっぺ返しにうろたえている。(上P51)
  • 大学病院には、こうしたウワサの濁流が滔々と流れている。漢字の「噂」とは違うし、平仮名の「うわさ」でもない。カタカナで「ウワサ」と表記するとしっくりくる。(上P234)
  • 建物はピカピカだが、内部の人間は死に絶えてロボットが巡回する未来都市。ひねくれ者の俺には、今の社会が邁進する果てに、そういう光景が目に浮かぶ。(下P10)
  • ささやかなきっかけ・・・さえあれば、ヒトはたやすくヒトを殺してしまう。・・・ヒトは何かを殺さなければ生きていけない生き物なんですから。(下P192)
  • 一人の殺人鬼がいたために他の医師まで同様に扱われることは不当です。本件は個人的な殺人事件です。(下P221)

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2007年12月21日 (金)

破壊者ベンの誕生

 本年度のノーベル文学賞受賞者ドリス・レッシングの作品。年に似合わず保守的で伝統的な価値観を持つ者同士のハリエットとデイヴィッドは、子どもは何人いてもいいと、父の援助で古風な大邸宅を入手し、愛に満ちた夫婦生活をスタートさせる。両親の静かな抵抗を押し切って予定どおり4人の子どもに恵まれ、幸せな家庭を築き上げる。しかし5人目に身ごもった子どもが尋常ではなかった。妊娠中から暴力的な振る舞いを繰り返した胎児・ベンは、母親の不安の中でその巨大な姿を現し、乳幼児の時から傍若無人な態度を見せる。その異常さにハリエットを除く者たちが謀って収容施設へ放り込むが、母ハリエットが救い出してしまう。遠ざかる親戚、子ども、そして父デイヴィッドも次第に距離を置き始める。取り残されたハリエットは不良グループと交わり犯罪行為に手を染めるベンを遠巻きに眺める。どうしてこうなってしまったのか。悪魔でも愛さずにはおれない母としての性と幸せな家族という幻影を思い返しながら・・・。
 解説には「難解といわれる文体」とあるが、技巧的に陥らず読みやすくグイグイと引き込んでいく文章には、ストーリーテラーとしての俊才を感じさせる。ジェンダーや差別などの社会的な課題に果敢に挑んだ作品を多く残しているという。機会があれば他の作品も読んでみたい。

  • 彼らは、「自然」の成りゆきに手を加えることが、どんなに大きな誤りであるかを痛切に感じていた!・・・「自然」こそが、程度の差はあれ、まさに頼るべきものだったのである。(P156)
  • 彼がこれまで彼女を激しく非難してきたものは、まさに、彼女がいつも自分から目をそらそうとしていることであり、少なくとも、その最悪のものとして、彼女がベンを救い出したとき、家族に致命的な傷をあたえたことに、彼女は気づいた。(P157)
  • ベンの一味は、まだ氷河期が台地を覆っていたころ、地下深い洞窟に住み、暗い地底の川から魚を猟って食べたり、厳しい雪の中をそっと忍び寄って、熊や、鳥に―彼女(ハリエット)の先祖である人間にさえ、わなをしかけようとしていたのではないか?彼女の仲間たちは、人間の先祖の女たちを、レイプしたのではないか?こうして新しい種族が生まれてきた(P222)

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2007年12月18日 (火)

ピギー・スニードを救う話

 ジョン・アーヴィングにしては珍しい短編集。表題作のエッセイに、「ガープの世界」の作中小説として紹介された「ペンション・グリルパルツァー」を始めとする短編が6編、それにディケンズの「大いなる遺産」の序文として書かれた「小説の王様」の計8編を収録する。6つの小説はいずれも60年代から80年代にかけての初期に発表されたもの。
 もちろん「ペンション・グリルパルツァー」は相応の出来だが、アーヴィング自身も「ペンション・グリルパルツァー」についでお気に入りという「インテリア空間」が、コメディと哀愁と心に染み入る温かさが感じられるいかにもアーヴィングらしい秀作。
 巻頭のエッセイ「ピギー・スニードを救う話」は最初てっきり小説だと思って読み終えた。あとがきでエッセイと言われて改めて読み返したが、実話と想像の世界の境が感じられない良質なエンターテイメントになっている。もっとも、ごみ収集人ピギー・スニードが飼い豚とともに焼け死んでしまう顛末をほろ苦い祖母の思い出とともに綴ったもので、作者自身、小説家となった出発点と回想しているのだが。

  • 作家の仕事は、ピギー・スニードに火をつけて、それから救おうとすることだ。何度も何度も。いつまでも。(P31)
  • この世界は、たくまずして残酷でもある能力を、むやみに人に押しつける。持たされてしまったものを人が使いこなせるかどうか、世界の知ったことではない。(P206)
  • いずれにしても、けしからんストーリーを書いているようでいて、じつは道徳的な文学なのだというのが、仕事を終えた私の感想である。その道徳性のキーワードは、もちろん「救う」であるけれど。(訳者あとがき・P304)

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2007年12月 7日 (金)

アジア・太平洋戦争-シリーズ日本近現代史(6)

 1941年12月に始まり1945年夏(9月に降伏文書調印)に終わった戦争を本書では「アジア・太平洋戦争」と呼んでいる。いわゆる太平洋戦争である。シリーズ前書の満州事変・日中戦争に引き続き、中国やソ連と対面しつつ、日本は枯渇する資源確保を求めて、英米戦争に突入する。ねらいはインドネシアの石油資源の確保であり、中国での既得権益の確保であった。
 そもそも太平洋戦争が真珠湾攻撃に先立つ1時間前のマレー半島上陸から始まっていることすら知らなかったが、太平洋戦争の開戦に至る経緯や責任、初期の成功から程なく始まった退却の経緯と悪化する戦局に対応できない軍部や政治の状況、さらに戦時下の社会の変容、そして終戦に至る意思決定の顛末等に至るまで、豊富な資料と知識で具体的に記述されており、実によくわかる。
 日本の戦争責任の清算と中国・韓国等との外交問題、さらには今に至る日本人の戦争意識まで、この戦争の凄惨さと曖昧な終戦が今に影響しているのではと説く。なかなか太平洋戦争の実態を客観的に描いた本を読んだことがなかっただけに非常に参考になる。あとは自分の頭で考えていかなくてはいけないことは言うまでもない。

  • なぜ、「戦後」は終わらないのだろうか。・・・いずれの国においても、第二次世界大戦の「戦後」とよばれる時代は、1950年代後半までには終わり、・・・にもかかわらず、日本では未だに「長い戦後」が続いている(はじめに・P1)
  • 日本軍の攻撃が真珠湾ではなく、英領マレー半島に対する攻撃から始まっている事実が端的に示すように、この戦争は何よりも対英戦争として生起した。(P9)
  • アメリカの場合は、・・・戦時体制への移行と軍需生産の本格化のなかで、アメリカ経済は驚異的な成長をとげ、・・・この時、形成された「よい戦争」という楽観的な戦争観は、広範な国民の生活実感に裏打ちされたものであっただけに、その後、現在に至るまで、アメリカ人の戦争観を呪縛し続けてゆくことになる。(P123)
  • 日本が戦った戦争の最大の犠牲者が、アジアの民衆であったことは間違いない。(P221)
  • サンフランシスコ講和条約・・・では・・・戦争責任問題に関する直接的言及はまったくなかった・・・こうした一連の事態は、国民の意識の上に複雑な影響を及ぼした。第一には、加害者の記憶が封印され、国民は戦争の犠牲者であるという認識を基盤にして、独特の平和意識が形成された・・・第二に、国家指導者の国民に対する責任までもが曖昧にされた・・・第三には、アメリカを中心とした連合国との政治的和解を促す冷戦の論理が、忘却を強いる力として作用した(P231~234)

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2007年11月28日 (水)

人口学への招待

 いよいよ人口減少時代に突入し、少子高齢社会が現実のものとなってきた。少子高齢化が社会に及ぼす影響には私も少なからず興味があるので、これまでも「少子社会日本」を始め、何冊かの本を読んできたが、それらはいずれも社会学や経済学の立場から少子高齢化の影響を考察したものだった。本書は、人口推計や社会状況と人口構造の関係などを扱う「人口学」の専門家である筆者による人口学の入門書である。
 人口学という分野があること自体知らなかったが、統計資料を駆使した人口推計だけでも十分奥が深く、さらに人口推移や出生率の変化等の要因分析に至ってはいまだ解明されていない部分も多く、現在さらにさまざまな研究が進められていることがよくわかった。
 合計特殊出生率の算出や期間出生率、コーホート出生率、調整合計特殊出生率といった概念、生命表や定常人口、人口モメンタムなど、人口学の基礎的知識について分かりやすく解説するとともに、「多産多死」から「少産少死」に至る人口転換の要因に関する理論「人口転換論」や「第2の人口転換論」、さらに5つの社会経済的理論の紹介や出生率、結婚行動の予測とその困難さなどが詳しく解説されている。終章は「人口減少社会は喜ばしいか」と題して、多くの社会経済学者の論に対して冷静な批評を行なっている。人口減少は(大きな負の人口モメンタムの下)もう既に引き止められない勢いで進行しており、人口崩壊すら絵空事でないというのが現実である。我々はこうした状況の中でどういう未来を描いていけるのか。10年、20年の未来はまだしも100年、200年の未来となると、正直、想像の埒外ということを思い知らされる。

  • 人口学では、人口の年齢構造の変化は出生率の変化の影響が大きく、死亡率の変化によるところは小さいというのが定説である。(P27)
  • 少子高齢化の最大の要因は出生率の低下である(P28)
  • 現代の人びとは際限なく生きることができるものと錯覚しているようである。同じような錯覚が、日本人の間で人間の再生産、つまり自分と同じものを再生させる欲望を忘れさせ、少子化を推し進めているのかもしれない。(P123)
  • 逆モメンタムの計算値は、日本人口の将来についていくつかの教訓を与えている。日本人口の将来推計の場合、人口減少がはじまった最初の10~20年間の減少は緩慢である。しかし次第に減少のペースが速まり、急速に減少していく。それは決して持続可能な状態ではなく、極言すれば一国の衰亡あるいは「人口崩壊」への道である。(P248)
  • 合計特殊出生率が2.0に上昇したフランスは、1世紀にもわたり出生促進政策を国是として行なってきた。・・・昨日今日になって人口・家族政策をはじめたわけではないのである。(P258)

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2007年11月17日 (土)

日本の霊性

 「越後・佐渡を歩く」という副題のとおり、哲学者・梅原猛が新潟県・佐渡島を旅行した紀行文にして、日ごろから氏が研究し心に蓄えてきた越後・佐渡への思いを書き連ねている。
 国宝・火焔土器に代表される縄文文化の栄えた地域であり、親鸞、日蓮、良寛、白隠がこの地で苦闘する中で新しい宗教思想を生み出した。さらに、上杉謙信や河井継之助、山本五十六、田中角栄といった軍人、政治家、また、会津八一、坂口安吾、川端康成といった文学者など、各地をめぐる中で出会い思考する先達はいとまがない。
 梅原猛の前書「天皇家の"ふるさと"日向をゆく」も読んだが、別に梅原猛を追いかけているわけではなく、たまたま私も越後地方には興味があった。ずいぶん前に読んだ水上勉の「寺泊」に心を引かれ、その後機会があれば一度訪ねたいと思いつつ、いまだ果たしていない。寺泊の心まで寒くなるような哀切のこもった風景に本書の霊性が重ねられ、ますます越後への関心は深まるばかり。

  • 越後は縄文時代以来霊性の国であり、親鸞、日蓮、白隠、良寛などの「霊性」を成熟させ、開花させたのである。今回の旅はまさにこの地に隠れたさまざまな霊性を探る旅であった。(P37)
  • 日本人のつき合いのこつはすべて他人と自己との間に厳しく、しかも美しい線を引くことにあるといえるかもしれない。(P129)
  • 釈迦といい、孔子といい、ソクラテスといい、イエス=キリストといい、世界の四聖といわれる人はいずれも著書を残さなかった。・・・これは大変重要なことである。彼らが人類史上における第一級の人間であるとすれば、多くの著書を残したのは第二級の人間であるといえる。(P185)

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2007年11月 5日 (月)

出発は遂に訪れず

 終戦直後の昭和21年から37年にかけての表題作を含む9作品を集めた短編集である。「死の棘」に描かれた精神の病に苦しむ妻とそこに追い込んだ自身への自責の念やそれでも起こしてしまう理不尽な行動と悔悛などにつながる「帰巣者の憂鬱」や「廃址」「マヤと一緒に」、また終戦直前、特攻隊の隊長として、ついに発令されなかった突撃命令を待つ不安定な心象風景を描く「島の果て」や「出発は遂に訪れず」などが含まれる。
 「死の棘」ではその特異の体験からの心理描写が際立っていたが、これらの短編集でも筆者の優れた描写力がふんだんに見られ、遅まきながら再評価した。「夢の中の日常」や「兆」など、夢とうつつの境の見分けが付かないような作品も見られ、これらからは吉行淳之介や安岡章太郎などを思い起こし、時代を感じた。

  • この辺でぷつりと切断されてしまうきまぐれな人間関係を、橋の上から投げ棄てられておちて行く莨の吸がらを見送るような気持ちでいた。すぎなのつなぎめのような。(P74)
  • 未知の領域がいつも立ちはだかり、不安のざわめきが瀰漫している。(p180)
  • やりかけて中途になっているはたらきは、未遂で終わったその断面がなまあたたかくふやけ、いったん氷結させられたためいっそうはね返って手のほどこしようのない症状を示してくるにちがいない。(P364)

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2007年10月11日 (木)

信じない人のための<宗教>談義

 「信じない」とは「信じられない」や「信じたくない」とは違い主体的な意思がある。しかし本書では、後者のように「信仰」と直に向き合うのではなく、「信仰の有無に関わらず」といった意味で使われていると考えていい。宗教とは現代社会にとって、また現代人にとって、どういうものなのか、どう捉えればいいのかを客観的な立場から考察する。後半は若干難しくなるが、キリスト教から始まって世界の各宗教を概観する前半は大変わかりやすく楽しい。比喩が絶妙。特に、日本の宗教状況の捉え方は、「地元の文化を語るのは難しい」と言いつつ、実に客観的でわかりやすい。また、ヒンドュー教や道教・儒教など私がよく知らない宗教については、初心者向けにわかりやすい。
 さて後半である。そもそも宗教とは何か。そこから導かれるのは、宗教とはこれですと定義できるようなものではなく、私たちの社会や精神文化の中で日常と分かちがたく食い入っている文化であり制度である、ということ。ゆえに逃れることもできず、逃れればよいわけでもなく、頼り切ることもできず、うまく付き合うことでとてつもないパワーを持つこともあり得る。とすれば、これからの時代、偏見なく、うまく宗教と付き合うことが必要だと言える。そんなことを思いました。

  • 「宗教」という言葉はやや漠然とした言葉です。厳密に考えると意味不明であり、世界中の民族がこの言葉をまったく同じ意味で用いているわけではありません。・・・この漠然と広がる意味領域を大雑把にひっくるめて述べるとすると、「宗教」とはなんらかの制度として存在している、とでも言っておくしかなさそうです。そうした制度の別の側面は、人びとの意識のなかに現れるさまざまな世界イメージです。(P8)
  • キリスト教徒であろうが、イスラム教徒であろうが、あるいは中国や日本の大多数を占める「多神教徒」であろうが、伝統的規範と習慣の海を泳いでいるという状況に違いはないはずです。(P96)
  • 近代という時代が「宗教」というジャンルを浮き立たせ、そして個々の宗教のアイデンティティーを鮮明にし、民族的敵愾心を育て上げ、文明の衝突を演出してきた(P191)
  • 神仏や霊、死後のビジョン、儀礼的象徴行為、集団性、権威の崇拝、世界内にある実存の究極の意味づけ、救済・・・と、「宗教」固有の持ち分というものがあるようにも思えるのですが、その実態は世俗的日常世界に融合しており、こうした要素の切り出しの論理そのものが、その生活実践上の意味合いそのものが、伝統ごとに、社会ごとに、時代ごとに異なっている以上、そこに最終的な裁定を下そうなどと試みるのは無駄なことなのではないか?(P228)
  • もろもろの伝統のなかから「宗教」というカテゴリーあるいはアイデンティティーをデジタルに切り出したのは、近代西洋のロジックだったのではないか?このロジックが、それを個人の内面的な精神世界であるというふうに規定したのではないか?・・・そしてついに、それは表社会に出現することを禁じられ、人びとは社会の運営を完全に資本主義的福祉国家・管理国家・国民国家の精緻な官僚的システムにゆだねるように躾られたのではないか?つまり伝統は「宗教」にされ、「精神世界」にされたあげくに「ヤクザ」なものとして非合法化されたのではないか?(P231)

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2007年10月 7日 (日)

ローマ人の物語11 終わりの始まり

 五賢帝の時代が終わると、いよいよローマは滅亡へと時代の坂を下り始める。しかし塩野氏はローマ衰退の兆候は既に五賢帝のうちの4代目、アントニヌス・ピウスの時から始まったと言う。ハドリアヌスが皇帝就任中の大半を辺境を巡り防衛線の強化に務めたのに対して、アントニヌス・ピウスは全くローマから出ることなく内政に務め、何も問題が起こることのないままその生涯を終える。そしてマルクス・アウレリウスである。五賢帝最後の皇帝として評価の高いアウレリウスだが、その治世中はまさに問題が噴出する。それもこれも先代のピウスの時代に十分なメンテナンスをすることなく、かつ大過なく過ごしてしまったゆえではないか、と推測する。
 辺境からの蛮族の進出やパルティア王国の反乱にもマルクス・アウレリウスはねばり強く対応する。しかし、アウレリウスもピウス同様、皇帝に就任するまでローマから出ることなく、軍隊も知らずに育ってしまったゆえ、的確な対応ができていたかと言えば疑問符を付ける。しかも世襲した皇帝コモデゥスの悪政の数々。コモデゥスが12年の治世の末、暗殺されると、いよいよローマは内乱の時代を経て、衰退の坂を転げ始める。
 本書はアントニヌス・ピウスからマルクス・アウレリウス、コモデゥスを経て、セプティミウス・セヴェルスまで、時代にして紀元138年から212年までの約75年を描く。これを読みながら、安定し平和な時代にどたばたとした愚政を繰り広げる日本の政局を思った人も多いのではないか。先人の遺産は果たしていつまで保つのだろうか。コモデゥスの後の内乱を経て登場する日本のセプティミウス・セヴェルスは一体どんな政治を展開するのだろう。さて今の日本はどの段階?

  • 私には、アントニヌス・ピウスという皇帝は、目先のことの処理ならば見事にやってのける優秀な官僚ではあったろうが、晴天の日に翌日に降るかもしれない雨の準備をするという、政治家ではなかったと思えてならない。(上・P163)
  • 疫病の流行とそれにともなう社会生活の沈滞と、北方から迫る蛮族の脅威は、ローマ人の心を暗く重く変えつつあった。(上・P181)
  • ローマ人はmはじめから大帝国をつくろうと意図して征服を進めたのではなく、防衛強化を考えて軍事行動をつづけていくうちに、自然に大帝国をつくってしまった、と言っても、それは冗談ではない。(中・P114)
  • 「ミリタリー」は戦争のプロなので、始めた以上は最後まで行く戦いでないと、もともとからしてはじめないのだ。意外にも「シビリアン」のほうが、戦争のプロでないだけに、世論に押されて戦争をはじめてしまったり、世論の批判に抗しきれずに中途半端で終戦にしてしまう、というようなことをやりがちなのである。(中・P150)
  • もしかしたら人類の歴史は、悪意とも言える冷徹さで実行した場合の成功例と、善意あふれる動機ではじめられたことの失敗例で、おおかた埋まっていると言ってもよいのかもしれない。(下・P108)

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2007年9月26日 (水)

街場の中国論

 タイトルの「街場」とは、専門家ではない門外漢がマスメディア等で伝えられる中国関連のニュース等を元に、中国人の行動や国家の振る舞い等を推論しようという趣旨です。これは前著の「街場のアメリカ論」も同様。でも少しわかりにくいタイトルですね。「常識から読む中国論」とかいったタイトルだとまだわかりやすい。でも、内容は期待にそぐわぬ内田節が全開で面白い。常識的判断とはこういうことかと思い知らされる。と同時に我々が日頃のニュースからいかにバイアスのかかった、色眼鏡を通した解釈を受け入れ洗脳されていることかと思ってしまう。もちろん何が真実かはわからない。内田氏が間違っていることもあるだろうが、それでも、時事ニュースに虚心坦懐に向き合い、自分の素直な判断力を発動させることの重要性を改めて思う。なかなかその域に至ることができない。だからこそたまに内田氏の著作を読むことが楽しい。

  • 中央のハードパワーが落ちたら、いつ独立運動を起こすかわからない。そういう状況を実感できる日本の政治家がいるでしょうか。・・・打つ手を間違えたら「四国で内戦が起きる」とか「九州が独立する」とかいうSF的想像は、決して日本の大臣たちの脳裏には去来しない。それくらいに日本社会は構造的に安定している。それは世界に誇るべき日本の資産だと思いますけれど、それが東アジアにおいてはかなり例外的な事態であることは忘れない方がいい。(P26)
  • わが国を砲艦外交で開国させ、戦争で破り、憲法を押しつけ、今も全土に軍事基地を展開している百年来の「旧敵」の世界戦略に協力することがナショナリズムの王道であるというのは、どう考えてもおかしい。でも、日本のナショナリストは中国やロシアや韓国や北朝鮮に対しては反感と恐怖を抱くけれども、アメリカにはそのような感情を持つことを抑制している。それは論理の要請によるのではなく、アメリカの正当性を認めないと、「国體」の正統性が維持できないことを彼らが直感的に理解しているからだと僕は思います。(P51)
  • 中華思想でやって比較的成功したのはアメリカなんじゃないかと思うんですよ。・・・人種的、宗教的にどのような出自のものであろうと、「私こそが真のアメリカ人だ」と名乗ることが許される。・・・これは一種の「アメリカ中華」思想といえるのかもしれない。とすると、2010年代からの世界の覇権は、中国とアメリカという「二つの中華圏」の間で展開することになります。(P83)
  • 一億三千万の国と十三億の国を統治するというのでは統治の方法そのものを変えないといけないと僕は思っています。・・・この広大な国土と混質的な国民を統治するためには、たぶん毛沢東がしたように「シンプルで雄渾な物語」を提示するしかない。・・・だから、中国の場合、逆説的なことですが、統治上のトラブルが深刻であればあるほど中央政府の語ることばはシンプルでわかりやすいものになる。(P174)
  • 僕たちがもう少し配慮しなければいけないのは、「どっちつかず」がリスク・ヘッジのひとつのかたちだということです。「白黒をはっきりさせない」ことから「白黒をはっきりさせる」ことよりも多くの外交的ベネフィットが得られるなら、そのほうが外交政策として上等であるということです。(P188)
  • 統治の要諦は国土の維持、通貨と民生の安定に尽きるわけですから、それが守れるならどのような権謀術数を駆使してもいいと僕は思います。・・・そのためなら二元外交どころか五元外交でも百元外交でも構わない。(P190)

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2007年9月22日 (土)

『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する

 先日読んだ「カラマーゾフの兄弟」。長男ドミートリーの父親殺しの冤罪を巡るミステリーと、同時に展開される神の存在や社会主義、民衆論といった高次な論争が相まって、壮大にして感動的な作品として読んだが、いくつかすっきりしない印象が残った。それが、第4部第10編で突然現れる子どもたちであり、冒頭「作者の言葉」のアリョーシャを奇人として扱う書きぶりも、本編を読んだだけではさっぱり意味がわからない。「カラマーゾフの兄弟」には続編が構想されていた、というのは、その解説にも書かれていた有名な話だそうだが、最近、光文社古典新訳文庫を訳出して空前のベストセラーを記録した亀山氏による、続編の推理と大胆な空想が描かれている。
 私が挙げた項目以外にも、続編を睨んで散りばめられた記述はたくさんあって、それらを丁寧に拾い上げるとともに、ドストエフスキー本人や周辺の人々の証言、ロシア革命前夜という当時の状況などを考え合わせ紡ぎ出される「第2の小説」はけっこう説得力がある。もちろん筆者自身が、以前に描いたことがある別のストーリーを提示したり、即座に他のストーリー展開を書き出したりしているとおり、結局は書かれなかった小説なだけに正解はないわけだし、「空想」として楽しむのは誰にでも許されている。
 あとがきの最後に、「わたしはいま、なぜか根本からこの小説について調べなおしたいという止みがたい欲求にかられている。」(P277)と書いているが、確かに「第2の小説」を空想する、という作業は興味を駆り立てる楽しい作業だっただろう。単に空想するのではなく、関係資料等を十分調べ尽くす、という態度の上で書かれている点が本書の特に優れたところだ。
 ところで、本編になぞらえ、本書も全4部12編で構成され、これに「はじめに」と「おわりに」が付せられている点も作者の遊び心が感じられ面白い。

  • 『カラマーゾフの兄弟』全編に、とくに未来をになうはずの子どもたちにかんして、(未解決の)ディテールがそれこそおびただしく書きこまれている。それはほかでもない。そのうちの何人かの子どもたちが、「第二の小説」で、かならずや思い役割をになわされるはずだったことを暗示するものなのだ・・・。(P21)
  • 聖性は悪魔とのせめぎ合いのなかからしか出てこない。端的に言って、倒錯である。つまりアリョーシャは、倒錯によって発見した喜びと、その克服という努力のなかから、みずからの悪魔性の発見に立ちいたる。(P198)
  • 正義は民衆の意思によってどうにでもなるし、それでもよいという確信がドストエフスキーにはあった(P248)

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2007年9月14日 (金)

満州事変から日中戦争へ-シリーズ日本近現代史(5)

 時代はいよいよ昭和に入った。関東軍が仕掛けた柳条湖事件に始まる満州事変から、犬養毅が暗殺された5.15事件、国際連盟脱退、2.26事件を経て、盧溝橋事件に至る流れは知っていても、その背景、すなわち中国の不安定な政情やソ連の動向、欧米各国の世界恐慌をはさんだ経済情勢、また日本国内の政争や軍部の思惑などまではほとんど知らなかった。国際連盟にはアメリカ、ソ連という両大国が参加していなかったことなど考えもしなかった。
 国内の様々な外交官や政治家、軍部、将校らが各自の思惑や考え方の中でそれぞれの行動を起こし、それらが微妙な力関係を伴って、戻ることのできない状態へ日本を追い込んでいく。もちろん、それは全くやむを得なかった事態だというつもりはないが、それでも日本を導いていった運命の糸はあったのではないかと思わせる。蒋介石の行動、松岡洋右の決断、イギリスの決断、アメリカの方針・・・。それらの一つでも違った事実が選択されていれば、歴史は変わったいただろう。そしてその中には、日中戦争に突入しなくても済んだ選択があったはずだ。
 歴史の数奇さに驚くと同時に、現在を振り返り、今この選択がどういう未来をつくるきっかけになっているかと思うと空恐ろしく感じる。一つ一つの判断・選択は確かにその状況の中では選択肢としてありうべき合理的なものだった。そのことが多くの歴史資料とともにわかりやすく解説されている。特に国際連盟脱退に至る日本や各国の刻々変化する動向や思惑には、思っても見なかったドラマが描き出されており、大変勉強になった。

  • 今次事変は戦争に非ずして報償なり。・・・報償とは法律用語でいう復仇の同義語であり、国際不法行為の中止や救世を求めるための強力行為と定義される。(はじめにP3)
  • 関東軍の謀略だと知らされていなかった国民は、自衛権と民族自決が認められなかったことに憤慨したであろう。だが事変の当事者である関東軍や為政者にとって、自衛権と民族自決による説明は、アメリカの干渉を招かないための方便であるとの自覚が当初からあった。日本側当事者にとって、より衝撃的であったのは、・・・日本の満蒙特殊権益に対する評価にあったのではないだろうか。(P143)
  • 日本の行動は自衛であり不戦条約には違反しない、また満州国の成立は中国内部の分離運動の結果であるから9ヵ国条約に反しないと述べた。(P153)
  • 中南米の安全保障に任ずるアメリカは、同地域に連盟秩序を適用するのは無理だと判断したからこそモンロー主義による除外を求めたといえる。より遅れた地域であるはずの極東においては、なお例外が認められるべきだ、との考えに立っていた。(P180)

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2007年9月 8日 (土)

時間はどこで生まれるのか

 「カラマーゾフの兄弟」と並行して読んでいたけど、今日、残りの第6章、7章と付録ほかを読み終わった。書店に平積みされてた頃から気になっていたが、先日ブックオフで350円で売っていたので、思わず購入。久し振りにこうした物理本を読んで非常に面白かった。物理本と書いたけど、同時に哲学本でもある。物理学の視点から「時間」について考察しつつ、現代物理学を踏まえた「時間」哲学の誕生にラブコールを送っている。
 まずは現代物理学、すなわち相対論と量子論で「時間」がどう捉えられているかをわかりやすく説明していく。そのためにはまず、相対論と量子論における空間や位置、速度の捉え方が示される。相対論や量子論そのものの解説書ではないため、さわりを単純化し解説してくれる。それが非常にわかりやすい。素人向けのごく簡単な相対論、量子論の解説本と言える。
 そして「時間」の本質に近づいていく。本書のタイトルは、「時間とは何か」でも「時間の存在性」でもなく、「時間はどこで生まれるか」。初めは変なタイトルと思ったが、読み進めていくと、確かにこのタイトルが最も適切なことがわかる。「時間」は、エントロピー増大の法則が支配するマクロ世界の中で、生命が刹那刹那、秩序の崩壊に抵抗し、自らの秩序を保とうという「意思」を備えた瞬間に「誕生する」。それはA系列時間であり、それが積み重なり、B系列時間となるが、時間の本質はC系列である。
 これだけ簡単丁寧に説明されても、多分まだ本当の理解には至っていないのかもしれないが、とにかく読み進めるほどわくわくしてくる本である。

  • 色や温度は物理的実在ではない。身体が外的な環境と相互作用することによって生じる生物学的感覚である。(P47)
  • 観測しないかぎり、実存は宙ぶらりんの状態にあるのである。(P69)・・・量子論の世界では
  • 時間は人間の理性が生み出した後発的な概念であり、よりプリミティブには、「動き」こそが生き延びる条件だったのである。(P75)
  • ミクロの世界には色や温度は存在しないのである。それどころか、量子力学が主張していることは、位置や速度やエネルギーといった概念ですら、実存とはほど遠いものだということである。それゆえ、時間もまたミクロの世界の実存でないということは、むしろ道理に適ったことなのである。(P86)
  • われわれの宇宙(時空)がC系列であるとすれば、宇宙はただ存在するだけである。そこには、空間的広がりや時間的経過というものはない。・・・光子にとっては時間も空間も存在しないが、しかしそれでも光子は存在する。実存とは、時間や空間を超越した何かなのである。(P116)
  • 生命とは秩序であり、かつ、その秩序を持続させる「意思」をもった存在である。「意思」をもった生命は、自分の秩序を壊そうとする外部の圧力を、どうしようもない変更不可能な過去として受け止める。しかし、その「意思」は外圧に逆らって秩序を維持する自由をもっている。すなわち、この自由こそが未来そのものである。(P132)
  • われわれが常識的にもっている時間概念は、・・・刹那刹那の「意思」が創り出すものなのである。(P133)

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カラマーゾフの兄弟

 光文社古典新訳文庫の「カラマーゾフの兄弟」がベストセラーになったという。私も書店でこの本を買おうかと思い、でも新潮文庫版の方が安いしと思って、こちらを購入。たまたま先週末からぎっくり腰で3~4日間ほど寝込んでいたため、わずか1週間の私としては異例の早さで読了。正直言って面白かった。
 若い頃、トルストイには一時はまって何冊か読んだが、当時はドストエフスキーはあまりの長編に恐れをなして手が出なかった。社会人になってからは、司馬遼太郎など全8巻といった超大作ですら楽しんで読んだというのに、ドストエフスキーには手が出なかった。ようやく今になって、4年ほど前に「罪と罰」を読み、そして今回、初めて「カラマーゾフの兄弟」を読んだ。長かった、けど、面白かった。
 まず、まるで推理小説のようなドラマティックな展開がいかにもドストエフスキーの特長なのだろう。ドミートリーの父親殺し嫌疑を巡る公判場面を頂点に、物語は次第次第と緊張感を高め盛り上がっていく。第4部冒頭に挿入された少年たちとのエピソードが、小説の最後に再び取り上げられ、心に温もりの余韻を残しつつ静かに幕を閉じる。いかにも見事なドラマ性だ。
 一方で、作者自身が最も語りたかったと思われる神の問題、無神論や理想社会主義への思想、民衆の生活と人間論などは、まだ事件が起こりドラマが始まる前の1部2部で語られる。それらはいずれも登場人物の会話という形で、まさしく語られる。それらは今の時代でも全然古い課題ではない。それがドストエフスキーのもう一つの魅力であり、世界的名作とされる所以だろう。どのテーマも興味深い。
 しかしそれにしても、語る語る。どうしてドストエフスキーの登場人物たちは、こんなに語り続けるのだろうと呆れるほど語り続ける。急いでる場面でも、話し始めたらいつまでも話し相手を離さない。こちらがやきもきするほど。10ページ20ページは当たり前、50ページくらい一人の人間が話し続ける場面もあるのではないか。ロシア人はそういうもんだ、とロシアに詳しい友人は言っていたが。本当だろうか・・・すごい。

  • おのれに嘘をつき、おのれの嘘に耳を傾ける者は、ついには自分の内にも、周囲にも、いかなる真実も見分けがつかなくなって、ひいては自分をも他人をも軽蔑するようになるのです。(上P102)
  • 人間というものはたえず子供のように面倒を見てやらねばならぬ(上P541)
  • 人間の自由を支配すべきところなのに、お前はかえってそれを増やしてやり、人間の心の王国に自由の苦痛という重荷を永久に背負わせてしまったのだ。(上P642)
  • 個人の特質の真の保証は、孤立した各個人の努力にではなく、人間の全体的統一の内にあるのだということを、今やいたるところで人間の知性はせせら笑って、理解すまいとしています。しまし今に必ず、この恐ろしい孤立にも終わりがきて、人間が一人ひとりばらばらになっているのがいかに不自然であるかを、だれもがいっせいに理解するようになりますよ。(中P104)
  • 人間なんて、いったい何度こっけいになったり、こっけいに見えたりするか、わからないんですよ。それなのに、この節では才能をそなえたほとんどすべての人が、こっけいな存在になることをひどく恐れて、そのために不幸でいるんですよ。(下P118)
  • 子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。・・・少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。(下P653)

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2007年8月18日 (土)

環境エネルギー革命

 日本が小泉・安倍政権の下、ひたすら新自由主義に走り、外交的にはアメリカ追従するばかりで思考停止状態でいた間、世界は石油依存から離れ、環境エネルギーを軸とした政策・経済運営に大きく舵を切り、2歩も3歩も日本を引き離している。石油産業の保護のため、京都議定書を無視し、環境報告の改竄や言論統制を続けているアメリカ・ブッシュ政権下においてすら、アメリカの地方自治体レベルでは、積極的な二酸化炭素削減政策が取られ、環境ビジネスによる地域振興政策が進められている。
 しかし日本では、依然、小さな政府をめざした市場絶対主義の下、石油・原子力に依存した自由放任政策が続けられている。石油ショックへの対応で優等生と讃えられた日本も気が付けば、石油依存度・中東依存度は世界先進国の中で最悪の状況にあり、イラク戦争による中東の政局不安定化に対する危機意識が希薄な全てアメリカ頼みの脆弱なエネルギー政策が続けられている。
 「不都合な真実」やIPCC報告書を契機に地球温暖化への危惧が高まっているが、依然、政策的な対応を示さずにいる日本の政権を批判し、環境エネルギー革命に乗り遅れないよう、産業界・経済界に警鐘を鳴らす。地球温暖化危機への警鐘に留まらず、政策対応、特に経済政策について提言や注意喚起を行っている点が本書の特徴である。阿部政権批判が繰り返される点は鼻につくが、真摯に耳を傾け対応することができるかどうかが日本の近い将来を左右すると思われる。猛暑が続く中、背筋が凍り付く。頭は依然ぼうっとしてるけど。

  • 日本の政策立案者たちはなりふりかまわず、どのような分野でも市場原理を利用していけば、日本経済の閉塞状況を打破できると信じるようになった。・・・もはやそれは信仰に近い。(P078)
  • 誰もが、ブッシュが任期を終えたらすぐに、気候変動と代替エネルギーが米国の政治において中心的課題になるのはわかっている。(P187)
  • 公的部門を軽率に解体してしまうと、公正で民主的な社会を形成する能力を損なわせてしまうことになる(P204)
  • バブルとバブル崩壊を繰り返す経済は、至る所で深刻な格差社会を生み出している。・・・もはやこうした政策は持続可能性を失いかけている。・・・多様化した世界の政治と経済は、外交上も経済政策上も新たな戦略的行動を必要とさせる。だが、残念ながら日本だけは「米国についていけば何とかなる」と、思考停止状態を続けている。(P233)

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2007年8月11日 (土)

9条どうでしょう

 1.この本はどうして知りましたか?=ネットで。
 2.この本はどこで買いましたか?=書店で。
 3.この本を買おうと思ったのはなぜですか?=内田樹以外の3氏がどんな文章を書くのか、興味があったから。
 4.読み終わった感想はいかがですか?=町山氏はGood。平川氏は思った以上にしっかりとした考え方と文章を書く。小田嶋氏はブログで想像していたとおり。でも内田氏がもっとも面白かった。
 4氏とも、絶対護憲ではないが、今、改憲する理由が見あたらないと主張する。その点は私も同感。そこに至る筋道が4者4様で面白い。内田氏は、憲法9条と自衛隊の矛盾こそが日本を救ってきたし、これからもこの矛盾を抱えていくことが当面の日本の平和を維持するもっとも確度の高い戦略であると言う。町田氏は自身日韓のハーフにしてアメリカ在住の日本人として、アメリカやドイツの憲法を例に憲法の意義を説く。小田嶋氏は軽妙に9条の効能を説く。平川氏は現在の日本の抱える病の上に立って憲法の理想と現実のあり方を語る。
 そのいずれもが興味深く、かつ十分説得力がある。安倍首相は何をしたいんだろう。どういう国にしたいんだろう。焦土になり何もかもがすっかりなくなった”きれいな国”にしたいんだろうか。

  • 憲法九条と自衛隊は矛盾していない。だから、それを「矛盾している」とする前提を採用する限り、この問題には解がない。日本人は「解のない問題を考え続ける」という仕方で、現実に直面するという気の重い仕事を無限に先送りすることにしたのである。/それが「五五年体制」と呼ばれるものである。(P039)
  • 憲法九条と自衛隊の「内政的矛盾」は、日本がアメリカの「従属国」であるという事実のトラウマ的ストレスを最小化するために私たちが選んだ狂気のかたちである。そして、その解離症状から引き出しうる限りの疾病利得を私たちは確保してきた。それは世界史上でも例外的と言えるほどの平和と繁栄をわが国にもたらした。(P057)
  • 星条旗は国旗を焼き捨てる自由すら保障する国家の象徴だ。・・・アメリカの憲法は、旗を焼くどころか、政府と戦う権利すら保障している。・・・自由を脅かす圧政にゲリラ戦で抵抗する権利を保障している。革命を起こす権利を憲法が認めているのだ。(P088)
  • 人は誰も「国民」として生まれてこない。国民は「なる」ものなのだ。(P104)
  • 九条は国防放棄の規定ではない。国防のための条文だ。(P128)
  • 何故、日本人のうちのかなりの人たちが憲法を改正したい、しなくてはならないと思うに至ったかについては、・・・憲法の側に、あるいは日本を取り巻く世界の政治的な情勢の変化に起因するのではなく、こちら側、つまり日本人の心理の側に源泉を持っていると思える(P172)
  • 「現実」に責任をとるということは、「現実」に忠実であることではなく、「現実」を書き換えるために何をすべきであるのかと考え続けることである。(P194)
  • 戦争そのものを否定するという迂遠な「理想」を軽蔑するものは、軽蔑されるような「現実」しか作り出すことはできない(P196)

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2007年8月 7日 (火)

族長の秋

 長編作「族長の秋」に「大きな翼のある、ひどく年取った男」を始め6編の短編を加えた作品集。「族長の秋」は、中南米の一国を舞台に、独裁者の最後の姿、憂鬱にして不安な生活を延々と描いている。独裁者が死んだ後の大統領府を探索する私という形で始まるが、話はいつしか独裁者自身の独白になり、母親や愛妾が語る形になり、客観描写に変わりと、一つの文章の中で、語り手が自由に交錯するので、非常にわかりづらい。さらには全300ページほどにもなる長編の中に、1段落50ページほどの全く行替えのないパラグラフが延々と続き、この猛暑の最中、読むごとに暑さがつのり、いつしか頭がぼおっとして、睡魔に襲われる。
 大統領府には、独裁者の奇跡を願う病人がここかしこに現れ、牛が跋扈し、ハゲタカが跳梁する。そして、各パラグラフの始まりは必ずこの大統領府の描写と独裁者の死の場面が描かれ、繰り返される。その異様な姿と語り口が妙にマッチし、独特の魅力と困難さを覚える。ガルシア・マルケスならではの仮想と現実が交錯した奇妙な世界が展開される。

これでは生きているとは言えない、ただ生き永らえているだけだ、どんなに長く有用な生も、ただ生きるすべを学ぶためのものに過ぎない、と悟ったときはもはや手遅れなのだと、やっと分かりかけてきたが、しかしそのために、いかに実りのない夢にみちた年月を重ねてきたことか。(P421)

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2007年7月12日 (木)

コレラの時代の愛

 「コレラの時代」とはコレラが流行し多くの人々の命を奪った時代。19世紀末から20世紀初頭にかけて、いまだ各地で内戦が続くコロンビアのある町で、50年の長きに渡り一途な恋慕の気持ちを持ち続けた男性フロレンティーノ・アリーサと、その初恋の相手であるフェルミーナ・ダーサ、そして彼女の夫であるフベナル・ウルビーノ博士のそれぞれの愛の人生を描く。今から1世紀も前の時代。遠く離れた異文化とまとわりつくようなねっとりと暑いコロンビアの風土。そして50年待ち続けた末の老いらくの愛。その全てが、今この時代、この国で読むにはあまりに違いすぎる。しかし、50年の時を超えてようやく二人の心と身体がつながるラストシーンは、その微妙な心の震えとと身体の変化に、胸が痛むような哀しい感動を覚える。そして人間にとっての愛の意義と偶然に左右される人生のはかなさを思い知る。それは、どの土地、どの時代にあっても、また死に至るまでの人生のいつの時においても変わらない・・・。「コレラの時代の愛」は大人の愛の物語である。

  • 人は老いを感じはじめると、自分が父親に似ていることに気づくのだということに、彼はそのとき思い当たった。(P246)
  • どのような人間も結局のところ、彼女が心の中でこうあってほしいと思っていたとおりの人間だった。町自体がそうで、いい町とか悪い町といったものは存在せず、彼女が心の中で作り上げたとおりの町でしかないのだ。(P317)
  • 二人はともに長い人生を生き抜いてきて、愛はいつ、どこにあっても愛であり、死に近づけば近づくほどより深まるものだということにようやく思い当たったのだ。(P498)

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2007年6月23日 (土)

ポストモダンとは何だったのか

 浅田彰が「構造と力」で鮮烈デビューを遂げ、ポストモダン思想が一世を風靡した1983年。本書の最後では、筆者は今こそこの「83年の思想」から始めようと呼びかける。デリダ、フーコー、ドゥルーズ&ガタリ、レヴィ・ストロース、フロイト、ラカン、レヴィナスといった実存主義の後の構造主義、さらにはポスト構造主義の思想家たちを概括的に展望した後、浅田彰、柄谷行人、東浩紀といった日本の思想家を紹介する。こうして83年以降、現在に続く思想の潮流の地図を描いてみせる。理解できたとはとても言えない。むしろほとんど理解していないと言った方が正しい。それでも時代の空気の中で、これらの思想の雰囲気、匂いのようなものは分かった気がする。文中、「思想は・・・具体的な政治や経済の状況の中で培われてくる」(P44)という記述があった。まさに構造主義、そしてポストモダンは今の時代に生まれた思想なのかもしれない。

  • 人間は環境に適応するばかりの動物ではなく、現状を変えていく存在であり、思想は現状を変える規定性である。(P26)
  • 構造主義は、主体の自由な選択といった考えを批判する。われわれが自由な選択の結果だと思っていることが、じつは自分たちが意識していない「構造」によって決定されているとしたら?(P47)
  • 近代社会においては、自分が意識するとおりに行動する理性的人間こそが、社会を構成する単位となることができる。しかし実際には、意識は存在に規定され、無意識にひとは動かされてしまう。我々の意識と存在、思っていることと実際やっていることとは一致しない。(P65)
  • ある言葉の意味を話し手が勝手に決めることはできない。聞き手との同意が形成されて初めて両者の間にコミュニケーションが成り立つのである。ある言葉がある意味を持つ、そのような規則は個人の内面に最初からあるのではなく、個々のコミュニケーションの現場で事後的に見出されるに過ぎない。(P86)

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2007年6月 8日 (金)

少子社会日本

 副題は「もうひとつの格差のゆくえ」。少子社会の主な原因を、「(1)「若者男性の収入の不安定化」と(2)「パラサイト・シングル現象」の合わせ技(交互作用)」(P10)と指摘し、以下、その根拠を各種の調査結果等を用いて説明する。
 「結婚生活、子育てへの期待水準」、すなわち最低でもどの程度の生活を営みたいかという水準と、「二人が将来稼ぎ出せる所得水準の将来見通し」とのバランスが出生力をほぼ規定するというイースタリン仮説(P70)によれば、収入の不安定化に対して、自分自身が高度成長期に子供部屋や塾通いなどある程度満足のいく成長をしてきたゆえに、また、親と同居して年に何度も海外旅行へ行くなどの生活を当たり前としてきたゆえに、子どもには自分よりも悪い生活をさせたくない、自分自身もいまより生活水準を下げたくない、という気持ちから、期待水準は高止まりのままでいる。このことが日本の少子化の原因であるという。
 欧米等では、成人した子供は親から独立することが当たり前であり、2番目の要因が働かず、かえって不安定な経済状況下では、一人より二人で生活する方が経済的にも安定することから、結婚への誘因にさえなるという。
 けっして結婚したくないわけではない、結婚すれば2名以上の子どもをつくりたい。まさに柳沢厚労大臣の言う健全な意識の元にいるにも関わらず、出生率は一貫して減少していく。最近発表された合計特殊出生率は久し振りに前年を上回り1.32を記録したが、団塊ジュニアの世代が出産時期を過ぎる数年後には、出生数は大幅にダウンせざるを得ない。少子化対策はもう待ったなしで実施せざるを得ない状況だ。だが、今、政府などが取り組んでいる女性の職場環境の整備などは、正社員になれた一部の高キャリア女性に対する対策であって、晩婚化、未婚化の原因となっているほとんどの非正規雇用、フリーターの未婚女性には助けにならない。その間にも不安定雇用ゆえに結婚できない若者男性が放置されている。
 少子化対策として、(1)全ての若者に、希望が持てる職につけ、将来にわたって安定した収入が得られる見通しを与えること。(2)どんな経済状況の親の元に生まれても、子どもが一定水準の教育が受けられ、大人になることを保証すること。(3)格差社会に対応した男女共同参画を進めること。(4)若者にコミュニケーション力をつける機会を提供すること。(P208)の4つが提言されているが、これらを確実に実施する方向へ日本の政治の舵取りを切らないと、日本の将来はない。「子供は母乳で育てろ」なんて言ってる場合ではない。科学的かつ果断な政策の実施が望まれる。

  • 私は、経済的意味、情緒的意味の双方を含める形で、家族を、「自分を心配してくれる存在」かつ「自分を必要としてくれる存在」と言い換えて使っている。(P50)
  • よく、近代化によって個人主義が浸透したと言われる。だが、それは、個人が「長期的に信頼できる関係」を必要としなくなったことを意味しない。・・・長期的に信頼できる関係を「個人的に」作らなければならない社会になったのである。それは、多くの人にとっては、昔のような共同体や宗教集団ではなく、家族を作ることによって達成される。(P50)
  • 若者は、リッチな生活を営むために親にパラサイトするというよりも、パラサイトしなくては暮らしていけない状況に追い込まれたのである。親が政府に代わって、若者の社会保障を行っているようなものである。(P136)

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官僚とメディア

 藤田東吾の書いた「耐震偽装-月に響く笛」でも、耐震偽装事件を混迷化したのは官僚とメディアであるという主張が繰り返されているが、本書はまさに「官僚とメディア」の腐敗を指弾する書である。著者の魚住氏が元共同通信記者だったこともあり、メディアへの批判が鋭いが、批判の内容はメディアの批判精神の後退と官僚組織との馴れ合いである。
 全8章のうち、第3章と第4章は耐震偽装事件が取り上げられている。そしてその取材の結果得た結論は、専門家の目から見ても、かなり正しい。すなわち、ディベロッパーのヒューザー、ゼネコンの木村建設、コンサルタントの総研の「悪のトライアングル」が事件を引き起こしたのではなく、姉歯の単独犯行であり、みんなが姉歯に騙されていた。建築専門家と称する人々の専門性はこの程度であり、それが実態だということ。しかも、それをある程度わかっているにも関わらず(国交省の役人自体が建築構造を理解できる人は皆無のはず)、民間開放と限界耐力法の導入によって破綻した建築確認システムを擁護し、あまつさえ強化しようとしている。本来責任を負うべき国交省は、いっさい傷つくことなく生き残り、その代わりに差し出されたのが藤田であり、悪のトライアングルの面々だった。こうした分析は、耐震偽装事件の本質をかなりのところまで突いている。
 その他、ライブドア事件やNHKの従軍慰安婦報道に係る朝日新聞報道事件、最高裁と電通、共同通信、地方新聞社等の癒着によるタウンミーティングのサクラ動員事件などの背景を描きつつ、近年次々と明るみに出る官僚や検察、裁判所などの権力側とメディアとの癒着と腐敗の状況を示し、問題を提起する。明晰で痛快だが、暗い気持ちにもなる。そういえば「きっこの日記」でも、安部総理が窮地に陥ると北朝鮮からミサイルが飛んでくる、といった皮肉が書き込まれていた。この国はいったいどうなっていくのか。

  • 当時の私は明らかに自分の属する組織と馴れ合い、その組織の論理を自分のなかに取り込もうとしていた。・・・つまり組織のなかで中心となって仕事をする心地よさに酔っていたのである。(P42)
  • 今回の事件は、勉強不足のあほな建築士がきちんと検討されている合理的な設計の結果を真似しただけです。・・・篠塚が犯した過ちは、十分な経験や実績を持たない姉歯に中山並みの能力を要求したことだったのではないだろうか。(P80)
  • 彼ら新聞記者たちは政官界の随所に濃密な人間関係を設けて食い込み、情報を物々交換することで、あるいは情報を通貨のように利用することで密着度を高めながら、実態としては情報提供者・情報幕僚として振る舞い、時としては政治ブローカーのごとき役割をも果たしていたという。(P127)
  • 90年代半ばから、司法官僚の驕りとポピュリズムがないまぜになった国策捜査が本格化した。・・・捜査の目的は破綻の原因と責任の所在を明らかにすることではない。国民の前に”生贄のヒツジ”を差し出すことである。(P143)
  • そもそも報道とは・・・情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事に過ぎない。そして、その商品の原料である一次情報の約7割は、官庁もしくはそれに準じる機構からただで提供されるものだ。(P172)
  • 管理を強化し、効率化を追求すればするほど組織はガタガタになる。(P177)

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2007年6月 3日 (日)

大正デモクラシー-シリーズ日本近現代史(4)

 大正デモクラシーと聞いて竹久夢二を思い、モボ・モガが銀座を闊歩する姿を思い浮かべるのは、全く日本の政治史を理解していなかったことを改めて思い知る。デモクラシーの言葉があるとおり、まさに民主主義に係る政治的な潮流を指す。ただし、当時の代表的な政治学者、吉野作造はデモクラシーに敢えて「民主主義」という言葉を被せず「民本主義」という。日露戦争の勝利で高揚した国民意識は、その国民が納得する政治、国民が参加する政治を要求する。しかし同時に帝国的意識も高揚している。すなわち「帝国デモクラシー」ということである。
 本書は、日露戦争後の国会を中心とした政治状況を追うとともに、普通選挙につながる成人男子(旦那衆、雑業層、無産層)と、そこからこぼれ落ちる女性や植民地住民らの姿、活動、考え方も追いかける。このことにより、大正デモクラシーの性格が鮮明に描かれてくる。もう一つの視点は、社会主義や無政府主義の動向だ。一方で、都市化の進展に伴う「遊民」の発生、受験と学生、主婦への自覚など、現在に通じる社会的構造がこの時期に芽生え始めている。近代日本の萌芽と言われる所以である。
 米騒動や関東大震災、昭和恐慌があり、原敬や浜口雄幸の暗殺などの事件もあるが、国民意識の中で多様な思想が花を開いた時期。現在から見ると、こうした多様性がどうして太平洋戦争のような逼塞した社会へと転落の道を歩むことになってしまったのかと思うが、それは次号のお楽しみ。戦争直前期ということで現在と比較する批評もあるが、明治期から続く時代と捉えると、状況は現在と大きく異なる。こうした多様性、批評性のなさこそが現代日本独自の問題点と言えるかもしれない。

  • 20世紀初頭の日本のデモクラシーは、日露戦争の熱狂性を背景に持ち、「帝国」の構造に規定されたナショナリズムと結合して現れてきている。対内的な姿勢と対外的な要求、政府批判とアジアの人々への姿勢に落差を有する「帝国」のデモクラシーであった。(P10)
  • 大正デモクラシー期の前半の思想的な主調音は「民本主義」である。(P27)
  • 民本主義・・・は、内政的には自由主義を主張しているが、それが国権主義と結びつき、対外的には植民地領有や膨張主義などを容認・・・こうした点から、民本主義は一国デモクラシーといいうる。(P36)
  • 文明や近代的制度を持ち込みつつ、現地の人びとから収奪を行っていくことが、植民地支配の主要な局面をなす。(P50)
  • 選挙権の付与により人びとを「国民」として自覚させ、主体的に国家との一体化を促し、それに従わないものを排除する。統合(普選)と排除(治安維持法)により選別的に「国民化」を図る。こうした、いわば1925年体制は、帝国の政策に批判的な人びとに対し、参加し妥協しながら部分的な批判をするか、排除されながら全面的・原理的な批判をするかという難しい選択をせまることになる。(P199)

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2007年5月17日 (木)

日蝕

 中世ヨーロッパを舞台に、フィレンツェをめざして旅立った学僧が途中で立ち寄った小さな村で錬金術師と巡り会い、隠された両性具有者を垣間見、魔女狩りによりその両性具有者が焚刑に処されようとする時、まさに奇跡が起き日蝕が地を覆う。まるでウンベルト・エーコのような難解な筆致で綴られた著者の芥川賞受賞作品。その難解な漢字や古色蒼然とした文章はたしかに耳目を集めるが、何の故か。
 解説では、次作の「一月物語」を泉鏡花になぞらえつつ、「反復的戯れを通した再生」と記述する。「書くことの初期そのものが作品として結晶化した」(P212)とも。
 しかし何故反復し模倣するのか。この小説を読んでも、この題材・テーマで訴えたいことがあるように思えぬ。高瀬川も実験的小説と感じたが、この処女作もそうした試みの一つというべきか。こうした表現、内容で小説を書くことに意味があったのかと。しかしてどういう意味が。それがまだ分からない。ただの戯れに付き合っているだけか、はたまたその先に小説の再生がひそんでいるのか。いつまでこれに付き合うのか。それが問題だ。

  • 眼前の焔の凄まじさは、世界と時間とを両つながらに呑み込まむとしていた。そのうねりと目眩く赫きとの裡に、或る瞬間的な到達の暗示と再生の劇的な予感を閃きながら。-世界の全的な到達と再生。(P67)
  • しかし、この上も無く美事な異教神の絵を見る時に、人は一体何と評し得るであろうか。慥かにそれは、怪しからぬものであるには違いない。然りとて、完く否定してしまうには惜しい気もする。それには猶、或る得体の知れぬ抗し難い魅力が有るからである。(P102)
  • 私が為により以上に重要であると思われるのは、錬金術の作業には、それを為すことそのものの裡に或る種の不思議な充実が在ると云うことである。(P200)

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2007年5月 8日 (火)

組織行動の「まずい!」学

友人から別の本を借りるつもりだったが、この本を持ってきてくれた。せっかくなので読んでみることにした。最近、失敗学が注目を集めているらしい。警察大学校で危機管理の教鞭を執り、失敗学会の会員でもある筆者による「失敗しないためのマネジメント術」が書かれている。失敗を起こす要因を、個人のミスから集団的な意識の陥穽、行き過ぎた効率化に起因するもの、専門家の限界や形ばかりのシミュレーション、組織全体の硬直化、組織文化に至るまで、主に会社・団体組織におけるミス(事件・事故)を中心に整理している。
 つい先日もエキスポランドのジェットコースター事故があったが、さっそくマスコミによる責任追及、犯人探しゲームが展開されている。こうした場面をみると、自分も失敗をしたくないなあと本書に書かれたことなどを思い返すが、多分この本をいくら読んでも、それで失敗がなくなることはないだろう。なにしろ「人間はミスする葦である」。
 もちろん失敗を極力少なくする努力は必要だろうが、そのためにはコストと時間を要する。リスクはどこまで行ってもなくならないとすれば、どこまで危機管理にコストを費やすことが適当なのか。その答えはどうやって導かれるのか。いや実は、失敗を減らす努力と並行して、失敗を受け止める度量(社会風土や組織力)づくりも同程度に必要なのではないか。
 読みながら感じたのは、この本の読者はミスを少しでも少なくしたいと考えている人、またはそうした職務を担っている人であって、私のようにミスを許し合える社会にしたいと思っている人間はお呼びではないということ。それでも、本書に書かれていることは、どの内容ももっともなことばかりで、その限りでは十分参考になるし、頷ける。ただし、耐震偽装事件に関する記述を除いては・・・。

  • 組織内で文書類が必要以上に増加するのは、本来は現場を支える立場であるはずの総務・企画部門が、逆に現場に対して支配的な傾向を強めている証左である。文書が分厚いほどよいという文系的価値観、いわば「『紙』様信仰」を現場に押し付けているのだ。(P42)
  • 年功序列システムとは、若手従業員に対して将来的に高い処遇を与えることを約束する代わりに、現時点の低い給料で我慢させるという暗黙の労働契約であった。(P117)

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2007年5月 2日 (水)

日清・日露戦争-シリーズ日本近現代史(3)

 シリーズの第3弾は、日清・日露戦争とその時期の政治や文化状況を描く。最初の第1章、第2章で、大日本帝国憲法公布後最初の帝国議会(1890年)から紛糾と政争を重ねる議会と政治の模様を詳細に綴っていく。予算審議に係る議会の関与範囲をめぐる憲法67条問題、地租軽減、政費削減、条約改正など、第1議会から元勲を中心とする政府と議会や民党が激しく対立し、議会解散や内閣総辞職もたびたびあった。こうした状況の中で日本の議会制は根付き日本式のルールや慣習が築かれていった。こうした状況を打開するため、日清戦争は起こされ、日露戦争に踏み切り、帝国主義や軍国主義を呼び起こし、太平洋戦争につながっていく。もちろんその背景には、西欧列国の覇権主義や植民地政策があったわけで、そうした時代とも言えるが、そうした時代の中で、必然と偶然と誤った選択の果てに歴史は作られ進行してきたと言える。
 いよいよ次号は「大正デモクラシー」。こうした時代の人々の思想や感性、メディアや流行、政治と経済などはどうだったのか。現在にも通じるといわれる時代だけに今から興味が尽きない。
 なお、下記引用で、「韓国保護権確立の件」は、4月8日の閣議決定時には、日露戦争の長期化に備えた兵站基地確保の意味であったものが、日露戦争後、韓国併合へと進んでいってしまったことを指す。まさに歴史は偶然と必然の賜物である。

  • 日本の近代国家を律する根幹は大日本帝国憲法であるが、その機能を明確にし定着させるには、政府・帝国議会・司法府でいくつもの試練を潜らねばならなかった。(P32)
  • 国内政治で追いつめられていた伊藤内閣は、打開策を打ち出す必要に駆られていた。・・・ここに「天下人心」を向かわせる「国事」としての朝鮮問題が現れたのである。(P57)
  • 日清戦争は異文化衝突を大量に生み出した最初の国民的体験であった。(P73)
  • 19世紀以降のアジアの危機は、日清戦争によって生み出されたのである。(P87)
  • 日露戦争が終わると、・・・軍隊を中心とする経済活動を柱として、・・・日本人社会が形成され・・・こうして成立した「外地」日本人社会は、その外部に中国人や朝鮮人社会を持ち、彼らを最下級労働者として雇用することで維持されていた。民衆の帝国意識が醸成されていく。(P225)
  • 日本海海戦が完勝に終わり、4月8日の閣議決定である、長期戦の遂行を助する「韓国保護権確立の件」は、それ自身として検討することが可能になり・・・(P225)
  • 「植民地問題」・・・の出発点が「日清戦争から日露戦争へ」の時期であった。(P240)

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2007年4月22日 (日)

高瀬川

 巻末の解説で、映画監督にして小説家の青山真治氏が、ギタリストの技巧と個性に即して、この短編集に見られる平野啓一郎の技と味について書いている。確かに平野氏の文章力の卓抜さはこの短編集でも遺憾なく発揮されている。超絶技巧といってよいほどの技があることはよくわかった。その味はどこで垣間見ることができるか。
 「高瀬川」は表題の小説を含む4作品の短編集である。そのいずれもが、文筆表現における実験作品といえる。一つ目の「清水」は、「清水のしたたり」と「光が散り続ける太陽」と「人間の消滅」という現実の前で、死と記憶と存在を巡って彷徨う主観的小説。二つ目の「高瀬川」は、作者に模した作家と雑誌編集者との一夜を克明に描写した小説。その描写力は通俗なポルノ小説をはるかに凌駕して克明であり、汗や音、熱気までが伝わってくるよう。3つ目の「追憶」は、最後に綴られた25行ほどの散文詩と、そこに置かれた言葉をところどころ取り出すことで綴られる数十編の散文。散文を重ね透かすことで最後の散文詩が浮かび上がるという趣向。そして最後の「氷塊」は、「喫茶店で不倫相手を待つ女性」と「喫茶店の向かいの交差点で女性を見つめる少年」という二人を主人公とする二つの小説が、それぞれの置かれた境遇や思いの中で同時並行に進行し、微妙にシンクロしつつ、お互いの物語の中で完結していく、という実験的小説。
 それらのどれも面白いと言えるが、同時に作者の筆力の高さを実感する。しかして作者の味とは・・・。残念ながら、平野作品をまだ2冊しか読んでいない私には、まだ味まではわからない。ただ、単に技巧に優れているだけではなく、人間と物語に対する真摯な関心を持って、その技巧を活かすための試みを重ねているらしいことが微かに感じられるのみである。しかし魅力があることは間違いない。まずは「日蝕」や「葬送」などの代表作を読んでから、平野啓一郎という作家を改めて考えてみたいと思う。

  • その逃れ難いという不安は奇妙に冴えていた。今、ここにある停滞。その揺るぎない反復。その底で、永遠に同じ一つの円の回転を生きねばならないという予感の重苦しい眩暈。(高瀬川・P44)
  • そうして事実は常に、家族の中心で空洞だった。そして、その空洞の周囲で、彼らは恐らく幸福だった。(氷塊・P193)

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2007年4月 4日 (水)

下流志向

 内田氏のブログで、「ぜひ国民のみなさんに読んでいただきたい」と書かれていた。もっとも内田氏がわざわざ「国民のみなさん」と書くのは訳があり、つまりこれは経営者セミナーでの講演を基にした本であって、社長相手に展開された理論であるからこそ、社長でも何でもない「国民のみなさん」には、普段の自分自身の視座から離れて読むことができるのではないか、といったことが綿々と綴られていた。
 でもそうした誰々向けといったことは離れても、十分楽しめるし、説得される。学習忌避する子どもたち、労働忌避するニートたち。そしてリスクヘッジもせずにリスク時代に放り出された日本人。こうした状況をアメリカモデルの終焉、すべてを経済原則で理解しようとすることの誤り、自己決定・自己責任論のつけ、無時間モデルから有時間モデルへの転換の勧めなど、さまざまな言葉や概念で説明し、我々の凝り固まった頭をもみほぐしてくれる。実に面白い。そしてその一々に、もっとも、そのとおりと納得する。単に人間を人間らしい世界で理解し開放しようと言っているに過ぎないのに、どうしてこんなに新鮮で楽しく、明るいんだろう。
 日本の未来について、意外に「一斉に変わる」ことができるんじゃないだろうかと書かれているが、こうした明るい見通しも含めて、基本的に楽観的なのがまた読んでいて楽しい。下流志向は問題だけど、それは下流志向する人が問題なんじゃなくて、下流志向を選択することが合理的な選択だと思わせるような社会が問題であり、しかし社会の問題は社会の気分が変わることで「一斉に変わる」可能性がある。だとすれば、我々はそうした正しい社会に変わらなくっちゃ! 変えなくっちゃ!

  • 「学び」は等価交換の空間モデルによって表象することができません。それは時間的な現象です。そして、時間的でないような「学び」は存在しません。(P62)
  • 明治以来、近代化のプロセスの中で、日本人は「迷惑のかけ合い」という仕方でリスクをヘッジしてきました。(P104)
  • 日本では、・・・弱者が自分自身の社会的立場をより脆弱にするために積極的に活動している。・・・自らの意思で知識や技術を身につけることを拒否して、階層降下していく子どもが出現したのは、もしかすると世界史上初めてのことかもしれない。(P123)
  • 学ぶことの本質は知識や技術にあるのではなく、学び方のうちにある(P152)
  • 知性とは、詮ずるところ、自分自身を時間の流れの中に置いて、自分自身の変化を勘定に入れることです。(P153)
  • 経済合理性というのはその経済活動に付随するもろもろの人間的価値を排除してしまう。でも、視野から排除されたせいで致命的なダメージを受けたものって、たくさんあると思うんです。教育もそうだし、労働もそうだし、育児もそうだと思います。(P166)
  • 「ニートになったやつは自己責任だから、勝手に飢え死にしろ」というロジックを正論として認めれば、僕たちの社会はこれからも無数のニートを生み出し続けることになる。・・・「君たちは飢えることのリスクを自己決定して引き受けたけれど、私たちは君たちを飢えさせない」というロジックを「常識」に登録することだけがニートのもたらす社会的コストを最小化できる。(P207)

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2007年3月29日 (木)

ロリヰタ。

 親しい友人が、一昨年だかに、「嶽本野ばらに会えたことが今年の最大の収穫」という趣旨のメールを送ってきた。ちょうどその頃僕は、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を探していたこともあり、てっきり日本の古典の作品名だと思い込み、書籍を探していた。先日偶然、僕も嶽本野ばらに出会った。何故か乙女カリスマと書かれていた。サイトを見た。ロリータファッション(たぶん)に身を包んだ男性の紗のかかった画像が置かれていた。下妻物語の作者だと聞いた。もっとも、ヒットした映画だということは知っていても見たことはない。もちろん読んだこともない。書店で偶然この本を新刊コーナーで見つけた。最初、描かれている世界にかなり戸惑った。ほとんど作者と同一人物と思える僕が偶然知り合った若い女性と恋に落ち、マスコミ・スキャンダルとなり、自らの恋心を確認する。彼女はわずか9歳だった。
 冒頭で、ロリータとロリコンは関係ない、としつこく書かれているが、恋愛した相手はまさにロリータだった。それでも、恋に年齢は関係ない。恋だけでなく、自分は自分であり、社会の鑑、倫理、ルールに囚われることなく、自分自身に忠実に生きていくことを訴える。もし本当に嶽本野ばらが乙女のカリスマとして少女達に支持されているのだとすれば、そうした作者自身の生き方、そして「そうやって生きていいんだよ」と語りかけるその作品が共感を呼ぶんだろうと思う。僕の親しい友人も、もう50歳を越えたというのに、嶽本野ばらに共感するというのは、同様の思いなんだろうか。そういう意味では、嶽本野ばらは乙女のカリスマにとどまらず、今のストレスフルな社会にあって、一服の清涼剤と言えるかもしれない。
 文章自体も非常にしっかりしており、確かな小説家であると感じた。たまにはこうした作品も悪くない。

  • 貴方はもう、個人ではなく、商品なんです。僕が自分の現在の歯がゆさに就いて語ると、僕を売り出した担当編集者は、そう端的に告げました。(P19)
  • 恋愛感情を意識しない時と恋愛感情を意識した時の間には、明らかな線が引かれている筈です。しかしそれは日付変更線のようなもので、・・・「今から日付変更線を越えます」と教えて貰わないと解らないものなのです。・・・僕達は何時も、随分と変更線を越えてから、ようやく自分の腕時計と太陽の見える一の誤差に気付き、慌ててしまうのです。(P108)
  • 何かを伝える為に言葉はあるけど、でも言葉だけじゃ気持ちは少ししか伝えられなくて、だから好きになると、手を絡いだり、抱き締め合ったり、キスしたりしたくなるんだと、思う(P156)
  • そんなに人と違うことが悪いことなのですか。一体、何を知っていれば、憶えていれば、良識ある人間だと思って貰えるのですか。(P219)

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2007年3月16日 (金)

百年の孤独

 扉にブエンディア家家系図が描かれている。通常のツリー構造ではなく、やたらと斜めの線が多い。兄弟(双子)が同じ娼婦や占い師と性生活を営み子をなしたり、叔母と甥の近親相姦があったり。古い町から一行を率いて新しい土地を求めたホセ・アルカディオ・ブエンヂアとウルスラ・イングランの家系の、マコンドの町での6代にわたる一族の顛末を描く。魔術的な出来事が常識的な出来事と違和感なく当たり前のように記述され、奇矯な事件を起こし、瘧が落ちたような逼塞した生活が突如始まり、死と生が当たり前のように繰り返され、使い込まれていく。
 最初、魔術的な伝統と常識が蔓延る町マコンドが、新しい西洋の文化に触れ、化学変化を起こし変質していくという話かと思ったが、それだけでなく、繰り返す破滅的性格と行動、新しもの好きにして閉塞した性格、指導力とリーダーシップと狡猾な軍事行動と田舎丸出しの愚鈍。こうした相矛盾する出来事が複雑に絡み合い、繰り返され、少しづつ変化し、好転しそうで突然暗転して終結を向かえる。
 複雑でユーモラスで悲劇的で混乱して明るくて変質的で知的で異様で無様で、人生のあらゆる要素と矛盾と確執と思い込みと頑迷と開明と、それら全ての要素が織り込まれた美しくも悲しい孤独のクロニクル。これは、ガルシア・マルケスだけの世界、と言わざるをえない。面白い。

  • 「たとえ神を恐れなくても、金気のものは恐れなきゃいかん。(P41)
  • チェッカーをやらないかと誘うと、・・・基本的な原則について一致をみている二人のあいだで勝負をあらそう意味が納得できない(P92)
  • わが家に帰ってなに不自由なく暮らせるようになったため、伯父ホセ・アルカディオのかつての女狂いと怠け癖が彼にもとり憑いたかのようだった。・・・気ままな毎日を送った。玉突きをし、寂しさをその時々の女でまぎらわし、ウルスラがそこらの隙間に隠しておいたお金をさらっていった。しまいには、着替えのためにしか家に寄りつかなくなった。「男の子ってみんな同じね」とウルスラはこぼした。「初めは行儀が良くって、言うことをよく聞いて、まじめだけど、髭がはえる年ごろになると、たちまち悪いことを始めるんだから。」(P164)
  • 時間というものはぐるぐる回っているという、ふだんの印象をいっそう強めた。(P237)
  • 時は少しも流れず、ただ堂々めぐりしているだけ(P350)
  • ウルスラはこれを聞いて初めて、彼が自分よりもはるかに暗く、曾祖父と同じように人を寄せつけぬ、孤独の闇の世界を生きていることを知った。(P350)
  • 一族の血を絶やすまいとして自然の掟と戦うウルスラ、偉大な文明の利器という夢を追いつづけるホセ・アルカディオ・ブエンディア、ひたすら神に祈るフェルナンダ、兵戦の夢と魚の金細工のなかで呆けていくアウレリャノ・ブエンディア大佐、ばか騒ぎのさなかの孤独に苦しむアウレリャノ・セグンド。
    「文学は人をからかうために作られた最良のおもちゃ(P438)

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2007年3月13日 (火)

一月物語

 「一月」とはひとつきのことか。月の光、満ち欠けが物語を彩り、胡蝶が話を導く。東京駅ですれ違った女、汽車で乗り合わせた老爺に導かれ、奈良県十津川の山中に引き込まれていく青年詩人、真拆。明治30年という時代設定そのままに、古色蒼然とした文体で綴られた話は、老僧に匿われた若い女性、夢と幻、逃れてきた山の麓の女将の昔話。蛇の子を宿った美女と呪われた目をもつ女。そして死の結末を知りつつ惹かれ合い、抗いつつ死を希う二人。それはまさに現代の神話にして説話。平野啓一郎はこの小説でまさにこうした世界を表現したかったのだろう。それは現代という時代が失ったロマンと物語への希求とも言える。初めての平野体験はなかなか面白かった、と言おう。次は何を読もうか。

  • 夜が満ち始めていた。山中では、闇は底に、底に、と溜っていく。それが何時しか踝を呑み、膝を呑み、気がつけば胸にまで迫っている。(P27)
  • 盲人の世界は、手許にしかない。世界は決して予告されない。触れる瞬間に世界は初めて姿を現す。その一刹那のみ、忽然と存在して消えるのである。(P58)
  • 言葉を与えられねば認められぬ感情がある。それと倶に、本来は違っていたかもしれぬが、言葉を与えられて、それに合うものへと変化してしまう感情がある。(P86)
  • 廊下に出ると、女将は小さく咳をした。朽葉色の竹筒で作られた添水のような、乾いた抜けの良い音であった。(P143)

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2007年2月26日 (月)

民権と憲法-シリーズ日本近代現代史(2)

 西南戦争が終わった1877年(明治10年)から大日本帝国憲法が公布された1889年前後までの日本の歴史を、民衆という視点を加えて、新たに綴り直す。まさにこの時期に現代につながる日本の基礎が形作られた。それは、憲法や天皇制、軍隊、内閣といった制度だけでなく、国民自体が作られていった時期であった。そして国民の形成に大きな影響を及ぼし、意図的に国民を作り出していったのが、福沢諭吉であり森有礼であった。明治維新政府と自由民権運動という時代を牽引した二つの力に、民衆という第3の勢力を加えることによって、時代がいかに形作られていったかが実感のあるものとして伝わってくる。
 こうした視点はシリーズの第1巻にも共通するものだが、民衆の力があってこそ明治維新は大きな混乱もなく受け容れられ、民衆の力が国民の形成を成就させ、今に至る近代国家につながっていった。そして日本にナショナリズムを台頭させ、日本を帝国主義に導いていった。それはある意味でたどるべくしてたどった道であったかもしれない。別の道もあったかもしれないが、それは単に日本を軍国主義や太平洋戦争に導かなかっただけでなく、その後の高度経済成長も経済的繁栄ももたらさなかったかもしれない。そう考えると、歴史は恐ろしいと思う。我々ができるのは、こうした必然の歴史を振り返りつつ、最善の選択を重ねていくことしかない。それが日本をどう導こうとも。正しさに至る唯一の道などないのだから。

  • 演説会の聴衆に代表される民衆のほとんどは、民権理論や国家構想を充分に理解して支持していたわけではなく、民衆の願望と民権運動のめざす近代的な国民国家とのあいだには大きなズレがあった。(P27)
  • 福沢が「平等」を力説し「学問」を奨めたのは、民衆の「客分」意識を払拭し、「国民」としての自覚、国家のために命を棄てる覚悟をもたせるためだったのである。(P21)
  • 福沢の目標はあくまでも日本の国権拡張、つまり国家的自立と国益の拡大にあった。(P94)
  • 1880年代後半には、命令されなくとも集団のなかで自発的・主体的に規律正しい労働のできる者だけが「勤勉」に名に値する、という”文明国標準”が人びとを律しはじめていた。(P90)
  • 国家と個人が直接に結びつくのではなく、日常生活の基本単位である「家族」をその間に介在させていた。そして、家長によって家族の秩序が維持され、”二級市民”とされた女性や未成年者が統御されることを期待した。・・・今日でも家族の安定が国家・社会秩序の基礎だとする議論がくりかえし説かれるのはそのためである。明治以降の「家」制度は、封建的というよりは近代国家に共通する家長制の一つだった。(P155)
  • 唱歌や隊列運動、万歳などを通して国民的一体感の創出に努めるとともに学歴主義の基礎をつくった森有礼文部大臣こそ、福沢諭吉と並んで、近代国民国家の特質を明確に認識していた政治家であった。(P202)

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2007年2月20日 (火)

難民世代

 三浦展の本には2種類ある。大胆にして斬新な視点で都市社会を切り取るタイプの本と、データを駆使して世代論を展開するものと。本書は後者である。話題を呼んだ「下流社会」も実際に読んでみると、データ解説が延々と続きうんざりしたが、本書も同様。それでも「下流社会」の場合は、団塊ジュニア世代を思い切ってカテゴライズし、その命名が斬新で楽しめたが、本書ではそうしたこともなく、淡々とデータ解析が続く。それも我田引水っぽい解説が各所に散見され、本当かなあと思わせる。特にJリーグを下流団塊ジュニアのスポーツであるかのような記述には、わからないではないけど、ステレオタイプ過ぎるとも思う。これは自分がおじさん年齢にしてサッカー好きなせいでもあるが。
 本書のテーマは団塊ジュニア世代論。この世代の特徴は、人口が多いこと以上に、大学進学、就職といった人生の局面で、バブルの崩壊など世間の厳しく冷たい風に直面し、結果的に多くの人が派遣社員やフリーターとならざるを得なかったことに起因するのではないか、という指摘は納得させるものがある。現在の少子化も、彼らの多くが正規社員となれず、その結果、結婚もできなかった人が多いから、という説明がされる。確かに説得力はあるのだが、そうだとすると、柳沢大臣ではないが、バブルの崩壊という経済の失敗がなければ、日本の子育て世帯はもっと健全になれたということだろうか。そうであれば、出生率は今後回復するということになるはずだが、どうだろうか。

  • 団塊ジュニア以降の世代は、バブル崩壊後就職難のために正社員になりにくかった世代なのである。/結果、晩婚化、少子化が進み・・・(P14)
  • 団塊ジュニアの歴史を語ることは、オイルショック後の低成長と、バブル崩壊後の失われた10年を語ることになってしまう。・・・団塊ジュニアのこれまでの歴史とは、あらかじめ失っていた故郷を求めてさまよう歴史であり、求めていた故郷を失い続けた歴史だったと言えなくもない。/故郷とは単に自然の豊かな田舎というような意味だけではない。家族とか、結婚とか、会社とか、およそこれまでは「安定」のイメージで語られてきたものの表象である。(P19)

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2007年2月17日 (土)

ためらいの倫理学

 巻末に付けられた単行本時の付録や文庫版解説にも、内田氏のことを「思想の整体師」とか救世主といった賛辞が寄せられているが、僕が最近内田樹にはまっているのも同様の理由による。とにかく気負いがなく、癒される。本書中でも「「わからないことはわからないと言えばいいんだよ」と言ってくれる。それでいて、実はかなり難解な内容でもある。何と言っても、内田氏の思想のベースは、構造主義思想家のレヴィナスでありラカンである。今まで読んできた内田本の中では、もっとも難解と言っていい。
 本書で取り上げる主な論点は、戦争論とフェミニズムと審問又は愛、又は知性。いくつか収められている中でも「戦争論の構造」、「性的自由はありうるか?」、「『女が語ること』のトラウマ」、「越境・他者・言語」、そしてタイトルとなっている「ためらいの倫理学」などはかなり難解。それでも、内田氏自身が「ラカンの言いたいことはほとんどわからない」とか、「わからなくてもいいんだと」と言ってくれるので、気持ち穏やかにページを先に進めた。結局、どれだけわかったのか自信がないが、自然体で生きていけばいいんだと勇気をもらった。思想を語りつつ癒してもらえる本はそうはない。内田樹を読んで「正しい日本のおじさんの道」を歩もう!

  • 私たちは知性を計量するとき、・・・その人が自分の知っていることをどれだけ疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。(P25)
  • 記憶というのは、その出来事「そのもの」の強度によって記憶されるのではない。その出来事が「そのあとの」時間のなかでもつことになる「意味」の強度によって選択されるのである。(P50)
  • 近代社会は「欲望をコントロールして、規範に従うこと」と「家族をつくり、その中でロールプレイングに徹すること」を基本ルールにしてきた。・・・フェミニズムはその近代ルールを正面から否定した。個人の自己実現と欲望の充足を集団および他者のそれよりも優先させる生き方を「より人間的である」として肯定したからである。・・・これは要するに社会を解体し、文明を捨てて野蛮に還るということである。(P169)
  • どうやって語るのか。・・・それは「あなた」に届くように語る、ということだ。(P231)

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2007年2月11日 (日)

ガープの世界

 先日読んだ「オウエンのために祈りを」がよかったので、ジョン・アーヴィングの旧作を読みたくなった。「ガープの世界」はジョン・アーヴィングの代表作といってよいが、その内容はさっぱり覚えていなかった。実家の段ボールを探し、引っ張り出してきた。奥付を見ると、平成2年3月7刷とある。ちょうど娘が生まれる頃だ。その当時、この本を読んでどういう思いを持ったのだろうか。
 一言で言ってしまえば、「性の欲望と愛と死の物語である」。子どもだけを欲した母・ジェニー・フィールズによる、脳に障害を負った傷病兵との性交の結果誕生した人間・ガープの成長と死の物語。ガープは高校卒業後オーストリアに渡り、母共々執筆に励む。そこで書かれた自らの自伝である「性の容疑者」で注目を浴びた母は、女性運動家のカリスマとなっていく。一方、娼婦との交流などを経て、処女作「ペンション・グリルパルツァー」を書き上げたガープは、大きな注目を浴びることもなく、それでも幼なじみのヘレンと結婚し、作家として歩み始める。
 ガープの浮気やヘレンの同僚フレッチャー夫妻との友情と夫婦交換、息子ダンカンの友人ラルフの自堕落な母との交流、そしてヘレンの不倫が直接の原因となって、一家は大きな事故を起こし、次男ウォルトと長男ダンカンの片目を失う。女性運動家の拠り所となっていた母の邸宅で療養中に、性転換した元タイトエンドのスター選手・ロバータとの交流や強姦され舌を切られた少女、エレン・ジェイムズに共感し自らの舌を切り取ったエレン・ジェイムズ党員とのいさかいなどがあり、問題作「ベンセンヘイバーの世界」を発表する。これが賛否両論の大波を起こす中、母が暗殺され、エレン・ジェイムズとの出会いなどを経て、ガープ自身がエレン・ジェイムズ党員により暗殺される。
 様々な要素がぎっしりと詰め込まれ、しかもそれらのピースが最後にはピタッピタッと嵌め込まれ、全体が構成されるところは、さすがジョン・アーヴィングと思わせる。解説では、ガープの発表する作品群とジョン・アーヴィング自身の作品を並列し、その相似が指摘されていた。「ガープの世界」は「ベンセンヘイバーの世界」に模せられ、未完の次作は「ホテル・ニューハンプシャー」に擬せられる。と書かれると、次は「ホテル・ニューハンプシャー」を読まなくては。こうしてかつて読んだ小説を読み返していく、というのも、なかなか面白い。

  • ウィーンは死骸だ、とガープは思った。おそらくヨーロッパ全体が、蓋をとった棺桶に眠る着飾った死体なんだろう。(上・P244)
  • 「すべて欲望のなせるわざよ。お義母さんのいうとおりだわ。これは男の問題ですからね。」(上・P321)
  • 欲望がまた善良な男を卑しくする。(下・P327)
  • 彼女たち(エレン・ジェイムズ党員)は、彼(ガープ)の中に、基本的に男性的で、基本的に不寛容なものである一種の殺人者本能を嗅ぎ取っていたのである。彼は、ヘレンもいうように、不寛容なものに対してあまりにも不寛容であった。(下・P395)

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2007年2月 6日 (火)

ウェブ人間論

 「ウェブ進化論」を執筆した動機を聞かれて、「思考を構造化したかった」と梅田が答えている。本書は、「ウェブ進化論」のベストセラーで一躍時の人となった梅田望夫と若き芥川賞作家である平野啓一郎の対談集である。このため、テーマ分け等の編集はされているのだろうが、一つの話題が十分堀り下げられることなく次のテーマに移るなど、読んでいてもどかしい思いが募る。対談集の楽しみ方はいろいろあるのだろうが、この本は、シリコンバレーに在住し、IT産業界の動向を深く知る梅田・46歳と、若干31歳の新進作家・平野という異色の組合せによる考え方や感性の違いが面白い。
 ちなみに、平野とは同郷の生まれ。梅田とはほぼ同年代。もっとも同郷とは言っても、平野はわずか1歳で生まれ故郷を離れているから、ほとんど同じ環境経験はない。だからというわけではないが、両者の発言内容に対しては、梅田の方にシンパシーを感じる部分が多い。梅田は、人間を機能として理解する傾向があり、出来事や物事を情報として分節化する、目的的な思考が目立つ。楽観的で多様性を受け容れる。一方、平野は、矛盾を受け容れ、無目的的で刹那的な思考を肯定するが、一方で人間の多面性や分裂性を嫌う傾向がある。どちらかといえば悲観的。一言で言ってしまえば、梅田は理系的で平野は文系的。そんな両者の噛み合わない対談には少しいらいらする。全体としては、梅田が「ウェブ進化論」で書いたようなITの進化が、人間及び社会にどう影響し、どういう様相を示すことになるか、というテーマを巡り、それぞれの問題意識や未来への展望を語り合っている。
 うーん、わかったような、物足りないような。とりあえず、平野啓一郎を読んでみようかなと思ったことが一番の収穫だったような・・・。

  • (平野)僕にはどうしても、一個の人間の全体がそんなに社会的に「有益」であり得るとは思えない。・・・だけど、その役に立たない部分も含めて僕であるし、それを含めて人とコミュニケートし、承認されたいという願望はやっぱりあるんです。(P54)
  • (梅田)人間はそういうこれまで通りのリアルを生きながら、全く新しいネットをも生きる。そんなイメージを抱いています。(P94)
  • (グーグルやシリコンバレーで働く人たちは)共同体意識は強いですね。・・・その世界に属している・・・その価値をすごく大切にしている気がします(P152)
  • (梅田)頭の中の記憶と外部記憶のそれぞれに、何を持ち何を持たずともいいと思うか。そのことについてどういう感覚を若者たちが持つようになるのか、少なくとも僕らの感覚とは全然違っているだろう(P177)
  • (梅田)「個の変容」を考えるときも、個がサバイバルするための思考の枠組みを得たいから「社会変化の本質をマクロに俯瞰的に理解したい」と強く希求する。「社会の変容」への対応という視点から「個の変容」を捉えようとする傾向が強い。しかし平野さんは「人間一人ひとりのディテールをミクロに見つめること」によって「個の変容」を考え、その集積として「社会の変容」を考えようとする。(P201)

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2007年1月31日 (水)

となり町戦争

 ある日、町の広報に、「となり町との戦争のお知らせ」が載った。その意味を判じかねつつも、平凡な日常を送っていた主人公の元に、戦時特別偵察業務従事者の任命の通知が舞い込む。こうして主人公の北原は、となり町との戦争に巻き込まれていく。ところがこの戦争は、町の活性化対策のために公的事業として遂行される戦争だった。お役所仕事として実施される戦争は、辞令交付や議会承認、予算決議、地元説明会に損害補償、コンサルティング会社への業務委託、変にマニュアル主義で杓子定規で、そのお役所仕事ぶりが面白いが、実際に起きているのはまさしく戦争。死者が次第に増えていく。
 設定は非常に面白いが、戦争という非日常と、役所仕事としての戦争という非常識が二重に重なる中で、戦争が過去のものとなった現在において、戦争の意味や生・死を捉え直そうという筆者の意図は(それが意図だとすれば)、必ずしも十分描き切れていない。こうした状況の中で主人公たちは、ある意味、当たり前な行動や感情を示し、当たり前に文学的な描写が重ねられる。その点では、やや物足りない思いがする。文中、何度も「リアル」という言葉が繰り返されるのは、作者自身、設定のリアルさに自信が持てなかったからだろうか。設定が面白いだけに、もっと深く掘り下げることができれば、もっと面白くなっただろうに。残念。
 ちなみに、作者は、現役の公務員だそうで、公文書や事務処理手順等にその経験が生かされており、おかしみを加えている。何でも近く映画化されるそうだ。

  • 「そう。殺すってことはですねえ、相手から奪うことではなくてですねえ、相手に与えることだって、そう考えることですよお、はい。」(P23)
  • 私たちは住民のために仕事をしています。ですが、そこで言う”住民のため”とは、すべての住民に公平で同質のサービスを提供する、ということです。(P72)
  • 「あのころは、ぼくは人の生とか死とかってよくわからなかった。人は自然にそこに現れて、自然に消えていくものなんだっておもっていたよ」(P157)
  • 僕の影は、香西さんの影と重なっていた。だが、二人の影が重なっても、影の濃さはかわらなかった。重なった部分は、僕の影であり、また香西さんの影でありながら、「二人の影」ではなかった。(P191)
  • 僕たちは、自覚のないままに、まわりまわって誰かの血の上に安住し、誰かの死の上に地歩を築いているのだ。(P193)

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2007年1月29日 (月)

私家版・ユダヤ文化論

 なぜ今ユダヤ論か、という思いがあったので、なかなか手が出なかったが、正月にBOOK OFFで偶然見かけて買ってしまった。やはり内田樹は面白い。ユダヤ論と言えばサルトルが有名だが(昔読んだようなかすかな記憶が・・・)、反ユダヤ主義隆盛のきっかけとなったエドゥアール・ドリュモンの「ユダヤ的フランス」を主たる題材に、日猶同祖論を中心とした日本におけるユダヤ人観の歴史を振り返る「第2章 日本人とユダヤ人」や、フランス19世紀末(第三共和政時)のドリュモンとモレス侯爵の顛末を描いた「第3章 反ユダヤ主義の生理と病理」が、反ユダヤ主義を巡る歴史と思想状況をわかりやすく解説していて興味深い。
 そして「終章 終わらない反ユダヤ主義」では、なぜ反ユダヤ主義がなくならないのか、反ユダヤ主義とは何なのかを、レヴィナスのユダヤ論を下敷きに解明し、非常に面白い。それはまるで上質のミステリーのようでさえある。反ユダヤ主義とは、我々の心の投影であり、それ故根絶することはできず、ユダヤ人とはそのような対象とならざるを得ない、いや原罪としてなるべく生まれ出た民族であった。

  • 日猶同祖論者たちは・・・欧米列強が日本を軽侮し差別するのは、日本が(潜在的に)欧米諸国を眼下に見下ろすべき「神州帝国」だからであるという、尊属ゆえの受難という物語を成り立たせたのである。(P71)
  • 19世紀的近代人はあらゆる事象は因果の糸で緊密に結びついており、その因果の糸を発見することこそが、「科学的思考」であるという思い込みに深く領されてきた。・・・分子生物学者のルドルフ・シェーンハイマーはこれを「ペニー・ガム法」と名づけた。(P84)
  • 「そこに存在しないもの」を感知し、恐怖し、欲望し、憎悪することが人間にはできる。何かが「存在するとは別の仕方で」、生きている人にリアルに触れ、その生き方や考え方を変えるということがありうる。・・・私たちが因習的に「ユダヤ人」と民族名称を付して読んでいる社会集団は、その「存在するとは別の仕方で私たちに触れてくるもの」と民族的な仕方で関係づけられている(P168)
  • 人間は不正をなしたがゆえに有責であるのではない。人間は不正を犯すより先にすでに不正について有責なのである。・・・私はこの「アナクロニズム」のうちにユダヤ人の思考の根源的な特殊性がある・・・。この逆転のうちに私たち非ユダヤ人は自分には真似のできない種類の知性の運動を感知し、それが私たちのユダヤ人に対する激しい欲望を喚起し、その欲望の激しさを維持するために無意識的な殺意が道具的に要請される。(P217)
  • 神が顕現しないという当の事実が、独力で善を行い、神の支援ぬきで世界に正義をもたらしうるような人間を神が創造したことを証明している。「神が不在である」という当の事実が「神の遍在」を証明する。(P228)

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2007年1月 4日 (木)

予告された殺人の記録

 一度読みたいと思っていた、コロンビア出身のノーベル賞作家、ガルシア=マルケスを初めて読んだ。実話を元にするというが、観察者・取材者としてのからっとした筆致で書き込まれた作風が伝統社会の力や素朴さを十全に表現している。時間や場所が自由に前後し移動するが、しっかりと計算されており、まるで映画の場面展開を見ているような感じだ。死体や殺人場面の描写も本来グロテスクなはずが、まるで映画シーンのように客観的に描写され、かえって真実味を感じさせる。
 話は、古い伝統が残る中南米の小さな町。そこに外からやってきた男が地元の娘を見初め、どんちゃん騒ぎの披露宴を挙行するが、娘が処女ではないとわかった男はその夜のうちに娘を実家に帰す。娘から初体験の相手を聞きだした双子の兄弟がその相手の男を殺すと言い出し、翌日の朝に殺害する。それだけの話だが、小さな町では、多くの村人が殺人の予告を聞き、それぞれの行動をし、予告どおり殺人が実行される。そのときの、またその後の関係者や村人たちの考えや感じたこと、行動などを取材し再構成する、という仕立てだ。
 古い伝統社会の中では、名誉回復のための殺人すら許容され、一方でしのびよる近代社会のルールが伝統社会の慣習を壊していく。明晰な問題意識の下でかっちりと組み立てられた作品で、非常に好感が持てる。次作も探し出して読もうと思う。

  • 大勢の人間がいる中でただひとり、バヤルド・サン・ロマンだけが犠牲者だった。彼以外の悲劇の登場人物たちは、人生が自分たちに振り当てた得な役回りを、誇らしく、またある種の権威をもって演じたと言えるだろう。(P98)
  • 夜明けに鶏がときの声を上げるが早いか、わたしたちは、あの不合理な事件を可能にした、互いにつながり合った無数の偶然に、秩序を与えようと努めた。・・・宿命が彼に名指しで与えた場所と任務がなんだったのか、それがきちんと分からぬまま暮らしていくことは、わたしたちにとって不可能だったからである。(P114)
  • 彼らはすべて、ある意味で男性優越主義の社会の犠牲者なのである。・・・そしてその基盤になっているのが、実は母系制社会なのだ。しかし作者はこれをいきなり批判したりはせず、民衆が選び取ったものとして、観念的にではなく生身の形で、むしろ郷愁をこめ美しく描いてみせる。(訳者あとがきP151)

 2006年以前のログは(遊)OZAKI組「STOCK YARD」

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